「戸田帯刀・横浜教区長暗殺70周年に思う」(by ジャーナリスト・佐々木宏人)の引用を紹介します。
戸田師が射殺死体で発見されたのは1945(昭和20)年8月18日の夕刻、カトリック保土ヶ谷教会聖堂の右手にある司祭館1階の現在の事務室だった。
当時、山手教会は聖堂も海軍横浜特設港湾警備隊に接収、司教座は保土ヶ谷教会に移らざるを得なかった。
戸田師は終戦の8月15日の天皇の敗戦を告げる玉音放送のあった翌日の16日、山手教会に居座る港湾警備隊の幹部の所に単身乗り込み、教会の返還を求めた。
しかし敗戦を受け止められない将校らに「アーメン野郎、何を言うか!」と軍刀で切りつけんばかりの怒声を浴びた。その怒りが憲兵に伝わり、拳銃で射殺されたといわれてきた。
司祭館に入っていく憲兵服姿を聖堂の窓越しに見た目撃者がいたが、犯人は分からず、戦後十数年後、東京・吉祥寺教会に「私が犯人です」と名乗り出た男がいた。
しかし連絡を受けた東京大司教区は、事情も聞かず「赦(ゆる)します」と伝えて行方は分からない。
1944(昭和19)年の横浜教区長の着座式が、伊勢佐木町近くの若葉町教会(現・末吉町教会)で行われた。
その時、丸坊主となって現れた戸田師は、「私は、世界平和のため、日本のため、自分の命をささげます」と決意を語った。今、保土ヶ谷教会の聖堂脇には、この言葉を刻んだ小ぶりな石碑が立てられている。
戸田師は保土ヶ谷教会に司教座が移る前の5月1日から50日間、午前0時から2時間、ファティマの聖母への取り継ぎを願い、山手教会の聖母像にひざまずき「平和」への祈りをささげたという。
この間には死者1万人を出した凄惨(せいさん)な横浜大空襲もあった。この祈りを終えた後、「日本は8月15日の聖母被昇天の日に終戦を迎える」と預言したという。
封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声からの引用をご紹介します。
横浜教区長の戸田帯刀(たてわき)神父(当時47歳)があおむけに倒れ、遺体で見つかったのは、終戦3日後の45年8月18日夕刻だった。軍用拳銃のものとみられる銃弾が頭部を貫通し、背後の窓ガラスを何枚も貫いて中庭に落ちていた。
「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」。戦時下の44年10月、教区長に就任した際、そうあいさつしたという。・・・
事件の約10年後、犯人を名乗る男がカトリック吉祥寺教会を訪れ、ドイツ人の神父に「悔いています」と言った。信徒らによる後の調査では、連絡を受けた東京大司教区は当時、元憲兵と思われるこの男から事情を聴くことも、警察に届けることもしなかったとされる。
45年8月18日、土曜の午後だった。教会近くに住んでいた山本陽一さん(83)はふらりと家を出た。3日前に勤労動員先の工場で玉音放送を聞き、ようやく訪れた静かな日々だった。「教会の前の道に通りかかった時、『バーン』という鈍い音が聞こえたんです」。70年前の記憶をたぐり寄せるように証言した。
何の音だろうか。驚いて立ち止まると、カーキ色の軍服に戦闘帽姿の男が教会の門から出てきた。どんな顔だったかは思い出せない。男は慌てた様子もなく山本さんとすれ違うと、右に曲がり、歩いて姿を消した。教会で何が起きたのか。その日は分からなかった。
当時の信徒からの聞き取りによると、戸田帯刀(たてわき)・横浜教区長(当時47歳)が倒れていたのは司祭館1階の応接室。近くの柱時計は「午後2時40分」または「午後2時45分」で止まっていたという。逃走時に犯人が壁にぶつかり、止まったという説があり、黒い司祭服を着た戸田神父はその2-3時間後に遺体で見つかった。夕食の準備に訪れた賄いの女性が発見し、慌てて近所の信徒に知らせ、警察官が来た。
戸田神父は2階の寝室で昼寝をしていた形跡があり、犯人は客を装って訪問し、至近距離から発砲したとみられる。1発で頭部を撃ち抜いた手口から銃の扱いに慣れていること、さらに神父が一人になる昼食後に訪問していることから、周到な計画性もうかがわせた。中庭に落ちていた銃弾は軍用だったと伝えられる。
人の恨みを買うとは思えないカトリックの高位聖職者が教会内で射殺された異常な事件だった。だが、終戦間もない混乱の中、事件は報道されず、今となってはどのような捜査が行われたのかも不明だ。現場の応接室には長い間、厚いビロードのカーテンが引かれていたという。
戸田神父は1898年、山梨県北部の山あいにある西保(にしほ)村(現山梨市牧丘町)の養蚕農家に生まれた。6人きょうだいの5番目。今はブドウの名産地として知られるが、当時の村は貧しく、2人の兄は移民として米国とカナダに渡った。帯刀少年は体が弱く農業に不向きだったという。ただ、成績は優等で、高等小学校や教員養成所を卒業後、いとこを頼って上京し、開成中学に進んだ。
カトリックとの出合いは、いとこの家族と東京下町の本所教会を訪ねた3年の時。洗礼を受け、神学校を経て、関東大震災があった1923年にローマ・ウルバノ大学に留学した。5年後に帰国すると、大正デモクラシーは終わり、日本は激動の昭和に突入していた。
開戦4カ月後の42年3月、札幌教区長を務めていた戸田神父は北海道の特高警察に連行された。
その直前には、理事長を務めていたカトリック系の商業学校での軍事教練に消極的だとして、軍部から批判されてもいた。
2年後の44年10月、横浜教区長に転任。就任の式に現れた戸田神父は丸刈り頭で、出席者はその姿に目を見張り、覚悟を感じ取ったという。戸田神父は述べた。「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」
ある学者が、米国立公文書館で日本のカトリックに関する資料を探した際、戸田神父の名がある報告書を見たというのだ。試みにインターネットで氏名を入力し検索すると、容易に見つかった。米中央情報局(CIA)のホームページだ。「機密 大統領宛て文書 日本人交渉者」のカテゴリーに報告書はあった。
「タテワキ・トダは」で始まる報告書は45年4月11日、CIAの前身、米戦略事務局(OSS)の情報源が発信したものとしている。死の直前のルーズベルト大統領に届けられた。戸田神父が当時のローマ法王ピオ12世に宛て、終戦工作のための提言を送ったとする内容だ。戸田神父は法王に「太平洋戦争についての調停の試みを放棄していない」ことを昭和天皇へ伝えるよう求めたとされている。
ローマ法王を仲介した日米の終戦工作は、同年6月に米側から提案したことが明らかになっている。OSS文書が事実なら、工作はより早く、沖縄戦のさなかに始まっていたことになる。しかし、報告書は、戸田神父を「皇族の一員」と記載するなど、明らかに事実と異なる内容が盛り込まれていた。
情報源を示すコードネームは「ベッセル(船)」とある。ベッセルは、バチカンで活動していた米国のスパイのコードネームで、イタリア人記者ら複数の人物が関わったとされる。ベッセルの報告書には偽情報が多い時期があり、内容の信用度をめぐって論議を呼んできた。「戸田神父に宮中との関係がないなら(報告書は)虚偽だろう」。日本近現代史の第一人者、保阪正康さんは言った。
ただ、戸田神父は、皇室の侍従らと交流のあったドイツ出身のシスターと親しく、この人に遺書を託していたと伝えられる。また、ローマに留学経験があるとはいえ、バチカンでは無名の存在といえる戸田神父が、なぜOSSの諜報(ちょうほう)網にキャッチされたのかという疑問も残る。
報告書は虚偽を含むが、実際に戸田神父がバチカンに働きかけていた可能性はないのか。あるいは、工作活動は事実無根であったとしても、報告書の内容が日本の官憲に伝わり、何らかの意図によって事件につながった可能性はないのだろうか。
カトリック吉祥寺教会は戦後間もなく、東京都武蔵野市の緑豊かな街並みに建てられた。戸田神父の事件を調べている元毎日新聞記者で、カトリック信者の佐々木宏人さん(74)によると、射殺事件の約10年後、この教会を中年の日本人の男が訪れた。応対したドイツ人の神父に自分の名を告げ、「私が射殺した」と話したという。しかし、男は警察に通報されることもなく、姿を消した。
佐々木さんは6年前、カトリック吉祥寺教会に在籍していた神父に取材を試みた。ドイツ人神父の後任にあたる人物で、取材依頼の返信はがきにこう書かれていた。名乗り出た男について「元憲兵隊の横浜地区の人だと聞いております。私はその事実を確かめることなく過ごしております。何らの手がかりもありません」。便りの数年後、神父は亡くなった。
やはり憲兵の犯行なのか。保阪さんは「終戦直後の憲兵は戦争責任を恐れて混乱していた。3日後ならなおさらだ。しかし、憲兵が戦後に民間人を射殺したケースは聞いたことがない。推測だが、神父を生かしておくと都合の悪い、よほどの事情があったのだろうか」と話した。
保土ケ谷教会の聖堂わきに「世界平和のために働きます」と刻まれた石碑がある。戦時下の44年10月、教区長の就任の式で戸田神父が述べた言葉だ。石碑は主任司祭だったニュージーランド出身のバリー・ケンズ神父(83)が10年前に建てた。
戸田師が射殺死体で発見されたのは1945(昭和20)年8月18日の夕刻、カトリック保土ヶ谷教会聖堂の右手にある司祭館1階の現在の事務室だった。
当時、山手教会は聖堂も海軍横浜特設港湾警備隊に接収、司教座は保土ヶ谷教会に移らざるを得なかった。
戸田師は終戦の8月15日の天皇の敗戦を告げる玉音放送のあった翌日の16日、山手教会に居座る港湾警備隊の幹部の所に単身乗り込み、教会の返還を求めた。
しかし敗戦を受け止められない将校らに「アーメン野郎、何を言うか!」と軍刀で切りつけんばかりの怒声を浴びた。その怒りが憲兵に伝わり、拳銃で射殺されたといわれてきた。
司祭館に入っていく憲兵服姿を聖堂の窓越しに見た目撃者がいたが、犯人は分からず、戦後十数年後、東京・吉祥寺教会に「私が犯人です」と名乗り出た男がいた。
しかし連絡を受けた東京大司教区は、事情も聞かず「赦(ゆる)します」と伝えて行方は分からない。
1944(昭和19)年の横浜教区長の着座式が、伊勢佐木町近くの若葉町教会(現・末吉町教会)で行われた。
その時、丸坊主となって現れた戸田師は、「私は、世界平和のため、日本のため、自分の命をささげます」と決意を語った。今、保土ヶ谷教会の聖堂脇には、この言葉を刻んだ小ぶりな石碑が立てられている。
戸田師は保土ヶ谷教会に司教座が移る前の5月1日から50日間、午前0時から2時間、ファティマの聖母への取り継ぎを願い、山手教会の聖母像にひざまずき「平和」への祈りをささげたという。
この間には死者1万人を出した凄惨(せいさん)な横浜大空襲もあった。この祈りを終えた後、「日本は8月15日の聖母被昇天の日に終戦を迎える」と預言したという。
封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声からの引用をご紹介します。
横浜教区長の戸田帯刀(たてわき)神父(当時47歳)があおむけに倒れ、遺体で見つかったのは、終戦3日後の45年8月18日夕刻だった。軍用拳銃のものとみられる銃弾が頭部を貫通し、背後の窓ガラスを何枚も貫いて中庭に落ちていた。
「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」。戦時下の44年10月、教区長に就任した際、そうあいさつしたという。・・・
事件の約10年後、犯人を名乗る男がカトリック吉祥寺教会を訪れ、ドイツ人の神父に「悔いています」と言った。信徒らによる後の調査では、連絡を受けた東京大司教区は当時、元憲兵と思われるこの男から事情を聴くことも、警察に届けることもしなかったとされる。
45年8月18日、土曜の午後だった。教会近くに住んでいた山本陽一さん(83)はふらりと家を出た。3日前に勤労動員先の工場で玉音放送を聞き、ようやく訪れた静かな日々だった。「教会の前の道に通りかかった時、『バーン』という鈍い音が聞こえたんです」。70年前の記憶をたぐり寄せるように証言した。
何の音だろうか。驚いて立ち止まると、カーキ色の軍服に戦闘帽姿の男が教会の門から出てきた。どんな顔だったかは思い出せない。男は慌てた様子もなく山本さんとすれ違うと、右に曲がり、歩いて姿を消した。教会で何が起きたのか。その日は分からなかった。
当時の信徒からの聞き取りによると、戸田帯刀(たてわき)・横浜教区長(当時47歳)が倒れていたのは司祭館1階の応接室。近くの柱時計は「午後2時40分」または「午後2時45分」で止まっていたという。逃走時に犯人が壁にぶつかり、止まったという説があり、黒い司祭服を着た戸田神父はその2-3時間後に遺体で見つかった。夕食の準備に訪れた賄いの女性が発見し、慌てて近所の信徒に知らせ、警察官が来た。
戸田神父は2階の寝室で昼寝をしていた形跡があり、犯人は客を装って訪問し、至近距離から発砲したとみられる。1発で頭部を撃ち抜いた手口から銃の扱いに慣れていること、さらに神父が一人になる昼食後に訪問していることから、周到な計画性もうかがわせた。中庭に落ちていた銃弾は軍用だったと伝えられる。
人の恨みを買うとは思えないカトリックの高位聖職者が教会内で射殺された異常な事件だった。だが、終戦間もない混乱の中、事件は報道されず、今となってはどのような捜査が行われたのかも不明だ。現場の応接室には長い間、厚いビロードのカーテンが引かれていたという。
戸田神父は1898年、山梨県北部の山あいにある西保(にしほ)村(現山梨市牧丘町)の養蚕農家に生まれた。6人きょうだいの5番目。今はブドウの名産地として知られるが、当時の村は貧しく、2人の兄は移民として米国とカナダに渡った。帯刀少年は体が弱く農業に不向きだったという。ただ、成績は優等で、高等小学校や教員養成所を卒業後、いとこを頼って上京し、開成中学に進んだ。
カトリックとの出合いは、いとこの家族と東京下町の本所教会を訪ねた3年の時。洗礼を受け、神学校を経て、関東大震災があった1923年にローマ・ウルバノ大学に留学した。5年後に帰国すると、大正デモクラシーは終わり、日本は激動の昭和に突入していた。
開戦4カ月後の42年3月、札幌教区長を務めていた戸田神父は北海道の特高警察に連行された。
その直前には、理事長を務めていたカトリック系の商業学校での軍事教練に消極的だとして、軍部から批判されてもいた。
2年後の44年10月、横浜教区長に転任。就任の式に現れた戸田神父は丸刈り頭で、出席者はその姿に目を見張り、覚悟を感じ取ったという。戸田神父は述べた。「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」
ある学者が、米国立公文書館で日本のカトリックに関する資料を探した際、戸田神父の名がある報告書を見たというのだ。試みにインターネットで氏名を入力し検索すると、容易に見つかった。米中央情報局(CIA)のホームページだ。「機密 大統領宛て文書 日本人交渉者」のカテゴリーに報告書はあった。
「タテワキ・トダは」で始まる報告書は45年4月11日、CIAの前身、米戦略事務局(OSS)の情報源が発信したものとしている。死の直前のルーズベルト大統領に届けられた。戸田神父が当時のローマ法王ピオ12世に宛て、終戦工作のための提言を送ったとする内容だ。戸田神父は法王に「太平洋戦争についての調停の試みを放棄していない」ことを昭和天皇へ伝えるよう求めたとされている。
ローマ法王を仲介した日米の終戦工作は、同年6月に米側から提案したことが明らかになっている。OSS文書が事実なら、工作はより早く、沖縄戦のさなかに始まっていたことになる。しかし、報告書は、戸田神父を「皇族の一員」と記載するなど、明らかに事実と異なる内容が盛り込まれていた。
情報源を示すコードネームは「ベッセル(船)」とある。ベッセルは、バチカンで活動していた米国のスパイのコードネームで、イタリア人記者ら複数の人物が関わったとされる。ベッセルの報告書には偽情報が多い時期があり、内容の信用度をめぐって論議を呼んできた。「戸田神父に宮中との関係がないなら(報告書は)虚偽だろう」。日本近現代史の第一人者、保阪正康さんは言った。
ただ、戸田神父は、皇室の侍従らと交流のあったドイツ出身のシスターと親しく、この人に遺書を託していたと伝えられる。また、ローマに留学経験があるとはいえ、バチカンでは無名の存在といえる戸田神父が、なぜOSSの諜報(ちょうほう)網にキャッチされたのかという疑問も残る。
報告書は虚偽を含むが、実際に戸田神父がバチカンに働きかけていた可能性はないのか。あるいは、工作活動は事実無根であったとしても、報告書の内容が日本の官憲に伝わり、何らかの意図によって事件につながった可能性はないのだろうか。
カトリック吉祥寺教会は戦後間もなく、東京都武蔵野市の緑豊かな街並みに建てられた。戸田神父の事件を調べている元毎日新聞記者で、カトリック信者の佐々木宏人さん(74)によると、射殺事件の約10年後、この教会を中年の日本人の男が訪れた。応対したドイツ人の神父に自分の名を告げ、「私が射殺した」と話したという。しかし、男は警察に通報されることもなく、姿を消した。
佐々木さんは6年前、カトリック吉祥寺教会に在籍していた神父に取材を試みた。ドイツ人神父の後任にあたる人物で、取材依頼の返信はがきにこう書かれていた。名乗り出た男について「元憲兵隊の横浜地区の人だと聞いております。私はその事実を確かめることなく過ごしております。何らの手がかりもありません」。便りの数年後、神父は亡くなった。
やはり憲兵の犯行なのか。保阪さんは「終戦直後の憲兵は戦争責任を恐れて混乱していた。3日後ならなおさらだ。しかし、憲兵が戦後に民間人を射殺したケースは聞いたことがない。推測だが、神父を生かしておくと都合の悪い、よほどの事情があったのだろうか」と話した。
保土ケ谷教会の聖堂わきに「世界平和のために働きます」と刻まれた石碑がある。戦時下の44年10月、教区長の就任の式で戸田神父が述べた言葉だ。石碑は主任司祭だったニュージーランド出身のバリー・ケンズ神父(83)が10年前に建てた。