逆順でたどる平安京の天皇たち
93代 後伏見天皇(持明院統) 両統の争いが激化する中の天皇
次帝 |
後二条天皇(大覚寺統) |
生年~崩御 |
1288年 4月 5日~1336年5月17日 |
在位 |
1298年 8月30日~1301年3月 2日 |
在位中年号 |
永仁・正安 |
御所 |
? |
御陵 |
深草北陵 |
父・母 |
父 伏見天皇 母 五辻経子 |
遂に両皇統の大混乱の極致の時の天皇にさかのぼって来た。実は、父の伏見天皇に至って、持明院統の天下に治まったかのような様相を呈した。院政・天皇・皇太子・鎌倉将軍のすべてを持明院統(以下G)で占めたのだ。当時、「関東(幕府)申次」という重要な職務があった。当時の申次は西園寺實兼という公家で北条執権と申し合わせて次期天皇を決めていた。その實兼の妹が、大覚寺統(以下D)の亀山天皇の中宮であったが、夫婦仲が悪く冷遇されていた為、Dの後宇多天皇の皇太子にGの伏見天皇を推した。その皇太子もGの後伏見天皇としたのだ。当然、Gの後深草の院政が続いた。この時点で、Gの完全支配が完成した。
その後のDの反撃は前回の後二条天皇の時に書いた。
事実上の後伏見天皇の出番は、譲位後にある。後任天皇のDの後二条が若くして崩御すると、弟のGの花園天皇の時代には院政を始める。いわゆる治天の君となったのである。その後、一旦Dの後醍醐天皇の時代になるが、鎌倉幕府は、倒幕(謀反)の首謀者の後醍醐を廃し、Gの光厳天皇(後日北朝初代の天皇とされる)に成り再び後伏見は院政を行う。しかしすでに実権は発揮できず建武の親政以降、G側の光厳天皇や花園上皇と共に京都を逃れ流浪の後、捕らえられ出家した。その流れは北朝になって行くが、正式な皇統にはならなかった。
以上書いて来て、ご理解いただけているか甚だ不安だ。
要するに、禁中御簾奥深くにいらしゃるべき高貴な血統の天皇が、庶民もあり得ないような逃亡生活になり、野原に過ごしたのである。自らの足で歩き、矢を受け戦い逃亡した。歴史上、暗殺や誅殺された天皇もいるが、このように自らの責任ではなく苦労された天皇は珍しい。
それでも記録に残るだけでも16名以上の皇子・皇女を残している。生殖はやはり高貴な方の義務なのだ。一方、文化的業績は残っていない。(手元の資料を見る限り記載はない)陵墓は深草北陵。深草12帝のおひとりである。
次回は、父伏見天皇