ファチマの聖母の会・プロライフ

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私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?

2021年11月12日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教  
私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?
2020年11月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日の福音書は有名なるタレントの箴言です。一人は主より5タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の5タレントを得ました。また同じく、もう一人は主より2タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の2タレントを得ました。そして、最後の人は主より1タレントだけを頂いていたのですが、これを実らさないで「地下に隠しに行った」(マテオ、25、25)が殖やすことはなくて主によって罰せられました。

本日の祝日の聖人は、聖カルロ・ボロメアですが、このような聖人たちが聖人になったのは彼等が貰っていたタレント(才能、能力など)を実らせたからです。つまり、主より貰っている多くの物事を自分のものであるかのように自分の楽しみのために享受することに留まらなかった聖人たちです。彼等はそうするのではなくて、聖人たちは主より頂いたタレントを愛徳のためにあって、愛徳にために使わなければならないということを深く実感していました。また、主より頂いたタレントは共通善のために使われるべきであって、それらはつまり皆の善のため、そして間接的に自分の善のためにもなります。



頂いたタレントは種のようなものです。種を撒いていずれか収穫できるように働くことです。種を撒かないで、種を実らせないことはすべての種を失うことになります。頂いたタレントですら失うことになります。想像してください。畑でまくために種を貰った奉仕人がいるとしましょう。そして、種を撒かないで種を保留した場合、主人には収穫できない分、弊害をもたらすわけです。

聖人たちは頂いたタレントを倍にしたのですが、どうやってでしょうか?霊的な生命のために、自分のタレントを尽くしたことによってです。また、被創造物に留まらないで、常に創造主へ目を向けることによってです。また、物質的な物事よりも、霊的な事実へ向けたことによってです。移り変わる物事よりも、永遠に存在する事実へ向けたことによってです。この世に自分の持っていた財産を二倍にしたのです。あえていえば、天を得た上に、この世をも得た聖人たちです。地下に自分のタレントを隠すということはやはり、天を無視して、この世の物事ばかりを考えているようなことです。その結果、この世をも失うことになります。

これこそは現代の一番大きな間違いです。快楽主義な、物質主義的な現代は、過剰な個人主義に加えて、自分の持っているものごとを自分のものであるかのように、自分のためのみ使うように勧める現代です。愛徳を無視して、共通善のために一切働かないということを勧める現代です。「私の体は私の快楽のためにあり、好き勝手にやってもよいだろう」と言わんばかりの現代です。



しかしながら、これは間違っています。大いに違います。
いと愛する兄弟の皆様、我々は頂いたタレントとすべての物事の利用について、人生の間にすべての物事について、いずれ臨終の時に報告せざるを得ない時が来て、裁かれることになります。

そして、天国に多くの福者の霊魂を送ることを助けている霊魂たちは幸いあれ。多くの子供を設けてよきカトリック教育を与えるカトリック的な家庭なり、宗教生活を通じて、自己犠牲を尽くして、天主の贖罪に奉仕してなるべく多くの霊魂たちを奪還するための道具になることを択んだ修道院や司祭のような人々となり、このような人々はこの世における旅の間に多くの実りが生まれるように貢献したことは天においての報いとなり、栄光の冠になるということをよく知っています。このような働きのお陰で得た霊的な収入は想像を絶します。



逆に、地下にタレントを隠すということは、天主より頂いたタレントを天主のために使わないことにする態度です。また、この世のためにだけこれらのタレントを使う態度です。つまり、自分の頭や能力を天主に奉仕するためではなく、現世的なことのために使う態度なのです。
以上の態度は罪人の態度はでないのですよ。つまり、罪を犯そうとしている罪人より酷いです。タレントを地下に隠すのではなく、罪人はタレントを浪費するようなことと似ています。タレントを地下に隠す人は、あえて言えば怠慢の罪となります。つまり、善を成しうるのに、わざと善を成さないことにしてしまいます。怠けるから、善を成すのは難しいから、理由は多いでしょうが、洗礼者はイエズス・キリストを頂いているのに、霊的な生活を営むことを避けて逃げるような人です。

ですから、我々の救霊、また天での喜びはこの世での我々の人生のすべてを天主のために使うことにあることをよく自覚しましょう。それらはそれぞれの分において、天主に奉仕することにあります。我々は皆、違うタレントを頂き、それぞれ与えられる使命を果たすために十分にあるタレントなので、多かろう少なかろうとも、ともかく貰ったタレントを天主の聖寵に頼りながら実らせるように努めましょう。

一番大事なのは頂いたタレントの量ではありません。一タレントにせよ、五タレントにせよ、千タレントにせよ、それは問題でありません。また、我々、カトリック信徒はどれほど多くの秘跡に与ったことがあるだけを考えても、どれほど多くの恵みを頂いているのかは自明でしょう。

一番大事なのは、常に、天主より頂いたすべて、つまり人生のすべてを天主のために奉献して捧げることにあります。ですから、働きの偉大さよりも、自分なりの力で、天主のために使おうとする清い意志の方は報われるわけです。
聖カルロ・ボロメアはその意味で、全力を尽くして、献身して愛徳の模範となっています。ミラノのペストの時、聖カルロ・ボロメアは病人を訪れて、すべての教会と家を訪れました。このようにこの世のタレントを使い、天のタレントを得ていきました。多くの霊魂ためにも自分の霊魂のためにも多くの恵みをもたらした犠牲と働きでした。



現代の流行っているコロナウイルスという名目で、教区の司祭たちにミサを捧げるな、と、あるいは秘跡を授けるな、告解を聴くな、と命令する司教たちは禍なこと!
残念ながら、このようなとんでもない指示は本当にあって事例があります。例えば、ニュージーランドのウエリントンWellington司教はこのような指示を出しています。彼は外出自粛の間に、教区の司祭にミサを捧げること、また告解を聴くことを禁じました。
使徒、聖パウロは次のことを言っていたのではないでしょうか?「ああ、私が福音をのべないなら、禍なことだ。」(コリント人への第一の手紙、9、16)ですから、地下にタレントを隠す聖職者たちは禍なことです。残念ながらこのようなことをしていると、すべてのタレントを失い、すべてを失うことになります。

そして、無駄にされたタレントは彼等から奪われて、すでにタレントを倍にした人々に与えられます。言いかえると、天主のために働けば働くほど、溢れるほどにどんどん天主の聖寵は与えられていきます。イエズス・キリストの仰せのとおりです。「持っている者は与えられてますます豊かになるが、持たない者は持っているものまで取られてしまう。」(マテオ、13、12)
ですから、このように、悪を成さなくても、「タレントを地下に隠した」者、つまり良い働きを成さない者に対する罰が厳しかったら、「タレントを浪費した」者、つまり罪を犯す者に対する罰はどれほど厳しいか垣間見えるでしょう。

そして、最後に聖オストルモワンヌAustremoineについて触れたいとおもいます。この聖人はフランス領地、ニューカレドニアの守護聖人であり、ニューカレドニアの信徒たちは聖ニコラ教会のミサを見ていることを知っています。聖オストルモワンヌAustremoineは三世紀の末あたり、フランス本土のオーヴェルニュAuvergne地方に伝道するために教皇から送られた聖人です。そして、クレモン教区の当初司教です。では、なぜ、ニューカレドニアの守護聖人になっているでしょうか?
ニューカレドニアへ最初、伝道した宣教師たちはマリスト修道会でしたが、リオンからきて、聖Austremoineを特に崇拝していたことから来ます。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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