「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」(Ⅱテモテ3:5新改訳)
パウロは終わりの日に困難な時代が来ることをテモテに語り、そのひとつとして偽善的(ぎぜんてき)な信仰の蔓延(まんえん)をあげている。▼わが国だけをとりあげても、実に多くの信仰と宗教があり、人々をあざむいて引き寄せている。その主張は美辞麗句(びじれいく)に満ち、信じればすばらしい人生が待っていると約束するが、いったん入信すると金銭や時間をうばわれ、あやしげな教義の奴隷となって苦しむことが多い。つまり、見かけは敬虔さに満ちているが、実態は金集め、人集めにすぎない宗教がたくさんあるのだ。▼これを見破るには聖書そのものを読み味わい、指導者や信徒たちの生活、行動をよく観察することが大切であろう。主が言われたとおり、果樹をじっくりながめ、どんな実を結んでいるか調べるのである。聖書が数千年間読まれ、信じられてきた事実は、それが真理の書であることを無言のうちに立証している。なぜなら、今も世界で何億という人々が聖書を愛読し、信じ生きているのだから。▼「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15~20同)