アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

349 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 82代 後鳥羽天皇 ② 承久の変

2018-04-25 09:00:22 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

82代 後鳥羽天皇 ② 承久の変

後醍醐・後鳥羽「後鳥羽」の画像検索結果

謀反人と言われた天皇が、二人いる。後鳥羽天皇と後醍醐天皇だが、本来「謀反」というのは、主上に対して裏切ることだ。日本の国の主上とは天皇その人だ。その天皇が臣下の幕府に対して謀反とは?

従って「天皇ご謀反」とは、大いなる矛盾となる。その謀反を企て敗れたのが、後鳥羽天皇(乱のときは上皇)である。

Minamoto no Yoriie.jpg頼家・実朝Minamoto no Sanetomo.jpg

歴史を後から見ると、無謀に見えるが実はチャンスでもあった。鎌倉幕府成立直後の源氏の混乱は気の毒なほどだった。頼朝・義経の兄弟対決から始まり、呪われたように落馬で命を落とした頼朝後は、2代頼家・3代実朝と人材に恵まれず二人とも暗殺で命を落とす。一方、執権北条家も政子の存在がかろうじて重しとなっているが、義政・義時の親子不和もあって誠に不安定だった。北条家も数ある御家人の筆頭に過ぎなかった。

事変は、幕府から後鳥羽天皇の皇子に4代将軍を請う事から始まる。後鳥羽帝が「朝廷の東西分裂を恐れた。」と言われるが、すでに倒幕を目論んでいたのだ。承久35月「執権北条義時追討の院宣」を発することで乱が勃発する。しかし翌6月早くも幕府軍が上洛している。いかに迅速に動いたか、途中多くの頼朝恩顧の武将たちが駆け集まったかという事だ。

北条政子画像

その陰には、頼朝未亡人政子が「頼朝の厚恩」を涙ながらに御家人に訴えたことが伝えられるが、真の功労者は、いち早くこの動きを鎌倉に伝えた西園寺公経という人である。藤原北家閑院流の公家で摂関家に次ぐ家柄で「清華家」という。乱後この功績を北条家に評価され、摂関家筆頭の九条家をしのぎ朝廷の実権を奪う事になる。

7月には早くも処分が実行され3上皇が島流しにされる。前後3か月の短い政変であった。世は急速に北条得宗家(長男継承の本家)の時代になって行く。

次も、後鳥羽天皇 ③へ

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