日々是気の向くままに

日々是好日(口実)いろんな分野を気ままに書いていきます。

カラクイが動く(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 99)

2018年12月30日 | 日記
手元に3丁の三線があり、その中で一番カラクイの仕上げが丁寧なものが、実は一番面倒であったりします。
つまり、カラクイを操作するときは一番スムーズに回るのですが、翌日3本ある弦全ての音程が下がっているのです。スムーズ過ぎて戻るのもスムーズなのです。
それに対して、自分で仕上げたカラクイの三線は「カリカリ」「カキカキ」と回って、カチッと止まるのですが、数日そのまま音程が変わることはありません。
カラクイの材質も棹の材質も違うので、どこに違いがあるのかは簡単には判断できませんが、何事も程々の調整の方が、使い勝手が良いようです。

緊張に打ち勝つ方法

2018年12月26日 | 日記
今朝のテレビでスキージャンプの選手が「緊張に打ち勝つには、負けん気を出すことだ」と言っていた。
私も緊張しやすいので、この方法が良いと思った。
今度からは、緊張したらこのことを思い出そうと思う。
その時に、緊張の余りにこのことを忘れていたら、何の役にも立たない。

ロクでもない音(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 98)

2018年12月24日 | 日記
六の音は、老のオクターブ上の音です。
つまり老は男弦、六は女弦で、弦の違いはあれども、押さえる位置は同じです。
にもかかわらず、その使用する機会に大きな違いがあり、老は定位置で押さえるため簡単にできるのですが、六の音は定位置から離れて、不安定なところまで人差し指をずらしていき、つるつるの棹の上で「勘」だけを頼りに位置を決めます。
へたくそな私の場合、何度やっても、その都度違う位置を押さえて、相手が「六」なだけに、まさに「ロクでもない」音になるのです。
それにしても、三線の弦を指で押さえる位置を「勘所」というのは、まさに「勘」が頼りの「所」ですね。

↑こんなことばかり書いてないで、練習・練習・・・・


開音(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 97)

2018年12月17日 | 日記
「その83」で、ぢゃんな節に開けようがない「開音」があるとボヤキましたが、やはり私のボケでした。ここはやはり左手を「開ける」のだそうです。直前に押さえていなくても、開ける動作をするのですね。
やはり確かめてみるものです。

高音が合わない(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 96)

2018年12月17日 | 日記
ぢゃんな節の冒頭部分で、六の音が合わせられない。いままでの曲では、何かしらの手掛かりがあり、六の音が何となく合わせられたのですが、尺・工と来て、次に(人差し指で)六、と、ここまでは良いのですが、次の開音、そして六。これで私は、六の位置が分からなくなるのです。
ですから、そのあとの八や七なんかは、もう訳が分からなくなります。
せっかく名古屋まで行っても、これでは稽古になりませんね。師匠、誠に申し訳ありません。
「まだまだ修行が足りません。」←これ、何回目?