マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

年末大処分その2

2019-12-27 | 日々の暮らし
昨日に引き続き、不要なモノの処分をしました。
今回は、写真や記念号といった特別な冊子などと、写真等を保管していたアルバムの処分です。

家族以外の写真を処分(一部保管)
まずは、以前から着手したいと思っていたけれど、枚数が多く一度に捨てると重たすぎるので、先延ばしにしてきた写真を整理しながら、処分です。

処分した写真は、

 ・国内旅行をした際の風景写真
 ・父が残していた風景などの写真
 ・購入した写真(アーティスト、タレント、スポーツ選手など)
 ・自分で撮影したスポーツ選手の写真

家族や親族の写真は、まだ保管しておきます。
理由は、母がいつ思い出して「あの写真はどこへ行った?」と聞いてこないとも限らないから(苦笑)
普段はすっかり忘れているくせに、ある日はっきりと思い出してきますので、用心のために保管しておきます(笑)

また、一部のお気に入り写真は、まだ残すことにしました。
購入した写真については、購入後にサインをいただいたモノだけ。
自分で撮影したスポーツ選手の写真は、よく撮れているモノを。
国内旅行の風景写真は、ネットできれいな画像がたくさん見られるので、わざわざ自分が写した下手くそ写真を見返しませんから、思い切って捨てました。
ただ、海外旅行の写真については、残しておくことにしました。

そして、父が残していた風景などの写真ですが、撮影も趣味のひとつではあったのですが、本格的にやっていたわけではなく、むしろ絵を描くための素材として写真を撮っていたので、形見と言えるほどのモノではありません。
しかも、選ぶ被写体が私とよく似ている上に、いつでも見に行ける風景だったりしたので、サクッと処分しました。

父とは、写真のことで語り合ったことなど、一度もないのですが、別々に同じ場所へ行っているにも関わらず、被写体も撮る角度もそっくりだったのは、思わず笑いましたね。
そういうところに、DNAって引き継がれるのかな?と思ったりました(笑)

半分に減った写真の保管方法
もう、10年以上前に、私は写真の整理をしました。
理由は、アルバムが増えすぎて、保管が難しくなってきたから。
まだ、父がいたころですが、父には内緒ですべての写真をアルバムから抜き取り、箱に保管しました。

アルバムって、一見保存管理がしやすいように見えるのですが、アルバム自体が結構重たいですし、ポケットファイル形式のアルバムは、枚数をたくさん入れられる分、アルバムに負けず劣らず重たくなり、わざわざ出してきて見返すことって、ほとんどないのですよね。
もっとも、箱に入れても同じような状況で、わざわざ箱を取り出して写真を一枚一枚見返すことは、今回のように整理するときくらいです。
保管方法を工夫しても、結局見返すことなんて、本当にごくたまにです。
だったら、重たいアルバムではなく、移動させやすい箱に入れましょう、となったわけです。

今回は、その箱に入れっぱなしになっていた、家族や親族以外の写真を整理したわけですが、思い切って捨ててみたら、半分になりました。
見返しているうちに、ふとこの写真はまだ捨てたくない、と直感的に思うモノがあったので、それらは残していますが、他は見返していても、撮影した情景が浮かんでこなかったので、たいした思い出でもないのかな、と感じましたね。

思い出を残したくて、当時は撮影したのだと思うのですが、今見返すと、たしかに行った記憶、見た記憶はよみがえってくるのですが、特に感動したり印象的なエピソードは全く思い出せないし、下手をすると、当時は感動してみたであろう風景も、今見ると、なぜこの風景を撮影したのだろう?と、まったくシチュエーションを思い出せない始末。
きっと、もう写真本来の役目が私の中で終了したのでしょうね。
ごみ袋へ入れても、全く後悔しませんでした。

冊子類を処分
私は、書籍を読むことが好きです。
特に、紙の本のページをめくりながら読むことが好きなので、電子書籍は漫画しか買いません。
まあ、大好きな漫画は、紙の本を買ってしまいますが。

書籍は好きなのですが、雑誌はあまり好きではありません。
よほど興味を持った内容が特集されていたら別ですが、雑誌は学生のころに漫画雑誌とアイドル雑誌を買っていたくらいで、社会人になってからは、雑誌はほとんど買っていません。

しかし、たまに特集号と銘打って、ひとつのテーマに特化した雑誌が発売されることがあります。
そういう場合は、雑誌独自の取材と情報収集により、レアな情報が満載な上に、読みごたえがあるので、つい購入してしまいます。
私が特に買ってしまうのは、スポーツの特集やどこかのチームを特集した記念号です。

また、舞台や映画、イベントを鑑賞した際に、パンフレットのようなモノも、よく買っていて、行った回数は少ないのですが、結構そういった冊子や雑誌が、結構たくさんありました。
今年の初めごろに一度整理して、ブックオフしてきましたが、今回は、その際に処分を躊躇した雑誌や冊子を見直すことにしました。
見直した結果、一部の舞台パンフレットと一部の雑誌の特集号を処分しました。

残したパンフレットは、いちばんお気に入りの内容のモノを2冊。
また特集号も、一冊の書籍並みの活字数と情報量のモノとムック本のようなモノを残しました。

その他の紙類も処分
その他の紙類とは、アーティストやアイドルやスポーツ選手のポストカードやトレーディングカードです。
これらは、以前から処分しようと決めていたのですが、何度も言うように紙は枚数が嵩むと、とにかく重たくて捨てるのにも覚悟が必要なのです(苦笑)

今回、写真と同じ場所に保管しっぱなしにしていたので、写真整理と一緒に処分することにしました。
こちらに関しては、購入した写真と同様にサイン入りのモノだけ残して、あとはサックリとごみ袋へ。

一応、見返してみたのですが、もうこれらを見て愛でることはないな、と冷静に思えたので、躊躇はありませんでした。
アプリやネットオークションを利用したら、購入してくれる方がいると思われるモノばかりなのですが、こちらも以前から何度も言っているように、手間暇が面倒なので、錬金術(売る方法)は使いません(笑)
それに、私だけが手に入れたレアな品物ではないので、どうせ大した金額にはなりませんしね。

処分するモノは2袋に分けます
今回処分する写真を始めとした紙類は、とにかく重たくなるモノの代表格。
ですから、ごみ回収日に持ち運びしやすいように、分けています。
一部、冊子やパンフレットで古紙回収に出してもよいモノは、そちらに出します。

まだ、今年最後の家庭ごみの日が1回残っていますので、明日以降はまた別のカテゴリーの不要品を探して処分し、今年一年の煤払いといたします(笑)

思い出のモノや趣味のモノを処分する心境
以前、同じようなことを綴った記憶があるのですが、自分が好きで撮りためたり購入した写真やポストカード類、冊子類を処分する際の心境を、改めて今回の覚書として綴っておきます。

好きなモノを処分することは、とても難しいし、つらい気持ちや後悔しそうな不安があり、心の痛みを伴う作業です。
もしも、家族や友人から

「それは不要品だから、さっさと捨てなさい」

と言われたら、とても悲しい気持ちになるし、当然手放したいと思うことはありません。

では、今回私がどうして好きなアーティストやアイドル、スポーツ選手の写真やポストカードやトレーディングカードを処分できる心境になったのか。

まず、処分するモノと、まだ持っておくモノの選別を、とにかく直感的にしていきました。
と言っても、好きか嫌いか、あるいは有名な片付けアドバイザーのように、ときめくかときめかないか、などで決めるわけではありません。
その基準だと、ほぼ全部処分できませんから(苦笑)

直感というのは、久しぶりに出会った知人に、また次も“会いたい”と思う気持ちに似ています。
具体的な言葉では、言い表すことが難しいのですが、例えば好きなスポーツ選手の写真を見たとします。
それが、自分で撮影した写真であれば、もうこの上なく思いが詰まっていますから、当然捨てる気になどならないはずです。
しかし、年月を経て改めて手に取ったり見たりすると、不思議なことに“会いたい(見返したい)”と思える写真と、“もう会えなくても(見返さなくても)大丈夫だな”と思える写真とが存在し始めるのです。

ここまでのこと、理解できない方も多いかと思われますが、もう少し続けますね(笑)

これは、写真に限らず、収集していたグッズなどにも当てはまります。
日用品や洋服は、暮らしていく際に必要なモノなので、抽象的な感情よりも、現実的な感情にフォーカスして処分しますが、グッズや写真、冊子などは、なくても困らないモノの代表格です。
書籍を読むことは、ある程度求められるとは思いますが、収集する必要は全くありませんから、読み終わったら大体古本屋に持ち込むか、古紙回収時に出してしまえばいいモノではあります。
でも、グッズや写真は、いつまでも終わりが来ない好きだという感情に支配されていて、生活必需品では全くありませんが、手放すことを考えると、胸が痛みがちです。

では、なぜそうなってしまうのか。
それは、無機質なモノであるにも関わらず、それに親しみや愛情に似た感情を抱いてしまっているからなのだと思います。
アニメやフィギュアが好きな方には、わかってもらいやすいかもしれませんが、擬人化しているのですね。
特に、姿を映している写真、ポストカード、トレーディングカードは、好きな人の分身のように感じているのではないかと思います。

ですから、好きなアイドルの写真を捨てるなど、とんでもないことだと思うのですが、私の場合は、最近になって写真はあくまで写真でしかない、と割り切れるようになりました。
そもそも、自分が好きになったアイドルやスポーツ選手は、動いている姿を見て好きになりました。
写真やポストカードに写っているのは、動いているその人の一瞬を切り取った姿でしかありませんから、見ていてときめいたり気持ちが穏やかになることはありますが、自分が本当に見たいのは、動いているその人物ではないのかな、と思い始めたのです。

その写真が、古ければ古いほど、当時のその人はたしかにステキだけど、自分が常に心に置いているのは、今活動しているその人だ、と考えると、見返すこともほとんどない写真やポストカードは、もう会わなくても(見なくても)、自分の気持ちに変化は起こらない、と感じるようになりました。

それが、直感的な判断基準の元になっています。

モノでも人でも“ときめき”ではなく“会いたい”気持ちを重視
ときめきはたしかに、モノを処分するときに明確にしやすい基準になると思います。
しかし、ときめきだけに頼ると、処分できないモノが溢れてしまう可能性も高いです。

でも、もしグッズや写真を擬人化している自覚があるのなら、ときめきではなくて、そのモノと長年触れ会えなくても、もう一度会いたいと思えるかどうか、で考えたらどうでしょうか?というのが、私の提案であり、今回の振り返りです(笑)

私は、今回処分した写真や冊子、ポストカードやトレーディングカードの類を見て、もう会えなく(見なく)なっても、後悔はしない、と思えるモノを処分しました。
後悔というより、今ここでそれを失っても、好きな気持ちに変化はない、という達観した気持ちに近かったのかも。

先ほど、久しぶりに会った知人を例に出しましたが、今後もその知人と会いたいと思ったら、きっと連絡先を交換し、何日も開けずに連絡をしたりすると思うのですね。
しかし、もし、会っただけで懐かしい感情を完結したら、きっと連絡先も交換しないだろうし、元気でね、と声をかけて終わりだろうと思います。

写真に対して、元気でね、とは思いませんが、まあ保管しておくけど、見返すことは少ないかもね、という気持ちになったら、それが“会えなくてもいい”という感情だと思っていて、逆に数日以内のもう一度見返したい、という気持ちが“会いたい”という感情です。

この“会いたい”と思える写真やグッズなど、自分の周りにはいくつくらいあるのでしょうね。
私は、思ったよりも少ないかもしれないと思っています。
だから、今、いろいろなモノを処分できるようになってきたのだと思います。


今回は、だらだらと訳の分からないことを書き綴ってしまいました。
でも、言いたかったことは、モノも人も“会いたい(見返したい)”という気持ちに、素直に向き合ったら、きっとモノの処分基準も明確になってくるよ、ということです。
だって、本当に会いたい人は、とても大切な人とも言えますから、モノもきっと、見返したい、再利用したい、と思うモノが、本当に大切なモノなのかもしれません。