「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(エゼキエル33:7新改訳)
エゼキエルはイスラエルの見張りという立場を神から与えられた。その努めは「神から聞いたことばをそのまま人々に伝える」ことであった。すなわちそれ見張り人の義務なのである。▼そこに自分の心から出た憶測(おくそく)や人間的希望を入れてはならないし、聞く人々の肉を喜ばせるような偽り(いつわり)を混(ま)ぜてはならなかった。そもそも神からのことばは、ほとんどが警告(けいこく)というきびしい内容であった。それはイスラエルが神のいましめをほしいままに破り、罪を犯し、聖名(みな)をはずかしめていたからである。▼エゼキエルはそれに対し、遠慮(えんりょ)せずに神の審判を予告する責任があった。なぜなら、もしそうしなかったら、彼らは悔い改めの必要を感じないで罪を犯し続け、ほろびに落ちて行くからだ。それを敢然(かんぜん)と防ぐのが見張り人の責務(せきむ)である。たとえ人々が怒り、エゼキエルを迫害しても妥協(だきょう)すべきではなかったのだ。▼彼にはもうひとつのつらいことがあった。つまり、神のことばをそのまま告げても、民衆は「音楽に合わせて美しく歌う恋の歌のように」感心して聞くが、少しも実行しようとしなかったことである(31,32)。つまりエゼキエルの警告を自分の問題とし受け止めず、他人事のように聞き流していくことだ。▼教会で牧師は用意した説教を全力で、精魂こめて語る。しかし会衆は無関心である。自分への神の語りかけととらえず、「今日の説教はすばらしかった」とか、「構成がみごとで、聞きやすく、感動した」などとほめそやし、喜んで帰っていく。だが実生活は変わらない。エゼキエルの時代とおなじではないのか。▼あのネヘミヤの時代、再建されたエルサレム神殿と城壁の広場で、人々は立ったまま朝から晩までモーセの書に耳を傾けた。そして皆泣いた(ネヘミヤ記8章)。祭司エズラはなにも説教せず、一日中モーセ律法を朗読しただけであった。だが人々は自分たちの罪深さを理解し、神の前に泣いたのだ。今日の私たちもそのような礼拝を必要としてはいないだろうか。