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【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その二【第1部】:学問芸術論を巡って

2020年01月01日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう



お知らせした通り、前回は、簡単手短にジャン=ジャック・ルソーの生涯をご紹介しました。

今日は、その次の「ルソーと芸術」というテーマです。というのも、今まで、芸術について詳しくご紹介した機会がなく、面白いテーマなので、今日の話を切っ掛けに哲学でいう芸術をご紹介できたらと思います。難しい課題なので一時間では足りないかもしれません。

なぜ今日このテーマにしたかというと、もう一つの理由があります。ジャン=ジャック・ルソーの初めての大作は芸術についての文書だからです。前回、ご紹介したように「学問芸術論」であり、それはいろいろな意味でルソーの思想上の決定的な著作だと言えます。少なくとも暗黙の内に「学問芸術論」の中には、ジャン=ジャックの思想のすべてが織り込まれていると言っても過言ではありません。今日はそのことをご紹介していきたいと思います。

本日、主に「学問芸術論」についての話をします。これは1750年に作成されました。前回は作成に至った事情などをご紹介したと思いますが、要約しておきましょう。

【「学問芸術論」執筆に至った事情:復習】
パリに滞在していたルソーが、ヴァンセンヌへ行く途中、恐らく自然の中を通って小道を歩いていたでしょう。当時、まだ緑が多くて都市の農密度は現代ほど高くなかったからです。徒歩でルソーはヴァンセンヌに向かっています。大自然の中を歩くのは、ルソーの大好きな趣味ですから。ルソーの友達だったドニ・ディデロがヴァンセンヌの牢屋に禁固されているので、ルソーは彼を訪ねに行ったのでした。だから、ディデロが禁固されても一応寛大な扱いを得られていたというか、少なくとも訪問を受けることは可能でした。だから、ルソーは訪問に行ったのです。どうせ歩く機会にもなるし、大自然を散策する機会にもなるし、そして、読書する機会にもなるからです。本を読むのもルソーの趣味であり、いつも読み物あるいは書き下ろせる白い紙とペンを持ち歩いていたと言われています。

散策しながら、点々と止まったりして読んだり書いたりしていたと言われています。だから、何か思いついた時ルソーは散策していても書き下ろせたのです。なかなか田園的な雰囲気ですね。これは1749年、ヴァンセンヌへ向いていた途中でした。その時「Le Mercure de France」という雑誌を持ち歩いていました。その雑誌の中に、ディジョンのアカデミーによってある問いが論文募集の対象となっていました。ルソーが応じた論文の最初にその問いが記載されています。
「科学(学問)と芸術との再興は風俗(習俗)の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか。」

ルソーは自分の論文においてその問いに応じることになります。そして、私たちもその問いをみて、ルソーの返事を細かく見ていきたいと思っております。

ルソーの論文は芸術と科学(学問)と風俗(習俗)について触れることになります。言い換えると、芸術と学問との諸関係についての論文となる一方で、他方、芸術・学問と風俗との関係についてでもあります。すると、政治との関係ともかかわってきます。というのも、ラテン語で言えば「in ubiquo」になりますが、つまり間接的に、風俗を通じてルソーは政治について言及することになります。そして、御存じの通り、風俗とは、政治学の一部をなす分野でもあります。良い指導者は自国の民族の風俗を深く考慮しています。そして、本来ならば、良い指導者の唯一の目的は、善き徳高き民族になるように全力を尽くすという目的に帰するはずです。それだけですね。現代はそれだけはなかなか大変みたいですけど。

それでは、Mercure雑誌にルソーはたまたま上記の問いを見ました。ルソーにとって、人生における「ひらめき」となりました。ルソー自身が次のようにコメントを残しています。「偉大且つ不吉な体制を垣間見た」といっています。少なくとも夢中となって、メモを書きおろしたりして興奮していました。彼にとって回心そのものでした。ディデロを訪ねて、いま書こうとしている論文と考えを打ち明けたら、ディデロがルソーを励んで「応募したら?」というような激励をしました。そこで、ルソーは論文を書くことにしました。

彼自身が何か所ではその場面を語ります。『告白』の第八篇とか、『対話』においても、また『孤独な散歩者の夢想』の第三の散歩においてもその場面を語ります。

ディジョンのアカデミーに応募してから一年が経って、彼の応募した論文は大成功を納めました。というのも1750年、アカデミーの賞を受けたからです。最初に提出された論文にちょっとだけ書き足して、注を入れて出版されたと思いますが、応募した版とほぼ変わりません。すると、その論文のお陰で、全世界において有名となります。出版名は「学問芸術論」と称されました。次の問いに応じた論文です。「科学(学問)と芸術との再興は風俗の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか」。

【「学問芸術論」の中に、ジャン=ジャック・ルソーの思想のすべてが織り込まれている】
これからご紹介しますが、その論文をもって、ルソーにとっての思想の歩みの第一歩となります。彼の思想の基礎はそこに織り込まれています。他の作品はある意味で、『学問芸術論』において既に潜在的に織り込まれている思想の基本要素の発展というか、彼の思想を明文化する作品だと言えます。
その論文自体は長くもなくて、20枚ぐらいです。手元にあるのは抜粋に過ぎないのですが、一番象徴的な抜粋を提供することにします。それを読んで、それに沿ってコメントを述べると一番やりやすいと思います。ルソーの思想の本質の要素をご紹介できたらと思います。


これは芸術と科学との関係を分析する作品ですが、芸術と科学は並べられて対象となります。「芸術」と言った時、その論文ではルネサンスから来た「芸術」を指します。そして「science 学知・科学」と言った時、ルソーは「哲学」をも含みます。つまり、物理学などといった自然科学だけではありません。御存じの通り18世紀は自然科学の大発展の世紀です。ニュートンもいたし、科学が発展していた世紀でした。デカルトも既に出て、新しい哲学の発展もあります。要するに「science 学知・科学・学問 [注1] 」と言った時に、現代風に言う「物理的科学」をも含み、「哲学」をも含みます。

[注1]Science は日本語で、学問と科学の両方の訳語があります。「哲学」という部分もscienceとして数えられているので、「学問」といった方が適切であると思われますが、啓蒙思想家の口には、どちらかというと「科学」という意味で「science」を使うことが多く、「哲学」も入っていましたが、近代的な「哲学」だったので、伝統的な「学問」のありかたと啓蒙的な「科学」とのありかたはちょっと違うのですが、フランス語では同じ言葉になっているので、両意味が混同したりします。一貫性のために、以降は「学問」で統一する。


【第一部】
それで、ルソーは以上の問いに答えます。これから、幾つかの抜粋を読み上げたいと思います。お配りした文章になったらお知らせしますね。次は第一部の第一行です。因みに、論文の構造は第一部と第二部からなっています。第一部は次のように始まります。

C'est un grand et beau spectacle de voir l'homme sortir en quelque manière du néant par ses propres efforts ; dissiper, par les lumières de sa raison les ténèbres dans lesquelles la nature l'avait enveloppé ; s'élever au-dessus de lui-même, s'élancer par l'esprit jusque dans les régions célestes ; parcourir à pas de géant, ainsi que le soleil, la veste étendue de l'univers ; et, ce qui est encore plus grand et plus difficile, rentrer en soi pour y étudier l'homme et connaître sa nature, ses devoirs et sa fin. Toutes ces merveilles se sont renouvelées depuis peu de générations.
「人間が、自分自身の努力で、何らかのやり方で無から抜け出したり、生まれながらつつまれている闇を自分の理性の光で払いのけたり、自己自身を超越したり、精神の力で天界にまで飛び上がったり、巨人のような足取りで、太陽のように、広い宇宙を馳せめぐったり、さらに、これは立派で困難なことだが、自分自身にたちもどってそこにおいて人間を研究し、人間の性質、その義務、その目的を認識したりするのを見るのは、すばらしく美しい光景である。しかもこれらすべてのおどろくべきことが、少し前の時代から、つねに新しくくりかえされている。」

つまり、ルネサンスの時代からですね。[…]
L'esprit a ses besoins, ainsi que le corps. Ceux-ci sont les fondements de la société, les autres en sont l'agrément.
「人間の精神は、肉体と同じように、それ自身の欲求を持っている。肉体の欲求が社会の基礎であり、精神の欲求が社会の娯しみである。」

御覧の通りです。最後の文章は手元に配っていないと思いますが、
「人間の精神は、肉体と同じように、それ自身の欲求を持っている。肉体の欲求が社会の基礎であり、精神の欲求が社会の娯しみである。」

要するに、社会の基礎は肉体の欲求であり、社会の娯しみは精神の欲求だというのです。こういった社会における肉体と精神との区別を頻繁にルソーは繰り返しますので、既にそれを指摘しておきましょう。お配りした抜粋の最初の文章には次の主張がされています。

Tandis que le gouvernement et les lois pourvoient à la sûreté et au bien-être des hommes assemblés, les sciences, les lettres et les arts, moins despotiques et plus puissants peut-être, étendent des guirlandes de fleurs sur les chaînes de fer dont ils sont chargés, étouffent en eux le sentiment de cette liberté originelle pour laquelle ils semblaient être nés, leur font aimer leur esclavage et en forment ce qu'on appelle des peuples policés.
「政府や諸法律が、人間集団の安全と幸福とを配慮するのに対し、学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではなく、おそらくより強力に、人間を縛っている鉄鎖を花環でかざり、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情を押し殺し、人間をして隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人(ポリス化した国民ら)を作り上げた。」

面白いでしょう。

【見せ掛けの徳と本当に持っている徳との対立】
それから、手元に配ってある文章にある直前に、次の文章があります。
Peuples policés, cultivez-les : heureux esclaves, vous leur devez ce goût délicat et fin dont vous vous piquez ; cette douceur de caractère et cette urbanité de mœurs qui rendent parmi vous le commerce si liant et si facile ; en un mot, les apparences de toutes les vertus sans en avoir aucune.
「文化人たちよ(ポリス化した国民らよ)、才能をつちかえ。幸福な奴隷たちよ、お前たちが誇りとしている繊細で巧緻な趣味、お前たちの間の交際を究めてたやすく気持ちのよいものにしているあのおだやかな性格とみやびやかな習俗、要するに、何一つ徳を持たないのに、あらゆる徳があるかのような見せ掛け、これらはみな才能の力に負うものなのだ。」

以上の文章だけでも、学問と芸術をルソーが攻撃し始めます。ルソーの主張を整理しましょう。
彼にとって学問と芸術とは、要するに、人生の飾りであり、楽しみであり、つまり花飾りに過ぎないのです。また「人間の生まれながらの自由の感情を押し殺す」学問と芸術のせいで、「あらゆる徳があるかのようにみせかける」ことが出来るが、実際に「何一つ徳を持たない」というのです。
この文章だけでも、ジャン=ジャック・ルソーの意見の中心に直接ぶつかることになります。

C'est par cette sorte de politesse, d'autant plus aimable qu'elle affecte moins de se montrer, que se distinguèrent autrefois Athènes et Rome dans les jours si vantés de leur magnificence et de leur éclat.
「その偉容と輝きを誇った時期のアテナイとローマとがかつて他に抜きんでいたのは、この見せびからすふりをすることがすくなければすくないほどより愛すべきものとなるような上品さによるものだ。」

それから、お配りした文章に移ります。次の通りです。手元にあるちょっと長い最初の文章です。
「もし外観が、常に心情の映像であったなら、[…]我々の人生は快いものとなったことでしょう。」
Qu'il serait doux de vivre parmi nous, si la contenance extérieure était toujours l'image des dispositions du cœur

【「内面」と「外観」の対立関係】
つまり、先ほどに見たとおりに、徳の見せ掛けと本当に持っている徳との対立を改めて強調します。言い換えると、「有様」と「見せ掛け」との対立を中心に置きます。この対立こそ、ルソーにとっての大事な対立となって、この作品の文章には常に出てくる対立です。つまり、我々は本当に「有りのままにいる」姿と「見せ掛ける」姿との対立が常にこの作品に出てきます。

実際、こういった対立はどこから来るのでしょうか。というのも、ルソーの書いていた時代に置いて、こういった対立があまりにも目立っていたようだったから、ルソーが「人々は見せ掛けるふりにするが」つまり、外見的にある偽りの像を打ち出すが、実際に内面的に全く違う人となっているという印象から来る主張です。言い換えると、当時の人々は本来の自分のありのままではない偽りの方を見せ掛けるとルソーは主張します。別の言い方をすると、彼らは「あらゆる徳を持つかのように」見えるかもしれないが、実際において、それらの徳を本当の意味で持つのではないとルソーは主張するのです。

そういえば、お配りした最初の文章の最後を読みになったら自明でしょう。
「我々の人生は快いものとなったことでしょう。」ということは、希望の形を取って語っていますね。そして、希望・願いというのは、今持たないものへの欲望を表現することですね。つまり、こういった願いを表明することによって、ルソーが明白に「私の望んでいる社会は存在しない」ということを断言するのです。

「もし外観が、常に心情の映像であったなら、[…]我々の人生は快いものとなったことでしょう。」
要するに、「実際にないが」と言わんばかり、我々の有りのままが外観に写るならば、どれほど我々は皆と一緒に過ごして気持ちよかろうという感じですね。続きはこうなります。
「もし行儀のよいことが徳であったならば、」
si la décence était la vertu

また希望の形にして、行儀は作法などであって、つまり彼の言う「飾りと見せ掛け」の一種ですね。で、しっかりとした丁寧さなどが本当に徳の現れであればよかったのに(実際にそうではないが)という意味ですね。まだ希望の形で続いて、
「もし格言が規範として我々に役立ったのならば、」。
si nos maximes nous servaient de règles

つまり、「我々の言う格言を本当に宣言して、本当の意味で、真にその格言に従って喜んで具現化することができればよかったのに(実際にそうではないが)」と言わんばかりです。確かに、格言を言い出すのは容易ですが、実際に格言に従って模範的に生きていくのは困難ですね。

「もし真の哲学が « 哲学者 »という肩書と切り離せなかったならば、我々の人生は快いものとなったことだろう。」
si la véritable philosophie était inséparable du titre de philosophe

この最後の部分では、すでに啓蒙哲学者たちを攻撃します。お配りした他の文章でも、その攻撃がその後に続きます。ルソーは結局、啓蒙哲学者を敵に回すのです。特にヴォルテールを敵に回しました。そして、次のことを書き加えます。

「しかし、これだけ多くの美点が一つに集まることは極めてまれであり、」
Mais tant de qualités vont trop rarement ensemble,

言い換えると、「有りのまま」と「外観」の一致が非常に稀だということです。また、外観が内面と一致することも、あるいは内面が外観と一致することも稀だと彼はいっています。従って、ルソーは次のように続けます。
「徳がこれほど華々しく現れることも、まためったにありません。」
et la vertu ne marche guère en si grande pompe.

ルソーの当時はルネサンス期の後の時代であることを念に置きましょう。言い換えると豪華と輝きがある時に、つまり華美や壮大さや壮麗な作法・礼儀または言葉の綾とか、なんでもいいですが、兎に角、それらはあるのなら、裏には徳がないとルソーが断言します。
「衣装の豊かさは富者のしるしであり、衣装のみやびやかさは風流人のしるしといえるかもしれない。しかし健全で強壮なひとびとは、他の特徴によって見分けられる。」
La richesse de la parure peut annoncer un homme opulent, et son élégance un homme de goût ; l'homme sain et robuste se reconnaît à d'autres marques

ここも同じことが繰り返されていますね。ルソーの書きぶり自体は紛れもなく綺麗だと言わざるを得ません。要するに、「豊かさ」などは徳にならないとルソーは断言します。いろいろな意味で「豊か」に見える人々は「徳」を現すのではないと言っています。なぜかというと、徳のある人、「健全で強壮なひとびとは、他の特徴によって見分けられるもので」あるからです。

「肉体の力強さがみられるのは、農夫の質素な衣の下にであって、廷臣の金ピカの衣装の下にではない。魂の力であり生気である徳にとっても、衣装は同じく無縁なものだ。善行の士は裸で戦うのを好む力士である。彼は自分の力の使用を妨げるつまらぬ装飾物、多くはなんらかの奇形を隠すために発明された装飾物を、すべて軽蔑する。」
c'est sous l'habit rustique d'un laboureur, et non sous la dorure d'un courtisan, qu'on trouvera la force et la vigueur du corps. La parure n'est pas moins étrangère à la vertu qui est la force et la vigueur de l'âme. L'homme de bien est un athlète qui se plaît à combattre nu : il méprise tous ces vils ornements qui gêneraient l'usage de ses forces, et dont la plupart n'ont été inventés que pour cacher quelque difformité.

ここです。「内面」と「外観」を対立関係に置くついでに、ルソーはまだはっきりと言わないが、後に紹介する通りハッキリしますが、ルソーはもう一つの対立を被らせます。つまり「本性・自然」と「文化・教養」との対立です。ここに言う「文化」という表現は、「学問と芸術」を指すに他なりません。なぜでしょうか。

【「本性・自然」と「文化・教養」との対立】
最初は、「本性」と「芸術」を対立させますが、結局同じ結論になります。
「魂の力であり生気である徳にとっても、衣装は同じく無縁なものである。善行の士は裸で戦うのを好む力士である。」
La parure n'est pas moins étrangère à la vertu qui est la force et la vigueur de l'âme. L'homme de bien est un athlète qui se plaît à combattre nu

ここにある「裸」というのは、必ずしも身体の裸だけではなくて、「自然」状態に戻るということです。言い換えると、人間の芸術、人間による教養で加えられていない自然状態に戻るということです。わかりますか。
「彼は自分の力の使用を妨げるつまらぬ装飾物、多くはなんらかの奇形を隠すために発明された装飾物を、すべて軽蔑します。」
il méprise tous ces vils ornements qui gêneraient l'usage de ses forces, et dont la plupart n'ont été inventés que pour cacher quelque difformité.

言い換えると、「文化」は醜い「本性・自然」を隠し、発展に足りない「本性・自然」を隠すためだけにあるとルソーは言います。御覧の通り、ここでは、「外観」と「内面」との対立の上に、「自然・本性」と「芸術・教養」、または、「自然」と「文化」との対立が打ち出されています。それから、手元にある次の段落も明白です。

「芸術がわれわれのもったいぶった態度を作り上げ、飾った言葉で話すことを我々の情念に教えるまでは、我々の習俗は粗野であったが、自然なものだった。」
Avant que l'art eût façonné nos manières et appris à nos passions à parler un langage apprêté, nos mœurs - et la différence des étaient rustiques, mais naturelles

「我々の習俗は粗野であったが、自然なものだった。」言い換えると、習俗は善かったということです。「粗野」だったということは、丁寧さも礼儀もないという意味として「粗」く、または、「文明化」されていなかった習俗は「芸術」によって窒息させられていなかったと言うことです。

そして、ルソーは更に以上の対立を究めていきます。もう既に、ルソーの結論が打ち出されている文章です。また最後に改めて触れたいと思いますが、残りの文章はその結論の説明、そしてそれに関する事例に過ぎません。要するに、ルソーの打ち出す対立から対立への間に、ある種の発展が見えています。

最初は「外観」と「内面」とを対立関係に置かれています。彼にとって本当に乗り越えられない対立。
それから、第二の対立は「自然・本性」と「芸術」との対立となります。

【「自然・本性」と「政治的なもの」との対立】
第三の対立は、この文章を読むと、究極的に言うと「自然・本性」と「政治的な生活/営み」との対立となります。
「芸術がわれわれのもったいぶった態度を作り上げ、飾った言葉で話すことを我々の情念に教えるまでは、」
「態度」とか「言葉で話す」とか、他人との関わりにおいて不可欠な営みですし、他人との関係を特徴づけると言えますね。だから、あえて言えば、そういった他人との関係を持てる言葉などは政治上の営みを特徴づけるのです。なぜかというと、政治上の生活は、基本的に他の人々との関係を指すからです。
つまり、「芸術」によって「政治的な性格」を作り上げるまでは「我々の習俗は粗野だったが、自然なものだった」という意味になります。
見えてくると思いますが、その論理がどこに辿り着くか分かってくるでしょう。以上の対立こそ、ルソーの思想における中心たる根本的な要素です。

「そして態度の相異が、一目で性格の相異を示していた。人間の性質(本性・本質)が根本的に今日よりよかったわけではないが、ひとびとはお互いをたやすく見抜くことが出来たので、安心していた。そして弧のような利益---もはやその価値を、我々は感じなくなってるが---によって、彼らは多くの悪徳をおかさないで済んだのだ。」
procédés annonçait au premier coup d'œil celle des caractères. La nature humaine, au fond, n'était pas meilleure ; mais les hommes trouvaient leur sécurité dans la facilité de se pénétrer réciproquement, et cet avantage, dont nous ne sentons plus le prix, leur épargnait bien des vices.

言い換えると、「善徳ぶった態度」がなかった時、「芸術と学問による装飾物」がなかった時、また、ルソーの言うように、「偽善である礼儀・丁寧さ」、あるいは「あらゆる外観の偽善さ」がなかった時にこそ、人々はお互いに有りのままに見え合っていたと言うのです。芸術と学問がなかった時に、人々はお互いに有りのままに見え合っていたと。
従って、ありのままに、本当の姿でお互いに知り合えていた「自然状態」だったと言っています。また言い換えると、学問と芸術のもたらした物事のせいで、人々はお互いに有りのままに見抜けなくなったということを彼は言っています。従って、お互いに知り合うことができず、少なくとも、お互いに本音を見抜くことができないと。

以上は、ルソーが打ち出した幾つかの典型的な対立です。

そして、お配りした長い抜粋の続きを読み上げましょう。
「一そう精緻な研究と一そう繊細な趣味とが、ひとをよろこばす術を道徳律にしてしまった今日では」
Aujourd'hui que des recherches plus subtiles et un goût plus fin ont réduit l'art de plaire en principes,

また同じですね。「道徳律」は徳ではなくなって、「人を喜ばす」ということになっていると言います。
「つまらなくて偽りの画一さが、我々の習俗で支配的となり、あらゆる人の精神が、同じ鋳型の中に投げ込まれてしまったように思われる。たえずお上品さが強要され、礼儀作法が守らされる。つねにひとびとは自己本来の才能ではなく、慣習に従っている。」
il règne dans nos mœurs une vile et trompeuse uniformité, et tous les esprits semblent avoir été jetés dans un même moule : sans cesse la politesse exige, la bienséance ordonne : sans cesse on suit des usages, jamais son propre génie.

御覧の通り、いつも「外観に礼儀作法によって偽られている」とルソーは主張します。言い換えると、18世紀における典型的な「オネトム・善き忠誠なる人」という追求すべき模範をルソーは否定するのです。

以上をもってルソーは何と言いたいのでしょうか。
「芸術は不自然に人造的・人為的」なこととなってしまった、とルソーは言いたいのです。言い換えると、「偽りの建前」になったということです。次の文書はより明白です。
「人々はもはや、あえてありのままの姿を現そうとはしません。」
On n'ose plus paraître ce qu'on est

言い換えると、礼儀作法などを使うが、結局、礼儀作法とは本音を隠すためだ、と。また、配慮・低調さ、上品さを人々が使っているが、相手のありのままの姿はそれで伝わらないし、本音は隠されているままだと。

つまり、取り敢えずその文章では(あとはちょっと違う意味になりますが)、礼儀作法としての「芸術と学問」のせいで、人間関係を歪めたと言っています。つまり、彼にとって、人々の関係はもはや忠実でなくなり、偽善と偽りの関係になってしまったと。なぜかというと、本性がありのままの姿で現れないから、人間関係が歪曲されたと。
「外観に遮蔽されるありのままの姿」。
「芸術という建前によって遮蔽される本音」また「礼儀作法・人為的な営みなどなどによって遮蔽される本音」。ルソーに言わせれば、画一化したせいで、個性が現れなくなった。
「こういった不断の強制の中で、」
ここの「強制」という言葉は、「自然・本性」との対立をまさに現します。
「礼儀作法」、また、ルソーの批判している多くの「行儀」などは、例えば文学と表現の形式も含めて、「不断の強制」だといいます。

【ルソーは啓蒙哲学者を対象に批判する】
「こういった不断の強制の中で、社会と呼ばれる群を形作っているひとびとは、同じ環境の中におかれると、ますます強力な動機によって方向を逸らされない限り、全く同一のことをするだろう。したがって、どの人と関わるべきかよくわからず、自分の友を知るためには、重大な機会、すなわち、万事が終わった時を待たねばならない。というのは、友を知ることが極めて重要なのは、そのような機会のためだから。」
et dans cette contrainte perpétuelle, les hommes qui forment ce troupeau qu'on appelle société, placés dans les mêmes circonstances, feront tous les mêmes choses si des motifs plus puissants ne les en détournent. On ne saura donc jamais bien à qui l'on a affaire : il faudra donc, pour connaître son ami, attendre les grandes occasions, c'est-à-dire attendre qu'il n'en soit plus temps, puisque c'est pour ces occasions mêmes qu'il eût été essentiel de le connaître.

要するに、社会とそれらの礼儀作法などの外に出られた時だけはじめて、我々の親しい人々をいよいよ本当に知りうるとルソーは主張します。
それでは、ルソーにとって、社会がなぜこうなっているかの理由はどこにあるのでしょうか。次の段落は手元にないと思いますが読み上げましょう。

「(この友を知ることの)不安に、何といろいろな悪をお伴がつきまとうことか!もはや真面目な友情も、本当の尊敬も、基礎の固い信頼もない。」
Quel cortège de vices n'accompagnera point cette incertitude ? Plus d'amitiés sincères ; plus d'estime réelle ; plus de confiance fondée.

これは以上のある種の帰結ですね。総ては建前に過ぎないのなら、友情でさえすべてうわべだけに過ぎないということになります。建前だからうわべだけですね。外観だけです。

「あの画一的で不実なお上品さのおおいの下に、現代の知識のおかげであるあの誇らしげなみやびやかさの下に、疑惑、猜疑、恐怖、冷淡、遠慮、憎悪、裏切り、と言ったものが常に隠されている。」
Les soupçons, les ombrages, les craintes, la froideur, la réserve, la haine, la trahison se cacheront sans cesse sous ce voile uniforme et perfide de politesse, sous cette urbanité si vantée que nous de-vons aux lumières de notre siècle.

前回、ルソーの人生をご紹介したことを覚えていらっしゃるかもしれません。ルソーにはある種のパラノイアという精神病にかかっているという要素がありました。以上の文章はその意味で明白でしょう。
「疑惑、猜疑、恐怖、冷淡、遠慮、憎悪、裏切り」。少なくともこの文章でルソーが自分のありのままを現していると言えますね。
「あの画一的で不実なお上品さのおおいの下に、現代の知識のおかけであるあの誇らしげなみやびやかさの下に、」
これが直接に啓蒙哲学者を攻撃する文章です。この裏にヴォルテールが特に狙われていて、ルソーが関わっていた啓蒙系の社交界を狙うのです。というのも、ルソーには啓蒙哲学者たちとの交際が多くあって、その社交界をよくわかっていたし、百科全書の作成のためにも誘われたのですから。
勿論、ルソーの能力に相応しい項目の作成が頼まれて、つまり音楽についての項目だけです。少なくとも、啓蒙系の連中を良く知っているルソーです。

ルソーは皮肉ぶって次のように結論付けます。
「このようなものが、我々の習俗が手に入れた純粋さだ」。
Telle est la pureté que nos mœurs ont acquise.

というのも、こういった「純粋さ」というのは、概観だけの人造的な純粋さであって、絶対にうわべの純粋さに過ぎないという皮肉です。この文章は勿論皮肉ですね。そして、
「このようにして、われわれは善行の人となった。」
C'est ainsi que nous sommes devenus gens de bien.

要するに、人々を「善行の人」だと評価するためには、本音はどうなっているのか、実際にどう行動するのかという基準ではなく、建前と外観だけが基準となっている、と言います。もちろん、ルソーはここでまた啓蒙哲学者を対象に批判しています。

「このありがたい仕業の中で、文学、学問、芸術の力に帰すべきものは、これらに要求させておきましょう。」
C'est aux lettres, aux sciences et aux arts à revendiquer ce qui leur appartient dans un si salutaire ouvrage.

【「学問と芸術とが完成に近づくにつれて、魂は腐敗した」】 
それから、お配りした一枚目の第二の引用に移したいと思います。以上垣間見た主張をルソーが更に発展していくことをご紹介しましょう。

「何らかの結果もないところには、探究すべき原因もない。だが今のばあい、現実の頽廃という結果は確かなことだ、我々の学問と芸術とが完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのだ。」
Où il n'y a nul effet, il n'y a point de cause à chercher : mais ici l'effet est certain, la dépravation réelle, et nos âmes se sont corrompues à mesure que nos sciences et nos arts se sont avancés à la perfection.

この一行で、ルソーの主張は要約されています。つまり、「我々の学問と芸術とが完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのだ。」
「これは我々の時代に特有な不幸と言えるだろうか。いいえ、諸君、我々の無益な好奇心によって引き起こされた禍は、世界とともに古いものだ。」
Dira-t-on que c'est un malheur particulier à notre âge ? Non, messieurs ; les maux causés par notre vaine curiosité sont aussi vieux que le monde.

ここでいう好奇心というのは、知識上の好奇心をさすのです。言い換えると、学問の嗜みを指すのです。または、18世紀において言われていた学問と科学を指すのです。というのも、当時は学問の飛躍的な発展な時代だったのは紛れもない事実ですから。

「いいえ、諸君、我々の無益な好奇心によって引き起こされた禍は、世界とともに古いものだ。大洋の水の日々の干満が、夜中に我々を照らしている天体(月)の運行に従う規則正しさと雖も、習俗と誠実さの運命が、学問と芸術の進歩に従う規則正しさには及ばないだろう。」
Non, messieurs ; les maux causés par notre vaine curiosité sont aussi vieux que le monde. L'élévation et l'abaissement journalier des eaux de l'océan n'ont pas été plus régulièrement assujettis au cours de l'astre qui nous éclaire durant la nuit que le sort des mœurs et de la probité au progrès des sciences et des arts.

ここでは、ルソーは科学的に結論付けようとしています。つまり、干満を引き起こす月と習俗の頽廃と引き起こす学問芸術との関係を関連付けて、類似性を見出して、同じような関係にあるとしています。つまり、両方とも因果の関係にあると主張します。つまり、干満の原因である月と同じように、習俗の頽廃の原因には学問と芸術がある、と。そして、その段落の最後の文章は次の通りです。

「学問学術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。これと同じ現象は、あらゆる時代、あらゆる場所においてみられる。」
On a vu la vertu s'enfuir à mesure que leur lumière s'élevait sur notre horizon, et le même phénomène s'est observé dans tous les temps et dans tous les lieux.

「学問学術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。」
つまり、ここでいう「光」は他にならない「学問の発展」であるが、つまり「学問学術の発展が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。」

先ず、第一の対立として、「外観と内面」(あるいは建前と本音)が打ち出されています。
そして、第二の対立として、「自然と芸術」が打ち出されています。あるいは「自然と文化」ともいえます。
続いて、その延長線に、「自然と政治」との対立となっていきます。
要するに、ルソーに言わせれば、学問と芸術は習俗の頽廃を引き起こす原因なのだと言っています。

原文の数枚を飛ばしておきました。というのも、以上に見た主張を根拠づけるために、幾つかの歴史上の事例を述べ並べるのです。ルソーの父は、ルソーの子供の時に、多くの本を読ませておいて、ローマと古代史についての本も多くルソーは読みました。だから、愛読者だったルソーがそれらの歴史の本を読んだりして、夢中になって、古代の英雄になりたかったかもしれません。

ということで、ルソーはまずエジプトという事例を出します。エジプトは「世界最初の学園」であるからと彼はいっています。
また「英雄たちが多くいたギリシャ」。そして、「一人の羊飼いによって築かれ、農民たちによって興隆したローマ」。これは象徴的ですね。「一人の羊飼いによって築かれ、農民たちによって興隆したローマ」。
要するに「自然たる人々によってローマが創立された」ということで、最初は「ローマが善かった」と主張しているルソー。
しかし「テレンティアリス」とか「エンニウス」とか出てきた時代から、ローマが衰退し始めたとされています。つまり、知識人が出てきた時ですね。そしてルソーはさらに非難します。

「オヴィディウス(Ovidius)、カトゥルス(Catullus)、マルティアリス(Martialis)のようなひとびとや、その名を聞くだけでも恥ずかしい思いのする多くの淫らな作家たちが出た後、かつては徳の殿堂であったローマは」
つまりかつては羊飼いの時代のよきローマは「犯罪の舞台、諸国民の汚辱、蛮族のもてあそびものになった。」
Mais après les Ovide, les Catulle, les Martial, et cette foule d'auteurs obscènes, dont les noms seuls alarment la pudeur, Rome, jadis le temple de la vertu, devient le théâtre du crime, l'opprobre des nations et le jouet des barbares.

ルソーの書きぶりは美しく、その論調が綺麗なのは綺麗です。
「ついにこの世界の首府は」云々。事例を打ち出し続けていきます。
Cette capitale du monde tombe enfin sous le joug qu'elle avait imposé à tant de peuples, et le jour de sa chute fut la veille de celui où l'on donna à l'un de ses citoyens le titre d'arbitre du bon goût.

「しかし、なぜ、この真理の証拠を、遠く過ぎ去った時代に求める必要があるだろうか。いまなお眼前にその証拠が残っているではないか。」
Mais pourquoi chercher dans des temps reculés des preuves d'une vérité dont nous avons sous nos yeux des témoignages subsistants.

そして同じ調子でルソーがつづけます。
「いままでのべてきた、色々の事例に、少数の民族―空虚な知識の伝染を免れて、自らの徳によって、自分自身の幸福を作り、他の民族模範となった民族―の習俗の事例を、対比してみよう。」
Opposons à ces tableaux celui des mœurs du petit nombre des peuples qui, préservés de cette contagion des vaines connaissances ont par leurs vertus fait leur propre bonheur et l'exemple des autres nations.

そして、それに続いて「反対推論」、「裏を返せば」という様式で、別の事例を述べ並んでいきます。
最初のペルシャ人やゲルマン族やスキタイの事例を挙げます。また古来のローマ。そして、長くスパルタの事例を打ち出します。スパルタが大好きのルソーです。そして、スパルタをアテナイに対立関係におきます。

「アテナイは上品さと風雅さとのすみかとなり、雄弁家と哲学者の国となった。アテナイの建築の優雅さは、言語の優雅さと相応した。(…)あらゆる堕落の時代に置いて模範として役立つ、あの驚くべき作品ができたのは、そのアテナイからだった。」
Athènes devint le séjour de la politesse et du bon goût, le pays des orateurs et des philosophes. L'élégance des bâtiments y répondait à celle du langage. … C'est d'Athènes que sont sortis ces ouvrages surprenants qui serviront de modèles dans tous les âges corrompus.

ちょっと飛ばします。
そして、ルソーはソクラテスを引用するのです。ルソーにとってのソクラテスは「無知のソクラテス」に帰します。「わしは、何も知らないことだけは知っている」。これなら、ルソーは自慢にして好きな引用ですね。
ソクラテスについて、次のようになります。「このようなのが、ソクラテス、神々の判断によれば最も賢明な人間であり、全ギリシャ人の考えではアテナイ人の貨で最も卓越した学者であるソクラテスがなした無知の賛美なのだ!」
Voilà donc le plus sage des hommes au jugement des dieux, et le plus savant des Athéniens au sentiment de la Grèce entière, Socrate, faisant l'éloge de l'ignorance!

象徴的でしょう。
要するに、ルソーは「無知」と「徳」と同一視するということです。厳密に言うと、無知を徳の原因として見なすのです。
「同胞市民たちの徳を腐敗させ、この勇気を弱めた、この技巧的な巧緻なギリシャ人たちに対して、激しく反抗することはアテナイではソクラテスがはじめ、ローマでは老カトーが、それを続けた。」
Socrate avait commencé dans Athènes ; le vieux Caton continua dans Rome …

続いて、「おお、ファブリキウスよ!」。言うまでもなく、流石に評価すべき書きぶりです。ちょっと飛ばします。
「時と場所との隔たりを飛び越えて、われわれのくにで、我々の眼前で起こっていることを見よう。いやむしろ、我々の繊細な心を傷つけるような、いまわしい描写はやめ、また同じことを違った名でくりかえす労を省こう。(…)」
「我々の間では、ソクラテスはじっとして毒を飲むことはないだろう。しかし彼は侮辱的な嘲笑や、死よりも百倍も有害な軽蔑を、もっと苦しい盃でのみ込むだろう。」
Niais franchissons la distance des lieux et des temps, et voyons ce qui s'est passé dans nos contrées et sous nos yeux ; ou plutôt, écartons des peintures odieuses qui blesseraient notre délicatesse, et épargnons-nous la peine de répéter les mêmes choses sous d'autres noms. …
Parmi nous, il est vrai, Socrate n'eût point bu la ciguë ; mais il eût bu, dans une coupe encore plus amère, la raillerie insultante, et le mépris pire cent fois que la mort.


ここも、ヴォルテールと啓蒙哲学者に関する指摘です。

【「幸福な無知の状態」】
それでは、以上の大結論をご紹介しましょう。この第一部の最後の段落です。
「このようにして、永遠の叡智のおかげで、我々が味わっていた幸福な無知の状態から抜け出るために、我々が行った傲慢な努力の天罰は、いつの時代でも、奢侈、頽廃、奴隷状態だった。」
Voilà comment le luxe, la dissolution et l'esclavage ont été de tout temps le châtiment des efforts orgueilleux que nous avons faits pour sortir de l'heureuse ignorance où la sagesse éternelle nous avait placés.

「幸福な無知の状態」を指摘しておきましょう。
ルソーに言わせれば、学び始めた人々は少しずつ頽廃してきたということです。裏を返せば、無知を大切にし続けた人々は幸福のままになって、つまり有徳の士だったと言っています。

「永遠の叡智が、そのすべての働きの上に熱い蔽いをかぶせていたのは、われわれが空虚な研究をするように、神が決して運命づけてはいなかったことを充分に予告しているように思われる。」
Le voile épais dont elle a couvert toutes ses opérations semblait nous avertir assez qu'elle ne nous a point destinés à de vaines recherches.

言い換えると、人間は学ぶ時に苦労しているということは事実です。確かに、我々も誰も否定しないと思いますが、学校に行って辛い思いをする(勉強したくないという傾向)のは、結局、ルソーにとっては「怠惰さ」のせいではなく、「神の恩恵」です。彼の理論だと当然でしょう。
彼にとって、「幸福な無知」を守るために「学問をするときの自然な苦労」があるわけです。その自然な苦労は、英知・智慧・学問・芸術に「陥らない」ために備わっている、自然なるよき「怠惰」となります。それは、単純な習俗のままに留まるための(自然状態のままでいるための)、つまり「有徳の士」のままで留まるための良き「怠惰」だと言えますね。これがルソーの理論です。

【学問と邪悪の間に因果関係がある】
手元にある同じ抜粋のちょっと後に次があります。
「人々よ、母がその子の手から危険な武器をもぎとるように、自然はお前たちを学問から守ろうと望んでいたことを知るがよい。」
Peuples, sachez donc une fois que la nature a voulu vous préserver de la science, comme une mère arrache une arme dangereuse des mains de son enfant

勿論、彼の言っていることは、一理あるのです。「母がその子の手から危険な武器をもぎとるように」
「自然がお前たちに隠しているあらゆる秘密は、それだけ悪であって、自然はお前たちがその悪に落ち込むのを保護してくれていること、お前たちが知識を手に入れるのに要する苦労は、自然の恩恵の中でも、最少のものではないことを、一度は知るがよい。人間というものは、邪悪なものだが、不幸にして学者として生まれていたなら、もっと邪悪なものだろう。」
que tous les secrets qu'elle vous cache sont autant de maux dont elle vous garantit, et que la peine que vous trouvez à vous instruire n'est pas le moindre de ses bienfaits. Les hommes sont pervers ; ils seraient pires encore, s'ils avaient eu le malheur de naître savants.

これを見ると、明白ですね。学問と邪悪の間に、明白な因果関係があると主張しています。
そして、次のことで第一部を結びます。
「上に述べたような反省は、人類にとって、なんと屈辱的なことか!」
Que ces réflexions sont humiliantes pour l'humanité!

そして、これで第一部を結びます。
「それでは、学問と芸術それ自体を考察しよう。学問と芸術の進歩から生まれるに違いない結果を見よう。そしてわれわれの推論と、歴史からの帰納とが、一致するあらゆる点を、もはやためらうことなく認めよう。」
Considérons donc les sciences et les arts en eux-mêmes. Voyons ce qui doit résulter de leur progrès ; et ne balançons plus à convenir de tous les points où nos raisonnements se trouveront d'accord avec les inductions historiques.

要するに、多くの悪い結果が学問と芸術の進歩からどうやってきたかということを次にルソーが説明しようとします。

(続く)

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