アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

335 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 93代 後伏見天皇 流浪の天皇?

2018-04-09 15:38:22 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

93代 後伏見天皇(持明院統) 両統の争いが激化する中の天皇

次帝

後二条天皇(大覚寺統)

生年~崩御

1288年 4月 5日~1336年5月17日

在位

1298年 8月30日~1301年3月 2日

在位中年号

永仁・正安

御所

御陵

深草北陵

父・母

父 伏見天皇 母 五辻経子

 

 遂に両皇統の大混乱の極致の時の天皇にさかのぼって来た。実は、父の伏見天皇に至って、持明院統の天下に治まったかのような様相を呈した。院政・天皇・皇太子・鎌倉将軍のすべてを持明院統(以下G)で占めたのだ。当時、「関東(幕府)申次」という重要な職務があった。当時の申次は西園寺實兼という公家で北条執権と申し合わせて次期天皇を決めていた。その實兼の妹が、大覚寺統(以下D)の亀山天皇の中宮であったが、夫婦仲が悪く冷遇されていた為、Dの後宇多天皇の皇太子にGの伏見天皇を推した。その皇太子もGの後伏見天皇としたのだ。当然、Gの後深草の院政が続いた。この時点で、Gの完全支配が完成した。

その後のDの反撃は前回の後二条天皇の時に書いた。

事実上の後伏見天皇の出番は、譲位後にある。後任天皇のDの後二条が若くして崩御すると、弟のGの花園天皇の時代には院政を始める。いわゆる治天の君となったのである。その後、一旦Dの後醍醐天皇の時代になるが、鎌倉幕府は、倒幕(謀反)の首謀者の後醍醐を廃し、Gの光厳天皇(後日北朝初代の天皇とされる)に成り再び後伏見は院政を行う。しかしすでに実権は発揮できず建武の親政以降、G側の光厳天皇や花園上皇と共に京都を逃れ流浪の後、捕らえられ出家した。その流れは北朝になって行くが、正式な皇統にはならなかった。

光厳上皇

以上書いて来て、ご理解いただけているか甚だ不安だ。

要するに、禁中御簾奥深くにいらしゃるべき高貴な血統の天皇が、庶民もあり得ないような逃亡生活になり、野原に過ごしたのである。自らの足で歩き、矢を受け戦い逃亡した。歴史上、暗殺や誅殺された天皇もいるが、このように自らの責任ではなく苦労された天皇は珍しい。

それでも記録に残るだけでも16名以上の皇子・皇女を残している。生殖はやはり高貴な方の義務なのだ。一方、文化的業績は残っていない。(手元の資料を見る限り記載はない)陵墓は深草北陵。深草12帝のおひとりである。

次回は、父伏見天皇

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334 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 94代 後二条天皇 多くの上皇たちに翻弄される

2018-04-09 07:57:33 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

94代 後二条天皇 

画像

改めて、この前後の天皇を整理する。

88代 後嵯峨天皇から以降、

89代 後深草天皇(持明院統)

90代 亀山天皇(大覚寺統)

91代 後宇多天皇(大覚寺統)

92代 伏見天皇(持明院統)

93代 後伏見天皇(持明院統)

94代 後二条天皇(大覚寺統)・・・今回紹介する天皇

95代 花園天皇(持明院統)

 

この天皇の最大の特徴は、在任中5名の上皇が存在した事だ。89代から93代まで5代に亘るお歴々が君臨していた。ご自身が大覚寺統なので、亀山上皇や後宇多上皇の院政であった。当時の常識として早々に譲位して、上皇として院政を行う事で権勢をふるうのが当たり前であったのだ。この時代以前や、戦国時代のように在位期間が長く上皇になれず崩御するケースは、即位の儀式を行う財力もなくなっていた為という事だ。

次帝

花園天皇(持明院統)

生年~崩御

1285年 3月9日~1308年9月10日

在位

1301年 3月2日~1308年9月10日

在位中年号

正安・乾元・嘉元・徳治

御所

二条富小路

御陵

北白川陵

父・母

父 後宇多天皇 母 堀川基子

後二条天皇は、持明院統の天皇が2代続いたことから、祖父亀山上皇が鎌倉幕府に強く申し入れた結果の即位であった。事実上南北朝時代のような様相を呈し、世間は

「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」

と、世相を嘆いている。国民の幸せのみ願う皇室が、自らの皇位を争うとは嘆かわしいとでも言いたかったのだろう。幕府は得宗家の権威も落ちた10代執権師時の時代。元寇の後の幕府の衰退の兆しも始まっている、そんな時代の天皇だった。

後宇多上皇

在位中、「後二条院歌合」という歌会・歌合を度々催すなど、文化的貢献は多く、自ら「後二条院後集」を残している。

一方、天皇在位中後宇多上皇の指示で 「新後選和歌集」を編纂しているが、大覚寺統の正当性を主張する政治的行為と言われている。何につけても、両統の対立の中で翻弄された。24歳の短い人生だった。墓所は北白川陵である。

次回は、持明院統 後伏見天皇

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