ファチマの聖母の会・プロライフ

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怪物の印(しるし)

2021年12月27日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
怪物の印(しるし)
2021年11月21日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆様、本日の福音において、文字通りに世界終末の光景が提示されています。我らの主は、世の終わりに関して預言しておられます。かなりつらく大変な時代として描かれています。イエズス・キリストご自身は仰せになります。「だがその日は選ばれた人々のおかげで短くされる。」(マテオ、24,22)

皆様はご存知であるように、なぜか、皆、世の終わりはどのように具体的に起こるかについて知りたくなりますね。いつどこでどうなるか、変な好奇心が湧く傾向があります。そして、世の終わりについて知りたくて、知りたくて、皆様の内には何人か黙示録を読んでみて具体的にいつどこでどうについて見抜こうとされた方もいらっしゃるかもしれません。
そして、黙示録において相次いで出てくる有名なる怪物などについて気になったかもしれません。また、いわゆる怪物の印のことについてもですね。

愛する兄弟の皆様、以上のようなことについての好奇心には不健全なところがあります。残念ながら毎日のようにだれでも経験して確認できるように、我々はなぜか「罪」「悪」への不健全な好奇心を持つ傾向があって、美・善よりもこのような醜い事柄に引っ張られることが多いでしょう。これは悲しいことですが、毎日のように経験しています。福音あるいはイエズス様の御人生を見ようとすることよりも、悪い動画、絵画などへ引っ張られている若者がどれほどいるかをみるのは哀しいことです。

我々の究極的な目的地についても、つまり天国・地獄、最後の裁判、世の終わりについても、アンチ・キリストはどういった人物になるのか、どこいつ誕生するか、誰になるのか、どうやって彼を認定できるか、アンチ・キリストの印は何なのかなどについて、どうしても不健全な好奇心を持つことは少なくありません。

ご存知のように、怪物の印について、とかくも多くの意見などがありますね。
以上の状態ですが、同じ福音において、選ばれた人々は皆、天主の印に刻まれるという記載もあるにもかかわらず、皆、怪物の印についてだけ興味をもつのは残念です。

面白いことに、私のところに来て、「天主の印って何?」と聞いた信徒は一人もいませんよ。怪物の印についてなら、無数ほどにいて、皆、怪物の印は何であるかを聞きに来ますが、天主の印については何も聞かれていません。
愛する兄弟の皆様、このようなありさまはどれほど私たちの好奇心は不健全な方に行く傾向があることを語ってくれます。つまり、多くの場合、善・美よりも、悪・醜へ傾く傾向があります。

さて、以上のような不健全な好奇心を祓うために「怪物の印」についてお話したいと思いますが、黙示録に記されている通りに、また教父たちが解釈した通りにご紹介したいと思います。というのも、現代ではいろいろあるせいで、終末論などは多々あって変なことも多いからです。



さて、黙示録に記されている非常に有名なる怪物の印がありますね。いわゆる、怪物に従う人々は額と腕に印が刻まれて、その印がなければ何も売ることも買うこともできないということは記されていますね。

これを受けて、ワクチン接種とかは「怪物の印」ではないかと主張する人々がいます。かつて、同じ人々はクレジットカードあるいはバーコードは怪物の印なのではないかと警戒していました。

そして、怪物の印について、「人間の数字」だと記されて、「666」という文字によって表されます。この666と黙示録の記述についても切りのない推測や説がありますね。

さて、怪物の印はまず、額と腕に刻まれる印だと黙示録に書いてあります。
聖アウグスティヌスはその意味を説明してくれます。聖アウグスティヌスは目に見える印について述べないのです。つまり、墨入れあるいは皮下チップのようなものにならないということです。聖アウグスティヌスによると、額と腕での刻印は悪魔への隷属を象徴するということです。

悪魔への隷属は最初に額への刻印によって表されます。つまり「告白」「宣言」によって現れます。言いかえると、怪物への隷属の最初の側面は怪物の覇権を宣言して、別の教父が指摘するように、天主の全能を否定することにあります。要するに、怪物の一つの印は否定です。天主への否定、天主の全能への否定、天主によって創られた被創造世界への否定、御托身への否定、ご贖罪への否定などです。

要するに、一言でいうと、額での刻印は「棄教」に他なりません。意志的に心を込めての棄教を言うのです。なぜなら「額」とは心にある思いなどを外に現すということを象徴します。なぜなら、額は誰にも見えていることから、聖アウグスティヌスが説明するように、額にある印ははっきりと声高く内面的に思っていることを宣言する事柄を象徴するというのです。

キリスト教の印は十字架ですね。十字架を切る時も、額からとなります。そして、十字架の印を切ることによって、キリスト教徒は外面的に信仰を表すのです。キリストへの従順を表すのです。つまり「私は主に従って、キリストに倣って十字架を負おうとしているよ」と宣言する印です。
同じように怪物の印の最初の側面は額の刻印となりますが、つまり、悪魔への隷属と天主への否定を宣言するということです。

二つ目の怪物の印は手への刻印です。聖アウグスティヌスは同じように説明します。これは墨入れでもチップスでも物質的な印ではないとことになります。聖アウグスティヌスは聖書において「手・腕」とは「働き」「行為」を象徴するということを思い起こさせます。このように、怪物への隷属を示すのは、悪行であり、悪い働きと行為であると聖アウグスティヌスは説明します。罪を犯す行為、罪のための働きという行為などです。怪物に隷属している人は悪において、つまり悪行をすることによって具現化されています。悪魔に従う人は罪の働きをします。

親愛なる皆様、怪物の印は以上のようなものです。
我々の救いは現世的ではありません。我々の戦いも現世的ではありません。このように、天主への隷属も悪魔への隷属も物質的な現世的なものではありません。ですから、自分の体に何かを刻んでも、打っても、入れても、これで悪魔への隷属が実現したということはありません。また同じように、何か体に刻んだからといって、天主への従順が確保できるようなことはありません。

天主への所属を印すのは霊的な刻印です。洗礼によって刻まれる、取り消しのできない霊魂における印です。キリスト教徒が天主の物であることを印すのは洗礼による霊的な刻印です。この刻印をもって始めて、他の秘蹟を受けることが可能となります。怪物への隷属の印も刻印ですが、ありがたいことに取り消しのできない印ではないのです。意志における刻印であります。悪を選んで罪を犯すことによって意志に刻まれる印です。

我々の戦いは霊的な戦いです。霊戦です。同じように、天主への我々の所属も霊的です。また同じように、残念ながらも、悪魔への隷属も霊的です。天主への所属は恩寵によって具現化されます。恩寵の印に刻まれる人々は天主の物だということを知らせる刻印になります。恩寵によって、だれが天主の物であるかがわかります。愛徳の実践、天主への愛と天主の愛によって生きていくことは聖寵の内に生きることを示します。

悪魔への隷属は罪です。つまり、天主への愛を持たないで、現世上の事柄、物質的な宝、人間的な欲望などに執着してそれを優先することは悪魔への隷属を示します。
黙示録に出る「666」という怪物の印は「人間の数字」だと記されています。この数字の意味をうまく説明した教父に聖エイレナイオスがいます。聖書においてはすべての数字に意味があることから、ラビの伝統に従って、666を解釈されています。いわゆるゲマトリアという解釈学ですが、文字に数字を付与して、数字から改めて解釈するような解釈方法です。

このように、666という数字を分析しようとして、どの意味になるか、あるいは、どの名前が潜んでいるかを解釈しようとした人々は多いです。
それはともかく、教父たちは皆、揃って同意します。アンチ・キリストの名前はアンチ・キリストが現れる時まで不明のままであることについて皆、そろって同意します。ちなみに、聖書における予言は皆そうです。つまり、預言は実現されるまでに、いつどこで、具体的にどうなるかについて不明のままになります。実現した時になってのみ、預言の意味全般が明らかになります。「なるほど」ということになります。黙示録も預言であるので、同じです。実現するまでわからないということです。

しかしながら、聖エイレナイオスは666という数字において、多くの象徴的な意味があると説明します。それはその通りです。他にも多くの数字があって、象徴たっぷりです。皆聖人の祝日の朗読にあった14万4千人の選ばれた者、あるいは部族ごとに1万2千人など、他にも多くあります。
要するに聖書において、数字は文字通りの意味の他に、象徴的な意味もあります。



「7」なら、十全性を表します。「8」は完全性を表します。「6」とは不完全を表します。
教父たちによると、「6」に留まることによって、天主までに行けなくなるというのです。ですから、「6」とは人間の不完全を象徴するだけではなく、人間中心主義というか、人間を中心に、人間ばかりみるということをも象徴します。

聖エイレナイオスはつづいて、三つともある「666」はさらに意味があります。人間は人間中心主義に嵌めるだけではなく、つまり人間を絶対化するだけではなく、体の罪も霊魂(意志と理性)の罪、心の罪をも象徴します。
身体上の罪はあまり詳しく述べなくてもいいでしょう。現代では残念ながらも一番目立って毎日のように確認できる至極わかりやすい罪ですね。例えば天からの復讐を引き寄せる反自然の罪も含めてです。

意志と理性の罪もあります。つまり、理性は真理を自分の物にできることを無理にさせる障害、事柄はその罪の書類に属します。愛する兄弟の皆様、天主に感謝しましょう。我々の子供に真理を与えるために尽くす多くの方々に感謝の意を表しましょう。たとえば、ドミニコ会のシスターなどが特に念頭にあります。つまり本物の真実を与えて、善い教育を与えて、イエズス・キリストへよりよく倣えるように助ける真理を教えられています。

理性だけではなく、意志も対象となります。つまり、現代の世界は絶対に真理へ目を向けないように意志を歪めようとする罪です。これは文部科学省などにより教育綱領、教育方針などがそのために作られています。子供に何が良いか悪いかを知られないように、善悪はなんであるかどうやって善を施せるかを本当に理解できないように現代の教育は考えられています。

最後の6とは「心の罪」を表します。心の罪とは天主を拒む罪を言います。つまり、天主から目を逸らすようにする頑固さ、天主を拒み追い出す罪なのです。心の門を天主の前に閉める罪だと言います。現代では、この罪が特に天主の神殿において蔓延っています。いわゆる、天主への侮辱を行う嫌悪すべきこの新しいミサなどはこの罪を表します。なぜなら新しいミサは天主を無視して、人間を中心にして、人間中心主義的な典礼だからです。



愛する兄弟の皆様、以上のように、カトリック教会は世の終わりについての不思議な預言を解釈し続けました。世の終わりについての預言は実現するまでに謎の多いことになって、解こうとしても人間は解けないものです。

愛する兄弟の皆様、ですから、無理やりに解けないことを解こうとすることをやめましょう。いくらでも変な、常識を失いかけるような説に対して興味を持たないようにしておきましょう。どれほど辛い酷い大変な現代になっていても、この世でどれほど深く深く嘘がつかれていても間違いだらけになっていても、どれほど実際に危険な毒が売られようとも、怪物の印とは霊的な事柄であることを忘れないでおきましょう。罪の刻印だということです。

罪を犯すことによって悪魔の奴隷となります。
恩寵と愛徳によって、天主の奴隷となります。
愛する兄弟の皆様、このように我らの主ははっきりと仰せになります。「体を殺せても霊魂を殺せない者を恐れるな」(マテオ、10、28)。
現代ではこの教えは非常に役立ちます。
「体を殺せても霊魂を殺せない者を恐れるな。むしろ体と霊魂をゲヘンナで滅ぼせるお方を恐れよ」(マテオ、10、28-29)。

また我らの主、イエズス・キリストは使徒たちから離れる前に、使徒たちに次のように仰せになります。「勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ、16,33)

ですから、現世的なものも、物質的な脅迫も恐れるべきではありません。罪を恐れるべきです。体の死を恐れてはいけないのです。むしろ霊魂の死、永遠の死を恐れるべきです。

たしかに、特に現代では将来は極めて見えていなくて不安が多いでしょう。不確かであるかもしれませんが、確信できる一つのことがあります。

善き天主は我々の父です。善き天主は自分の子供を忘れていないのです。善き天主はご自分の子供を守っておられます。善き天主はご自分の子供を養っておられます。どれほど厳しい試練が用意されたとしても、またこれらの試練の将来はどうなるか全く不明だとしても、かならずイエズス様に頼ったら恩寵は必要以上に与えられることを確信できるので、安心しましょう。

このように不幸な現世にいても我々は望みと喜びに満ちています。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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