後醍醐の呪い?
逆順でたどる平安京の天皇たち (解説)
①後嵯峨天皇
(持明院統) (大覚寺統)
②後深草天皇 ③亀山天皇
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⑤伏見天皇 ④後宇多天皇
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⑥後伏見天皇 ⑦後二条天皇
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⑧花園天皇 ⑨後醍醐天皇(南朝第1代)正式皇統
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⑩光厳天皇(北朝第1代)
後嵯峨以降の皇位順番
ここまで書いていて、逆順なので両統てい立の経緯を書かないと読者に理解してもらえない事が判明した。
なぜ、持明院統と大覚寺統の対立が始まったのか?
簡単に書く。88代後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇、第4皇子亀山天皇から話が始まる。兄弟で天皇位を継いだので、その次をどうするか?当たり前なら長兄の後深草の皇子に行くはずが、弟の亀山の皇子を皇太子にし、その後、後宇多天皇が誕生する。後嵯峨の遺言が曖昧で、荘園の相続については詳細に残しているのに、後継については明確にしていなかった。
同母の兄弟でありながら母の大宮院(西園寺きつ子)も、やはり弟の亀山の血統に継がせたがった事から、亀山・後深草の仲は一層悪くなる。ここから治天(上皇として院政を行い実質的な権力者)、天皇、皇太子、場合によっては鎌倉将軍(この頃は源氏が滅んで宮将軍の時代)の主要ポストを争う事になる。当然、天皇が大覚寺統なら治天も大覚寺統、天皇が持明院統なら治天は持明院統に自動的に代わる。ただし皇太子は時の幕府が介入して両統てい立するようにした。
また、経済的なバックとしての荘園も、全国100か所の大荘園群(長講堂領)を後嵯峨から相続した、大覚寺統は全国200か所に及ぶ八条院領を後に得る。遂には、公家衆も当初はどちらつかずにいたが、両統に分かれて対立することになる。
さて、憤懣やるかたない後深草は、北条得宗家の執権時宗に画策し自らの皇子を次期天皇(伏見天皇)にすることの約束を取り付けた。加えて、亀山天皇の中宮の兄、西園寺實兼があろうことか、後深草の立場を支持する。(前回書いたが、中宮と亀山天皇の不仲が原因)こうして、徐々に複雑な事情が重なって行く。
鎌倉幕府から見ると、王家分裂により権力の分散とその低下を狙ったものとも言われている。ちょうどこの頃には、藤原摂関家も分家を繰り返し、近衛家、一条家、冷泉家などに分裂している。古代から続く国家権力が歴史的転換を迎えていたのだ。世界的にも王朝が、兄弟、いとこ、分家と弱体化して滅ぶ例は枚挙にいとまがない。