「アキシュの家来たちはアキシュに言った。『この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。』」(Ⅰサムエル21:11新改訳)
サウルの執念深さを知ったダビデは、国外に逃げるしかないと思い、それまで戦っていたペリシテ人の町、それもかつて殺した巨人ゴリヤテの出身地・ガテに難を避けた。こうすれば追っては来ないだろう、と踏んだわけである。だが彼の名はペリシテ人の地でも知れ渡っており、イスラエルの王と思われていたから、捕らえられて殺される可能性がじゅうぶんあった。そこで狂人のふりをし、つかまえても利用価値のない男を演じたのである(13)。▼心ならずも自分をいつわり、芝居をしなければならなかったダビデは、さぞつらかったであろう。そのときの詩篇が三四篇だが、彼は心中で祈り続けていたにちがいない。「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してください。」(19)▼苦しみの底から出た祈り、主の十字架を思う。ダビデとイエスに共通に存在したもの、それはこの地上にあって「生きる場所がないこと」であった。もしサムエルから油注がれ、イスラエルの王と選ばれていなければ、ダビデの生涯には何の苦しみもなかった。しかし神に選ばれたときに、彼は憎まれ、孤立し、どこに行っても息のつける場所がなく、たえず生命を狙われたのである。その苦しさ、孤独、恐れ、不安と焦燥感はたとえようがなかっただろう。ガテ王アキシュの前でいつわり、狂人の真似をしたことを、私たちは責められない。なぜなら生死の崖っぷちに立たされたことがないからである。▼その絶体絶命の苦悶の中、彼の霊性は天にいます神に、いやでも向けられていかざるをえなかった。それが詩篇に織りなされたダビデの歌にほかならない。苦しみにあるキリスト者は幸いである。息をつく場所さえない信仰者は幸いである。その人はダビデの詩に行くしかない、天にいますキリストの胸にたどり着くしかないからである。