ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

現代世界は、エルサレムから学ばなければならない。平和をもたらす天主イエズス・キリストを拒むと自業自得となることを。

2022年10月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



エルサレムよ!戦争の国か平和の国か
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年8月07日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、エルサレムの東にあるオリブ木の丘(ゲッセマネ園)に沿って歩き降りると、「Dominus Flevit」と呼ばれる小聖堂は建っています。そこは聖伝に従って本日の福音で思い起こされるように、イエズスは泣いておられた場所だとされています。

本当に小聖堂であり、中には聖壇があって、そして聖壇の後ろも壁に広い開きがあり、この格子窓からエルサレムの全貌が見られます。エルサレムへの展望台のように造られています。大昔に神殿のあった場所を中心に見えています。巡礼者はこの小聖堂に祈りに行ったらイエズスのようにエルサレムを見ながら祈ります。





そこでイエズスはエルサレムのために泣いておられました。泣いておられた日はエルサレムへの凱旋的な入場の日でした。枝の主日の際に祝われる出来事ですね。ゲッセマネ園から降りたイエズスを大衆が迎え入れます。大勢の人々はイエズスを迎えて、「陛下、万歳」というように、彼を王として仰いで、メシアが来たことについて喜び立ちます。
ご存じのように、人々は上着などを地面に敷いて、枝を切って手にして、歓呼しながらイエズスを仰ぎます。御受難の数日前の出来事です。

キリスト教徒ならイエズスという神人を礼拝しているので、泣いておられるイエズスを見て感動せざるを得ないのです。

なぜイエズスを礼拝するかというと、天主の御子であるので、信経にあるようにイエズスは「創られずにして生まれ給うた」として、天主と同質にして真の天主であるからです。そしてイエズスは同時に本当の感情をも持っておられて、それらの感情を見て、イエズスは同時に真の人でもあることが思い起こされます。

イエズスは真の天主であり、真の人なのです。このように、イエズスは泣いておられます。このように、イエズスは我々の人間性を共有しておられることが思い起こされて感動的です。

イエズスはエルサレムを見てなぜ泣きだされたのでしょうか。
福音では、他にもイエズスが泣いておられます。友人、ラザロの死の時にイエズスは泣きだされます。深い絆でラザロとの親友でしたので、イエズスはラザロの死を知って、ラザロの墓の前まで来たら、泣きだされました。要するに、人間にとって必ず悲劇となる死の前に、イエズスは泣きだされます。私たちも、みんな、例外なく、ある時、誰か大切な人の死の前にいると同じように。

今回、エルサレムをみてイエズスは泣きだされます。なぜでしょうか。故郷だからです。祖国だからです。
イエズスは天主でありながら真の人なので、イエズスには故郷があります。このように、人ならだれでも祖国、故郷をもって、祖国を愛する義務があります。

愛する兄弟の皆様、キリスト教徒にはそれぞれ、祖国、故郷があります。キリスト教徒は無国籍でありえないのです。普遍的な教会に属しているからといって、つまり「カトリック」として全世界へ広めるべき教会に属しているからといって、キリスト教徒は国際人でもなく、無国籍でもなく、グローバルな人ではありません。

キリスト教徒は自分の故郷を愛して、祖国を愛します。そしてこの祖国愛はよいことです。
もちろん、我が国は最高であるということになりません。またナショナリズム的に、傲慢になって自国が最高であると断定した上に、八紘一宇のような、万国無比なので全世界へ広めるべきだということは論外です。もはや祖国愛ではなく、傲慢的なナショナリズムになります。残念ながらも、このような過剰なナショナリズム、民族主義は歴史の中に、多くの弊害を及ぼして、大変な帰結を伴ったことは確認しやすいです。

祖国愛というのは、単純に生まれた土地、故郷を愛することであって、孝行の一種なのです。これ以上でも以下ではありません。
我々を産んでくれて、我々の存在を可能にした先祖への敬愛、育った故郷への感謝と愛なのです。

祖国愛は父母への愛とよく似ています。誰に聞いても自分の母が最高の母だと評価しているのは自然な気持ちです。また我が母を愛していて、全世界のすべての他の母を選べたとしても、我が母しか欲しくないというような気持ちがありますね。実際、客観的に見ても最高の母ではないとしてもです。しかしながら我が母であるので、母をどうしても大切にしたくなります。生んでくれた母なので、一生の恩人なのです。
祖国、故郷に対しても同じようなことです。

イエズスもこのように故郷を愛して、国を愛して、自分の民を愛しておられました。さて、イエズスは国のために、そして国の首都を見てなぜ泣いておられたでしょうか。



イエズスはご自分でその理由を述べておられます。エルサレムに向けて仰せになります。
「おまえが訪れの時を知らなかったからである」(ルカ、19,44)
イエズスの悲しみの理由は以上の通りです。

エルサレムは訪れの時を知らなかったからです。この「訪れ」はなんでしょうか。天主の訪れです。イエズスの御托身によって、天主の民への天主の訪れに他なりません。
しかしながら、「ホザンナ」という歓呼を浴びながら、その日は凱旋の日、喜びの日であるはずです。しかしながら、このような現世的な栄光の彼方までイエズスはお察しです。この世の栄光は変わりやすいく儚いものであるはよく知っておられます。たしかに、数日後、イエズスを仰いでいた同じ大衆は彼を罵って十字架につけよと要求することになります。

イエズスは天主であるので、未来を知っておられます。そして未来についてのご存知のことを述べておられます。エルサレムの破壊を述べておられます。神殿の破壊を述べておられます。またローマ人によって多くの破壊と死者を述べておられます。

ユダヤ人たちはその通り、後世になって、ローマ帝国に対して反逆した結果、報復としてエルサレムの神殿が破壊されました。紀元後70年になるので、イエズスのご死去とご復活の僅か40年後の出来事です。



ローマ軍はエルサレムを攻囲することになります。大変なことになりました。なぜなら、神殿の境内まで激しい戦闘となり、多くの死者が出ました。神殿のホロコースト祭壇の周辺まで戦闘は及び、ローマ軍は結局勝りました。そして、ローマ軍は神殿を完全に破壊しました。言いかえると、天主がおられた神殿は破壊されました。ユダヤ人が天主のまします場所としてお参りしに来たこの神殿は破壊されました。

また続きもありました。神殿が破壊されても、エルサレムはまだまだ存続しました。しかしながら、ハドリアヌス帝の代に、130年になって、エルサレムを復興させることを決めました。しかしながら、エルサレムの住人たちは異教徒の皇帝による復興を拒みます。

このように、ユダヤ人たちは一揆します。135年のBar Kokhba(バル・コルバ)の乱なのです。そして、この一揆はローマ軍によって厳しく鎮圧されて、多くの流血を伴いました。この一揆への報復として、エルサレムは壊滅されました。神殿が立った場所に、ユピテル神のための神殿が建てられました。最悪の冒涜ということです。最も聖域だったはずの場所、天主が礼拝されるはずの場所に異教が凱旋しているという惨事になりました。それだけではなく、エルサレムに住むユダヤ人たちは都市から追い出されました。また、ユダヤ人ならエルサレムに戻ることも移住することも禁じられました。

これらを知っておられたイエズスは泣いておられました。「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」(ルカ、19,42)と仰せになりました。

愛する兄弟の皆様、エルサレムという語源を辿ったら「平和の国」という意味です。イエズスはエルサレムに向けて、「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」と仰せになります。

平和をもたらすものというのは天主ご自身の訪れ、即ちメシアを認めて受け入れることなのです。「おまえが訪れの時を知らなかったからである」

そこに、因果関係があります。誤解しないでください。エルサレムはメシアを認めないでメシアの教えを拒んだゆえに、天主は罰をあたえたということではありません。いや、そうではなく、天主の御托身を拒んで、メシアの教えを拒んで、イエズスがもたらした真理を拒んだせいで、ユダヤ人たちは平和をもたらすすべてを拒んだということです。なぜなら、キリストの教えに従わなければ、本物の平和を享受できないからです。

そしてイエズスによって昇華、改革、完全化されたにもかかわらず、ユダヤ人たちは旧法を旧法のままに頑固にも固く捧げ続けてしまいます。この結果、ユダヤ人たちはある種の過激的なナショナリズム、民族主義になってしまいました。そして、この民族主義の結果、一揆を引き起こしたり反逆を犯したりしました。

そして、ご存じのように、ローマ帝国では、反逆、一揆のようなことになると、なかなか厳しかったわけです。ローマ帝国の権威に手を触れると、帝国の逆鱗に触れるようなことになります。ご存じのように、罪を犯したことによって罰せられます。天主を拒むのなら、天主ではない他の人々に渡されよう。彼らはおまえを酷く虐めるだろう。自業自得というような罰です。

愛する兄弟の皆様、このような自業自得の罰を現代で改めて考えるべき時代でしょう。

世界中の国々、社会は徹底的に天主を拒んでいます。天主の統治を仰ぐ国はもはやいません。あらゆる側面を見ても天主の統治を徹底的に拒まれています。いわゆる、自然法ですら拒まれて、自然次元ですら否定されているぐらいです。

キリストの国になることを徹底的に世界中で拒まれています。以上のようにキリストを拒みながら、「平和を確保しよう」とみんな、望んでいて、国々も望んでいます。残念ながら、このままでは平和を得ないでしょう。平和をもたらす原因、要件なるイエズスを拒んだら、平和を求めても無駄です。現代世界はこれで自業自得になるでしょう。平和の原因を拒んで、戦争しかならないでしょう。

現代世界を見たら、皆心配しているでしょう。世界中の戦争と不安定は懸念されています。そうでしょう。しかしながら、これらの戦争の原因は、石油でもなく、核兵器でもなく、ガスでもなく、人々は天主に対して反逆していることが原因です。人間は天主に対して反逆しているからです。

我々は天主の手に自分をお渡しすることを拒んだら、我々の敵らの手に渡されることになりましょう。

また、イエズスは神殿のために泣かれるのではなく、エルザレムのために泣かれます。なぜでしょうか。

当時、神殿でまだ有効に捧げられている生贄はあくまでも全人類のためのイエズス・キリストの真の犠牲の前兆に過ぎないからです。そのために泣かれるわけがありません。ですから、神殿が破壊されても悲しいことではありません。本物の生贄はイエズス・キリストの生贄なので、その再現なるミサ聖祭なので、そもそも旧約聖書の生贄はなくなる運命でした。我らの主イエズス・キリストの生贄の準備のためにだけありました。

また、世の終わりの時代になったら、御生贄(ミサ聖祭)の行使も廃止されるだろうと預言者はいっています。現代、教会内、どこでもどのレベルでも聖伝ミサに対して行われる激しい戦争はその預言を思い起こさずにいられません。

また、イスラエル国の事情をみてみると、神殿を再建する運動はどんどん活発になっていて、組織化されつつあります。神殿の再建は世の終わりの一つの兆しとしても予言されています。しかしながら、神殿の再建は実現しないでしょう。

ユリアヌス皇帝の時代を思い出しましょう。ユリアヌス皇帝は棄教者と呼ばれています。なぜなら、若いうちに洗礼を受けたにもかかわらず、信仰を捨てて異教を掲げたからです。4世紀中ごろです。前帝なら数人がキリスト教徒だったのに、ユリアヌスが即位すると、キリスト教を捨てて異教を復興することを図りました。

キリスト教の徹底的な排除を示すために、エルサレムの神殿の再建を実現させることにしました。このように工事は始まりました。しかしながら、完全に失敗となりました。土運び作業で挫折してしまい、逆に旧神殿の廃墟で残っていた礎は破壊されたぐらいでした。

そして、ユリアヌス帝は亡くなります。死ぬ直前にユリアヌス帝は次のように述べたとされています。もしかしたら実際に言っていないかもしれませんが、かなり代表的です。イエズスについて「ガリラヤ人よ、あなたが勝ったな」と。

天主を馬鹿にしたら大変なことになります。

エルサレムと神殿の破壊を見て、我らの主イエズス・キリストを通じてのみ救いがあると思い起こされます。この事実をよく考えましょう。思い出しましょう。

また勇気あれ!天主に忠実でいられ続けたら本物の平和を享受するからです。この平和は我々を永遠の平和のために心構えを助け、天主の内に永遠の平和へ導いてくれます。

そして童貞マリアの御取り次ぎに頼りましょう。天主は世界中の平和の確立のために聖母マリアに特別な使命を与え給うたのです。
償うために聖母マリアへの汚れなき心への信心を通してです。

今日から九日後、被昇天の祝日になりますので、今日から聖母マリアへのノベナがはじまりますが、ぜひとも、毎日、聖母マリアのために何か特別にお捧げしなさい。
聖母マリアを特に崇拝している人々、特に聖母マリアの祝日になる時、8月15日、それから8月22日(聖母マリアの汚れなき心祝日)にむけて聖母マリアへの信心を行うと、聖母マリアは我々罪人に特別な恩寵を与えてくださいますので、怠りなくそれを行いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。