逆順でたどる平安京の天皇たち
第81代 後鳥羽天皇 その功績と評価
後鳥羽院は、歌人であった。まさに中世屈指の歌人であった。後白河の血筋を引いて権謀と文化の才能を備えていた。
藤原定家の歌風に憧れ師事した。1200年頃に開いた歌会では、式子内親王(後白河皇女)・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆など当代屈指の歌人たちが集まった。特に、九条家の御子左家系の歌人に詠進(宮中に歌を奉る事)させている。
翌年、勅撰集の選定を思い立つ。すぐに和歌所を再興し、14名の最高の歌人を集め未曽有の大規模な歌合せを主宰し、その後有名な「新古今和歌集」の選進をさせた。藤原定家を主宰にしたが、定家の日記「明月記」には、後鳥羽自らが、選歌・配列などに深く関わり実質的には後鳥羽院が選者そのものだったことが分かる。また、貞成親王の日記「看聞日記」では、後鳥羽院がお忍びで「銭を掛けて」連歌の会に出向いたことが記されている。
その表現では「見苦しい」と書かれている。
後鳥羽院「 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
しかし政治的な評価は散々だ。院政を行い祖父後白河の死後は、「治天の君」として、兄の土御門を退位させ弟の順徳に即位させるなど、強引さが目立ち公家たちには不評もあったようだ。
承久の変についても賛成する公家は少なく、乱の後は愚管抄などで、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった。」と、手厳しい。
また、後鳥羽院も死後は立派な?「怨霊」になっている。「万が一にもこの世の妄念にひかれて魔縁となることがあれば、この世に災いをもたらすだろう。」との置き文を残している。
後世、後鳥羽天皇直系に戻り、後嵯峨天皇に世になり、ようやく菩提を弔う動きがあった。勿論それまで幕府の重鎮が死ぬと「後鳥羽の怨霊の仕業」と信じていたからだ。現在も評価が分かれる天皇のおひとりだ。
なお、隠岐での隠棲時も含め、20名以上の皇女・皇子を残している。精力絶倫は言うまでもない。御子の一人は「日蓮」という説がある。諸説あります。
次回は、遂に幼少の天皇、安徳天皇へ、