しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <見張り人>

2023-03-13 | エゼキエル
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(エゼキエル33:7新改訳)

エゼキエルはイスラエルの見張りという立場を神から与えられた。その努めは「神から聞いたことばをそのまま人々に伝える」ことであった。すなわちそれ見張り人の義務なのである。▼そこに自分の心から出た憶測(おくそく)や人間的希望を入れてはならないし、聞く人々の肉を喜ばせるような偽り(いつわり)を混(ま)ぜてはならなかった。そもそも神からのことばは、ほとんどが警告(けいこく)というきびしい内容であった。それはイスラエルが神のいましめをほしいままに破り、罪を犯し、聖名(みな)をはずかしめていたからである。▼エゼキエルはそれに対し、遠慮(えんりょ)せずに神の審判を予告する責任があった。なぜなら、もしそうしなかったら、彼らは悔い改めの必要を感じないで罪を犯し続け、ほろびに落ちて行くからだ。それを敢然(かんぜん)と防ぐのが見張り人の責務(せきむ)である。たとえ人々が怒り、エゼキエルを迫害しても妥協(だきょう)すべきではなかったのだ。▼彼にはもうひとつのつらいことがあった。つまり、神のことばをそのまま告げても、民衆は「音楽に合わせて美しく歌う恋の歌のように」感心して聞くが、少しも実行しようとしなかったことである(31,32)。つまりエゼキエルの警告を自分の問題とし受け止めず、他人事のように聞き流していくことだ。▼教会で牧師は用意した説教を全力で、精魂こめて語る。しかし会衆は無関心である。自分への神の語りかけととらえず、「今日の説教はすばらしかった」とか、「構成がみごとで、聞きやすく、感動した」などとほめそやし、喜んで帰っていく。だが実生活は変わらない。エゼキエルの時代とおなじではないのか。▼あのネヘミヤの時代、再建されたエルサレム神殿と城壁の広場で、人々は立ったまま朝から晩までモーセの書に耳を傾けた。そして皆泣いた(ネヘミヤ記8章)。祭司エズラはなにも説教せず、一日中モーセ律法を朗読しただけであった。だが人々は自分たちの罪深さを理解し、神の前に泣いたのだ。今日の私たちもそのような礼拝を必要としてはいないだろうか。


朝の露 <大海の巨獣>

2023-03-09 | エゼキエル
「人の子よ。エジプトの王ファラオについて哀歌(あいか)を唱(とな)えて彼に言え。『あなたは自分を国々の若獅子(わかじし)だと思っている。しかしあなたは大海の巨獣(きょじゅう)のようだ。川の中で暴(あば)れ回り、足で水をかき混(ま)ぜ、その豊かな流れを濁(にご)らせる。』」(エゼキエル32:2新改訳)

前章にひき続き、エジプトのファラオと全軍にくだされる審判を記した章。特によみ、つまり地下の国についてくわしく記されており、興味深い。▼ファラオは自分が大いなる者であるかのように思い込み、諸国に自慢(じまん)しているが、ナイル川のワニにすぎない。陸にあげられれば短い足で這(は)うことしかできず、やがて人々にとらえられ、空の鳥の餌食(えじき)にされてしまう。そして最後はよみに下り、暗黒の中に過ごすことになる。そこには地上で暴力をふるい、人々を恐怖に陥(おとしい)れた世界の指導者や兵士たちもいる。アッシリアの戦士たち、エラムの大軍、メシェクとトバルの大軍、エドムの族長たち、そのほか北のすべての君主たち・・。主は「剣を取る者は剣で滅びる」と言われたが、戦場で死んだ人々は地下の国に落とされ、やがて最後に審判を受ける。恐るべきことだ。▼26章から本章まで、ツロやエジプトについての審判が記されて来たが、エゼキエルはその背後にある目に見えない敵に対して審判を告げている。つまりそれは悪魔である。彼はその高ぶりのゆえに、神の前を追い払われ、最高の天使から悪魔・サタンとよばれるようになった。彼はやがて底知れぬ穴に幽閉(ゆうへい)され、最後の審判のとき、永遠の火に投じられるのである。▼ヤコブは「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6同)と記すが、なぜ高ぶりがそれほどの罪なのだろうか。それは、すべての高ぶりの「水源地」は悪魔にあり、そこから出ているからにほかならない。それに反し、謙遜はイエス・キリストから発しているいのちの流れである。だから暗黒と死の世界であるよみ、地下の国に下りたくなければ、高ぶりに背を向け、キリストとともに歩むべきなのである。


朝の露 <地下の国に落とされる>

2023-03-08 | エゼキエル
「あなたは栄えと偉大さにおいて、エデンの木々のどれに最も似ているだろうか。あなたはエデンの木々とともに、地下の国に落とされる。剣で刺し殺された者とともに、無割礼の者たちの間に横たわるようになる。これは、ファラオとそのすべての大軍のことである―神である主のことば。」(エゼキエル31:18新改訳)
ここにはよみが「地下の国」と表現され、そのありさまが記されている。エジプトは偶像(ぐうぞう)をおがみ続け、戦争をやめなかったため、よみに落とされたのである。▼どんな国の王侯(おうこう)、武人(ぶじん)であろうと、罪を持ったままで神のおられる天には行けず、地下の国に幽閉(ゆうへい)され、世の終わりの審判を待つのである。有史以来(ゆうしいらい)、どれぐらいの人々がよみに落ちたであろう。その数は想像もできないほど多いにちがいない。暗黒にひびくうめき声、後悔(こうかい)と恐怖(きょうふ)の叫びが地下の国にたえまなくとどろいているのであろう。その様子(ようす)を御霊に見せられながら、私たちは一人でも多く救いにみちびくため、できることをしよう。▼いまウクライナでは激戦(げきせん)が続いている。どんな口実(こうじつ)をもうけようと、平和に暮らしていた国に攻め込み、市民に暴虐(ぼうぎゃく)をはたらくことはゆるされないであろう。それを指示した国の支配者たちと前線に出ていく兵士たちには地下の国に落ちる運命が待ち受けている。それを深く心にとめなければならない。人は聖書をとおして聞こえる死者たちのうめき、後悔、悲しみの叫びを聞き、自分で自分を守るべきである。やがて永遠の審判者の前に、すべての人が例外なく立つのだから・・・。「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣(つるぎ)をもとに収(おさ)めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』」(マタイ26:52同)
 


朝の露 <エジプト人の離散>

2023-03-07 | エゼキエル
「わたしがエジプト人を諸国の間に散らし、国々に追いやるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」(エゼキエル30:26新改訳)

エジプトではあらゆる偶像礼拝が行われていた。かつてモーセは神の命令によって十の災害をエジプトに下したが、それらはみなエジプトの偶像に関係のあったことがわかる(出エジプト記7~10章)。▼その偶像帝国がさばかれ、滅ぼされる時がやって来た。そしてエジプト人たちは諸国へ流浪(るろう)の民になって消えて行ったのである。それ以来エジプトはギリシア、ローマの支配下におかれ、もともとのエジプト人たちはどこかへ行ってしまった。今日のエジプトはイスラム教の支配下にあり、偶像の神殿や廃墟(はいきょ)が残っているだけで、世界の観光客から収入を得ているにすぎない。▼歴史をながめると、人が造り出した偶像文明はすべて滅び、廃墟が残っているだけである。神がどんなに偶像を嫌っておられるかが、このことからもわかる。「あなたはわたしのほかにどんなものも神としてはならない」との命令は、人間歴史の根底(こんてい)に横たわるおごそかな神の声なのだ。「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(使徒14:15同、リステラにおけるパウロの説教)



朝の露 <エジプトへのさばき>

2023-03-06 | エゼキエル
「まことに、神である主はこう言われる。『四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた諸国の民の中から集め、エジプトを回復させる。彼らをその出身地、パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。』」(エゼキエル29:13,14新改訳)
ここから続く4章(29~32章)はエジプト、なかでもその王ファラオに対する審判の叙述である。エジプトが神に罰せられた理由は高慢であった。つまり、ファラオは「ナイル川は私のもの。私がこれを造ったのだ」(→3、9)と豪語(ごうご)した。▼太陽から小さな虫まで、何でも神にして拝んだエジプトは偶像礼拝、多神教の典型(てんけい)的な国家であった。多神教の行き着くところは自分を神とする信仰であり、悪魔の思い通りにあやつられる運命に落ちる。このエジプトとおなじく、日本は世界でも有数の多神教国家であり、神についての概念(がいねん)があいまいだ。それが「誰でも神になれるという神観につながる」ことに気がつかない。だからエジプトのように神の審判を受け、そのままでいれば、繁栄の坂から転げ落ちるのである。すでに兆候(ちょうこう)は現れているのではないだろうか。つまり極端(きょくたん)な高齢化にともなう人口衰退(じんこうすいたい)、倫理道徳(りんりどうとく)の退廃(たいはい)などが国力の低迷(ていめい)を招いている。今こそ私たちキリスト者は力をつくして祈り、福音を宣証(せんしょう)しなければならない。あのソドムの町に、10人の正しい人がいれば、町はほろぼされなかった。それを思い出そう。