しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <顔の肌(はだ)が輝(かがや)きを>

2024-03-05 | 出エジプト記
「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山から下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。」(出エジプト記34:29新改訳)
モーセの顔はふしぎな光を放射(ほうしゃ)した。あまりにも長く神と交わっていたため、その栄光が自然に彼の肌を輝かせたのであろう。人々はその神々(こうごう)しさに恐れを感じ、モーセから遠ざかったと記されている。▼12使徒のヨハネは後に記している。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14同)と、深い感動をこめて・・・。あきらかに主イエスに満ちていた栄光は、モーセのそれとはちがう。モーセはふつうの人間であり、外側から神の臨在(りんざい)に接し、顔が火照(ほて)ったかのように光った。しかしイエスはもともと父なる神のふところ深くに住まいしておられる神である。その愛の交わりの本質が恵みとまこととして現れたのである。▼モーセの肌の輝きは周囲(しゅうい)の人々に畏怖(いふ)の念をいだかせ、近よりがたい雰囲気(ふんいき)を与えた。が、ナザレのイエスの栄光は逆だった。当時の社会で見すてられていた人々、祭司や学者、パリサイ人たちが軽べつし、遠ざけていた取税人、遊女(ゆうじょ)、種々の病気を持って汚れていた人たちが、先を争って押し迫(せま)るように近づけた栄光とかがやきだったのである。どちらをもって真の栄光となすか。