12月に入って、またまたいじめが原因で自殺したという報道が伝えられた。長い期間いじめられているのに誰にも訴えられないという。その間どんなに苦しみどれほど孤独感を味わったであろうか。痛ましい限りである。学校の先生や両親兄姉弟妹、そして周囲の人たち、誰もいじめられている子の信号をキャッチできなかったのだろうか。日常生活の中で必ず何かの信号を発信していたと思うのに誰も気がつかなかった。あるいは気がついていたのに他人ごととして見過ごしてしまったのかも知れない。
いじめの原因について少し考えてみよう。筆者の子どの頃は、子供がたくさんいた。したがって年齢差のある子供が一緒に遊ぶことはないと考えるのが普通であろう。しかし実際は逆で、年齢差のある子供は普通に一緒に遊んでいた。ただし、ベーゴマ遊びのような個人で競い合う場合は別である。多くの場合、大きい子が小さい子の面倒をよく見ていたような気がする。小さい子同士が口論や喧嘩をすると大きい子は少しの間それを見守っていた。そして頃合いを見て止めに入る。喧嘩両成敗を心得ていた大きい子は、喧嘩は終わった、これからは仲よくしなといって仲直りをさせた。これで喧嘩の後を引きずることはなくなる。このように、喧嘩をしてもそれが大きな問題に発展することは筆者の知る限りはなかったと思う。
また、周囲の大人も他人の子であれ悪いことをしている子を見つけると、大きな声で叱っていた。逆の場合も多々あった。よいことをした場合にはそれが当たり前のことであっても子供を褒めるようだった。これがまた子供にとっては心強いおじさん、おばさんであった。大人も心のゆとりがあって、子供たちの成長していく姿を遠く近くから見守っていた。
学校関係者にお願いがあります。学校の体育の時間などで学年差のある児童を同じ時間に合わせて一緒に授業をする。これは恐らくカリキュラムの問題に抵触するかも知れないが、高学年の児童が低学年の児童の面倒を見るようになるのではないかと思う。これがよい結果を生むことにつながるかも知れない。
今学校ではウサギやニワトリを飼ったり、花を植えたりして子供たちの情操教育をしていることだと思います。そこに人間の命も大切なことを徹底的に教えていただきたい。もちろん今でも実行されてることとは思いますが、見知らぬ人とは話してはいけないという教育自体が情操教育と相反することかも知れません。犯罪を予防するために必要なことかも知れません。周辺住民は不審者から子供を守るために協力をする。住民は、将来を担う子供のためなら協力を惜しまないだろう。そして子供たちも友達の様子に気遣う。そんな状態になればいじめは無くなるのではないだろうか。