これは半世紀以上も前の話である。大学の夏休みが近づいたある日、私は数人の仲間と何かよいアルバイトがないかと相談をしていた。折角大学の校舎があいているのでこれを借りて、近所の子供たちの勉強を見てあげるのはどうかということになった。初めは数人のグループで宣伝方法や宣伝地域をどれほどにするかとか、子供の人数をどれくらいにするかなど具体的な話し合いが続いた。計画をまとめて大学事務部と交渉した結果、実行可能なことになった。夏休み前に1クラス10人以下にするという条件で宣伝活動をしたところ、予想以上の人数が集まり、教員役の学生数が不足するほどになった。そこでこれを夏期学校と称して記録することになった。というのは終了近くになると父母たちから来年のことを聞かれるようになったからである。初めは1年だけのことであったが、希望者が多いようなら、学生側もクラブにしようと言うことになり、その名も「学生教育研究会」という大それた名称になってしまった。
それ以後は、クラブ名で夏休みになると大学の校舎を借りて2週間ほど近所の小・中・高校の児童(3年生以上)・生徒を集めて宿題を見てあげたり、学校の勉強の補習みたいな事をやっていた。集まった児童・生徒の数は多いときには700人以上になったこともある。午前中だけの勉強ではあったが、教員役の私たちも結構熱心に対応していたので評判は大変よかった。この様子は当時のA新聞という全国紙にレポートされたこともある。これを夏期学校と称していたが、私たちにとっても割のよいアルバイトになったことも事実である(ちなみに当時のアルバイトは、8時間労働で300円の日当であった。モリ・カケそばが25円、山手線は10円で1周できた時代のことである)。3年ほど過ぎた頃、都内の幾つかの大学でも同じようなクラブを作って、連合組織を作ろうと言った来た。いろんな話し合いをしているうちに、アルバイトという位置付けがよくないと言い出した。さらに純粋な教育の補助的な行事にした方がよいなどと意見が出るなど、理想論に走り出してしまった。そんなこんな時期に私は卒業してしまったので後のことは思い出話の外になってしまった。
私はその後教職に就いたが、教育のおもしろさと同時に難しさにも出会うことになった。理想論を実践しようと努力するが、現実の問題に出会うことになる。初めに経済的に我慢を強いられ、そして時間の不足にさらに人手不足に悩むことになった。それを何とか乗り越えなければ理想論には近付けないことが次第に分かってきた。
政府の教育行政が、朝令暮改のごとく毎年あるいは数年で変わってしまうようなやり方は仕方の無いことなのだろうか。現場の教員は対応に四苦八苦しているのではないだろうか。
教員にもっと児童・生徒と接する機会を多くする政策、といっても決して政府の指導で実施するようにと言うことではなく現場の教員の意思である程度自由な教育をするというのはどうであろうか。