ブログをアップしたら、左右が上下になっている。
左を上。右を下と言い換える。
因みに境内の歌碑。解読は後日へ・・。
昨日、風俗店での火災で死者が出た。
お気の毒だが、死ぬ場所として決して避けなければならない場所の一つだ。
以前、相当以前だが、大阪の千日前のアルサロの火事で多くの死者を出した。
ビルの8階にあった為、逃げ遅れたのだ。当時、アルサロとは、アルバイトサロンの略。
今で言いう、ピンサロ、ピンクサロンの事だ。客もホステスも名前が公表されて大変な騒ぎとなった。
葬式も出来なかっただろう。
今回も、報道は飲食店で良いではないか?風俗店と言えば聞こえは悪い。
客も従業者も冥福を祈る。
今度行くときは、避難路を十分確認する。避難路があっても非常階段に多くの荷物で塞がっている事も多い。
遊ぶ前に、非常階段のドアを開けて逃げるシュミレーションをすべきだ。
千日デパート火災事件
風俗嬢に笑われても良いではないか?風営法違反より、消防法違反の方が怖い。
寿宝寺に行って来た。
同志社大学京田辺校舎の、城下町のような場所にあった。
寺には、町中にある「町堂」と言われるものと、山寺があるが、ここは町中。
しかし、六角堂のような誰でも通りがかりにお参りする「町堂」という雰囲気でもない。
ここに、有名な千手観音があるとは到底思えない。
狭い境内を入ったら、本堂の左に四方4メーター位のお堂があった。
そこにお寺の人と思われる女性がいた。拝観ならしばらくお待ちくださいと・・・。
そして見たのが、この千手観音立像(重要文化財)戦前は国宝だった。
千手観音は長い間秘仏であった為に、状態が凄く良い。口元の朱も平安時代のままだと寺方の女性の説明だ。
実際、千本のお手があるので有名。本当に数えたら、965本くらいだと・・・・。
お寺の方に大変丁寧に説明頂いた。上品な綺麗なその方の話というのは、
この観音様は、月明かりで拝むのが最も優しい姿なのだと言う。その雰囲気を感じる為、
わざわざお堂の扉を閉め蛍光灯の明かりだけで照らされた姿と、
扉を開けた日光で拝見した表情との変化を見せてくれた。
その違いがこれだ。
右が、月光。左が日光。
始めはよく違いが分かりにくかった。その日が曇天だった為違いがはっきりしなかった。
何度も開け閉めを繰り返して頂いた。
写真は後日、HPから引用したものだが、お堂の暗闇の中、蛍光灯を付けていただくまでの静寂に感動した。
確かに、右のお姿の方が慈悲深い観音様の強いオーラを感じる。
左は、口元の朱が際立ち目元は力強い。光の当たり方で観音さまから受け取る畏れが変わるというのは初めての体験であった。
どちらの姿も慈愛に満ちており、2倍の感動を頂いた。
それにしても、違いを分かってもらおうと、何度も扉を開け閉めしてくれた寺方の女性に感謝だ。
この表情の対比を拝むことが出来る為には晴天に訪れるべきか?
本堂は特に拝観は出来ず、大日如来が御本尊になっている。
嘉永6年、龍吐水。と書かれていた。
防火用水を、龍の吐く水と表現する。
これにて名のある南山城のお寺を見終わった。いずれ整理してご報告する。
自宅から近いので、暖かくなったら改めて巡礼したい。
大御堂観音寺に行って来た。
南山城、京田辺の古刹だ。南山城地域は、国宝の建造物・仏像が多く、見どころの多い寺がある。
天平時代から開けた地域で、興福寺の寺域であった為平安遷都以前から発展していた。
ココも、興福寺の別院であった為、古は大きな御堂がいくつもあったらしい。
その中で、一番大きな御堂だけ残すのみで、その為、大御堂観音寺と言う。
御本尊は、十一面観音菩薩像。国宝だ。
ここほど身近に国宝仏像を拝めるところを、私は知らない。
同志社田辺校舎のすぐ近くの、農村風景の中にある。
東大寺二月堂、お水取りの時の「お松明」行事の松明の竹を奉納する事で、有名だ。
本堂前の説明文によると、「真言宗智山派に属し、普賢寺とも呼ばれる。
(これは普賢寺町という地名に残っている。)寺伝によると、天武天皇の勅願で義淵僧正が建立し、
奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁僧正が伽藍を増築、普賢教法寺とした。
その時に本尊として観世音を安置したという。それが今、ほぼ等身大の色気あふれる親しみやすい国宝仏像だ。
往年の隆盛は感じない。
住職の許しを得て、撮影。正面厨子の中に観音像がある。
般若心教を、絵解きしたもの。
昔、字の読めない人たちに絵で教えを広めた。
仏様に性別はないというが、やはり観音様は女性だろう。こちらの観音様は、昔の母親の慈悲を感じる。
ふくよかな体型は、下腹のふくらみには淫靡な印象すら漂う。
内陣の厨子の前まで行って拝ませてもらった。国宝をここまで近く同じ空気の中で感じたのは初めてだ。
住職の話だと、先日の京都国立博物館の「国宝展」にも出展を強く要請されたが、断ったとの事だ。
今まで、こちらから出たことは全くない外出経験の無い仏像だ。
身近に見ても、劣化は感じない。帰ろうとすると、住職が厨子を閉めた。ああ・・。そういう事か。
大御堂の文字。
こうして京都府南部には、浄瑠璃寺、岩船寺、海住山寺、金胎寺、神童寺など、名刹が多く、ここでも紹介して来た。
次は、寿宝寺。本当に千本の腕を持つ「千手観音」を見に行く。
久し振りに痛飲した。
ある知り合いが、訪ねて来た。彼は大手企業の重要ポストにいた男だ。
その会社から、ハラスメント認定を受けた。その相手は部下の女性の契約社員だった。
チームの編成上、期待をかけて面倒を見て来た為、多少強い指導になったかも知れないと、
涙ながらに反省していた。今は淡々とした心境をゆっくりとしゃべっていた。
私は、京都のある禅寺の茶室に誘った。人間、仏の前では嘘はつけない。
以下が、その概要。
ある日、年間の人事評価のすり合わせを行うため、会社の応接に彼女を呼んだ、
しかし、その日は朝から様子がおかしく、仕事に真剣さがなく彼も多少イライラしていたとの事。
部屋に入る事すら拒否し、彼との会談自体拒否した。この辺りでおかしいと思ったらしいが、
無理やり部屋に入らせた。後日、その一部始終、録音されていたことが分かった。
部屋に入ってからは、冷静に彼に向って今までの不満を述べて、彼を一層イライラさせて遂には
彼は大きな声をあげてしまったらしい。そこを録音されたのだ。早々、人事に送付していたのだ。
添付された文章には、上司からのハラスメント行為、セクハラ行為が書かれていたらしい。
その内容が、事実であるか無いかは、私の知るところではない。
問題は、彼が謹慎の後、本社に呼び出された時には、内偵が終了していて「ハラスメント認定」が決まっていたのだ。
彼女が、心身に疾患を受けて休んでいるという事実は、ハラスメントが原因だというのだ。
更迭が決まった。
話は、1時間以上、細かい経緯はもっとある。もちろん、彼の言がすべて事実とも言えない。
まさに、両方の話ではない、片方の話だからだ。しかし、世の管理職には事の難しさがお分かり頂ける事だろう。
長い長い時間の中に、強い指導になってしまうこともある。常に優しく優しく接するばかりではない。
ハラスメントを容認するものではないが、一瞬の出来事を切り取って示された場合はどうすれば良いのか。
家庭に悩み事があって、心身を病んでいるかも知れない。(想像はなるべく控えるべきだが・・・。)
直感したのは、個人的に気に入らない上司を陥れる事は簡単だという事だ。
会社や評論家は、事実悩んで会社に行けなくなった彼女が、一番の被害者だと言うだろう。
上司への同情は、たちまちハラスメント容認に聞こえてしまう。
それを分かってあえて言うが、世の中にはモンスター社員を抱えて悩んでいる上司がいっぱいいるのだ。
仕事の失敗を注意することを、ハラスメントだと騒ぐヤカラがいるのだ。
以上、あくまでも一般論として感じた。彼を慰めつつ、飲む酒が進んでしまった。
すでに引退した身であれば、刺されることもないが・・・・。
千鳥足で、夜中、祇園から六角まで帰る道、錦小路に行って来た。
正しく言えば、錦小路を通った。
四条通の一本北の細い通りは、京の台所と言われる。干物鮮魚など生鮮食料の市場になっている。
昔は、具足小路と言われたのを、糞小路とも言われ、後に錦と改めた。
四条通りの一本南の、綾小路(あやのこじ)に対して、一本北を錦小路としたらしい。錦と綾だ。(美しい)
秀吉の時代に正式に、京都の三棚(さんたな)の一つになった。
明治になって、正式に京都府も認めた。
あれあれ、シャッターにこれはなんだ?
伊藤若冲だ。
若冲は、この辺りの青物屋「枡屋」の跡取りだった。でも、画家への志を諦めきれず40にして独立し、
画家に専念した。有名になったのは平成の現代になってからだ。
若冲自身、自分の絵の評価は数百年を経て理解されると、予言していた。
その通り、まさに昨年は、「動植綵絵」など、超人気となっていた。
恐らく、錦の組合が閉店してもシャッターで若冲を楽しめるようにしたのだろう。
昼間は、観光客や地元の買い物客でごった返すこの狭い通り。
深夜、展覧会にでも来た気分で、気持ちよく帰宅出来た。
京都人の粋な計らい・・・・・。これも京都の良さだ。
現在、松居一代の記者会見を複数局が、生中継している。
日本は平和で良かった。朝から、前代未聞の低レベル会見である。
これを見て思ったのは、今年の漢字一文字は、「片」だ。
片方の言い分だけで報道が優先するのだ。
加計・森友問題も、雑誌や野党の追及のみで、当事者の明恵氏や加計氏は出て来ない。
相撲問題も、日馬富士や協会の話が先行して、貴乃花がしゃべらないのでどんどん悪者になる。
今やっている会見も、松居一代しかしゃべらない。ただし、これはしゃべる方がどんどん馬鹿に見える。
船越はしゃべらない方が賢い。
世の中、片方の言い分だけで解釈が偏向する事が多い。
ハラスメントや不倫騒動のほとんどは、それで判断されるのだ。
痴漢事件が典型的である。片方の被害者の言い分だけで犯罪者にされるのだ。
片方の言い分が通るのだ。こわいこわい。我々良識ある市民は、両方の言い分を聞くまで偏向報道に迷わされないように・・・・。
今、目の前のテレビ画面では、松居一代が、親に電話しているところを中継させている。狂っているこの人。
さて、正気に戻って。
日本で最初に駅伝のスタートになった場所が京都にある。
三条大橋の東詰め。
そしてゴールは、東京上野不忍野池だ。同じ石碑が建っている。
日本で生まれたスポーツとしては、相撲や柔道、剣道などが有名だが、駅伝も日本が発祥の地だ。
世界最初の駅伝は約100年前、京都から上野までをタスキを渡して駆け抜けた。
出発の場所は、三条大橋だ。加茂川のほとりに石碑が建っている。
京都から東京に首都が移った「東京奠都50周年記念」の
記念行事の一環で、明治天皇の軌跡をたどったのだ。
京都から上野まで実に514キロ。昼夜を通して走り、3日間かかったというから驚きだ。
関東チームVS関西チームのマッチレースだったらしい。因みに関東の1時間以上を越える差での勝利だった。
41時間44分だったらしい。マラソンの記録に置き換えたら、3時間を大幅に越えるレベルだ。
ひとり20㌔くらいの距離を繋いだ。これが、箱根駅伝につながったとの事だ。
京都は、伝統を守る一方、新たな伝統を切り開いてきた町なのだ。
進取の気質。これも京都の特色なのだ。」