しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <永遠の絆(きずな)>

2023-09-08 | ヨハネ福音書
「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたはこのことを信じますか。」(ヨハネ11:26新改訳)

永遠に決して死ぬことがないとは、私たちの心臓や呼吸が永久に停止しない、という意味よりもさらに深い事実を言っていると思う。▼それはすなわち、ひとたび主イエスを信じるなら、彼はもはや永遠に主の臨在(りんざい)から切り離されない、ということであろう。ダビデは歌った。「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて、どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。 たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床(とこ)を設けても、そこにあなたはおられます。」(詩篇139:7,8同)▼もし私たちが今、信仰によってイエスを救い主と信じるなら、「死を超えた神の愛」という絆(きずな)で固く結ばれる。それは肉体が消滅(しょうめつ)しても、天地宇宙が崩壊(ほうかい)しても、決してなくならない絆である。それこそが、永遠に決して死ぬことがないとの意味ではあるまいか。だからこそ、ラザロの墓の前に立たれたイエス・キリストは、よみがえりそのものであられたのだ。


朝の露 <良い牧者>

2023-09-02 | ヨハネ福音書
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28新改訳)

この章で、主イエスはご自分を牧者、信じる者を羊になぞらえ、牧者がどんなに羊を大切にしているかを語っておられる。▼ふつうの牧者にとり、羊はただの財産にすぎない。羊毛を取り、肉を売り、頭数を増やすしか考えがおよばないであろう。しかし、主イエスはご自分の羊を愛し、どんなに多くいようと、一頭一頭に名前をつけ、性格まで知り抜いておられる。さらに羊たちが滅びないためご自分のいのちを与え、あらゆる場合に敵の手から守っておられる。このような牧者がほかにいるだろうか。ただの一人もいないことは明らかだ。▼私たちは異邦人で「この囲いに属さない」(16)羊だったが、救われ、ひとつの群れ、ひとりの牧者とされたのである。なんと感謝なことであろう。やがて新天新地が出現したとき、このすばらしい羊飼いのもとで永遠の賛美と感謝に入れられることが決まっている。

朝の露 <主よ、信じます>

2023-09-01 | ヨハネ福音書
「イエスは彼に言われた。『あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。』彼は『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した。」(ヨハネ9:37,38新改訳)

生まれつき目の見えなかったこの人は、目の前に立つ人がキリストであることを信じた。これこそが真の奇蹟(きせき)であった。▼おおぜいのユダヤ人たちは、イエスをながめ続けて来たのに、その真の姿を認め得ず、信じなかったのに、彼ははじめて会った方を救い主と信じたのである。このことから、「目が見える」ということの本当の意味を、あらためて考えさせられる。▼私たちの多くは、生まれたときからこの世界を見、美しい野山や果てしない宇宙に浮かぶ星を、好きなだけ見て楽しむことができるし、それが当たり前だと思っている。だが、もし、それでもイエスを神の子、救い主と悟らないのであれば、じつは盲目なのである。そのみじめさ、悲惨な状態を自覚できないところに、余計(よけい)、あわれさがあるといえないだろうか。盲目だったこの人は、見えるようにされたとき、天地創造(てんちそうぞう)以上の幸せを手にしたのであった。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17同)

朝の露 <わたしはある>

2023-08-26 | ヨハネ福音書
「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。』」(ヨハネ8:58新改訳)

これは主イエスがユダヤ人に向かい、「わたしは永遠の神」と宣言されたおことばである。ナザレの一青年、ユダヤ人と少しも変わらない姿の若者が永遠の存在者だということを彼らは信ぜず、「気が狂っており、神を汚している」と断じ、石でうち殺そうとした。▼しかし事実は主の言われるとおりなのだ。死人をよみがえらせ、水の上を歩き、嵐をひと声でしずめ、水をぶどう酒に即座(そくざ)に変えた。盲人の目を開き、ツァラァトをひと声でいやし、その衣の裾(すそ)にさわっただけで人々は難病(なんびょう)がすぐにいやされた。まさしくイエスは永遠の神が人となって地上に出現された、そうとしか言えないお方である。▼さらなる不思議は、そのお方が十字架に釘打(くぎう)たれ、鮮血(せんけつ)を流しつつ死の苦しみを味わわれたという事実である。これほど不思議な方はどこにも存在しない。人間歴史の中心、全宇宙の焦点(しょうてん)は、人となって来られたナザレのイエスに絞(しぼ)られている。

朝の露 <わたしはその方から出た>

2023-08-25 | ヨハネ福音書
「わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」(ヨハネ7:29新改訳)

ヨハネ福音書を味読していると、主イエスの内面世界が、私たちのそれとまったく異なっていることがわかって来る。▼ユダヤ人たちがしきりにたずねたのは「あなたの父はどこにいるのか?」ということであった。なぜならイエスおひとりだけが見えて、ほかには何も見えなかったからである。それに対し、主は「わたしと父は一つである」とか、「わたしは父から出てここにいるのだ」と言われた。すなわち、主イエスは肉体的には地上にあったが、その霊はいつも神のおられる天に同時に存在しておられたことがわかる。▼主にとっては天も地も一つであり、父の心とご自身の心には少しも隔たりがなかった。そして父は御子に語るべきことばと成すべき仕事をお示しになり、御子はそれに喜んで聞き従っていたのである。主イエスの内的世界をユダヤ人たちは信じることができず、知ることもできなかった。高慢(こうまん)と不信仰から、神の栄光に対して完全に盲目だったからである。