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ご復活について 【公教要理】第五十一講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月19日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十一講  贖罪の玄義・神学編・その五 ご復活について





三日目に死者のうちよりよみがえり

「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、
ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、」
それから、信経の第五条は次の通りです。
「古聖所(こせいしょ)に降(くだ)りて、三日目に死者のうちよりよみがえり、」

前回は第五条の前半をご紹介しました。一つ目の真理をご紹介しました。「古聖所(こせいしょ)に降(くだ)りて」という事実です。つまり、前回にご紹介したとおりに、私たちの主イエズス・キリストは、「太祖たちの古聖所」に降りておられました。
それから、信経はこう続きます。「三日目に死者のうちよりよみがえり」


【主の御死去】

今回は、この真理にちょっと時間を割こうと思います。信仰における特別に大事な真理です。
「よみがえり」という言葉の意味は「生き返る」ということです。私たちの主は死にました。本当の意味で実際に死にました。真の人だから十字架上に真に死に給うたということです。そして、一般の死と同じく、死んだら霊魂と身体が分離したということです(これが死の定義なのです)。

ところが、イエズスの天主性霊魂と一致したままになっていたと同時に、天主性は身体と一致したままでした。すると、3日の間墓に葬られた私たちの主の御体は、厳密に言う「屍」ではないということです。つまり、一般の「屍」と違って、イエズス・キリストの死体は腐敗・分解することは不可能でした。なぜかというと、天主性は御体と密接的に一致し続けたからです。死体の分解は不可能でした。
死んでおられた私たちの主の状態は以上のような状態でした。

「死して葬られ」て、御霊魂は古聖所にくだりながら、ご身体はお墓の中に閉じられていました。弟子たちは墓の前に大きな岩で塞いでおいたということで、完全に閉じられていました。


【復活の事例】

「三日目に死者のうちよりよみがえり」。ということは、「生き返る」という意味です。「復活・よみがえり」ということ自体は、以前にも存在した現象です。
旧約聖書において幾つかの復活の件が出てきます。主に預言者を通じての復活でしたが、新約聖書においてもいくつかの甦りの件があります。私たちの主は何人かの人をよみがえらせたことを通じて、復活の大真理を準備なさったかのようです。

福音において、三件の復活が記されています。第一は、ナインのやもめの息子の復活があります。第二は、ヤイロの娘の復活もあります。第三は、さらにより明白にイエズス・キリストの力を示す復活になるかもしれないが、主の友達のラザロの復活があります。ラザロは洞窟の墓の中に既に置かれ「臭くなっています」 とその時マルタに言われたラザロですね。それから私たちの主が一言だけ仰せになると、復活させました。

私たちの主は生命に対する御自分の御力を既に示し給うたということです。しかしながら、それより偉大な形で生命に対する御力を示し給うことになさいました。つまり、他人のではなく、御自分を復活させるということです。


【死者の内より御自分を御自分の力で復活させる】

「ご復活の玄義」は「御自分を御自分で復活させるという事実にあります。私たちの主は御自分を御自分の御力で復活させるのです。イエズス・キリストは天主であるからです。つまり、私たちの主は確かによみがえりました。それ以上に、「死者の内より御自分をよみがえらせた」というべきです。

要するに、死んでおられたイエズス・キリストでしたが、御自分の御力で、再び生き返って、再び生者となりました。言い換えると、私たちの主のご身体とご霊魂とが再び一致となり直したということです。つまり、人間を構成する霊魂と身体との一致を戻すということで、再び、私たちの主の人間の本性を構成し直させます。


【生命に対する御自分の絶対の力を示す】

「死者の内よりよみがえり」というは、言い換えると、御自分の御力をもって、「死」を破滅することによって、御自分を「生き返らせる」ということなのです。つまり、ご身体とご霊魂の元の一致を取りもどすということです。従って、私たちの主は、御自分の復活を通じて、「生命」に対する御自分の絶対の御力を示し給うことになります。

ご復活のお陰で、「私が命である」という御言葉をより理解できるでしょう。御自分でご自分を復活することができるというのは、イエズス・キリストが「命」に対する絶対的な支配者だということです。そして、イエズス・キリストこそが「命」であるということは、結果に「死」に対する絶対的な支配者であるということでもあります。
「黄泉の国よ、おまえの滅びは、どこにあるのか」 。別訳にすると「死よ、おまえの死はどこにあるのか」。また「O mors, ero mors tua」と、「死よ、私がお前の死だ」という意味です。

言い換えると、私たちの主は、ご復活を通じて、「命」に対する全能者であることを示し給い、あえて言えば「死」を死刑させることを示し、死がイエズス・キリストに対してもう何の力もない、何の影響も支配もないことを示し給うのです。従って、私たちの主に従う人々に対しても、死による支配から解放されたことが示されています。復活するお陰で「死」を破滅なさいました。「死」よりご自分が優位だということで、「イエズス・キリストの命」は「死の力」よりも強いので、「イエズス・キリストの命」こそ「イエズス・キリストに対する死の力」より強かったのです。
裏を返せば、「イエズス・キリストが命である故に」、「死は、イエズス・キリストに対して力がない」ということを示し給うたのです。


【主のご復活は、主が天主であることを証明する】

私たちの主のご復活は、主が天主であることを証明し、裏付ける事実です。というのも、天主は生命です。また、天主しか命に対する全能者はありません。「天主は命」でありながら、同時に「生命を与える」者です。そこで、私たちの主は、御自分の復活を通じて、御自分が「命である」ことを示し給うのです。

私たちの主は「死に対して勝利者」です。よみがえったということで、「死に対して勝利」したが故に、勝利による自分自身の命は、もう死すべき命でなくなります。
よみがえったとはいっても、よみがえってからの命は(死ぬ前の命と違って)、もう死すべき命でなく、「栄光の命」となります。従って、ご復活によって、私たちの主に「新しい命」が与えられます。いや、より正確に言うと、以前との同じ「生命」を生きておられるが、死に勝利し、死に対して凱旋した命であるが故に、「栄光の命」です。意味は、この「新しい命」に対して、死からの影響・支配はもう完全になくなったということです。新しい命。ご復活以降は、天主の命そのものが、イエズス・キリストの御体においても輝くようになります。そのお陰で、「死から完全に解放された体」という復活後の御体は、「栄光体」となります。私たちの主は生き返った「命」を失うことは、もう不可能となりました。これは、「死」に対する勝利のもう一つの証拠です。



【イエズス・キリストが十字架上で死ぬことを悪魔が望んでいた理由】

思い出しましょう。御受難と十字架刑の際に、私たちの主が十字架上で死ぬことを悪魔はどうしても望んでいました。その理由は、旧約書において「十字架に付けられてた者は、天主に呪われた存在だ」とあることからです。悪魔はそれを望んでいたのです。従って、主を十字架上に付けて死なせることによって、悪魔が「主が天主に呪われているはずだ」と期待していました。もし天主に呪われたら、それでお終いでした。

完全に主を死なせて、悪魔は自分の勝利を確信していたところです。ところが、実際には、良き天主は、悪魔の策略を、あえて言えば、使わせてもらい、悪魔の策略自体が悪魔を倒すことになりました。それによって、悪魔に対して、「あなたがある程度の力があるとはいえ、すべての力は持っていない」と示し給うたのです。

というのも、悪魔は命に対して全能であるわけがないからです。私たちへの模範でもありますが、その上、私たちの主が復活することによって、「死に対しての勝利者」であると同時に、「悪魔に対する勝利者」でもあることを示し給うたのです。従って、死と悪魔とに対する完全な勝利となります。

従って、また、罪に対する完全な勝利となります。なぜかというと、「罪」の結果は死に他ならないし、「罪」の原因は悪魔に他ならないからです。よみがえった私たちの主が「死に対して勝利し」、「悪魔に対して勝利し」、また「罪に対して勝利し」たのです。

また、私たちの主は「勝利」であり、「命」であるので、もう死ぬことはできなくなりました。これこそ、復活における素晴らしい玄義です。というのも、具体的にどうやってイエズス・キリストが御自分を甦らせることが出来るかは、把握しようがないからです。私たちは自分自身に対してでさえ命は何であるかよく理解できませんね。一人一人に「命」があって、何とかそれぞれが自分の「命」を維持しようと世話しています。それだけで、難しくて手一杯なのです。少なくとも、「死に抵抗するのは」人間にようやくできることで、ある意味で「死に抵抗する」能力は、人間にあるかのようです。

そういえば、死にかけている人でさえ、最期の最期まで、どうしても死に抵抗して死と戦おうとしています。また、「死に抵抗するのは」人間の身体の自然的な反射です。
「命」は私たちの享受している「最高の価値」のある善であり、私たちにとっての「一番貴重」な持ち物だからです。しかしながら、私たち人間は死んでしまったら、死に対して、もはや何もできなくなります。一方、私たちの主は、死に給うた後でも、御自分で御自分をよみがえらせることを実現し、それを通じて、死より力強いということを示し給うのです。

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以上、ご復活の玄義をご紹介しました。本当の意味での「勝利」だと言えます。また、御受難の完成でもあります。というのは、ご復活こそは、御受難の戴冠式のようなもので、つまり、御受難こそは、ご復活という「勝利」そのものをどのように得たかを示す事実です。というのも、私たちの主がよみがえったということは、死んでおられたからこそです。そして、死んでおられたというのは、御苦難を受けられたからこそです。ご復活は贖罪の玄義を完成させる玄義です。


【復活は、天主が証明書に押す御璽】

また、ご復活は、贖罪の玄義におけるイエズス・キリストによる「押印」「御璽」のような事実でもあります。この「押印」としてのご復活の意味は、私たちの主によって十字架上で捧げられた我々のための贖罪は、本当に、実際に、絶対に、われわれに本物の「命」を与える玄義であり、我々の救済の玄義であることを証明する、として天主が御璽をおす「押印」としての復活なのです。

私たちの主はよみがえりました。復活し、前述したように、新しい命をもって生きておられます。もう失えない「栄光の命」を持っておられます。さらにいうと、この新しい命は、御自分の身体を支配する完成した命です。私たち人間からみると、分かりにくい事実です。というのも、私たち人間においては、原罪のせいで、身体と霊魂の間に絶えざる軋轢があるからです。一方、身体が現世欲によって物事を欲しがりながら、他方で、理性のお陰で、本物の聖徳を垣間見ることができます。そして、聖徳を垣間見ることによって、徳を遂げるために、どれほど身体における犠牲が必要となってくるかも、理性で垣間見ることができます。聖パウロがこのことを旨く表現しています。
「私は自分の望む善をせず、むしろ望まぬ悪をしている。」

原罪によるこういった軋轢・対立が、常に私たちの霊魂にあります。ご復活を通じて、私たちの主は、「命」に対して持っておられる御力は絶対であることを示し給うのですが、われわれの内にあるような軋轢を、ご復活によってなくされた。私たちの主の御霊魂とその天主性は、御自分のご身体に対して、絶対的な支配を持つということです。

因みに、以前にもこういった絶対的な御力がありました。というのも、私たちの主は真の天主であるから、「罪」を犯したことのない天主なのですから、原罪に傷つけられていない天主ですから、当然ながら、以前にもこういった身体に対する絶対的な支配力を持っておられました。しかしながら、ご復活を通じて、私たちに対する「新しい命」への招きとなります。つまり、霊魂が身体を完全に支配できる「新しい命」なのですが、「新しい命」を持つと、霊魂の持っている「栄光の命」は、身体にも染み出してきて、身体にまで「栄光の命」が注がれることになり、身体も霊魂の栄光をともにするのです。従って、私たちの主の復活したご身体は、「栄光の身体」の特性を持つようになります。


【「栄光の身体」の四つの特性】
「栄光の身体」の特性は四つあります 。

「栄光の体」の第一の特性「輝き」claritasです。この特性によって、「栄光の体」が輝かしくなるという特性です。因みに、タボル山で使徒たちはイエズス・キリストの御変容の際に「栄光体の明るさ」を垣間見ました。福音に記されるように「顔は太陽のように輝き、服は光り(雪)のように白くなった」 。それから、エリアとモーゼの預言者が現れると、使徒たちは御変容を見て「恐れて倒れ伏した」 。ご復活なさった後のご身体は、御変容の時のようになりましたが、一瞬ではなく常態となっています。ただし、ご復活の後に、使徒たちに「この輝き」を示さなかったのは確かです。その理由は簡単で、使徒たちに、御自分のご復活の事実を確認してもらうためでした。「輝き」を見せてしまうと、使徒たちが恐れに満ちて、ご復活の真実性が見えなくなってしまうので、栄光の体の「輝き」を見せずに、御自分の本当の御体であることを弟子たちに見せることになさいました。それでも「輝き」は「栄光の体」の一つの特性です。

第二の特性は「受苦不能性」impassibilitasという特性です。「死に対する」当然の結果なので、分かりやすい特性でしょう。つまり、ご身体はもう苦しむことも老いることもないということです。完璧な若さを持っている身体です。あるいは、完璧な成長に達した身体だとも言えます。パウロはローマ人へこう言います。「そして死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。キリストに対してもはや死は何の力ももっていない。」  信条なのです。

第三の特性は、「敏捷(びんしょう)性」agilitasと呼ばれます。栄光の体は、私たちがこの世で感じざるを得ない身体の重苦しさを持たないのです。因みに身体に対する霊魂の絶対的な支配力を示す特性になりますが、「栄光の体」によって、身体が「瞬間的に」霊魂の命令に従う特性です。具体的に言うと、ある場所から他のある場所まで、瞬間に移動できるという特性です。私たちの霊魂だけなら、(考えで)瞬間移動できるのは経験しているところですね。つまり、想像を通じて、いろいろ瞬間移動する経験があるから、何となく想像しやすい特性ですね。
たとえば、自分の生い立ちの町に想像上にいることを思いながら、いきなり住みたい町を考え出して、想像で瞬間移動することはできます。つまり、霊魂だけだったら、世界の末端にある場所から他の世界の末端のある場所まで瞬間移動はやりたいだけ出来ます。例えば、ある瞬間に「永遠の町」と呼ばれるローマを考えて、次の瞬間に全く関係ない場所を考え出すことはできます。例えばナイヤガラの滝とかですね。要するに、霊魂は想像力を通じて、瞬間移動ができます。栄光の体を持った霊魂なら、霊魂にある「敏捷(びんしょう)性」という能力を身体に与えることになります。言い換えると、「思いの素早さ」ほどに、身体も移動することが出来るようになります。これが第三の特性です。

最後に、第四の特性はよりちょっと分かりにくいかもしれませんが、「精敏さ」subtilitasとよばれています。「精敏さ」という特性によって、「栄光の体」は障害を通り越す、障害にぶつかることはなくなるということです。


以上は、「栄光の体」の特性でした。「罪と死と悪魔に対する勝利」のお陰で、「栄光の体」は霊魂の「栄光なる命」を共にしますから、こういった特性を持つようになります。

今まで見てきたすべてのことから、私たちの主が復活したのは、御自分のためでもありましたが、その上さらに、私たちのためでもあったのです。ご復活の玄義は、私たちにとって、非常に関心を持つべき玄義で、私たちと直接に深い関係にあるのです。
というのは、ご復活によって、私たちの主は、カトリック信仰の根本となるからです。

聖パウロが記す通りです。「キリストが復活しなかったら、私たちの宣教はむなしく、あなたたちの信仰もむなしく、そのうえ私たちは天主の偽証人となってしまう」 。なぜでしょうか。前述したように、ご復活というのは、天主が押印なさったような出来事で、イエズス・キリストが本当に天主であることの証明であるからです。

つまり、私たちの主が御自分でご自分を甦らせることを通じて、以前のこの地上での生活において与えられた全ての真理や御教えを確認し、再断言し、確立なさったということです。ご復活のお陰で、イエズス・キリストが真の天主であることをご証明なさったのです。

従って、ご降誕の日に礼拝するご托身の玄義を証明するのも、ご復活という大事実でもあります。そして、続いて、十字架上での死には、贖罪の玄義があるということをも証明なさったのです。つまり、真の天主及び真の人である神人が、十字架上で本当に実際に、人として死んだ上、天主として、聖父なる天主に対して相応しい完璧な生贄を捧げられたという贖罪の玄義を証明する大事実なのです。

というのも、ご復活というのは、この世における天主による刻印のような出来事で、イエズス・キリストが本当の意味で真の人かつ真の天主であることを証明し、十字架上の犠牲(いけにえ)が完璧であることを証明し給うのです。
つまり、十字架上で、私たち全人類の贖罪が実現したことを証明するのです。イエズス・キリストはよみがえった。従って、明白にイエズス・キリストが天主であるということになります。だから、十字架上の犠牲(いけにえ)は、本当に効果があったという証明なのです。

まとめて言うと、私たちの主が御自分を御自分でよみがえらせたお陰で、カトリック信仰を根拠づけ、信仰の根本となるのです。

そういえば、司祭が幼児に洗礼を授ける時、洗礼式の最初あたりで司祭は幼児にこう聞きます。まだ教会に入っていないままで、教会の門の前で挙げられる式です。因みに、教会の外で式が始まるというのは、洗礼を授かっていない幼児がまだ教会の一員ではないという意味があります。
司祭が最初に幼児に聞く質問は「天主の公教会に何を求めますか」です。幼児あるいはその代父か代母は「信仰を」と答えます。そして司祭から「信仰はあなたに何を与えますか」と聞かれると、幼児あるいは代父母は「永遠の命を」とこたえます。

それらの質問を初めとして、厳密に言う洗礼の秘跡を中心に洗礼式が進みますが、洗礼の秘跡自体を授かると、洗礼式の後半では幼児の霊魂が超自然の命に復活したという事実を示すために、司祭が次の式を行います。

受洗者に与えられる洗礼の蝋燭を手に取って、ご復活の蝋燭の火をとって灯すのです。ご復活の蝋燭は、私たちの主のご復活を示す蝋燭です。年一回だけ、聖土曜日からご復活の主日の夜の徹夜祭の儀式で使う、復活の蝋燭ですが、ご昇天の祝日までミサの時はずっと火を付けます。「私たちの主が地上によみがえったよ」ということを象徴しています。

要するに、洗礼式の後半で洗礼を授けてから、司祭は洗礼の蝋燭を手に取り、ご復活の蝋燭の火からそれに火を灯すのです。何を意味しているのでしょうか。「洗礼によってあなたの霊魂に与えられた信仰(洗礼の蝋燭の火が象徴する)の根拠と基礎はご復活(ご復活の蝋燭の火が象徴する)にあるよ」という意味です。

私たちの主がよみがえったからこそ、私たちの信仰は虚しいことはないということです。従って、私たちのためにこそ、私たちの主がよみがえった。よみがえり給うたおかげで、イエズス・キリストこそが、私たちの霊的な命の模範となるのです。「霊的な命」というのは、「新しい命」によみがえった私たちが、その「新しい命」においてこそ生きなければならない、ということです。
だからこそ、カトリック信徒は誠に言うのです。「私たちは罪に死んだ」 。「罪に死んだ私たちは、どうしてなおその中に生きられよう」と聖パウロが記す通りです。

要するに、私たちの主のご復活は私たちカトリック信徒の霊的な復活の証明に他なりません。聖パウロが記す通りです。
「私たちは洗礼によって、イエズスとともに葬られた。それは、御父の栄光によってキリストが死者の中からよみがえったように、わたしたちもまた新しい命に歩むためである」 。
また、聖パウロ曰く「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上(天)のことを求めよ。キリストがそこで天主の右に座し給う。地上のことではなく、上(天)のことを慕え。あなたたちは死んだものであって、その命はキリストとともに天主の中に隠されていたからである」 。つまり、私たち人間の内的な生活(生命)のすべては、ご復活によってこそ示されるのです。「内的な生活(生命)」というのは、「罪に死ぬ」ということで、また「天主における生活(生命)」ということです。



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