白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教
教会統一、教会一致というもの
2021年06月06日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日のミサ、御聖体の祝日のミサの密唱をもって、教会はこのように我々を祈らせます。カノンひいて奉献部の前の祈りです。「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」
以上の祈りにおいて、教会は一つの真理を示します。ご聖体と教会の一致とは密接に結びついているという真理です。
さて、教会の一致についてまずひとこと、言っておきましょう。以上の祈りの綴りは誤解を招きかねないので、改めて注意していただきたいという点です。つまり、教会の一致は成し遂げるべきことではなく、すでに現実に教会は一致しているという事実があります。現代は皆、「教会の一致を成し遂げよう」とよく言われているのは要注意です。というのも、教会の一致はすでに存在していて現にあるからです。
教会の一致の礎は信仰なのです。信仰が一致しているから、教会は一致しています(注・信仰とは信経の信条という客観的な中身を指し、気持ちとか感覚とか慣行とかではありません)。それから、教会の一致はさらに秘蹟において発展して、秘蹟が時代と場所を問わないで一致することから、教会が一致しています。また、教会の一致は動因をも持つのです。教会の一致の動因は、信仰と秘蹟を守る権威者、教皇にあるのです。
以上の祈りのように、我らの主に「一致の賜物」を希うことがあります。その意味は要注意です。我々が一致の賜物を希う時、「一致するように」願うのではないわけです。すでに教会が一致しているからです。いや、その時、教会の一致が増えるように、その賜物が多くなるように願うわけです。

このような祈りをするのがよいです。教会の一致を増やすということは、まず外延的な意味で願います。つまり、地理的な意味で、全世界、全霊魂へまで、教会の一致が広がるようにということです。具体的には、宣教活動によって、教会に属しない人々が教会に入るチャンスを与えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はこれに他なりません。つまり、宣教、伝道です。つまり、まだカトリックではない霊魂たちがカトリックになるようにつくすということです。
つまり、教会の一致に貢献するというのは、現代風にいったら、諸宗教の間に話しあい、最小限の同意を求めていることではないのです。カトリックとプロテスタントとがそれぞれ何も変わらない共存するための努力ではないのです。
いや、教会の一致のために貢献するというのは、分離あるいは異端誤謬において迷っている霊魂たちを、すでにある教会の一致に迎えるということです。または、イエズスの名を知らない異教徒の霊魂たちを教会の一致に迎えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はそれです。教会の一致をなるべく広く届けて、なるべくより多くの霊魂たちに届けていくように尽くすということです。
我々、一人一人としても、教会の一致を増やす義務があります。いわゆる、自分の内面、心において、教会の一致を増やすために、信仰と愛徳の実践を強化することに尽くすという意味です。
いと愛する兄弟の皆様、このように教会はわれわれに求めています。教会の一致の賜物を給うようにと祈るのは、我々の内面において教会の一致が強化されるように、また外で、外延的に広まるようにという二つのことです。全世界の霊魂まで教会の一致を届けるように。また我々一人一人の霊魂において教会の一致は深まり強化されるように。このように我々はより完全にイエズス・キリストと一致して、深くつながるように。
しかしながら、密唱に戻ると、追加の文章があります。
「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」

「この供物に神秘的にかたどられている一致」です。
聖トマス・アクイナスもよく思い起こした真理で、教会はいつも思い起こす大事な真理です。ご聖体こそ教会の一致を象るという真理です。聖なる御聖体こそ教会の一致を象るのです。ちなみに、「秘蹟・サクラメント」という言葉の言語上の意味は「象り、象徴」という意味です。つまり、御聖体は「一致の秘蹟」だといえます、つまり一致の象りなのです。これはどういう意味でしょうか?つまり、御聖体はしるしであって、物資的に霊的な現実を表すもので、教会の一致を具現化しているということです。
具体的にいうとどういうふうに、御聖体において教会の一致が象られているでしょうか。聖トマス・アクイナスの説明を要約すると、小麦の種々をあわせて挽いて、一つのホスチア(パン)となります。つまり、もろもろの種から、一つだけのホスチアになると。ブドウ酒も同じです。多くのばらばらのブドウの実から一つ、一体をなす葡萄酒になります。このように教会の一致は物質において象られています。霊的な意味でいうと、教会の構成員である信徒、我々はバラバラな個人から、ホスチアあるいは葡萄酒のように、洗礼によって一致することとなります。聖パウロもこのことを書簡において語ります。
皆、それぞれ違う個人ですが、共同の言動と目的において、教会の一致を具体的に表すことです。つまり、教会の一致は、信者たちを結び合い、統合する信仰と愛徳の実践において、同じ典礼に与ることにおいて具体的に実現します。ですから、皆、個人として個性は保たれていながら、教会の一致は具現化します。皆、同じ御身である教会に属して、同じ心、イエズスの心に倣うのです。聖パウロが言われるように、「体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ人への手紙、4,1-6)
以上のとおり、御聖体は教会の一致を象るのです。しかしながら、象りだけではなく、御聖体は秘蹟でもあるので、御聖体は教会の一致の動因でもあります。というのも、秘蹟において、しるしにおいて、常に二つの現実が一致して存在します。感知できる物質的なしるしは霊的な現実を示すだけではなく、秘蹟はその霊的な現実を起こします。
例えば、洗礼の時、水を注ぐというしるしは、「清め」を示します。それは一般的に、多くの異教でも見られて、水は体などを清めるわけです。それは物質的なしるしですが、洗礼において、この物質的なしるしは霊的な現実、つまり、霊魂の清め、霊魂の禊ぎを象るのですが、かたどるだけではなく、秘蹟の際、実際、水を注ぐことによって、霊魂は清められるわけです。洗礼という秘蹟は霊魂の清めの動因でもあります。繰り返すと、洗礼において、水は禊ぎのしるしとなって、霊魂の禊ぎを物質において象るしるしですが、同時に、霊魂の清めを興し、霊魂の清めを成すという意味で、霊魂の清めの動因ともなります。すべての秘蹟はつねにこのようになっています。秘蹟の定義です。

ですから、同じように御聖体は教会の一致の象りであると同時に、教会の一致の動因でもあります。教会の一致の動因は御聖体においてあります。なぜでしょうか?
第一、御聖体というのは、我々に与えられている主イエズス・キリストだからです。ご現存ということで、御体、御血、ご神聖、ご霊魂とともに、イエズス・キリストは完全に我々に御聖体においてご現存しておられて、信徒たちに与えられています。
というのも、イエズス・キリストこそカトリック教会の一致の礎、原因、動因であるからです。イエズス・キリストの神秘体である教会の一致はそもそもイエズスによってこそ存在しているわけです。イエズス・キリストの御体は教会であって、またイエズス・キリストは教会という御体の頭なのです。そして、教会という神秘体はイエズス・キリストの生命で生かされているわけです。聖寵という生命力です。それによってだけ、教会は生かされて、また、それによってこそ、イエズス・キリストは教会の一致を成し給うのです。
また、イエズス・キリストは聖父への唯一なる御取り次ぎの者であり、つまりこの上なく至上の司祭なるイエズス・キリストだからこそ、我々のために天主の御慈悲を給い、天主に返すべき栄光や正義を十字架によって全うしたイエズス・キリストは我々の罪を贖い給うのです。イエズス・キリストは唯一なる御取り次ぎ主なので、この意味でも教会の一致の動因ともなっています。いと愛する兄弟の皆様、聖父への取り次ぎ主であるということは、司祭であるということです。イエズスご自身は生贄になり給うたので、司祭としても、この供え物を我々のために代わりに捧げ給い、これによって我々のために聖父から多くの恵みを得しめ給います。そして、イエズス・キリストは唯一なる司祭であるとして、教会の一致を本当の意味で成し給っています。
同時に、イエズス・キリストご自身は唯一なる供え物であるから、生贄という意味のホスチアであるので、イエズスは唯一の効力のある供え物を捧げ給うことによって、天主の御怒りを鎮める唯一なる生贄なのです。これは生贄の再現であるミサ聖祭でもあります。贖罪のための生贄なのです。イエズスのみ、天主が召す唯一なる生贄になります。イエズスは生贄を捧げ給うことによって、教会の一致を成し遂げて、それを毎日、御聖体である、聖なる生贄であるミサ聖祭で再現することによって、教会の一致を実現しています。

ミサ聖祭において、司祭なるイエズスは人の司祭の手を通じて、生贄を捧げ給うからです。人が生贄を捧げるのではなく、イエズスご自身こそが捧げるわけです。そして、捧げられる生贄はホスチアなるイエズスご自身です。だからこそ、ミサ聖祭はそれほど聖なる行いです。だからこそ、御聖体であるミサ聖祭はこの世において、教会の一致の源なのです。またミサ聖祭によってこそ、地上では、天にいる聖人たちと煉獄の霊魂とともに、教会の一致を実現させます。また、ミサ聖祭において、御聖体において、聖体拝領をすることによって、イエズスご自身は我々一人一人へご自分を与え給います。
また、聖体拝領によっても、我らの主は教会の一致を実現させています。なぜでしょうか?聖体拝領こそはイエズスの御愛を示し、つまり愛の秘蹟だからです。言いかえると、愛徳の秘蹟なのです。天主において愛とも愛徳とも全く同じことです。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りたら、愛徳こそは「Concretiva et unitiva」なる御力です。愛徳こそは統一の種であるのです。愛徳こそは霊魂たちを統一するわけです。愛徳こそはそれぞれの心と理性を統一しています。愛徳こそはそれぞれの意志を統一します。愛徳の具体的な成果は、現に実る成果はその統一にあるのです。
そして、御聖体の秘蹟において、我々のためにご自分を与え給うイエズスはこの上なく愛徳の実践であるのです。愛の秘蹟なのです。また、我らの主、イエズス・キリストはご自分の愛を我々に与え給います。我々の霊魂と心へ愛徳を注ぎ給うことによって、愛徳によっての天主との一致を実現させて、そしてさらに、信徒たちの間にも一致を成し遂げ給います。というのも、教会の一致は愛徳の絆に帰するからです。そして、信徒たちの間の一致も愛徳に帰するからです。
このように、我らの主、イエズスは御聖体において、パンとブドウ酒と物質において教会の一致の象りであると同時に、御聖体の秘蹟の両面となる聖なる生贄と聖なる拝領において教会の一致の動因でもあります。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、御聖体はどれほど偉大なる秘蹟であることを知りなさい。また御聖体を攻撃すると必ず教会の一致を攻撃することも知りなさい。ですから、御聖体であるミサ聖祭の典礼を変えてしまうということは、あえていえば教会の一致を変質させてしまったのです。このように、1969年、ミサ聖祭の典礼が変わってしまったせいで、教会の一致の意味も変わりました。ですから、我々はこれらの誤謬を受け入れるわけにはいきません。新しく間違った教義を運ぶ新しいミサを受け入れることはできません。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々は何よりも永遠のミサ聖祭を守って保つのです。このミサ聖祭こそは天主との我々の一致を実現させるだけではなく、教会の一致をも成し遂げます。
いと愛する兄弟の皆様、また、教会の一致以上に、聖伝のミサ聖祭は我々の家族、共同体、小社会の一致をも成し遂げます。家族全員で、ミサ聖祭に与って聖体拝領を受けて初めて、家族としての生命の一致と統一を得ます。同じように、本物の秘蹟である婚姻の秘跡も御聖体においてこそ、婚姻の秘蹟上の聖寵を常に得られます。
またそれぞれの社会、つまり、小教区、村、国、国家でも、社会としてミサ聖祭に与って国王が聖体拝領してはじめて、国の本物の一致と統一、また本物の平和が実現します。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、カトリック信徒なら、御聖体を礼拝して、御聖体に返すべき栄光を行為で表すことは義務です。特に、御聖体の祝日なので、人の前で、公に、外での行列をもって御聖体を礼拝することは信徒としての義務です。
また、注意していただきたいと思いますが、ミサ聖祭と聖体拝領は信徒個人としての義務だけではないわけです。政治上の義務です。公けのための義務です。天主に対して果たすべき義務です。良心も命じる義務です。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我らの主に値する名誉と栄光を荘厳に正しく返して果たしましょう。礼拝において、典礼においても。また公に、人の前で、カトリック信仰を広く遠慮なく示していきましょう。社会全体が回心するように信仰告白しましょう。それは、自分自身だけの霊魂の救いのためだけにやるべきではありません。非常にエゴイズム的になるからです。全社会、全共同体のためにです。というのも、我らの主、イエズス・キリストは教会の一致であるだけではなく、国家、もろもろの社会の本物の一致の種でもあります。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
***
参考:集祷文「奇(くす)しき秘蹟において、御受難の記念をわれらに残し給うた主よ、願わくは、われらに、御身のあがないの効果を知らせ、深い敬虔の念をみって、御体と御血の奥義を尊ばせ給え。」
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教
教会統一、教会一致というもの
2021年06月06日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日のミサ、御聖体の祝日のミサの密唱をもって、教会はこのように我々を祈らせます。カノンひいて奉献部の前の祈りです。「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」
以上の祈りにおいて、教会は一つの真理を示します。ご聖体と教会の一致とは密接に結びついているという真理です。
さて、教会の一致についてまずひとこと、言っておきましょう。以上の祈りの綴りは誤解を招きかねないので、改めて注意していただきたいという点です。つまり、教会の一致は成し遂げるべきことではなく、すでに現実に教会は一致しているという事実があります。現代は皆、「教会の一致を成し遂げよう」とよく言われているのは要注意です。というのも、教会の一致はすでに存在していて現にあるからです。
教会の一致の礎は信仰なのです。信仰が一致しているから、教会は一致しています(注・信仰とは信経の信条という客観的な中身を指し、気持ちとか感覚とか慣行とかではありません)。それから、教会の一致はさらに秘蹟において発展して、秘蹟が時代と場所を問わないで一致することから、教会が一致しています。また、教会の一致は動因をも持つのです。教会の一致の動因は、信仰と秘蹟を守る権威者、教皇にあるのです。
以上の祈りのように、我らの主に「一致の賜物」を希うことがあります。その意味は要注意です。我々が一致の賜物を希う時、「一致するように」願うのではないわけです。すでに教会が一致しているからです。いや、その時、教会の一致が増えるように、その賜物が多くなるように願うわけです。

このような祈りをするのがよいです。教会の一致を増やすということは、まず外延的な意味で願います。つまり、地理的な意味で、全世界、全霊魂へまで、教会の一致が広がるようにということです。具体的には、宣教活動によって、教会に属しない人々が教会に入るチャンスを与えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はこれに他なりません。つまり、宣教、伝道です。つまり、まだカトリックではない霊魂たちがカトリックになるようにつくすということです。
つまり、教会の一致に貢献するというのは、現代風にいったら、諸宗教の間に話しあい、最小限の同意を求めていることではないのです。カトリックとプロテスタントとがそれぞれ何も変わらない共存するための努力ではないのです。
いや、教会の一致のために貢献するというのは、分離あるいは異端誤謬において迷っている霊魂たちを、すでにある教会の一致に迎えるということです。または、イエズスの名を知らない異教徒の霊魂たちを教会の一致に迎えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はそれです。教会の一致をなるべく広く届けて、なるべくより多くの霊魂たちに届けていくように尽くすということです。
我々、一人一人としても、教会の一致を増やす義務があります。いわゆる、自分の内面、心において、教会の一致を増やすために、信仰と愛徳の実践を強化することに尽くすという意味です。
いと愛する兄弟の皆様、このように教会はわれわれに求めています。教会の一致の賜物を給うようにと祈るのは、我々の内面において教会の一致が強化されるように、また外で、外延的に広まるようにという二つのことです。全世界の霊魂まで教会の一致を届けるように。また我々一人一人の霊魂において教会の一致は深まり強化されるように。このように我々はより完全にイエズス・キリストと一致して、深くつながるように。
しかしながら、密唱に戻ると、追加の文章があります。
「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」

「この供物に神秘的にかたどられている一致」です。
聖トマス・アクイナスもよく思い起こした真理で、教会はいつも思い起こす大事な真理です。ご聖体こそ教会の一致を象るという真理です。聖なる御聖体こそ教会の一致を象るのです。ちなみに、「秘蹟・サクラメント」という言葉の言語上の意味は「象り、象徴」という意味です。つまり、御聖体は「一致の秘蹟」だといえます、つまり一致の象りなのです。これはどういう意味でしょうか?つまり、御聖体はしるしであって、物資的に霊的な現実を表すもので、教会の一致を具現化しているということです。
具体的にいうとどういうふうに、御聖体において教会の一致が象られているでしょうか。聖トマス・アクイナスの説明を要約すると、小麦の種々をあわせて挽いて、一つのホスチア(パン)となります。つまり、もろもろの種から、一つだけのホスチアになると。ブドウ酒も同じです。多くのばらばらのブドウの実から一つ、一体をなす葡萄酒になります。このように教会の一致は物質において象られています。霊的な意味でいうと、教会の構成員である信徒、我々はバラバラな個人から、ホスチアあるいは葡萄酒のように、洗礼によって一致することとなります。聖パウロもこのことを書簡において語ります。
皆、それぞれ違う個人ですが、共同の言動と目的において、教会の一致を具体的に表すことです。つまり、教会の一致は、信者たちを結び合い、統合する信仰と愛徳の実践において、同じ典礼に与ることにおいて具体的に実現します。ですから、皆、個人として個性は保たれていながら、教会の一致は具現化します。皆、同じ御身である教会に属して、同じ心、イエズスの心に倣うのです。聖パウロが言われるように、「体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ人への手紙、4,1-6)
以上のとおり、御聖体は教会の一致を象るのです。しかしながら、象りだけではなく、御聖体は秘蹟でもあるので、御聖体は教会の一致の動因でもあります。というのも、秘蹟において、しるしにおいて、常に二つの現実が一致して存在します。感知できる物質的なしるしは霊的な現実を示すだけではなく、秘蹟はその霊的な現実を起こします。
例えば、洗礼の時、水を注ぐというしるしは、「清め」を示します。それは一般的に、多くの異教でも見られて、水は体などを清めるわけです。それは物質的なしるしですが、洗礼において、この物質的なしるしは霊的な現実、つまり、霊魂の清め、霊魂の禊ぎを象るのですが、かたどるだけではなく、秘蹟の際、実際、水を注ぐことによって、霊魂は清められるわけです。洗礼という秘蹟は霊魂の清めの動因でもあります。繰り返すと、洗礼において、水は禊ぎのしるしとなって、霊魂の禊ぎを物質において象るしるしですが、同時に、霊魂の清めを興し、霊魂の清めを成すという意味で、霊魂の清めの動因ともなります。すべての秘蹟はつねにこのようになっています。秘蹟の定義です。

ですから、同じように御聖体は教会の一致の象りであると同時に、教会の一致の動因でもあります。教会の一致の動因は御聖体においてあります。なぜでしょうか?
第一、御聖体というのは、我々に与えられている主イエズス・キリストだからです。ご現存ということで、御体、御血、ご神聖、ご霊魂とともに、イエズス・キリストは完全に我々に御聖体においてご現存しておられて、信徒たちに与えられています。
というのも、イエズス・キリストこそカトリック教会の一致の礎、原因、動因であるからです。イエズス・キリストの神秘体である教会の一致はそもそもイエズスによってこそ存在しているわけです。イエズス・キリストの御体は教会であって、またイエズス・キリストは教会という御体の頭なのです。そして、教会という神秘体はイエズス・キリストの生命で生かされているわけです。聖寵という生命力です。それによってだけ、教会は生かされて、また、それによってこそ、イエズス・キリストは教会の一致を成し給うのです。
また、イエズス・キリストは聖父への唯一なる御取り次ぎの者であり、つまりこの上なく至上の司祭なるイエズス・キリストだからこそ、我々のために天主の御慈悲を給い、天主に返すべき栄光や正義を十字架によって全うしたイエズス・キリストは我々の罪を贖い給うのです。イエズス・キリストは唯一なる御取り次ぎ主なので、この意味でも教会の一致の動因ともなっています。いと愛する兄弟の皆様、聖父への取り次ぎ主であるということは、司祭であるということです。イエズスご自身は生贄になり給うたので、司祭としても、この供え物を我々のために代わりに捧げ給い、これによって我々のために聖父から多くの恵みを得しめ給います。そして、イエズス・キリストは唯一なる司祭であるとして、教会の一致を本当の意味で成し給っています。
同時に、イエズス・キリストご自身は唯一なる供え物であるから、生贄という意味のホスチアであるので、イエズスは唯一の効力のある供え物を捧げ給うことによって、天主の御怒りを鎮める唯一なる生贄なのです。これは生贄の再現であるミサ聖祭でもあります。贖罪のための生贄なのです。イエズスのみ、天主が召す唯一なる生贄になります。イエズスは生贄を捧げ給うことによって、教会の一致を成し遂げて、それを毎日、御聖体である、聖なる生贄であるミサ聖祭で再現することによって、教会の一致を実現しています。

ミサ聖祭において、司祭なるイエズスは人の司祭の手を通じて、生贄を捧げ給うからです。人が生贄を捧げるのではなく、イエズスご自身こそが捧げるわけです。そして、捧げられる生贄はホスチアなるイエズスご自身です。だからこそ、ミサ聖祭はそれほど聖なる行いです。だからこそ、御聖体であるミサ聖祭はこの世において、教会の一致の源なのです。またミサ聖祭によってこそ、地上では、天にいる聖人たちと煉獄の霊魂とともに、教会の一致を実現させます。また、ミサ聖祭において、御聖体において、聖体拝領をすることによって、イエズスご自身は我々一人一人へご自分を与え給います。
また、聖体拝領によっても、我らの主は教会の一致を実現させています。なぜでしょうか?聖体拝領こそはイエズスの御愛を示し、つまり愛の秘蹟だからです。言いかえると、愛徳の秘蹟なのです。天主において愛とも愛徳とも全く同じことです。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りたら、愛徳こそは「Concretiva et unitiva」なる御力です。愛徳こそは統一の種であるのです。愛徳こそは霊魂たちを統一するわけです。愛徳こそはそれぞれの心と理性を統一しています。愛徳こそはそれぞれの意志を統一します。愛徳の具体的な成果は、現に実る成果はその統一にあるのです。
そして、御聖体の秘蹟において、我々のためにご自分を与え給うイエズスはこの上なく愛徳の実践であるのです。愛の秘蹟なのです。また、我らの主、イエズス・キリストはご自分の愛を我々に与え給います。我々の霊魂と心へ愛徳を注ぎ給うことによって、愛徳によっての天主との一致を実現させて、そしてさらに、信徒たちの間にも一致を成し遂げ給います。というのも、教会の一致は愛徳の絆に帰するからです。そして、信徒たちの間の一致も愛徳に帰するからです。
このように、我らの主、イエズスは御聖体において、パンとブドウ酒と物質において教会の一致の象りであると同時に、御聖体の秘蹟の両面となる聖なる生贄と聖なる拝領において教会の一致の動因でもあります。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、御聖体はどれほど偉大なる秘蹟であることを知りなさい。また御聖体を攻撃すると必ず教会の一致を攻撃することも知りなさい。ですから、御聖体であるミサ聖祭の典礼を変えてしまうということは、あえていえば教会の一致を変質させてしまったのです。このように、1969年、ミサ聖祭の典礼が変わってしまったせいで、教会の一致の意味も変わりました。ですから、我々はこれらの誤謬を受け入れるわけにはいきません。新しく間違った教義を運ぶ新しいミサを受け入れることはできません。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々は何よりも永遠のミサ聖祭を守って保つのです。このミサ聖祭こそは天主との我々の一致を実現させるだけではなく、教会の一致をも成し遂げます。
いと愛する兄弟の皆様、また、教会の一致以上に、聖伝のミサ聖祭は我々の家族、共同体、小社会の一致をも成し遂げます。家族全員で、ミサ聖祭に与って聖体拝領を受けて初めて、家族としての生命の一致と統一を得ます。同じように、本物の秘蹟である婚姻の秘跡も御聖体においてこそ、婚姻の秘蹟上の聖寵を常に得られます。
またそれぞれの社会、つまり、小教区、村、国、国家でも、社会としてミサ聖祭に与って国王が聖体拝領してはじめて、国の本物の一致と統一、また本物の平和が実現します。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、カトリック信徒なら、御聖体を礼拝して、御聖体に返すべき栄光を行為で表すことは義務です。特に、御聖体の祝日なので、人の前で、公に、外での行列をもって御聖体を礼拝することは信徒としての義務です。
また、注意していただきたいと思いますが、ミサ聖祭と聖体拝領は信徒個人としての義務だけではないわけです。政治上の義務です。公けのための義務です。天主に対して果たすべき義務です。良心も命じる義務です。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我らの主に値する名誉と栄光を荘厳に正しく返して果たしましょう。礼拝において、典礼においても。また公に、人の前で、カトリック信仰を広く遠慮なく示していきましょう。社会全体が回心するように信仰告白しましょう。それは、自分自身だけの霊魂の救いのためだけにやるべきではありません。非常にエゴイズム的になるからです。全社会、全共同体のためにです。というのも、我らの主、イエズス・キリストは教会の一致であるだけではなく、国家、もろもろの社会の本物の一致の種でもあります。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
***
参考:集祷文「奇(くす)しき秘蹟において、御受難の記念をわれらに残し給うた主よ、願わくは、われらに、御身のあがないの効果を知らせ、深い敬虔の念をみって、御体と御血の奥義を尊ばせ給え。」