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古聖所に降りて 【公教要理】第五十講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月17日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十講  贖罪の玄義・神学編・その四 古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)




古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)

信経の第四条をこれで終わります。「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」。

続いて、信経の第五条に移りたいと思っております。「古聖所(こせいしょ)に降(くだ)りて、三日目に死者のうちよりよみがえり」

以上の信条には二つのことが含まれています。前者は「古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)」で、後者は「三日目に死者のうちよりよみがえり」となっています。


【古聖所(こせいしょ)に降(くだ)りて】

これから、第五条の前者の方をご紹介したいとおもっております。「古聖所(こせいしょ)に降(くだ)りて」
十字架上で、私たちの主は死に給うたところです。御体は十字架から離されて、墓に葬られました。墓は閉じられて、その入り口は兵士たちによって注意深く警備されていました。「番兵をやるから、好きなように守るがよい」 とピラトが言いました。
「そこで彼らは石に封印し、番兵を付けて墓を守り固めた」 。墓の見張りは厳重に見張られていたということですが、私たちの主が死んでおられるところです。

「死」というのは、身体と霊魂との分離ということです。それで、死んでおられるから、私たちの主の身体は、私たちの主の霊魂と一致していないのです。しかしながら、私たちの主の身体は、厳密に言うと屍ではありません。なぜかというと、イエズス・キリストの御体は腐敗することはできませんので、屍とは言えません。なぜ腐敗できないかというと、霊魂との分離があっても、その身体は神性と一致しているままですから腐敗できません。つまり、死んでおられても、位格的結合は私たちの主の身体にそのまま残っているからです。

私たちの主は天主なので、天主の身体となります。ご托身の玄義をご紹介したときに学んだ位格的結合は、ご身体とご神性との間に残っていて結合しているままです。従って、ご神性は、御体を腐敗させずに、保存しているのです。

【「古聖所」とは何か】

その間に、信経によると、私たちの主の御霊魂は、古聖所(こせいしょ)【ラテン語を直訳すると地獄】に降ります。
「古聖所・地獄」とは何でしょうか。「地獄」の語源はラテン語の「Inferni」からです。意味は「下の場所」、「低い場所」です。
それでは「古聖所・地獄」とは何でしょうか。ラテン語の「Inferni」の定義は三つあります。

第一、「地獄」という時 それはまさに「地獄」という場所を指していて、劫罰を受けた霊魂が滞在する場所であり、そこにおいて永遠に永劫の罰を受ける場所なのです。呪われた霊魂のいる場所です。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ。」  以上は「地獄・古聖所」の第一の意味です。この意味こそ、一番定着して一般的な意味になっているでしょう。

それから第二の意味は、「煉獄」となっています。「煉獄」という場所は、聖寵の状態のままに死んだ霊魂が天国へ行くことになりますが、まだ十分に清められていない霊魂なので、清められるために煉獄に送られるということです。そこで、「煉獄」という場所は、場合によって、「地獄」とも呼ばれています。

第三の意味が、まさに「太祖の古聖所(あるいは辺獄)」という場所です。
私たちの主の御霊魂が、まさに実体的に「太祖の古聖所」にこそ降(くだ)るということです。「太祖の古聖所」とは何でしょうか。別の呼称は「アブラハムの懐」です。
弟子たちに向けての主の或る箴言には、貧しいラザロが金持ちの玄関で死ぬ場面がありますが、このラザロの霊魂は、「アブラハムの懐」に行くと記されています。なぜこういった呼称で呼ばれているのでしょうか。「アブラハム」は天主のみ旨のままに行っていたからです。多くの太祖の内、アブラハムこそが選ばれて子孫の多いユダヤ一族の父にされました。また、信徒の父とされました。そこから転じて、アブラハムの信仰に倣った者、またアブラハムの天主のみ旨への従順に倣った者は、「アブラハムの懐」に安らかに休んでいるとされています。

「太祖の古聖所」は、義人たちの居る場所だということです。言い換えると、ユダヤ人と異教徒とを問わず、罪から清められた義人たちで、私たちの主によって天国の門が開くまで「古聖所」で待っていた霊魂たちです。義人たちは、聖寵の状態で死んだのです。また、天主の愛徳の内に死んだのです。聖寵と愛徳を持っている義人たちはその上、犯した罪が清められた義人たちです。

ところが、それでも、まだ天国に入ることは不可能でした。天国は閉まっていたからです。私たちの主の御受難こそが、天国の門を開けたからです。当然ながら、私たちの主こそが、人類の内に最初に天国に入ることになります。イエズス・キリストこそ、人類の頭(かしら)で、人類を贖罪し給うた長(おさ)なのですから。また、イエズス・キリストこそは主である故に、最初に天国に入る特権があるのです。それから、太祖たちは、つまりユダヤ人と異教徒とを問わず旧約聖書の「義人たち」は、聖寵の状態であるものの、まだ天国に行けなかったので、特別な場所に待機しています。そこで、ある種の自然上の幸福を享受するには享受していました。同時に、私たちの主の到来を望徳溢れて待っていました。つまり、未来に来る解放と天国への入国を待っていました。

そこでは、私たちの主は死んでからどうなさるでしょうか。総ての聖なる太祖のいる「古聖所」にくだります。アブラハムは間違いなくいたでしょう。イサク、アダム、歴史上に始めて死んだ義人のアベルもいました。かれは最初に死んだ人間で、もう古(いにし)えより救済者の到来を待ちくたびれていました。そして、私たちの主が古聖所にくだりて、そこにいた義人たちの皆を一人ずつ見つめたでしょう。アベルから、一番最近死んだ義人たちまで。例えば、聖ヨセフもいたでしょう。その当時に、恐らく既に死んでいたので、古聖所にいたはずです。聖ヨセフも私たちの主を待っていました。

十字架上の死と復活までの三日の間、古聖所に降りておられました。古聖所に入ったら、義人たちに、贖罪が実現されたということを知らせてくださいました。ペトロの第一の手紙に次のように記されています。「キリストも一度人々の罪のために死なれた。(…)キリストは囚われの魂の所に行って宣言した。」
良き知らせ(福音)をキリストが義人たちに宣言しました。「贖罪は実現したよ。もう救済が実現した。あなたたちは贖われたので、天国がこれから開く。私が連れて行くから。もうじき。今すぐではないが、もうじきに。」と言わんばかりに。何という喜びでしょう。贖罪による喜び。天国の開門による喜び。義人たちの霊魂たちに贈られた、なんという喜びでしょう。

私たちの主は、贖罪を義人たちに宣言した上、ご自分の御霊魂を直観できるようにさせられて、義人たちは喜び溢れてきました。真の人、真の天主であるキリストは、義人たちにご自分を見せたもうたということです。もうほぼ、ある意味で、すでに永遠の栄光の状態で古聖所に現れます。


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【「まことに私は言う。今日あなたは私とともに天国にいるであろう」】

十字架上で良き盗賊者になぜ次のように仰せになったか分かってきます。思い出しましょう。良き盗賊者が私たちの主に「イエズス、あなたが王位を受けて帰られる時に、私を思い出してください」 というと、「まことに私は言う。今日あなたは私とともに天国にいるであろう」 と仰せになりました。つまり「今日、その後に、私とまた会うから。私が実現した贖罪をあなたが観想するから」と言わんばかりです。

間違いなく、良き盗賊者は、古聖所にいて、キリストの贖罪を直観できました。というのも、イエズスのましますところは、天国があるからです。
続いて、義人たちに宣言して、天国に凱旋的に入る確信を与えて、喜ばせます。「おまえと結んだ契約の血のために、捕らわれ人を、水のない井戸の中から連れて戻す。」 と旧約聖書においてザカリアが記しています。

義人たちはどれほど喜んでいたか想像に難くありません。そして、同時に、イエズス・キリストに対してどれほどの礼拝をしただろうかということも想像しやすいでしょう。義人たちは天主において望みましたから。「アブラハムは、私の日を見たいと思って喜びにあふれ、 それを見て喜んだ」と福音において私たちの主が仰せになります。

以上のように、私たちの主は、御自分の霊魂を義人たちまたは太祖たちに実体的にお見せになりました。実体的には、私たちの主は、煉獄にも地獄にも御霊魂をもってくだりませんでした。これは不可能なことですから。

地獄と煉獄にいる霊魂たちは、私たちの主イエズス・キリストが死んでから、何かを感じたことは確かです。いわゆる、死に給うた帰結として、それらの霊魂たちにまで何か影響が及んで感じられたことに違いありません。

煉獄の霊魂たちは、被っている罰の緩和を得ただろうと思われます。もしかしたら、煉獄にいた幾つかの霊魂は贖罪によって解放されただろうと思われます。少なくとも、地上にて、私たちの主が死に給うた途端、地震があったように、同じように、煉獄では何らかのある種の地震というか、何かのそれに似た贖罪による影響があっただろうと思われます。もしかしたら、罰の緩和、苦しみの緩和だったでしょう。

また、全く別の形の影響になりますが、私たちの主が自分の贖罪、自分のちからを地獄においても、地獄の霊魂たちに知らせました。でも、地獄では、緩和させたり休めさせたりすることはありません。解放させるためでもありません。なぜかというと、地獄に落ちた霊魂は、地獄から出ることは不可能だからです。

どういう形だったか不明のままですが、少なくとも、私たちの主が、地獄の霊魂たちに、ご自分の凱旋を知らせました。罪に対する凱旋。死に対する凱旋。人類の罪の償い。永遠の命の取得。おそらく、私たちの主は、御自分の受難とは何か、御自分の贖罪とは何かを地獄にいる霊魂たちと悪魔たちに見せたでしょう。悪魔たちと霊魂たちに、「イエズス・キリストの名において信徳と望徳を実践していたのなら、天国に入ることは可能だったのに」といったようなことが知らされたでしょう。

救済を取得するは可能だったのに!贖罪こそ、全人類のために、すべての霊魂のために、どの罪を犯したとしても、得られた救済ですから!残念ながら、地獄にいる霊魂たちは贖罪・救済を拒絶してしまいました。
私たちの主が、ご自分に対して反逆してしまったそれらの霊魂たちあてに、御自分の御力を知らせます。反逆しても、結局、それは彼らの無力になると。

以上、信経の第5条の前者の部分をご紹介しました。
「古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)」
次回は、「三日目に死者のうちよりよみがえり」という部分をご紹介したいと思います。


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