アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

331 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 後醍醐天皇 ④ 神皇正統記から

2018-04-04 11:45:57 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

96代 後醍醐天皇 建武の親政

ここまで、市井のいくつかの解説本と年表を参考にして来た。ここは、神皇正統記を参考にする。

「北畠親房」の画像検索結果親房公

神皇正統記は、南朝方の北畠親房公が書いた「歴史書」である。冒頭、「大日本者神国也」と書いているように、天皇中心の神の国と言っている。言うまでもなく南朝の正当性を神武天皇以来の功績を詳しく書いて証明している。そして、若き今上天皇である後村上天皇に謹呈している。

「神慮」という言葉が、しばしば出て来るように天皇親政を礼賛し摂関家や武士の政権を、「神慮に反する」とし好ましく思っていない。後醍醐天皇の時代に書かれたので当然その業績を称えている、「正中の変」については、父後宇多天皇の死後、幕府との関係悪化があったが、大したことには至らなかったとしか書いていない。倒幕の「と」の字にも触れていない。おそらくそれが真実ではなかったかと思う。正式に天皇として即位し、やっと後宇多上皇のいない中で政治手腕を発揮出来つつあったのだから・・・。ただ、皇太子に持明院統の量仁親王(光厳天皇)に決まった事は後の懸念事項であった。

「元弘の変」についても詳しい経緯は書いていない。ただ京を出て笠置山に宮殿をもうけたとしか書いていない。そこで、忠臣楠木正成と出会い、隠岐脱出には名和長年との出会いだけを書いている。当時は尊氏の裏切りや、複雑な武将の動向はまだ親房にはわかっていなかったのではないだろうか。因みに楠木は、橘性であるとしている。勿論、名和氏は源氏である。

そして詳しく書いているのは、武将たちが過度に恩賞を求める醜さを強調している。「恩賞の乱れと君臣の踏むべき本道」という項目では、頼朝は身分にふさわしくない高位へ叙された為、遂には一族全員滅んだのだと言っている。尊氏についても自分の功績が天の功にも関わらず自分の手柄と勘違いしていると断じている。そして、「介士推の教え」(古代中国の教え)自分の功績を微細なものとして恩賞を辞退する例えを紹介して一層強調している。その他、平将門を鎮圧した平貞文や源為義、為朝など多く悪例を挙げている。

そして建武の親政の3年間を高く評価し、その後の武家や公家の豹変を嘆き、今後の世の中を憂う。都の賑わいは、建武の時代だけだったと結んでいる。

「顕家」の画像検索結果顕家公

最後のところで、息子顕家の死と、自ら再び奥州へ下向する事を書き、後村上天皇の誕生を「母阿野簾子が懐妊時太陽を抱く夢を見た。」ただ事ではない皇子であり天子になるべくなった運命の天皇であると書いて筆をおいている。

そしてこの書を謹んで幼帝後村上天皇に残している。

 

戦前の皇国史観に大きく影響したと思われる。

その他参考にしている本

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