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私たちの主の犠牲の価値について 【公教要理】第四十九講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第四十九講  贖罪の玄義・神学編・その三 私たちの主の犠牲の諸帰結について




私たちの主の十字架上の犠牲の諸帰結について

これから、私たちの主の十字架上の犠牲による諸帰結をご紹介していきたいと思います。言い換えると、十字架上の功徳と言えます。つまり、十字架上で犠牲を払い給うた主の功徳は、何に値するか、です。

第一は、ご自分にとって賞賛に当たる功績です。私たちの主が苦しみ十字架上にて死に給うたからこそ、そしてひどい侮辱と残酷さを受け入れ給うたからこそ、それはイエズス・キリストの功績なのであり、ご自分が払われた犠牲に値する報いを得られることは当然のことです。
その報いがご自分の復活なのであり、そのうえにご昇天という報いをも得られるほどの功徳でした。それほどの十字架上の犠牲だったのです。また、聖パウロの記す通りに、「そこで天主はキリストを称揚し、すべての名に勝る名を与えられた」 という報いが与えられました。従って、人間として、苦しみ給うたことの報いから、称揚されて栄光が与えられるという意味です。

さらに言うと、十字架上の犠牲によって人類の贖罪者となってくださったことから、私たちの主には裁判権を得られたほどの報いが与えられました。言い換えると、後述するように、信経の七条に記している通りにイエズス・キリスト は 「生ける人と死せる人とを裁く」権威を持つようになりました。「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う(きたりたもう)主」という信条です。

イエズス・キリストが私たちの贖罪者である故に、言い換えると、私たちを買い戻し給うたが故に、また御血の値を払い給うて私たちを買い戻したから、私たちに対する占有権を得られたということです。要するに、私たちに対してある種の占有権を得られた故にこそ、人類の裁判官であられる特権を得られたわけです。

ところが、私たちの主は、御自分の業績によって御自分のために報いを得られたばかりではなく、すべての人々のためにもその功徳によって報いを得られました。贖罪の玄義において、すべての人々のために報いを得られたということに留意しなければなりません。つまり、私たちのために、主が得しめ給うた多くの報いに注意しましょう。非常に素晴らしい報いばかりです。イエズス・キリストによってこそ、まさに私たちが救われたということです。なぜでしょうか。


【罪から解放される】
第一は、贖罪の玄義によって、罪から人間が解放されるからです。イエズス・キリストの御血こそは、私たちの霊魂に注がれて霊魂を再生する清めの御血です。「私たちを愛し、その御血によって私たちを罪から洗い清め」た と聖ヨハネが黙示録に記しています。「御血によって私たちを罪から洗い清め」た。従って、私たちを罪から解放し給うたのです。そればかりではなく、ご存知の通り、人類を贖罪したことによって、悪魔の支配から解放し給うたのです。「今この世のかしら(サタン)が追い出された」 。そういえば、私たちの主が、受難の直前に使徒たちへ知らせた通りですね。聖ヨハネ福音の第12章なのですけど、最後の晩餐の後に、御受難の前の最後の訓話において次のことを使徒たちへ知らせました。要するに、私たちの主がこの世に対して勝利したことと、それから悪魔の支配から解放することを明白に使徒たちに知らせました。一言で言うと、私たちを贖罪なさったということにつきます。


【永遠の死から解放される】
そこで、人類を贖罪することによって次の帰結或いは効果があります。つまり、私たちを悪魔の支配から脱けさせたお陰で、また私たちの罪を洗い清め給うたおかげで、当然の帰結になりますが、私たちを永遠の死から解放したもうたのです。ピオ枢機卿の言った通りです。「罪によって得られる報いは一つしかない。つまり地獄に墜ちる報いだ。」ところが、イエズス・キリストの十字架上の生贄のお陰で、私たちの罪が償われ、贖われて、また悪魔の支配から解放された故に、永遠の断罪の審判から、地獄という永劫の罰から免れさせ給うたということです。
ローマ人への手紙において聖パウロがこう記しています。「罪の払う報酬は死である。しかし天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」 。永遠の命です。永遠の死、地獄での命の真逆です。


【天主と和睦する】
贖罪し給うたことによって、また、地獄の永劫の罰から免れさせ給うたおかげで、私たちの主は、天主において私たちを復帰させ給うたのです。イエズス・キリストの御父である天主と私たちを和解させ、仲直りさせ給うのです。聖パウロによれば、明白に記しています。「私たちは敵であったのに、御子の死によって天主と和睦を取り戻した」 と。
言い換えると、罪によって天主の子という資格を失っていた状態から、御子の死によって天主との和睦を得られたお陰で、天主の子である資格を取り戻し給うたのです。


【天主の子となる】
恩寵によって、本当の意味で、キリスト教徒は天主の子なのです。その上、キリストの兄弟に当たるので、聖パウロの言う通りにキリスト教徒は「キリストとともに世継ぎである」 ということになります。


【人間は、天の世継ぎを得ることが可能となった】

これは、私たちの主の犠牲によって得られる第五の報いに当たります。御受難によって、贖罪によって、私たちに天の世継ぎを得ることを可能となし給うたということです。つまり、キリスト教徒が天主の子となった時点で、天主に約束された相続・世継ぎを享受することが可能となりました。天主が御子に既に与えられた世継ぎを私たちにも分かちあうことが可能となったと同時に、その証明にもなっています。

十字架上に死に給うたおかげで、イエズス・キリストが私たちを天主の子の資格を取り戻したお陰で、永遠の命を享受することは可能となりました。ヘブライ人への手紙において、聖パウロはこう記します。「だから兄弟たちよ、私たちはイエズスの御血によって、安んじて聖所に入ることができる。」 ここで言う「聖所」は、永遠なる天に他なりません。
以上、私たちのために十字架上で得しめ給うたイエズス・キリストの諸報いをご紹介しました。


【主の功徳を霊魂に適用してこれらを享受するためには、御受難を共にしなければならない】
しかしながら、留意すべき点があります。私たちの主が十字架上のすべての人々のために死に給うたからこそ、すべての人々のためにこれらの報いをも得しめ給うたことは紛れもない事実なのです。とはいえ、私たちにとって無条件に享受できるわけではありません。私たちにとってちょっと難しい点かもしれませんけど、これらの得しめ給うた諸報いが個別の霊魂に具体的に適用できるには、言い換え得ると、私たちがこれらの報いを享受できるには、私たちもイエズス・キリストの御受難を私の分において共にしなければなりません。要するに、私たち一人一人が、自由に積極的に、イエズス・キリストの御受難の苦しみを共にすることということです。
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【私たちの個別の霊魂に、御受難の報いが適用できるためには、私たちの協力が必要】

聖アウグスティヌスの素晴らしい文章があります。
「天主はわれわれの同意無しに創り給うたが、われわれの同意無しに救い給うことはない」と。

要するに、我々の意志と関係ないところで、天主が私たちの創造を決め給うた一方、私たちの救済に関して、私たちの協力が求められるという意味です。つまり、救済に協力すべきというのは、自分の分として置かれた主イエズス・キリストの御受難に「共に参加・共に担う」べきだということです。コロサイ人への手紙において聖パウロがこう表現しています。「私は今あなたたちのために受けた苦しみを喜び、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの苦しみの欠けた所を満たそうとする。」

この文章は、イエズス・キリストの御受難に何か欠いているという意味ではありません。欠いているところがあったとしたら、贖罪は普遍的になれないし、人類を贖罪するに足りず、贖罪の玄義でなくなってしまうわけです。だから違います。イエズス・キリストの御受難は完全で完璧なのです。

但し、私たちの個別の霊魂に御受難の報いが適用できるためには、私たちの協力が必要となっています。この意味で聖パウロが次のように表現するわけです。「私の体をもってキリストの苦しみの欠けた所を満たそうとする。」
要するに、キリスト教徒である私たちは、キリストの神秘体なる公教会の一部となりました。また、私たちの主イエズス・キリストの御血によってこそ、公教会の一員となった私たちは、御受難に協力すべきで、そして、キリストに倣って、私たちも自分の体をもって苦しむべきだという意味なのです。

イエズス・キリストが明白に仰せになった通りです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」 と。私たちの主がご自身に既に仰せになった通りですね。「救済を得たいなら、よし、贖罪なら私に任せておけ、すべてやってあげるから。但し、私に従うべきだ」と言わんばかりですね。「私が大部分の仕事を果たしてあげるが、あなたたちには小さい協力が求められるだけなのだ」と言わんばかりです。

つまり、私たち皆がキレネのシモンのようです。つまり、僅かながらも、キレネのシモンのように、イエズス・キリストに倣うべく、イエズス・キリストの御受難・木材・十字架の僅かな一部を担うべきだということです。

要するに、イエズス・キリストが得しめたもうた報いを享受するためには、私たちの霊魂にこれらの報いが適用されるためには、イエズス・キリストに従わなければならないということです。つまり、私たちの主によって、私たちのために得られた報いは、天に収まっている公教会の持っている宝のようものです。つまり、その宝を実際に入手するために、これらの報いが私たちの霊魂に注がれて適用される為に、享受しうるために、言い換えると、私たちの霊魂を活かすために私たちの主イエズス・キリストの御血が霊魂に染みるために、私たちもキリストに倣い、犠牲においてキリストに従うべきです。また、これこそが、キリストに従わない人々の不幸で悲惨なことです。

私たちの主に従うことを拒む人々は、主と犠牲を共にしない人々は、また主イエズス・キリストの十字架に背を向ける人々は、キリストの御受難で得られた私たちのための報い、つまりその宝を享受できない不幸な人々なのです。つまり、私たちの主に従わない人は、贖罪されたくないということです。悲惨です。本当に大変です。贖罪を拒むということは、サタンの奴隷のままにいたいということだからです。また、罪の奴隷のままにいたいということだからです。

しかしながら、悲惨なのは、サタンの奴隷と罪の奴隷のままにいると、当然ながら天主の正義の対象になることに関して変わらないので、天主の正義の債務者になってしまうからです。罰を何れか受けてしまうからです。

天主の正義を全うし得た御業(御受難)を共にすることを拒んでしまったら、残念ながら、全うされた正義を享受することは不可能です。つまり、十字架上の贖罪によって償われた罪という正義と天主の御憐れみを享受することは不可能となります。なぜかというと、天主の御憐れみは、天主の正義から湧いてくるからです。天主が私たちに御憐れみを垂れ給うのは、つまり私たちの惨めな状態に配慮し給うのは、正義が全うされたからです。憐れみがなぜ可能になったかというと、正義が全うされないとそれが不可能のまま残るからです。正しい生贄によって、天主に対する侮辱が取り消されない限り、御憐れみを頂くことは不可能だからです。私たちの主による罪の償いは天主の正義を全うするに足りた上、有り余るほどに溢れていたからこそ、罪が償われ、天主の子の資格が取り戻され、御憐れみを再び垂れ給うことが可能となりました。

しかしながら、十字架上における正義を全うする至上の御業を共にすることを拒んでしまう人は、(天主の子となる資格をも拒み)正義が全うされた上で与えられる御憐れみをも拒むことになってしまいます。

従って、正義を拒む人は、言い換えると、御受難においてキリストに従わない人は、天主の御憐れみから自分を少しずつ閉ざす羽目になります。サタンの奴隷のままでいることにすると、この世の奴隷のままにいると、そうなるしかありません。当然の帰結ですけれど、永遠の至福の国の享受を失ってしまうのです。つまり、天国を失ってしまうのです。天主の正義を拒む人の前に、天国の門が閉まるのです。十字架上でイエズス・キリストが獲得し給うた天国は、キリストに従わない限り、イエズス・キリストの十字架の一部を担わない限り、得られないのです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」

聖パウロはティモテオへの第二の手紙にはこう記しています。「次のことばは信じるに足りるものである。「私たちがキリストとともに死んだならまたキリストとともに生きるだろう。もし最後まで耐え忍ぶなら、私たちもキリストとともにその王国をつかさどる」」
贖罪の玄義が私たちの霊魂まで及ぶために、私たちも自分の分を尽くして、自分の十字架を担うべきです。また、悔悛の道と犠牲の道において、キリストに倣い、キリストに従うべきです。

今まで贖罪の玄義を多くの側面から見ました。正義として、御憐れみとして、愛としての立派な贖罪の玄義です。
その上、私たちが、贖罪の玄義を共にすればするほど、私たちの個別の霊魂に親しく親密な贖罪の玄義となってきます。
私たちがイエズス・キリストのカルヴァリオの丘の苦しい道に従えば従うほど、天主の御愛、御憐れみ、正義は、私たちの心をどんどん満たしてくるのです。

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