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公教会と国家の関係 【公教要理】第六十五講

2019年10月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十五講 公教会と国家との関係について



「聖なる公教会を信じ奉る」。
数回にわたって公教会に関する信条を少なからずご紹介しました。改めて「公教会の外に救いなし」という真理を思い起しましょう。従って、天国に入るためには 人は教会の一員でなければなりません。しかしながら、天国に入ることを困難にする要素も少なくありません。

主イエズス・キリストによって制定された公教会は超自然な社会で、特別な目的があり、その目的は霊魂たちを救うことです。イエズス・キリストは公教会を制定しましたが、他に存在している人間の自然な諸社会(家族・国家など)を、公教会に取って代わらせることはありません。言い換えると、主は公教会を制定しながらも、世俗上の諸社会、国家などを否定するのではありません。むしろ、主はそれらの諸社会が相互に実りあるようにするために自然な社会と超自然な社会(つまり教会)とが互いに浸透しあうことをお望みです。両社会は区別でき、違いながらも、常に共同に働き合うということです。

質問しに来たユダヤ人たちへの主の答えもそういうことが説明されています。
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」 という有名なお言葉があります。
私たちの主は世俗上の社会を否定することは一切ありませんでした。むしろ、公教会を制定することによって、主は世俗上の社会に霊的な社会を付き加えることをなさったのです。こうして、霊的な社会は世俗上の諸社会を完全に受け入れ、それらを聖化します。

以上のような課題は、公教会と国家との微妙な関係という問題を語ります。なぜ微妙な関係かというと、教会と国家との境の線がどこにあるかをきめるのは具体的には難しい課題だからです。また、それぞれの社会の個別な権威を否定せずに、どのように互いに協力するべきかという点も難しい課題です。

その意味で、中世期に全般に亘って、両社会の間に多くの議論がありました。それぞれの社会は自分の権威をあえていえば「絶対化」しようとしたことから発生した議論でした。例えば、時に教皇が国家に対して絶対な権威を持つと思った挙句、世俗上の国王たちは(フランス国王や神聖帝国の皇帝たちも含めて)教皇に対して反乱を起し、教皇より国王の方が優位だと押し付けようとした争議などがありました。
しかし、実際に国家と教会という課題になると、一方が絶対であるということはありません。逆に、両社会が単に非常に違う社会で、両社会は微妙に補足的な関係にあるということです。

それは兎も角、念頭に置くべきは次のことです。
国家も公教会も、それぞれ本物の社会であって、それぞれ完全なる社会ではありますが、それはそれぞれの特別な次元においてそうだということです。言い換えると、国家の次元と公教会の次元は違うということです。国家の根源は自然(本性)にあります。なぜかというと、「人間は本性的に政治的な動物である」からです。その本性に従って、人間は自然に社会で生活しています。因みに、一番本性的である「家族」こそがあらゆる社会の基礎となります。

一方、公教会という社会は自然本性のための社会ではありません。超自然な社会です。つまり、人間の本性に根源を持たない公教会は、天主なるイエズス・キリストが公教会を制定なさったご決断においてこそ、その根源を持ちます。つまり両の社会の根源は別々ですし、違います。

また、両社会の構成も違います。国家あるいはより一般的にいうと「市民社会」は、何らかの政体を取っても良いわけです。アリストテレスの定義でいうと、君主制も共和制もありうるのです。要するに、場所・地理・時代・国家・民族の性格次第で、政体は多様ですし、それぞれの民族の特定の本性・個性次第で、政体・国制などは変わったりします。

一方、カトリックなる公教会の政体は、公教会を制定なさった私たちの主イエズス・キリストによって与えられ、時代と場所を問わず、変わることはありません。公教会の政体は君主制です。天主により制定され天主により望まれ、公教会は君主制です。

最後に、それぞれの社会が追求する目的も違います。市民社会(国家)は世俗上の共通善を追求します。「世俗上の共通善」には、単なる物質的な福祉だけではなく、道徳、平和、融和、喜び、親しさ(政治的な友情)などなどがあります。当然ながら、人生を完全にさせる霊的な要素も、世俗上の共通善に属します。しかし、それらのものはすべて人間の次元(本性)を超えません。一方、公教会が追求する善は「永遠なる至福」です。

そこが、一番難しいところです。現世での市民社会というのは、人間の究極的な善(永遠の至福)を与えることが不可能だからです。言い換えると、人が創造された究極的な目的である「永遠の命」を、市民社会が与えることはできません。

天主は人間の存在理由(目的)が超自然(天主の生命)の次元にあるということを決め給うた、つまり、人間の存在理由は、天主のご生命に与ることです。その目的は超自然の(人間の本性を超える)次元であるなら、その目的地(永遠の命)に辿り着くには超自然な手段が必要になります。ところが、市民社会は自然な社会なので、超自然の目的とは別次元であり、市民社会からでは 超自然の目的を得しめようがありません
従って、超自然の目的を得るために、別の社会が必要です。それは、超自然の社会であって、霊魂たちをその超自然な目的に適うようにさせることのできる社会です。

だからといって、良き天主なるイエズス・キリストは、超自然の社会(教会)を制定することにより、自然の次元を否定することは一切ありません。逆です。自然の次元、自然な社会を維持し、大切にしながら、自然の次元を超自然の次元にまで高めて豊かにするのです。

超自然と自然の関係はそのような関係なので、国家と教会の関係も同じです。というのも、公教会は市民社会の本性を破壊せず、市民社会の目的(世俗上の共通善)を否定することもありません。逆に、公教会は市民社会(国家)の本性とその目的を完全に受け入れ、その本性とその自然なる目的を癒し、高めるのです。

従って、必然的に市民社会はある程度は公教会に従わねばなりません。というのも、市民社会は人間の超自然な目的を得しめることは不可能だからです。市民社会を超える超自然の善を人々に得さしめるためには、国家あるいは市民社会が公教会に従う必要があります。だからといって、そういった「服従」は、アリストテレス的な意味でいう「奴隷が主人に服従する」というような態度では決してありません。違います。間接的な服従です。つまり市民社会は自分の次元において、ある程度の独立が維持されているということです。そこが国家と公教会との関係の難しいところです。


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もう少し国家と公教会との関係をよく理解するために、その関係についての諸誤謬を見ておきましょう。そうして、その誤謬を避けるためにはどうすれば良いかを見て、国家と教会との関係への理解を深めましょう。

第一の誤謬は二つの社会を混同するということです。
第二の誤謬は相互の関係を絶つほど、両の社会を分離することです。

【両社会の混同】

第一の誤謬は両社会の混同です。これは、具体的に二つの現象によって表れます。
一方で、超自然の社会(公教会)が国家を完全に吸収し、公教会が世俗の社会になろうとする現象です。これはある種の聖職者至上主義です。また、「アウグスティヌス主義」と言ってもよいでしょう。
「アウグスティヌス主義」とは、「公教会があらゆる物事を支配し、あらゆる者を統治し、何があってもすべてのことに対して全権威を持つ」と言う誤謬です。こういう誤謬は、国家という社会は本物の「完全なる社会」 として存在しないことになります。つまり両社会の混同です。

また、その逆になると、国家が公教会を吸収し、国家が「恩寵の名において」超自然の社会になろうとする現象です。一般的にこれを「チェザル主義」と呼ばれ、「皇帝が教皇になる」という誤謬です。フランス史において、そういった現象はガリカニズム(フランス教会至上主義)として現れました。長い間、フランスにおいて教皇の勅令が有効になるために、フランスの高等法院によって記録される必要がありました。つまり、フランスにおいて長く教皇の勅令の有効条件は高等法院の裁可にありました。ある種のチェザル主義です。両の権威(教皇と国王)の混同という誤謬です。
だからといって、両権威を混同しないことは、両権威を分離することではありません。というのも両権威を区別しながらも、その調和の境目を常に図るべきです。しかしそれは微妙で難しい実践になります。

【両社会の分離断絶】

両権威を分離する誤謬は、現代に至って「世俗主義」あるいは「政教分離」となります。つまり、市民社会と公教会を完全に切断しようとする世俗主義・政教分離です。世俗主義あるいは「自由主義」とも言えます。要するに、人々は「二重の生活」をするという主張になります。政治上の生活、宗教上の生活、両方が無関係であるとする誤謬です。具体的に、人は、政治上、何でもでき、自由で、公教会に干渉されないとし、同時に信仰上、何でもでき自由で国家によって干渉されないとする誤謬です。これも誤謬です。

なぜかというと、それでは人間の精神分裂だからです。皆に特別な超自然な生活の営みがあるとしても、一人一人はやっぱり同一の人間であり、一人のなかに二人がいるとことはありません。両生活の分離は、「精神分裂主義」であり、そういった「自由主義」では、人間がちゃんと生きることはできないのです。というのも、あらゆる「自由主義」はあえていえば究極的に言うとある種の「精神分裂」に過ぎないからです。分離してしまうと、人間は同一なので、早かれ遅かれ両社会の片方を捨て、一方の社会にだけに参加することになってしまいます。

要約すると、国家と公教会との関係は非常にデリケートな関係です。両社会は完全に区別されつつも、それぞれの次元においてお互いに完全に独立し、人間は同一である故に、また人間の究極的な目的は永遠なる至福である故に、両社会は相互依存しながら働きあい、相補うべき関係にあります


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