1709年、首里城火災のため「おもろそうし」の原本焼失。 当時の琉球は薩摩の支配を受けていたため、日本文化を浸透させようとする薩摩によって「おもろそうし」による祭礼は怪しげなものとして禁止され、それを伝承している者はすでにおらず、単なる記録書としての要素が強かった。しかし王府は、過去の歴史を物語る重要な書物であるとして、なんとしても復元させるため、琉球国中を探し求めて、ようやくその写しを見つけだし、その写本を命じた。 その時に、見間違いや、書き間違いが多く発生し、原本と食い違う点が多数見られた。 しかし、すでに伝承者も不在で、原本の内容を誰も見たことがなかったため、間違いはそのまま気付かずに放置された。例えば「あか之こ」を「あかいんこ」とするなどである。 この「おもろそうし」に記載されている言葉は難解で、当時でも解読できる人物は限られていたため、それ専用の辞書的な役割をもって生まれたのが、「混効験集」である。 この「混効験集」には「あかのこ」(アカヌクー)はあるが、「あかいんこ」という言葉は記載されていない。 その後の世に、この「おもろそうし」に興味を持った者が、「あかいんこ」という特異な記載を発見し、これに「赤犬子」という文字を当て、そこから空想される物語を創作した。(おそらく明治時代頃か?)これが、現在語られている「赤犬子」の物語の元になった。
以下、繰り返しになるが、
赤犬子は、現存する最古の書物「おもろさうし」には、ひらがなで「あかいんこ」と記載されている。
しかし、①その原本は1709年の首里城火災で焼失しており、現在保管されているものは手書きによる「写し」であること。
②「あかいんこ」と同様の扱いである「あかのこ」という記載が大多数を占め、「あかいんこ」という表記はわずか。
③もし当時の古琉球に「いんこ」という言葉があれば、ほかの書物にも登場するはずだが、これは「おもろさうし」に限定している。
④当時は当然「縦書き」の「手書き」であり、「あかのこ」を「あか之こ」とも書くことが出来る。「之」を縦書きで見た場合、達筆な手書きでは「い」と「ん」がつながったように見える。
⑤「おもろさうし」は当時首里城に保管された琉球王国の公文書であるから、その記録に残す程の重要人物を「犬子」呼ばわりするだろうか。
以上の事から、「あかいんこ」は、「あか之こ」を見間違えて書き写したものであろう。漢字で書けば「阿嘉之公」である。
したがって、現在の「赤犬子神社」に多数みられる石碑の文言や、一般的に語られている伝説などは、後の世に創作されたものと考えるのが妥当ではないだろうか。
しかし、これはこれでお話としては面白いので、現在の神社とその伝説は、そのまま楽しめばいいが、「おもろさうし」の原本が焼失してしまっている現代においては、その真相は闇の中。