13番 朝倉堂 訂正12番が、本堂です。
朝倉堂の朝倉とは、
戦国武将の浅井・朝倉の、朝倉氏の事だ。
応仁の乱で、壊滅的な被害を受けた清水寺を復興したのが朝倉貞景。
越前朝倉氏の第9代だ。大変信仰に厚い人物で多くの寺院を復興している。
その二代後が、悲運の武将浅井義景だ。室町幕府最後の将軍義秋(のち義昭)が、義景を頼った時に天下に号することも出来た。
しかし、浅井長政と画策し信長を挟み撃ちにして窮地に追い込んだのに、逃してしまい、
結果、姉川の合戦で大敗し、滅亡後浅井長政と共に、信長に頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にされた。
一説には信長は、それで酒を飲んだとされる屈辱の武将だ。
晩年、酒と女に溺れた事から後世評価は低い。
浅井長政が、養源院に祀られたのと大違いだ。(浅井長政は娘の淀君のお陰か?)
まあ、その朝倉氏。
正式には法華堂。中は非公開だが本尊と同じ千手観音が安置されているという。
今日のネタは、大西良慶和尚。
朝倉貞景が室町の中興の人とすれば、昭和の中興の人だ。
107歳で天寿を全うした人だが、徳の島の7つ子の命名者でも有名。
良慶節と言われた説法は私にも記憶がある。「人間というものはなあ・・・。」てな感じ。
そして本当にすごいのは、清水寺を本山として独立させた事だ。
それまで清水寺は、法相宗の末寺、本山は興福寺だった。平安の創建時からそれまで南都興福寺の末寺だった為
こんな大きなお寺が末寺とは?
北嶺比叡山からの迫害を受け続けた苦労の連続だったのだ。(南都北嶺の争いの歴史は後日書く。)
それを北法相宗本山として独立させたのだ。興福寺の管主も兼ねていた大西良慶しか出来ない大仕事だった。
よって、開山堂を建立し祀られている。
ココも訪ねる人はいないが、ぜひ心静かにお参りしてほしい。北総門を出た成就院の手前にある。
成就院は大西良慶さんの住んでいた塔頭寺。
まだまだ話題は尽きない清水寺。続く、