グリフォンの日記

時事のニュースについて書いていきます

大人の責任とは

2007-10-14 23:48:18 | 日記・エッセイ・コラム

【コラム・断】ことなかれ主義の悪  産経新聞社
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/89211/
  
 秋も深まり、風の冷たさに心揺らぐ季節になってきた10月。先月高校生が複数の少年からお金を毟り取られ自殺すると言う事件が起きた。れっきとした犯罪であり、恐喝、脅迫、暴行といった罪に問われるべき犯罪である。にも拘らず、社会の暗黙のルールだとでも言うつもりなのか、”いじめ”と言う言葉でひと括りにしてしまう現代のマスコミ達。万引きでも援助交際でも同じだ。しょせん、窃盗と売春行為であり、言葉を変えて日本人を翻弄する必要が、果たしてあるのだろうか。恥をしれ!
 
 今更いうまでもなく、いじめを犯し、助長するものは、自らの境遇との比較から始まる。すなわち、自己欺瞞であり自己愛に基づいた自己顕示欲の誇示であるに他ならない。他人を蹴落とし、卑しめたい人間の業とも言うべきこの感情は、過去から現代に至るまで変わる事は無いのである。それこそ「いじめをするな」と簡単に言われても、母親が父親の悪口を他人と言い合っていたり、人の風評をばら撒く光景を目の当たりにして育った人間は、他人を卑しめる行為そのものを楽しいことであると錯覚しても致し方ないと思うのである。
 
 本来であれば、家庭で躾けるはずの事柄を社会に押し付け、他人に押し付ける一部の人間の顔をしたアフォのお陰で、陰険ないじめがさらに過激に展開していく事になっていると言ってよいだろう。誰それがやっているから、自分がやっても良いというのは、子供の論法である。それが、今は大の大人になってもその体質から抜け出せぬジレンマを抱えてしまっているのが現状なのではないだろうか。
 
 得てして、学校の対応は今も昔も変わらない隠蔽体質。「長い物には巻かれろ」主義であり、新しい方法や理論を取り入れて行こうとする者は、「出る杭は打たれる」と読んで字の如く叩かれるのが、今だに続いている結果なのだろう。結局、頭の固い人間が、知恵すら絞りだせず、若い人間に責任だけを押し付けて、結果、自分は逃れようとする小汚く、猿知恵程度の卑しい人間がトップにいるから、未だに変われないのだ。(中には責任をとって自害された校長先生も居られることを付け加えておく)
 
 トップについて言えば、責任のなすりあいを辞め、自分に責任が取れないのであれば、退任するのが本道だろう。それを隠そうとすればするほど、問題は大きくなることに早く気づくべきである。
 
また、いじめという行為自体は無くす事は不可能に近い。それは先に述べた通り、他人との比較と自己顕示欲の誇張が人間の誰にでも備わった機能であるからだ。しかし、それを回避する方法が無いわけではない。柔道で始めに習うのは受身だ。うまく受身を取る事で自らの身を守るのである。その方法は、自己防衛本能に導かれて、知恵として発揮されるが、未熟な少年期、青年期では経験と実績がないので、その知恵を絞ることが不十分なのであると思う。大事な事は、大人がいち早く気づき、その方法を教えることが、本当の責任の有り方なのではないだろうか。


捏造新聞社と沖縄の海

2007-10-06 23:16:09 | 日記・エッセイ・コラム
 先日、沖縄県で歴史教科書の項目から”沖縄の集団自決が軍の強制であった”との事柄が削除された事への抗議集会が開催された。朝日新聞は”11万人”が集まったと報道した。しかし、現実に実数を量ると4万8千人。この数字に拘る必要は無いと、とあるテレビ局の馬鹿キャスターが言った。南京大虐殺を捏造し、数字を水増し報道し続けた捏造・隠匿体質は戦前・戦中・戦後を通して変わっていない。
 
 沖縄での戦闘で、多数の民間人が犠牲になったのは事実である。しかし、当時日本は戦争をしていたのであり、その中で情報を握る術はラジオ、新聞、手紙等数は限られていた。青い眼をしたアメリカ人が突然武器を両手に上陸してきたら、どのような事が起きるのか想像が付かないのではないだろうか。大人の男は殺され、婦女子は強姦され、幼子は...。そんな事、今の時代であればある程度情報の流動の早さがあるため予測がつくと思うが、当時の状況を考えるに辺り、情報の混乱と錯綜によって、自決せざるを得ない極限の状態へと導かれたのではないだろうか。
 
 軍に強制されたのか否かは、実質的な証拠はない。多くは証言を元にした話であり、正直それを今持ち出して、何が変わるのであろうか。軍は要らない、そんな理念だけで、現在の混沌とした世界情勢を現実的に切り抜けられることができると本気で思っているのであれば、それは”絵に描いた餅”だろう。北京五輪が2008年に開催されるが、開催終了後の仮に中国の経済成長が著しく停滞し、それこそバブルの崩壊が起これば、何が起こっても不思議は無い。
 
そうした現在において、軍さえなければ、戦争が無くなるというのは、自らの国も誇りも尊厳も捨てる事に等しい。前にも述べたとおり、日本という国があるから、自由な発言もできるし、自由な活動も出来るのである。敵が攻めてこない保証はどこにも無い。仮に攻めてきて、占領されたら、責任はその国の国民、全てにあるということだ。つまり、攻めて占領されたあかつきには、全ての財産も家族も恋人も捨てる覚悟をしろと言うことだ。裸で町を歩けと言われればそれに従うことが出来るか。武力を捨てるならば、敵に制圧された時の事まで考えろ!ということだ。人間としての尊厳、自尊心も羞恥心も全て飲み込み相手に譲歩する覚悟があるのであれば、日本にいる必要はないと自分はそう思うのである。
 
 今から約62年前、沖縄も占領下に置かれ、日本人としての人権を取り上げられ、生きていかざるを得ない人々がいた。だからといって、日本軍は憎いと今も怨み辛みを吐き出し、真実と真理を歪めようとする人間に利用される人間がいることに激しい怒りを感じる。沖縄を守らんとし、アメリカ軍に体当たりを実行した特攻隊員達、沖縄に辿りつくことなく沈められた戦艦大和。無謀と判っていて、少ない武器を手に戦いを挑んだ沖縄県民達。尊い犠牲の上に我々は意気揚々と当たり前のように暮らしていることを考えるべきだろう。もしあなたが、沖縄に行く事があれば、海に眠る英霊達にこう問いかけてみよ。「この沖縄を本当に守りたかったのですか?」と。