白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブベ(J-P Boubée)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(J-P Boubée)神父様のお説教
カトリック的な新年祝賀
2021年1月2日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、クリスマス、ご降誕の祭日の八日間後、八日目の祝日、正月に合わせて、イエズスはその名を貰いました。イエズスという名はイエズスの使命を表しています。ご存じのように、ユダヤ人では天主がある人に使命を与える時、その名でその使命を表して皆の目の前に示すために使命通りに命名されています。
ですから、イエズス・キリストの唯一の名前は「救い主」を意味するイエズスであり、ユダヤ人に対しても異教徒に対してもその使命を明らかに示すために選ばれた名前です。
天主の永遠なる叡智に従って、イエズスの命名の祭日である正月に合わせて、「祝賀」の言葉を交わす慣行は昔からあります。「よき年を」「聖なる年を」。
我々もこの慣行に嬉しく従って、聖ニコラ教会の聖職者の全員を代表して、皆様に祝賀を表したいと思っております。よき年を、聖なる年を過ごすように。
はい、今年のすべてを「善」に向かわせることに越したことはありません。そういえば、フランス語での毎日の挨拶は「Bonjourボンジュール」になりますが、「よき日を」という意味です。毎日、正月の祝賀と同じような祝賀の表現を使っています。
では、ある物事が「よい」ことになるためにどういった条件があるでしょうか?その物事はその目的を達成した時に、目的地にたどり着いたときに、「よいこと」だというのです。例えば、ある仕事をするためによい道具というのは、相応しい道具であって、つまり仕事を達成するために役立つ道具というのです。「よい」パン屋さんは我々が期待している美味しいパンを作ってくれるパン屋さんであり、つまり、パン屋さんの目的を達成している人です。よい果物は美味しい果物で、期待していた美味しく甘い果物になる時「うまい」というのです。
ですから、「よい年」とは期待通りになる年であることになるでしょう。
ですから、我々は新年になって、どういった期待を持つかを見る価値があるでしょう。多くの場合はある出来事が起きることに期待したり、期待よりも嬉しい出来事が起きたりすることに期待したりするでしょう。
これについて手短かに三点、取り上げたいと思っております。
第一、よい年になるために、目的を達成した年という意味ですから、まず、この目的はなんでしょうか?多くの場合、「何よりも健康を」という祝賀があります。
しかし、健康は目的になり得ません。政治家らや現代世界が批判するでしょうけど、かつて、カトリック信徒が祝賀を言っていた時に必ず願っていた「臨終の時にあなたに天国を」ということこそが目的です。
単純で簡単な祝賀ですが、天国こそが目的です。我々、人類は何のために創られたでしょうか?天国のために創られたのです。ですから、いつも天国に目を向けなければなりません。地上の天国ではなく、あの世の天国は人々の本来の目的地なのです。これは人間の現実であり、人間は天国という目的地のために存在しています。
以上の現実すら考慮して受け入れたら、我々はすべての物事への見方が変わっていきます。唯一の目的地が天国であることに気づいてそれを承知したら、人生への見方は変わらざるを得ません。どれほど堕落した空気を呼吸せざるを得ないとしても、どういった状況に置かれたとしても、どれほど教養の低い情報、ときにバカな情報ばっかり流されたとしても、現に我々の目的地である天国を自覚的に目的地に据えたら、すべて変わります。
ですから、天国は我々の目的地であることを知らない多くの人々に「よい年」を祝賀してもよいでしょうか?彼らは殆どの場合、よいことは何であるかを考えたこともないのに、また聖パウロが書いていたように、「彼らの神は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている」(フィリッピ人への手紙、3,19)のに。殆どの場合は人々が恥ずかしいことに天のことを忘れています。「彼らはこの世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にある」(フィリッピ人への手紙、3,20)。
「永遠の命に導く年こそがよい年である」ということです。単純です。ですから、「臨終のときに永遠の命を」と祝賀しましょう。
祝賀に関して、第二の点を取り上げたいと思います。天国に行くための道を知る存在は唯一であり、天主なのです。従って、我々は天主によって導かれるように、案内されるように誘導されるようにするのがよいです。
列王の書(サムエルの書)においての若きサムエルのようです。天主は「サムエル、サムエル」を何度も呼び出している場面があって、サムエルは「主よお話しください、しもべは聞いております」と答えました(サムエルの書上、3、10)。
つまり天主に「天主は何をお望みですか?しもべなる私に何をお望みですか」と聞いてみてください。形を問わず、必ず天主はお答えになるからです。もちろん、奇跡的な天主のご出現は基本的にないのですよ!
あなたたちの人生の出来事を見て、試練と難局に合うことによって、与えられる喜び、成功、悲しみと苦しみによって、天主のお望みが知らされるのです。このように、あなたたちも天主のあなたに関するお望みを知ることができます。「主よお話しください、しもべは聞いております」。
このような境遇に自分を入れない限り、よい年にはなれませんよ。
要するに、「よい年を」を言う時は、いわゆる「迷信的に」、「お守り的に」機械的に祝賀していることではなくて、我々、カトリック信徒にとっては、天主に従順でいられるように、本籍地なる天国にいけるためによりよい心構えができるように、というための祈願です。そういった心構えができない限り、よい年になるわけがありません。
それから、第三の点を取り上げたいと思います。
今年は必ず、我々を遥かに超える永遠なる天主の叡智によって統治されています。ですから、どれほど悪者どもが暴れて酷いことをやっていても、すべては永遠の命に向かわせる御計画があって、天主はすべてを統治しておられます。
ですから、あなたたちの人生のすべては永遠の命のためにあります。一つも例外なしに、あなたを永遠の命にたどり着かせるために用意がされております。
障害も迫害も含めてです。初期の殉教者をご覧ください。彼らの死は世の目から見て、汚辱極まりなかったが、実際にはこの上なく栄光なる死でした。現代になっても、殉教者の死こそが殉教者の栄光であり、彼らのこの上なき手柄となっています。そして、祭壇上に彼らの聖遺物を置いている理由は殉教死を遂げたからであります。
要するに、すべての試練は、ことに殉教死の道は、天主によって選ばれた人々を目的地へ導くことです。ですから、カトリック信徒なら、「よい年」あるいは「聖なる年を」を言う時、あるいは言われるとき、このようなことを思い出しましょう。
天主の御手より逃れることは一つもありません。人々は多くの工作や計画を立てたりしますが、一番邪悪な者どもは天主の御手より逃れようとしますが、結局、彼らも天主の単なる道具となって、天主は正しい者を清めるために、またより多くの栄光と功績を正しい者に与えるために邪悪さが使われております。
さて、以上のような現実をよく知った時、一体なぜ「よい年を」祝賀する慣行に従う必要があるでしょうか?というのも、天国という目的地、すべての試練もこの目的を達成するための助けとなることをよくわきまえたら、なぜ祝うのでしょうか?どういった効果があるでしょうか?
効果は二つあります。
第一に、以上のような事実を念頭に置きながら、よい年を祝うと、自分自身の心構えを強める効果があります。要は我々の目的地をよりよく知り、天主のみ旨のままになる一助となります。
また、以上のような事実を念頭に置きながら、よい年を祝うと、天主の愛を希うように祈るという意味もあります。天主の御憐みを乞い、天主の御助けを願うような祝賀でもあるということです。
「天主よ、今年は本当の意味でよい年になるように。我々を憐み給え!難局にあったら援け給え、我々の救済のために天主をよりよく奉仕するために、礼拝するために、これらの難局が役立つように」と。
悪魔の残忍なやり方は人々をある種の「心理的な牢屋」に閉じ込めることになります。現代はまさに、多くの人々はこのような牢屋に閉じ込められています。というのも、現代は天主を否認して、そして天主を否定することによって、我々人間の目的をも否定して、悲観主義、絶望に陥れるのです。地上の目的を亡くしているから、夢想を取り上げて、本物の牢屋である偽りの幸福をこの世が掲げています。
そして、酷いことに、永劫、永遠の地獄を経験する前に、すでに地上における地獄を経験させていのです。
ただし、カトリック信徒にとっては、このようなことはありません。というのも、正しい者なら、知っています。すべての苦しみは喜ばしく、天国に行くための一助であることを知っているからです。
ですから、「よい年を」と祝うのは、天主が我々を憐み給うための祈願でもあります。また、すべての物事が我々の救済のための道具になるための祈願でもあります。
要約すると、よい年とは、我々の目的地に近づいた年なのです。ですから、「われは主の使いめなり」と言ってくださった、救済の曙となった聖母マリアに祈りましょう。私たちも新年祝賀の時、「われは主の使いめなり」を願いましょう。
はい、聖母マリアは救済の曙なのです。救い主を初めて見たおん方で、救い主を初めて受け入れたおん方だからです。さらにいうと、当時、殆どの人々は救済を遠い将来に置いていたし、だれもこのような救済を期待しなくなったその時代において、イエズス・キリストは到来しました。
ですから、聖母マリアに我々の祈祷の御取り次ぎになるように祈りましょう。また、「よい年を」祝う時、その相手のために天主の御憐みを得るように聖母マリアに祈りましょう。また、本当の意味でよい年で聖なる年になるように、聖母マリアの御取り次ぎに頼りましょう。
改めて、本教会の聖職者の全員の名において、「よい年を聖なる年を過ごすように」と祝福しています。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(J-P Boubée)神父様のお説教
カトリック的な新年祝賀
2021年1月2日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、クリスマス、ご降誕の祭日の八日間後、八日目の祝日、正月に合わせて、イエズスはその名を貰いました。イエズスという名はイエズスの使命を表しています。ご存じのように、ユダヤ人では天主がある人に使命を与える時、その名でその使命を表して皆の目の前に示すために使命通りに命名されています。
ですから、イエズス・キリストの唯一の名前は「救い主」を意味するイエズスであり、ユダヤ人に対しても異教徒に対してもその使命を明らかに示すために選ばれた名前です。
天主の永遠なる叡智に従って、イエズスの命名の祭日である正月に合わせて、「祝賀」の言葉を交わす慣行は昔からあります。「よき年を」「聖なる年を」。
我々もこの慣行に嬉しく従って、聖ニコラ教会の聖職者の全員を代表して、皆様に祝賀を表したいと思っております。よき年を、聖なる年を過ごすように。
はい、今年のすべてを「善」に向かわせることに越したことはありません。そういえば、フランス語での毎日の挨拶は「Bonjourボンジュール」になりますが、「よき日を」という意味です。毎日、正月の祝賀と同じような祝賀の表現を使っています。
では、ある物事が「よい」ことになるためにどういった条件があるでしょうか?その物事はその目的を達成した時に、目的地にたどり着いたときに、「よいこと」だというのです。例えば、ある仕事をするためによい道具というのは、相応しい道具であって、つまり仕事を達成するために役立つ道具というのです。「よい」パン屋さんは我々が期待している美味しいパンを作ってくれるパン屋さんであり、つまり、パン屋さんの目的を達成している人です。よい果物は美味しい果物で、期待していた美味しく甘い果物になる時「うまい」というのです。
ですから、「よい年」とは期待通りになる年であることになるでしょう。
ですから、我々は新年になって、どういった期待を持つかを見る価値があるでしょう。多くの場合はある出来事が起きることに期待したり、期待よりも嬉しい出来事が起きたりすることに期待したりするでしょう。
これについて手短かに三点、取り上げたいと思っております。
第一、よい年になるために、目的を達成した年という意味ですから、まず、この目的はなんでしょうか?多くの場合、「何よりも健康を」という祝賀があります。
しかし、健康は目的になり得ません。政治家らや現代世界が批判するでしょうけど、かつて、カトリック信徒が祝賀を言っていた時に必ず願っていた「臨終の時にあなたに天国を」ということこそが目的です。
単純で簡単な祝賀ですが、天国こそが目的です。我々、人類は何のために創られたでしょうか?天国のために創られたのです。ですから、いつも天国に目を向けなければなりません。地上の天国ではなく、あの世の天国は人々の本来の目的地なのです。これは人間の現実であり、人間は天国という目的地のために存在しています。
以上の現実すら考慮して受け入れたら、我々はすべての物事への見方が変わっていきます。唯一の目的地が天国であることに気づいてそれを承知したら、人生への見方は変わらざるを得ません。どれほど堕落した空気を呼吸せざるを得ないとしても、どういった状況に置かれたとしても、どれほど教養の低い情報、ときにバカな情報ばっかり流されたとしても、現に我々の目的地である天国を自覚的に目的地に据えたら、すべて変わります。
ですから、天国は我々の目的地であることを知らない多くの人々に「よい年」を祝賀してもよいでしょうか?彼らは殆どの場合、よいことは何であるかを考えたこともないのに、また聖パウロが書いていたように、「彼らの神は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている」(フィリッピ人への手紙、3,19)のに。殆どの場合は人々が恥ずかしいことに天のことを忘れています。「彼らはこの世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にある」(フィリッピ人への手紙、3,20)。
「永遠の命に導く年こそがよい年である」ということです。単純です。ですから、「臨終のときに永遠の命を」と祝賀しましょう。
祝賀に関して、第二の点を取り上げたいと思います。天国に行くための道を知る存在は唯一であり、天主なのです。従って、我々は天主によって導かれるように、案内されるように誘導されるようにするのがよいです。
列王の書(サムエルの書)においての若きサムエルのようです。天主は「サムエル、サムエル」を何度も呼び出している場面があって、サムエルは「主よお話しください、しもべは聞いております」と答えました(サムエルの書上、3、10)。
つまり天主に「天主は何をお望みですか?しもべなる私に何をお望みですか」と聞いてみてください。形を問わず、必ず天主はお答えになるからです。もちろん、奇跡的な天主のご出現は基本的にないのですよ!
あなたたちの人生の出来事を見て、試練と難局に合うことによって、与えられる喜び、成功、悲しみと苦しみによって、天主のお望みが知らされるのです。このように、あなたたちも天主のあなたに関するお望みを知ることができます。「主よお話しください、しもべは聞いております」。
このような境遇に自分を入れない限り、よい年にはなれませんよ。
要するに、「よい年を」を言う時は、いわゆる「迷信的に」、「お守り的に」機械的に祝賀していることではなくて、我々、カトリック信徒にとっては、天主に従順でいられるように、本籍地なる天国にいけるためによりよい心構えができるように、というための祈願です。そういった心構えができない限り、よい年になるわけがありません。
それから、第三の点を取り上げたいと思います。
今年は必ず、我々を遥かに超える永遠なる天主の叡智によって統治されています。ですから、どれほど悪者どもが暴れて酷いことをやっていても、すべては永遠の命に向かわせる御計画があって、天主はすべてを統治しておられます。
ですから、あなたたちの人生のすべては永遠の命のためにあります。一つも例外なしに、あなたを永遠の命にたどり着かせるために用意がされております。
障害も迫害も含めてです。初期の殉教者をご覧ください。彼らの死は世の目から見て、汚辱極まりなかったが、実際にはこの上なく栄光なる死でした。現代になっても、殉教者の死こそが殉教者の栄光であり、彼らのこの上なき手柄となっています。そして、祭壇上に彼らの聖遺物を置いている理由は殉教死を遂げたからであります。
要するに、すべての試練は、ことに殉教死の道は、天主によって選ばれた人々を目的地へ導くことです。ですから、カトリック信徒なら、「よい年」あるいは「聖なる年を」を言う時、あるいは言われるとき、このようなことを思い出しましょう。
天主の御手より逃れることは一つもありません。人々は多くの工作や計画を立てたりしますが、一番邪悪な者どもは天主の御手より逃れようとしますが、結局、彼らも天主の単なる道具となって、天主は正しい者を清めるために、またより多くの栄光と功績を正しい者に与えるために邪悪さが使われております。
さて、以上のような現実をよく知った時、一体なぜ「よい年を」祝賀する慣行に従う必要があるでしょうか?というのも、天国という目的地、すべての試練もこの目的を達成するための助けとなることをよくわきまえたら、なぜ祝うのでしょうか?どういった効果があるでしょうか?
効果は二つあります。
第一に、以上のような事実を念頭に置きながら、よい年を祝うと、自分自身の心構えを強める効果があります。要は我々の目的地をよりよく知り、天主のみ旨のままになる一助となります。
また、以上のような事実を念頭に置きながら、よい年を祝うと、天主の愛を希うように祈るという意味もあります。天主の御憐みを乞い、天主の御助けを願うような祝賀でもあるということです。
「天主よ、今年は本当の意味でよい年になるように。我々を憐み給え!難局にあったら援け給え、我々の救済のために天主をよりよく奉仕するために、礼拝するために、これらの難局が役立つように」と。
悪魔の残忍なやり方は人々をある種の「心理的な牢屋」に閉じ込めることになります。現代はまさに、多くの人々はこのような牢屋に閉じ込められています。というのも、現代は天主を否認して、そして天主を否定することによって、我々人間の目的をも否定して、悲観主義、絶望に陥れるのです。地上の目的を亡くしているから、夢想を取り上げて、本物の牢屋である偽りの幸福をこの世が掲げています。
そして、酷いことに、永劫、永遠の地獄を経験する前に、すでに地上における地獄を経験させていのです。
ただし、カトリック信徒にとっては、このようなことはありません。というのも、正しい者なら、知っています。すべての苦しみは喜ばしく、天国に行くための一助であることを知っているからです。
ですから、「よい年を」と祝うのは、天主が我々を憐み給うための祈願でもあります。また、すべての物事が我々の救済のための道具になるための祈願でもあります。
要約すると、よい年とは、我々の目的地に近づいた年なのです。ですから、「われは主の使いめなり」と言ってくださった、救済の曙となった聖母マリアに祈りましょう。私たちも新年祝賀の時、「われは主の使いめなり」を願いましょう。
はい、聖母マリアは救済の曙なのです。救い主を初めて見たおん方で、救い主を初めて受け入れたおん方だからです。さらにいうと、当時、殆どの人々は救済を遠い将来に置いていたし、だれもこのような救済を期待しなくなったその時代において、イエズス・キリストは到来しました。
ですから、聖母マリアに我々の祈祷の御取り次ぎになるように祈りましょう。また、「よい年を」祝う時、その相手のために天主の御憐みを得るように聖母マリアに祈りましょう。また、本当の意味でよい年で聖なる年になるように、聖母マリアの御取り次ぎに頼りましょう。
改めて、本教会の聖職者の全員の名において、「よい年を聖なる年を過ごすように」と祝福しています。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン