「ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」(17新改訳)
ひとりの逃亡奴隷がローマで回心し、パウロに仕える身となった。
もしその主人・ピレモンが事情を知ったとき、「自分のところから逃げた奴隷を、師であるパウロが、私に無断で使っている、」と考えないだろうか。だからキリスト者としてそのようなこと(他人の奴隷を無断で使用すること)をしてはいけない、そこでパウロは奴隷・オネシモの解放を願う手紙を書き、それを持たせて本人を送り帰した、以上がいきさつである。
永遠から永遠にいたる神の救いの経綸を見、心はいつも神の宝座にあったパウロだが、ひとりの奴隷の運命を心配し、心を砕いて懇願の手紙を書き送るのをいとわなかった。
私たちが感動するのは、使徒の愛の高さとともに、その思いやりの深さである。それは(パウロだけでなく、私やあなたに宿った)キリストの愛そのものから発した行為に違いないのだから。
[札幌でも柿が・・ただし温室で]