逆順でたどる平安京の天皇たち
91代 後宇多天皇 元寇の時代の天皇
元号 | 文永 建治 弘安 |
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先代 | 亀山天皇 |
次代 | 伏見天皇 |
誕生 | 1267年12月17日 |
崩御 | 1324年7月16日 大覚寺殿 |
陵所 | 蓮華峯寺陵 |
諱 | 世仁 |
別称 | 大覚寺殿 金剛性 |
父親 | 亀山天皇 |
母親 | 洞院佶子 |
後嵯峨天皇から後醍醐天皇まで、両統の争いを書いたので、後宇多天皇の立ち位置はすでに紹介した。父、亀山天皇が非常に両親に好かれた事で、その兄である後深草上皇の皇子を差し置いて即位した。
因みに、最愛の皇后は、その叔父後深草天皇の皇女を頂いている。つまりは従妹の婚姻だが古代は当たり前のことだ。
両統の親密さなのか、両統融和の意図があったのか、いずれにしてもまだ両統の争いも激しくない時代だった。
また、在位中の大事件が「元寇」である。普通、元寇の時の天皇は誰だか分からないが、執権は有名な北条得宗家の時宗である。
御承知の通り「神風」が吹き「元」と高麗の連合軍を二度にわたり撃破した。結果、鎌倉幕府の結束を強めたが、その後の国防費がかさみ御家人たちの不満が募り衰退することにもなる。
後宇多天皇は上皇として2度院政を敷く。大覚寺統の後二条・後醍醐天皇の時代の11年間院政を行う。そして後醍醐天皇の親政により院政を停止した。その後、しばらく院政は歴史から消える事になる。
最愛の中宮(遊義門院)に先立たれ、失意のうちに崩御し、蓮華峰寺陵(北嵯峨)に葬られる。
因みに、宇多天皇の子が醍醐天皇、その子が村上天皇だったので、後宇多~後醍醐~後村上となる。
次回は、父亀山天皇。