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ミサ聖祭の本当の意味:カトリック司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではないーIn persona christi

2021年03月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十七講 ミサ聖祭という聖なる犠牲



ミサ聖祭という聖なる犠牲
Gabriel Billecocq神父

我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。前に一般的に犠牲とは何であるのか、犠牲の四つの目的は何であるのか、それから我らの主、イエズス・キリストの十字架上の犠牲はなぜ完全なのか、そしてどうやって旧約聖書の犠牲を廃止したのかを見てきました。そして、我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。

我らの主、イエズス・キリストはこの犠牲の犠牲者であり、同時に司祭であり、同時に犠牲の対象、捧げられる天主でもあります。
我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲を時間のうえで延長することになさいました。そうするために、ミサ聖祭という秘跡を制定なさいました。この秘跡は犠牲でもあります。

そして、ミサ聖祭は十字架上の犠牲の再現です。大事なのは、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一であって、もう一度起きるわけではありません。完全なる犠牲でしたので、もはや再び起きることはあり得なくて、唯一無二の犠牲です。前回見た通りです。我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一無二です。というのも、イエズス・キリストの司祭職は永遠であり、キリストは天主であるからです。十字架上の犠牲は完全です。というのも、キリストは完全なる犠牲者であるとともに、天主によって同意されている完全なる司祭でもあるからです。

同時に、人間はどうしても天主に犠牲を捧げようとする本性があります。善き天主は人間の本性を見守っておられます。従って、天主は人間が引き続き、天主への犠牲を捧げ続けるようにお望みになりました。しかしながら、完全な犠牲を捧げられることになさいました。そうするために、我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲が世々に至るまで延長することを可能になさったのです。

つまり、そうするために、ミサ聖祭を制定なさいました。ミサ聖祭はまさに十字架上の犠牲の再現です。ミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲の延長です。我らの主がご自分の犠牲を世々に至るまで延長されたのも、人々が十字架上の犠牲を引き続き天主に捧げられるためです。つまり、十字架上の犠牲と同じ効果の犠牲になるためです。ミサ聖祭を捧げることは、イエズス・キリストの犠牲の再現なので、天主のお気に召された犠牲であり、天主の怒りを鎮められる犠牲ともなります。



そうするために、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいました。つまり、ミサ聖祭は単なる食事ではありません。単なる記念ではありません。単なる集会ではありません。ミサ聖祭は根本的に十字架上の犠牲の再現です。それは非常に大事なことです。ミサ聖祭は犠牲である本質を否定したら、秘跡を否定することになり、犠牲を中心にする宗教の本質を否定することになります。ですから、注意しましょう。

言いかえると、より神学的な定義でいうと、ミサ聖祭は我らの主、イエズス・キリストの十字架上での流血を伴わない犠牲の再現です。言いかえると、ミサ聖祭は十字架上の犠牲を再現します。あるいは現代において十字架上の犠牲を改めて実現する犠牲です。ただ、流血を伴わないということで、神秘的な形で再現されます。あるいは秘跡という形で再現されるともいわれます。なぜでしょうか?

十字架上の犠牲の再度の実現は目に見える印を通じて行われているからです。ミサ聖祭の目に見える印とは祭壇上のパンと葡萄酒の聖変化ですが、今、目に見えない現実、十字架上の犠牲を祭壇上に再現するための秘跡です。

要するに、一度だけ、十字架上で行われた犠牲の執り行い方こそ違いますが、捧げられる犠牲は同じであるということです。
ミサ聖祭は十字架上の犠牲そのものです。ミサ聖祭という聖なる犠牲において、十字架上の犠牲のすべての要素と効果を持っています。全くの一致です。ミサ聖祭という聖なる犠牲は十字架上の聖なる犠牲と同じ現実です。

さて、犠牲になるための要件を思い出しましょう。奉献、破壊、拝領という三つの要件があります。十字架上の犠牲の際、我らの主がご自分を捧げるというのが奉献です。そして、犠牲者の破壊は我らの主が死に給(たも)うたときです。受難の間、我らの主の御体から流れる御血こそが御死を一番あらわしています。死は身体と霊魂の離別を意味しますので、それを一番あらわしているのは身体と血が別々になるという血が流されることでしょう。

このように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいましたが、犠牲であるミサ聖祭において、十字架上の犠牲のすべての要素が含まれています。ただし、ミサ聖祭の場合、我らの主、イエズス・キリストはご自身を捧げ給うのですが、パンと葡萄酒の外観の下に捧げ給うことになさいました。玄義はそこにあります。まさに真の玄義です。

従って、ミサ聖祭の際、天主の怒りを鎮めるために、犠牲者を生贄にして司祭によって捧げ、そして拝領します。
犠牲者はあります。十字架上の犠牲者は本来の個別の御体をもったイエズス・キリストです。それは目に見える形で捧げられました。祭壇において、イエズス・キリストは現存しておられます。しかしながら、パンと葡萄酒という形色の下に、本質的な形で現存しておられるということです。これこそがミサ聖祭の玄義であって、そこにおいてこそ、犠牲は秘跡となります。

以前に見たように、ミサ聖祭という秘跡は目に見える、物質的なパンと葡萄酒という外観の下に、我らの主、イエズス・キリストの目に見えないご現存を実現する秘跡です。これは以前に見た定義ですね。そこにこそ、秘蹟と犠牲はつながっています。パンを指すために、ホスチアといわれることもありますが、ホスチアの意味は「犠牲者・生贄」という意味です。



要するに、ミサ聖祭の際、我らの主、イエズス・キリストは祭壇の上にご現存しておられます。身体を持った形でおられるのではなくて、パンと葡萄酒の外観の下で本質的な形でおられるということです。しかしながら、パンと葡萄酒の外観に過ぎなくて、ご聖体になった途端、我らの主、イエズス・キリストご自分自身となり、現存しておられます。現に、実際に、祭壇におられます。これは大事なことです。現実であって、実際に、十字架上の犠牲は今まさに目の前に再現されて改めて実現されているということです。

要するに、ミサ聖祭においては、十字架上の犠牲とのミサ聖祭の犠牲は同じ犠牲者です。同じく現におられる犠牲者です。十字架上なら、身体を以て。ミサ聖祭なら、本質をもって。

それから、生贄として犠牲を捧げて、犠牲者を破壊するということでもあります。十字架上の犠牲だというとわかりやすいですね。ご受難という非常な苦しみの結果、流血が伴い、そして生贄の破壊は十字架上の死で果たされました。言いかえると、ご霊魂と御体は離別した時、犠牲者の破壊は果たされます。

ミサ聖祭においても生贄の破壊は行われます。しかしながら、身体を以てではなく、パンと葡萄酒の外観の下にご現存しておられると同じように、秘蹟的な形でこの破壊は行われています。どういうことでしょうか?

十字架上と違って、祭壇上の破壊は流血を伴わないで苦しみを伴わないのです。要するに、ミサ聖祭の際、十字架上のように我らの主、イエズス・キリストは苦しまれていません。しかしながら、ミサ聖祭の際、御体と御血は離れる時があって、これは秘跡的な破壊となります。ですから、ミサ聖祭において、聖変化は二つあります。第一、パンを御体へ。そして葡萄酒を御血へ。この二重の聖変化は御血と御体の離別という現実を示し、十字架上の生贄の破壊を示しています。これは秘跡的な生贄の破壊を意味します。

ですから、この二重の聖変化は非常に重要です。この二重の聖変化がない限り、犠牲として成り立ちません。生贄にして犠牲を捧げるためには、生贄を破壊するという前提があるので、御血と御体の離別があってはじめて犠牲として成り立ちます。パンと葡萄酒は別々にあるという意味はそこにあります。犠牲だからです。犠牲者の破壊を示すのです。そこは秘跡になります。つまり、身に見える形で(パンと葡萄酒の別々の聖変化)十字架上の御死という現実を題壇上の再現という目に見えない実際にある現実を示します。



というのも、聖変化のあと、我らの主、イエズス・キリストはパンと葡萄酒の外観の下で双方に実際に現にご現存しておられますので、十字架上の犠牲は本当の意味で再現されます。もちろんこれは理性を越える玄義ですが、非常に重要な玄義です。そこにおいてこそ、ミサ聖祭の意義があります。

十字架上の犠牲とミサ聖祭の犠牲は全く同じです。形だけは違います。前者は流血を伴うが、後者は流血を伴わない。前者は実現された犠牲であり、後者は再現される犠牲です(十字架上の犠牲は唯一なので)。前者は目に見える形であり、後者で身に見えない形です。前者は身体を以て現実にあって、後者は秘跡を以て現実にあります。ということです。

ミサ聖祭は玄義中の玄義です。祭壇の上に、我らの主、イエズス・キリストはご自分をご自分自身によって捧げ給い続けることになさっています。
以上はミサ聖祭の中心である聖変化、犠牲を実現する中心部分でした。生贄の破壊を再現する部分です。

そして、犠牲が成り立つためには、「捧げる」ことが必要なので、司祭が執り行うことが要件ですね。十字架上の犠牲の際、司祭は我らの主、イエズス・キリストご自身です。永遠なる真の司祭なるイエズス・キリスト。

祭壇上の犠牲の際、イエズス・キリストは代理人をお選びになって、ご自分の持っておられる全権を代理人に託すことになさいました。
ですから、聖変化の時、司祭は「In persona christi」として犠牲を捧げると言われています。つまり、キリストご自身にして犠牲を捧げるという意味です。つまり、聖変化の時、司祭は自分の人格を完全に失うかのように、我らの主、イエズス・キリストは司祭を完全に任じる形で、イエズス・キリストが捧げ給うように司祭に任じられたことになります。言いかえると、聖変化の時、イエズス・キリストは司祭の代わりに、司祭の体を借りて、犠牲を捧げ給うことになります。



これこそ、司祭の立派なところです。つまり、イエズス・キリストの全くの道具となります。自分の名においては何もせず、イエズス・キリストを捧げ給うのです。また、あと後述しますが、犠牲の執り行いと司祭職とは密接につながっています。ミサ聖祭の時の司祭は「Alter christus」で代わりのキリストとなっています。

そして、最後に、十字架上の犠牲が捧げられた第一の目的は天主の御怒りを鎮めるためです。で、そのおかげで、全人類のために効果を表しました。同じように、ミサ聖祭は天主の御怒りを鎮めて、参列して拝領している人々へその効果をもたらします。

十字架上の犠牲の際、我らの主、イエズス・キリストは無限の功徳を得られて、全人類の救霊を得られる無限の功徳を得しめ給いました。我らのために。祭壇上の犠牲の際、十字架上で得られた功徳は霊魂たちに分配されています。ですから、実際に救霊を得るためには、ミサ聖祭の犠牲と一致する必要があります。言いかえると、十字架上の犠牲と一致する必要があります。そうすることによって、十字架上に得られた救霊のための功徳の効果を頂けます。

以上,ミサ聖祭の犠牲を紹介しました。繰り返しますが、十字架上の犠牲は苦しみと身体を以て、流血の結果に、死に給うことをもって遂げられた犠牲となります。ミサ聖祭の犠牲は二つの聖変化によってとげられる犠牲の再現です。で、十字架上の犠牲の時、我らの主、イエズス・キリストによって得られた功徳をミサ聖祭の犠牲はこれらの功徳を分配し、割り当てます。そして、これらの功徳は余るほどあふれているので、ミサ聖祭の犠牲の効果は無限で限りないということになります。



また、今度ご紹介しますが、新しいミサと司祭職については、もう、お気づきだと思います。新しいミサにおいて、何もかも非神聖化されたし、犠牲のすべての要素は見えないようにされていて取り消されています。奉献、生贄の破壊、天主の怒りを鎮めることなどなど。

悲しいことに、新しいミサを行ったせいで、天主の怒りを招いた司祭はどれほどいるでしょう。間違いなく、神聖中の神聖なる営みを非神聖化することは大きな責任を伴います。つまり、ミサを人間レベルに引き落として、十字架上の犠牲との一致、一体化のすべてを取り消し、どれほど信徒の霊魂への弊害があるかは見えてきたと思います。我らの主、イエズス・キリストを侮辱するようなことです。玄義中の玄義はむやみに変更して操る事柄ではないわけです。

以上は、ミサ聖祭という聖なる犠牲をご紹介しました。
そして、前の講座も含めて、犠牲の定義、それから十字架上の犠牲の完全性を理解することによって、ミサ聖祭の犠牲が何であるかをより理解していただければ何より幸いです。また、どれほど大事な秘跡であって、どれほど、我々がミサ聖祭を中心にすべきか、または司祭の存在理由はひとえにミサ聖祭にあるのかが見えてきたでしょうか?
司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではなく、天主に犠牲を捧げるためにあって、天主の御怒りを鎮めるためにあります。司祭は「In persona christi」として犠牲を執り行います。そして、それを実施してはじめて、司祭は天主のお恵みを多くの霊魂に分配して及ぼすことができます。



では、現代では一体なぜ天主はまだ具体的に手を出さないで、罰を受けるべき多くの人々に天罰をまだ下っていないでしょうか?聖伝のミサ聖祭が引き続き挙行されているからこそ、天主の御怒りを鎮める効果はいまだに続いているからでしょう。
ある意味で、現代の堕落をみて、現代の醜い罪を見て、これでも天主の御手を止められるミサ聖祭の効果がどれほどあるかが評価できると思います。

最後に自覚しましょう。ミサ聖祭こそが我々の人生の中心になるべきです。なぜでしょうか?ミサ聖祭の時、拝領すると、我らの主、イエズス・キリストの犠牲に一体化、一致させられるからです。その結果、犠牲に伴う恩恵は我らの霊魂に流れ込むことになります。


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