「ファチマの聖母 2」から、ルシアについて引用します。
ルシア(1917年-1925年まで)
「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」
1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われました。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕事が二つありました。
一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。
その次ぎに、そのことを実現できるための力をつけること、-これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが-「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。
1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。
10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッセージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。
ルシアは司祭たちの尋問の厳しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もいました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。
1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲しさはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度はジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間にたったの2度短い訪問をしただけでした。
ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつもルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いとして、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。
1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごたで母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さんを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」
ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアまで急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてルシアは帰途につきました。
帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。
1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡くなりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れられてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。
フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人-ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル-がルシアを経済的に援助してくれることになりました。
このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはしばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。
1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりました。
ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。
このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイリアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。
シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したときにガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関してもいっさい他言してはならない、という勧告をしました。
ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ-この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった人です-とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシアをアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。
ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リスボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりました。
1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズスのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはおそるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のところを選んだ方がよいというものでした。
その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシアは沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてきた、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。
10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。
ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんなに大きかったことでしょう!
ルシア(1917年-1925年まで)
「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」
1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われました。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕事が二つありました。
一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。
その次ぎに、そのことを実現できるための力をつけること、-これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが-「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。
1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。
10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッセージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。
ルシアは司祭たちの尋問の厳しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もいました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。
1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲しさはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度はジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間にたったの2度短い訪問をしただけでした。
ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつもルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いとして、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。
1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごたで母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さんを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」
ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアまで急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてルシアは帰途につきました。
帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。
1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡くなりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れられてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。
フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人-ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル-がルシアを経済的に援助してくれることになりました。
このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはしばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。
1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりました。
ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。
このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイリアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。
シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したときにガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関してもいっさい他言してはならない、という勧告をしました。
ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ-この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった人です-とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシアをアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。
ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リスボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりました。
1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズスのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはおそるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のところを選んだ方がよいというものでした。
その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシアは沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてきた、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。
10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。
ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんなに大きかったことでしょう!