気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

中世嵯峨を歩く その3 龍門橋

2021年02月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 角倉稲荷神社から長慶天皇陵の西側の道に戻り、瀬戸川に沿って北へ進みました。瀬戸川はいまではコンクリート水路のようになっていますが、かつては芹川と呼ばれ、中世戦国期には嵯峨地域の中心街の東の外濠のような役目を果たしていました。

 

 前方に、瀬戸川に架かる石橋が見えてきました。龍門橋といいます。中世戦国期の嵯峨は、京都における有数の宗教的都市として相当の賑わいをなしましたが、その総門にあたるのがこの橋でした。本来は天龍寺参道の総門にあたり、かつては「天下龍門」と名付けられた門が建てられ、天龍寺境内地を中心に町並みが形成されて宗教都市の形態に発展したため、都市の総門ともなりました。

 

 現在の龍門橋です。近代に車道化にともなって拡張されて架け直されています。中世戦国期には板橋であったようですが、位置はほとんど変わっていません。

 

 したがって、龍門橋から西へ続くこの道が、天龍寺参詣道であるわけです。この道は中世戦国期より「造路(つくりみち)」と呼ばれ、中世都市嵯峨の東西の主軸路として機能しました。
 いまでも観光エリアの主要ルートして使われており、JR嵯峨嵐山駅と嵐電嵐山駅とを結ぶ連絡路にもなっています。JR嵯峨嵐山駅で降りた観光客の数割は、この道を歩いて渡月橋へと向かいます。

 なお、この道はアニメ「けいおん!」に登場する聖地ルートの一つでもあるので、この道を行き来したアニメファンも少なくない筈です。

 

 龍門橋から東を見ました。現在は上図のように東へ真っ直ぐに道路が延びていますが、これは近代のが市街地化にともなう道路の新設によるもので、中世戦国期には左右に分かれて三叉路となっていました。
 古絵図などを見ますと「天下龍門」の前は広場になっていて、そこから北は中御門大路へと繋がり、南は三条大路へと繋がっていた様子が知られます。

 

 龍門橋の傍らに立つ案内板です。別名の「歌詰橋」に絡めての由緒が記されています。ですが、中世戦国期の都市嵯峨の総門であったことは示されておらず、歴史的に最も重要であった状況への視点が抜け落ちています。京都の観光案内板はこのレベルの記述内容が一般的ですから、現地へ行っても歴史の真相を把握することが難しいです。

 

 この日も観光客が多かったようです。まだコロナ流行が無かった頃ですから、マスク姿は一人も居ません。

 

 「造路」を西へ歩きました。いまでは市道135号線嵯峨天竜寺線と呼ばれていますが、なんとも味気ない名称です。歴史的通称である「造路」をそのまま正式名称にしたほうが良かっただろう、と思います。

 そういえば、中世都市嵯の東西路「造路」と天龍寺門前で直交する南北の主軸路は、かつては「朱雀大路」または「出釈迦大路」と呼ばれたのですが、現在は長辻通と呼ばれています。中心街路の名前すら変わっていますから、中世都市嵯峨のイメージがなかなか掴みにくいとされるのも当然でしょう。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その2 長慶陵と晴明塚

2021年02月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿王院から西へ進んで道なりに右へ曲がって、嵐電の踏切の南側の交差点に出ました。その向かいに上図の長慶天皇陵参道の入り口があります。

 

 そのまま参道に進んで、陵墓の北辺から西側の拝所に行きました。とりあえず、拝礼しました。
 とりあえず、というのはこの陵墓が本当の長慶天皇の墓ではなく、昭和19年4月に陵所に指定された場所であるからです。

 長慶天皇は、後村上天皇の皇子にして南朝第三代の天皇ですが、詳しい動向がよく分かっていません。南朝の歴史そのものが不明な部分も少なくないためです。どこで崩御されてどこに葬られたのかも不明です。

 私自身は、奈良県に住んでいた頃に宇陀市の覚恩寺にて国重要文化財の十三重石塔を見学し、それが長慶天皇の供養塔だと伝えられていたことにより、名前だけは一応知っていましたが、南朝での事績は殆ど知る事もなく、ただ晩年に出家して覚理と号したこと、京都に帰って嵯峨を在所としたらしいこと、ぐらいしか覚えていません。

 長慶天皇の称号は慶寿院ですが、これは皇子の海門承朝(相国寺三十世・嘉吉三年(1443)寂)が止住した嵯峨の天龍寺塔頭の慶寿院に因みます。当時の天皇の称号はその在所をあらわすのが一般的でしたから、慶寿院は天皇が最晩年を過ごした地であった可能性があり、その崩後は供養所となったものとみられています。それで、この当所が長慶天皇ゆかりの地であったろうとの考察を前提として、慶寿院の跡地を整備して陵所とした経緯があります。

 なので、陵墓域内には海門承朝の墓所も併置されています。なお、慶寿院は江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺文書」の「絵図目録」に記載される塔頭の中に名がみえず、当時は既に廃絶していたようです。
 明治16年に作成された天龍寺の「社寺境内外区別図」においても慶寿院の地は畑地になっており、また「天龍寺惣絵図」では同位置に「墓」および「藪」の記載があるのみです。その「墓」とはおそらく慶寿院の住僧墓地、つまりは海門承朝らの墓であったのかもしれません。この「墓」を拠り所にしての、長慶天皇陵の指定および整備であったのでしょう。

 

 長慶天皇陵の拝所から南へ行くと海門承朝の墓所があり、その西側から外の道路に抜ける出入口を通って陵墓の南側へ回り、墓域の南東隅へ行くと、上図の安倍晴明墓所があります。長慶天皇陵と同じく西面して鳥居が建ちますが、こちらは室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」等の史料にも記載がありますので、中世から存在していたことが分かります。

 

 安倍晴明といえば平安期の陰陽師として知られますが、その墓所は京都をはじめ各地に伝承されています。安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨天龍寺の塔頭寿寧院に葬られたと伝わります。寿寧院は現在は天龍寺境内の内に位置しますが、中世戦国期には臨川寺の寺域内にてその塔頭として在り、その旧位置はこの安倍晴明墓所の西側にあたります。
 なので、実際に墓所であるかはともかく、各地に分布する安倍晴明塚伝承地のなかでは最も古く、かつ由緒もある場所とされています。

 

 ですが、寿寧院が衰退して天龍寺に移転した後は墓所も忘れられて荒廃していたため、昭和47年に晴明神社奉賛会が神道式に改修して再興、現在では一条戻橋の晴明神社の飛び地境内として管理されています。

 

 なので、中世戦国期以来の古い晴明塚ですが、御覧のように装いも新しくなっています。二重の結界をあらわして並ぶ標石には五芒星が刻まれています。

 

 塚の旧位置には、いまは真新しい石塔が建っています。昔の墓石などが全く見当たりませんので、荒廃していた時期に全て失われていたのかもしれません。

 

 安倍晴明墓所の東隣には、角倉稲荷神社があります。名前の通り、戦国期から江戸期にかけての京都の豪商であった角倉了以が出身地でもあるここ嵯峨の邸宅内に建てた稲荷神社です。当地は角倉了以の邸宅跡としても知られ、現在の町名も「嵯峨天竜寺角倉町」です。

 

 角倉了以は、朱印船貿易によって安南国との交易を行い、京都の大堰川および高瀬川を私財にて開削し、また保津川の開削整備を進めたことで知られます。それで地元京都では商人としてよりも水運事業者としての顔のほうで広く知られており、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。

 そして嵯峨においても天龍寺の御用関連などの商売を行なっていたようで、その関連記録が「天龍寺文書」に含まれています。もとは天龍寺の境内地なので、角倉家の屋敷地は本来は天龍寺からの借用地であったことが分かります。その屋敷地の一角に稲荷神を勧請したのが現在の角倉稲荷神社にあたりますので、いわゆる邸内社に分類されます。
 一般的な神社の規模イメージでみると小さな神社ですが、邸内社であったのならば、かなり大きな部類に属すると思われます。屋敷地の北東隅つまり鬼門の一角に鎮座しますので、鬼門封じの役目も担っていたのでしょう。  (続く)

 

 長慶天皇陵および安倍晴明塚の地図です。

 


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中世嵯峨を歩く その1 鹿王院界隈

2021年02月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年10月16日、中世戦国期の歴史散策を上京エリアに続いて嵯峨エリアでも楽しむべく、右京区の嵯峨地区へ行きました。四条烏丸から市バス11系統に乗り、下嵯峨で下車して散策に移りました。三条通を東へ引き返して一つ目の辻で左折し、路地道を北へ抜けて上図の築地塀の道に出ました。

 

 白築地は曇華院の門に続きます。明治4年からここに所在するこの寺は、もとは暦応年間(1338~1342)に、足利義詮の側室紀良子(きのりょうし)の生母智泉尼が、東洞院三条に創建した通玄寺の塔頭でありました。応仁の乱で荒廃しましたが、江戸期に後西天皇の第九皇女の聖安女王(大成聖安女尼)により烏丸御池に中興されたものです。門跡寺院のひとつで「竹の御所」とも呼ばれます。

 

 曇華院の門前を過ぎて少し東に進むと、鹿王院(ろくおういん)の総門前に至ります。康暦二年(1380)に足利義満が建立した宝幢寺の塔頭でありましたが、宝幢寺が応仁の乱で廃絶したため、その法灯を受け継いで鹿王院のみが寺籍を維持しています。

 

 鹿王院といえば、一般的には上図の鹿王院庭園がよく知られますが、本来の宝幢寺庭園の後身ではなく、江戸期の宝暦十三年(1763)頃の造園と推定されています。今回の散策テーマは中世戦国期ですので、出来れば室町期の名作庭家とうたわれた任庵主が設計した宝幢寺庭園の名園ぶりを見たかったのですが、発掘調査もされていませんから遺跡すら定かではありません。

 任庵主は足利6代将軍義教にブレーンとして重用された禅僧ですが、経歴などの詳細がよくわかっていません。ただ、その作庭した庭園の遺構とみられるものが醍醐寺三宝院庭園の下から発見されており、醍醐寺第74代座主満済の手記「満済准后日記」の永享二年(1430)三月四日条に「任庵主が今日之を召し給わり、新しく庭を造ることを沙汰した」と記述されている庭にあたるとみられています。

 

 任庵主のかつての庭園は拝めませんが、幸いなことに、総門が宝幢寺および鹿王院の創建時期に近い南北朝期に建てられたままの姿をとどめています。「覚雄山」の扁額は足利義満の筆になります。足利将軍家ゆかりの寺院の建築が現存している例はそんなに多くはありませんから、貴重な建築遺構です。

 

 総門から境内をのぞいてみました。中門までの参道に沿って天台烏薬などの銘木が植えられ、紅葉の季節には鮮やかな色彩を織りなしてきますが、この日は公開時期外でしたので、散策は諦めました。

 

 道を引き返して西へ向かいました。この道はアニメ「けいおん!」の聖地のひとつなので、上図の景色はファンならば知っている筈です。
 ですが、中世戦国期の嵯峨地域へ通じる街路の一つであり、かつては宝幢寺以下十余りの寺院が山門を向けていた、いわゆる寺内町の大路であった道です。

 

 道沿いには幾つかの古民家が見られますが、さすがに藁葺きの古民家はここ嵯峨でも珍しくなっています。おそらく、鳥居本の街並みのそれを除けば、嵯峨地域に現存する唯一の藁葺き古民家かもしれません。他で同じような藁葺き古民家を見かけた記憶が無いからです。  (続く)

 

 鹿王院の地図です。その南に曇華院が隣接します。

 


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洛西竹林公園の百々橋

2021年01月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2020年6月21日、買い替えたばかりの原付バイクの初の遠乗りを楽しむべく、西京区方面の史跡や社寺を回りました。その際に洛西ニュータウンの東にある上図の竹林公園に寄りました。
 以前に中世上京の範囲を散策した折に、応仁の乱の激戦地の一つでもあった百々橋の跡を見ましたが、百々橋の本体はこちらの竹林公園に移築保存されているため、ついでに見ておこうと立ち寄ったわけです。

 

 京都には子供の頃から長く親しみ、以前は東山区今熊野や南区吉祥院にあわせて5年ほど下宿もしていて、京都の大体の所は行っていますが、竹林公園は今回が初めてでした。京都の竹の博物館というか、植物園スタイルの施設なので、これまであまり興味が無かったからです。

 メイン施設の「竹の資料館」を見学した後に裏口にて上図の案内マップを見ますと、谷間のほうの川に「百々橋」とありました。園内では唯一の橋であるようで、散策路に組み入れて現在も橋として機能しているとのことでした。

 

 早速行ってみました。すぐに石橋が見えてきました。おお、なかなか立派な石橋だな、と思いましたが、元所在地である現在の寺之内通の道幅の半分程度しかありません。車が渡るにはかなり不便です。これは小川が埋め立てられなくても、いずれは撤去される運命にあったわけだ、と納得しました。

 

 かたわらには、かつての橋脚の礎石のひとつが置かれ、説明板が立ちます。

 

 説明板の本文です。明治40年に改築とありますが、橋の改築というのは架け替えとは違う場合がありますので、それ以前から存在した石橋を修繕目的で改めて組み直したものかもしれません。もしそうならば、橋の石材の何割かは、江戸期ぐらいからのものである可能性があります。

 以前に小川通の散策をした折に見学した本法寺の石橋や報恩寺の石橋が江戸期の遺構でありますから、この百々橋も相前後する時期に板橋から石橋に換えられ、それが明治40年に改築された、と解釈すれば良いでしょうか。

 

 礎石です。小川通の「百々橋ひろば」に置かれていた礎石と似たり寄ったりの遺品です。橋脚の礎石は4個ありましたが、残る2個は室町小学校に保存されていると聞きました。機会があればそちらも見に行く積りです。

 

 百々橋の本体です。現在は川の真ん中に中之島を築いてそのうえに橋脚を建てているため、礎石が必要ないわけです。礎石を元通りに戻さないのはこういうことか、と納得しました。

 

 渡ってみました。羽目板の一部にはタガネで彫ったような交差模様などが見られます。たぶんこれらが改築前の石橋の旧材であるのでしょう。これらの表面の磨滅の度合いが大きいのもあり、交差文様が消えかかっているのも見て取れました。

 

 渡った後に反対側から見ました。

 

 奥の散策路を登りつつ、振り返って見たところです。一般的に中世戦国期の板橋と、近世期の石橋は、原則的に同じ規模で造られることが多いです。なぜかというと川の中に埋め込む基礎積みや礎石の位置を変更するのが大変な工事を伴うため、改築や架け替えの場合も、もとの橋脚の基礎をそのまま使うケースが殆どです。

 それで、この百々橋の規模も、おそらくは中世戦国期の板橋のそれに近いのだろうと推察します。この規模より小さい板橋であったならば、応仁の乱の最前線にあっても大軍が渡るのは不可能であるため、橋の両側で小川を境にして対峙する形になりがちであろう、と思います。

 以上、応仁の乱ゆかりの百々橋の見学報告でした。

 


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中世上京を歩く その8 小川跡と上立売通

2021年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 報恩寺の東門は、かつて小川に面していましたので、それに架かる石橋がいまも残っています。江戸期の慶長七年(1602)架橋の刻銘があります。本法寺の石橋とともに小川の名残をとどめる遺構として知られます。それ以前の橋は、おそらく板橋であったものと推定されます。

 

 石橋から横を見ますと、このように小川の跡が細長い空間となって残されています。いまは境内外縁の通路として使用されているようです。

 

 報恩寺の東門と石橋をあらためて振り返りました。

 

 報恩寺門前より再び南下して上立売通に出て左折し、次の辻で右折して、上図の小川通に戻りました。左手に小川児童公園がありますが、この辺りはかつては摂家近衛氏の屋敷地の付近にあたり、「洛中洛外図」でも「近衛殿」と記されます。「近衛殿」は近衛家17代当主の左大臣近衞前久(このえさきひさ)にあたります。左大臣は太政官の職務を統べる議政官の首座ですから、今でいうと総理大臣にあたるポストです。

 そしてこの通りの東側に「高畠甚九郎」の屋敷地がありました。「高畠甚九郎」とは細川氏の家臣であった高畠伊豆守長直にあたります。通りの西側には「飛鳥井殿」の屋敷地がありました。「飛鳥井殿」とは藤原北家師実流(花山院家)の一つ難波家の庶流であった飛鳥井家のことで、「洛中洛外図」が描かれた頃の当主は第13代の権大納言飛鳥井雅庸(あすかい まさつね)でした。
 つまり、この辺りはかつての上京の中心地であり、当時の幕府および朝廷のトップクラスの重臣の屋敷が並んでいた地域です。

 

 小川通と交差する上立売通です。中世戦国期を通じて上京の東西路として機能し、足利氏の御所および菩提寺への連絡路でもありました。東は室町御所に接し、西は北山御所や等持院にも繋がる重要な街路として、南北路の室町通と並んで重視された通りです。
 この上立売通の北側は、「洛中洛外図」では「細川殿」と記されます。室町幕府の管領職を務めた細川京兆家、右京太夫の屋敷地です。当時の当主は15代の細川高国または16代稙国の父子にあたります。

 

 向かいの小川児童公園に建つ案内板です。「細川殿」の屋敷地を11代細川勝元以来のそれと見なす見解に拠って述べられていますが、考古学的な知見は未だに得られていませんから、確証はありません。
 最近の研究動向によれば、細川管領家の屋敷は応仁の乱前後に移転している可能性があるようで、もとは室町御所に近い所、寺之内通の南に位置していたとの推論もあるようです。いずれにせよ、発掘調査で確定したわけではないので、今後もしばらくは謎の部分が多いままとなるでしょう。

 

 案内板の上京復原推定図を見ると、この大して広くない範囲に足利将軍の室町第をはじめ、細川氏、畠山氏、山名氏ら幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷が集まっていたことが分かります。まさに中世戦国期の日本の政治機能の中心地でしたが、首都と呼ぶにはいささか貧弱な様相であったようです。いまの京都市街の10分の1にも満たない面積であり、防御線として堀や土塁を設けて構の形態を示していました。

 

 これで上京の史跡の大半は回りましたので、小川児童公園にて、お茶を飲みながら一休みしました。

 

 それから小川通をふたたび南下して、今出川通との交差点を通りました。中世戦国期の上京の南限は一条通であったので、この辺りにも幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷地が並んでいました。

 

 最後の目的地は、かつての上京の宗教的エリアとされて信仰の結集点とされた小川通沿いの寺院群の旧跡でした。上図の案内板にあるとおり、現在は丸太町寺町にある革堂行願寺などが、中世戦国期にはこの辺りに並んでいました。
 他に六角通の誓願寺、百万遍の知恩寺もかつてはこの地において甍を並べていたのですが、いずれも豊臣秀吉の街区再編事業によって移転させられ、それぞれの現在地へ移りました。

 

 革堂行願寺などの旧跡の一部は、現在は小川通の西側にある「小川なかよし広場」となっています。前掲の案内板も広場内に建ちます。

 

 「小川なかよし広場」から小川通を今出川通へ引き返す途中、西側の京都市立みつば幼稚園の敷地内にある上図の旧石橋の遺品を見ました。今出川通の小川にかつて架かっていた石橋の親柱です。左が今出川通、右が小川の名を刻してあります。かつての小川の名残の一つです。

 以上で、中世上京エリアの散策を終えて、近くの上京総合庁舎前から市バスに乗って帰りました。  (了)

 


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中世上京を歩く その7 報恩寺の内外

2021年01月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宝鏡寺の辻、「百々橋ひろば」からの小川通は、もとは「洛中洛外図」に描かれる通りにまっすぐ南下していましたが、その後の街区再編によって東にずれており、現在は東へ二番目の辻まで進んで右折し、再び南下するルートになっています。
 しかし、町並みの様子をみるに、もとは東へ一番目の辻で右折するほうもかつては小川通だったのではないかと思います。この通りのほうが立派な構えの古民家が多く、上図のように現代の民家と入り混じって並びます。

 

 とりあえず、この東へ一番目の辻で右折するほうの通りを南下しました。現在の小川通のひとつ西側の通りです。この通りに立ち寄りたい寺院が一ヶ所あったからです。

 

 その立ち寄りたい寺院とは、報恩寺でした。上図は門前に立つ案内板です。

 

 案内板は寺号標柱の脇に立てられています。標柱の横から参道が山門へとのびています。

 

 立ち寄った理由は、まだ未訪の寺であったのと、上図の国重要文化財の梵鐘を拝見するためでした。実は平安時代の梵鐘というのは大変に数が少なく、京都市においてはいわゆる日本三大名鐘のうちの二つ、神護寺梵鐘と平等院梵鐘がありますが、その他の遺品はあまり伝わっていません。

 

 なので、この報恩寺梵鐘は日本国内でも数少ない平安期梵鐘の貴重な遺品であるわけです。私自身は平安期梵鐘を京都以外では滋賀県の佐川美術館、奈良の栄山寺の二ヶ所でしか見た事がありませんので、今回の散策では報恩寺梵鐘をどうしても見ておきたかったのでした。

 上図のように、平安期の梵鐘としては古式を示します。笠形が割合に高く、細長いスマートな形態の梵鐘で、見た感じでは栄山寺梵鐘に似ている気がします。乳の形もシンプルで、八角素弁小形の撞座(つきざ)が龍頭(りゅうず)の方向と直交するあたりは天平時代ふうの伝統的要素です。池の間(いけのま)に金剛界四仏を籠字(かごじ)であらわし、その下に梵文の真言を刻んでいますが、これはあまり類例を思いつかない珍しい意匠です。

 

 梵鐘を吊るす鐘楼の横には無縁墓地があり、数多くの石仏や板碑、五輪塔が集められていますが、ほとんどが中世戦国期の古い遺品なので、石造品の歴史も勉強した身としては色々と興味深いものがあります。応仁の乱の戦没者の関連品も相当数混じっているのではないかと思います。

 

 報恩寺は、寺伝では室町時代に一条高倉に開創したと伝わります。もとは法園寺または法音寺という天台・浄土の兼宗寺院でしたが,文亀元年(1501)に堀川今出川に移転,浄土宗報恩寺と改めました。さらに天正十三年(1585)に豊臣秀吉の街区再編事業により現在地に移され、享保・天明の大火に類焼したものの、いまに至っています。

 

 境内にあるこの丸い石、どうみても礎石なんですね・・・。かつての堂宇のそれでしょうか。

 

 さらに気になるのが、寺の山門である東門の建築です。寺院の正門にはめずらしい高麗門の形式です。屋根は近年に葺き替えられているようですが、鏡柱や控柱などの軸部はかなり古く見えますので、江戸期ぐらいの建物のようにみえます。寺でも案内文を出しておらず、京都府の指定文化財建築リストにも載っていませんので、実年代はもっと新しいのかもしれません。  (続く)

 


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中世上京を歩く その6 百々橋跡と宝鏡寺

2021年01月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 表千家不識庵の門前から南へ進みました。この辺りは景観保護の重点地域であるそうで、小川通の風景のなかでも歴史的な風情が保たれています。江戸末期を上限とする伝統的な京町屋の並びがよく残されています。
 これより南にも古い町屋は幾つかありますが、町並みとして一定の規模で残っているのはここだけです。そのためか、小川通の景色としてよく観光ガイド類で紹介されています。

 

 その古い町並みを南へ抜けると、右手に整備された史跡公園があります。その奥には寺之内通との辻があります。

 

 史跡公園の名前は「百々橋ひろば」といい、かつてここを流れていた小川(こかわ)に架かっていた寺之内通の石橋であった「百々橋(どどばし)」の礎石が記念碑のような感じで残されています。かつての橋の4基の礎石のうちの一つです。

 中世戦国期には小さな板橋であったこの橋は、応仁の乱のさなか、上京の合戦にて両軍の境目にあたることが多かったため、その占有は戦線の移動および陣場の確保に繋がったようです。それで、この小さな橋を巡っての戦闘が幾度も繰り広げられたといいます。
 その後、近世において石橋に換えられて昭和40年代まで架かっていた百々橋ですが、小川の埋め立て暗渠化にともなって撤去され、別の場所に移築保存されています。

 

 現地の解説板です。いま「百々橋ひろば」になっている範囲は、かつての小川の部分にあたります。史跡公園にするぐらいならば、ここだけでも埋め立てずに残せばよかったのに、と思うのは私だけでしょうか。

 ただ、百々橋のほうは近世以来の古い石橋であるため、車の通行には不向きであり、寺之内通の車道化にも支障をきたすために撤去されました。これは仕方のない成り行きであり、撤去後は部材を室町小学校にてしばらく保管したのち、昭和56年に開園した洛西の竹林公園に移築され、いまではその立派な石橋の姿を見ることが出来ます。
 その百々橋については、後日に洛西の竹林公園へ行って見学してまいりましたので、またレポートします。

 

 「百々橋ひろば」から寺之内通に出る辻の北西側に、上図の宝鏡寺が位置しています。皇室より内親王が入寺する門跡寺院のひとつで、「百々御所」の旧称をともないます。中世の応安年間(1368~1375)の開創といい、戦国期にも存在して「洛中洛外図」にも描かれます。「洛中洛外図」に描写される寺院が位置と法灯とを今に伝える稀な事例です。

 

 門前の案内板です。京都めぐりの観光客には「人形の寺」として親しまれ、女性に人気があるそうです。

 

 ですが、本来は門跡寺院ですので格式は高く、皇室はもちろん、足利将軍家の庇護を得て禅宗尼寺五山の筆頭に位置しました。その「百々御所」の伝統を受け継ぐかの如く、伽藍建築群も立派な構えをみせています。江戸期の天明八年(1788)の大火で相当の被害を蒙り、それ以降の復興事業で整備されたのが現在の建築群です。一括して京都市の指定文化財になっています。

 

 それとは別に、中世戦国期の様相をいまに伝えるのが、上図の建物です。境内を囲む築地塀の南東隅、百々橋の旧位置に接して物見櫓のような雰囲気をただよわせます。
 この建物の前身である櫓状の建物が「洛中洛外図」の同位置に描かれており、かつての宝鏡寺が要塞寺院として軍事的色彩にいろどられていた様子をうかがわせますが、その建物の外観を受け継ぐかのような姿で同じ位置に建物が残されて今に至るのも、京都らしさを感じさせます。

 

 寺之内通より、その宝鏡寺の南東隅の建物と百々橋跡、「百々橋ひろば」を見渡してみました。この狭い範囲が応仁の乱の激戦地であったのです。東西両軍あわせて6万余りの軍勢の最前線部隊がこの辺りで橋をめぐって争奪戦を演じていたわけですが、そんな戦場に隣接していた宝鏡寺が全滅せず、移転もなされずに今日まで維持されているところに、門跡寺院としての格と底力の何たるかが示されているように思います。
 宝鏡寺の公式サイトはこちら。  (続く)

 

 百々橋跡の地図です。

 

 宝鏡寺の地図です。

 


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中世上京を歩く その5 小川通の本法寺

2021年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 扇辻子すなわち清蔵口の交差点より南に進んで小川通を進みました。道幅は狭くなり、各所で折れています。豊臣秀吉の洛中街区再編による宅地の拡張により、多くの通りがこのように細くなりました。さらに近世期にも宅地拡張の動きが続いて、どんどん道が細くなってゆきましたので、平安京の頃には大路であったのが今では路地裏道になっているケースは少なくありません。

 

 小川通を進みました。右手には二階建ての長屋のような建物が続きます。位置的には本法寺の東側にあたりますので、寺の関連施設でしょうか。もともとは、この位置に小川が流れていたのですが、埋め立てて暗渠化しているため、その上に建つ施設は細長い形になります。

 

 南へ進むと、やがて右手にかつての小川の跡が見えてきます。水はすでに流れておらず、空堀のような形になっていますが、これが中世戦国期に小川通に沿って流れていた小川の痕跡です。

 

 この小川跡を正面とする寺が、本法寺です。現地はもとは足利将軍家の息女が入寺する尼寺であった大慈院の所在地で、「洛中洛外図」にも「南御所」と記されます。天正十五年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の一環として多くの寺院の移転および整理が行われ、一条戻橋付近に在った本法寺がここに移されてきました。

 

 本法寺は山号を叡昌山といい、室町期に創建された日蓮宗の本山です。永享八年(1436)に東洞院綾小路に設けられた「弘通所」を開闢の地とし、その後破却と再建を繰り返し、位置も四条高倉、三条万里小路、泉州堺、一条戻橋付近と転々としたのちに現在地におさまっています。
 上図は小川通に面する山門の仁王門で、江戸期の建築です。この仁王門も含めて寺の主な建物はみな京都府指定有形文化財に指定されています。

 

 仁王門をくぐり、ちょっと境内を歩いてみました。十数年ほど前に塔頭の教行院が何かの催しで特別公開されたのを見に行った記憶があります。長谷川等伯ゆかりの地のひとつで、宝物館にも彼の作品の複製が展示されています。
 本法寺の公式サイトはこちら

 

 今回は寺の見学が目的ではないので、すぐに引き返して仁王門を出て、その前の石橋を見ました。これが小川に架かっていた石橋で、そのまま往時の姿をとどめています。かつての「南御所」大慈院の遺構とする説があるようですが、橋そのものはそこまで古くはないと思いますので、本法寺の移転整備にともなう新造の橋だろうと推定されます。

 

 小川通より石橋、そして本法寺仁王門を見ました。小川通は上京のメインストリートの一つで、東の室町通と並ぶ西側の南北路であったため、多くの寺院や屋敷はこの小川通に正面を向けています。本法寺も例外ではなく、東に正面を向けて小川通に面しています。

 

 本法寺からさらに南へ進むと、左手に表千家不識庵の表門があります。文政五年(1822)に紀州10代藩主徳川治宝の不審庵御成りにあたって紀州徳川家が建てたもので、櫓門の形式を示します。徳川治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、表千家9代の了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していたほどに親密な関係でした。

 ですが、個人的にはこの表千家不識庵の敷地が室町期には細川典厩家の屋敷地であったことのほうに関心があります。細川典厩家は、管領細川京兆家と並ぶ細川氏の嫡家で、代々の官途が右馬頭(うまのかみ)であったため、所轄の馬寮(めりょう)長官職の唐名である典厩を称しました。

 その細川典厩家の屋敷地の中心部が平成十六年に発掘調査され、溝や柵列や通路とみられる空間の痕跡が確認されました。出土遺物は室町後期の土器、磁気類が主でしたが、中国製の陶磁器類が多く、青磁大皿などの優品が含まれていました。これによって有力者層の邸宅跡であることが確かめられ、「洛中洛外図」にも描かれる細川典厩家の屋敷地の一端が明らかになりました。
 その南隣が室町幕府の管領職をあずかった源氏の名門中の名門、足利氏支流の細川京兆家の屋敷地でありましたが、その範囲での発掘調査事例は、残念ながらまだ無いようです。  (続く)

 


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中世上京を歩く その4 妙覚寺と小川通

2021年01月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 上御霊前通を西へ進むとまもなく、かつての京七口のひとつであった清蔵口の交差に突き当たります。ここで南北に通る小川通と交わりますが、その辻の北東に広大な寺地を構える妙覚寺があります。上図は上御霊前通に面する妙覚寺の大門です。

 

 上図の説明板にあるように、寺伝によれば天正十八年(1590)に豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文三年(1663)に当地に移建したものとされています。

 

 ですが、実際に建物の細部を見たところでは、古材が混じっており、もう少し建築年代が遡るかもしれません。いずれにしても織豊期の建築であることは間違いないので、寺伝にしたがえば西本願寺飛雲閣、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構であることになります。
 上図のように、両潜(りょうくぐり)扉がつけられる点は城郭の門の特徴のひとつです。梁の上には束が無いので一定の空間がありますが、俗に伝えられるところの伏兵を隠す場所であったかは確証がありません。

 

 この門建築の立派さは内側からみてもよく分かります。寺院の門には不釣り合いなほどの大きな間口、太い四脚と長い長押が目立ちます。屋根を支える小屋組みに江戸期の追加工作が加わっていますが、要するに移築前の姿とは少し変わっているのでしょう。この規模の門にしては造りがやや地味ですが、聚楽第の裏門だったのであれば違和感はありません。

 

 大門からは本堂が望まれます。京都の多くの古刹がそうであるように、この妙覚寺も何度か移転しています、創建時には四条大宮に在りましたが、二条衣棚、泉州堺と移転し、三度目に二条衣棚の旧地に戻りますが、天正十年(1582)6月2日の本能寺の変にて本能寺に次ぐ明智光秀軍の攻撃目標となりました。変の当日に織田信長の嫡男の織田信忠がこの妙覚寺に泊まっていたためです。
 しかし、信忠が明智の謀反を知って二条御所へ移動し、敵を迎え撃ったためか、妙覚寺に戦火が及んだ形跡は史料の上では確認出来ていません。明智勢によって放火され焼失したのは本能寺と二条御所の一部、としか諸史料には書かれていないからです。

 織田信長といえば、本能寺によく泊まったというイメージがありますが、実際にはこの妙覚寺のほうが京滞在中の定宿でありました。本能寺に斃れるまで信長は20度余り京に滞在していますが、本能寺に泊まったのは3度だけで、妙覚寺には18度も滞在しています。つまりは妙覚寺のほうが信長にとっては居心地が良かったわけでしょう。

 なにしろ、妙覚寺は、信長の岳父であった斎藤道三入道秀龍の父松波庄五郎が出家得度したところです。したがって斎藤道三とも関係が深く、信長が泊まった頃の住持十九世の日饒は道三の四男でした。つまり日饒は信長の義弟にあたるわけで、要するに織田家の縁戚の一人でした。
 20度余りの京滞在のうちに18度までを妙覚寺で過ごしたのも、信長にとって斎藤家ゆかりの寺であり、とりわけ懐かしい岳父道三の思い出が鮮やかであったからでしょう。

 

 妙覚寺を辞して清蔵口の交差点に行きました。上図の通りが小川通で、かつてはこの西側に沿って小川(こかわ)が流れていたため、扇橋と呼ばれる橋も架けられていました。現在の当地の地名も扇町で、中世戦国期には扇辻子(おうぎずし)と呼ばれた場所です。

 辻子とは平安期以来の言葉で交差点を指しますが、中世戦国期にはこの扇辻子、清蔵口に上京の惣構の門が置かれていました。ここから南に続く小川通は、管領細川京兆家の屋敷に面した上京のメインストリートの一つでしたから、足利将軍以下幕府重臣、諸国守護も行き来していた筈です。

 

 その小川通を、かつての扇辻子、清蔵口より見たところです。  (続く)

 

 妙覚寺の地図です。

 


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中世上京を歩く その3 上御霊前通

2021年01月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 上御霊神社の西口から西へ引き返しました。もと来た道を今度は西へたどることにしました。

 

 この道が上御霊前通であることは、烏丸通との交差点に建つ標識にも示されています。中世戦国期にはこの通りが上京と洛外を限る境界線にあたり、この通りから南側が当時の「洛中」にあたる地域でした。
 「洛中洛外図」の上御霊前通の描写をみると、通りに沿った南側に土塀が連なります。いわゆる上京の惣構の土塀にあたります。

 

 ですが、現在は烏丸通の両側で上御霊前通の旧路が市街地化し、上御霊前通は北へややずれてしまっています。それで室町通との辻まではクランク状になっています。その辻の西側には上図の生谷家住宅が位置します。築140年余、京都市内でも数少なくなった京町屋の遺構として、国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的意匠建造物に指定されています。
 この生谷家住宅の前を南へ進むことで上御霊前通のルートに戻ります。

 

 これが現在の室町通からの上御霊前通です。車一台やっと通れるかという幅です。中世戦国期には広かった道も、それ以降の近世期において宅地に浸食されてしまっています。戦国期にはこのあたりに零細かつ雑多な階級の住民が多く暮らしていたことが文献史料類からもうかがえますので、街路の宅地化はすでに戦国末期には進行していたようです。その後の豊臣秀吉による街区街路の再編成、再開発事業も大きく影響した筈です。

 

 「洛中洛外図」ではほぼ真っ直ぐに描かれる上御霊前通ですが、現在は幅も半分以下となり、宅地の拡張をあちこちで受けて道が狭まるだけでなく、屈折してしまいます。

 

 衣棚通との交差点で大きく食い違いになって北へ寄ってしまいます。地図でみると通りの東西軸線はそれ以上北へはずれませんので、たぶんこの辺りの道の北辺が、かつての「洛中洛外図」の上御霊前通の北辺に近いのでしょう。
 この辺りから南は中世戦国期の上京の街区となり、室町幕府の有力被官層の屋敷地が並んでいました。例えば上図の辻で左折して衣棚通を南下すれば、戦国期の松永弾正の屋敷地の西側を通ります。

 

 さらに西へ進みました。ゆるやかに北へカーブしていますが、これも南側から宅地が膨らんで旧街路を浸食していった結果でしょうか。その道の北辺が、いまの上御霊前通の北限であるので、「洛中洛外図」の上御霊前通は、南にもっと広げた姿でイメージ出来ます。  (続く)

 


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中世上京を歩く その2 応仁の乱旧跡

2021年01月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 上御霊神社境内の御車庫の脇に、応仁の乱旧跡の碑と案内板が建ちます。十数年前にここに参拝した時には無かったと思いますので、最近に建てられたもののようです。この区画だけがなにか真新しい感じであるのも、気のせいではないのでしょう。

 

 周知のように、この神社が応仁の乱の発端となった上御霊社合戦の旧跡にあたります。室町幕府の重要ポストであった管領職をめぐっての畠山氏の内紛にて、畠山政長がここに陣場を構えたため、対立相手の畠山義就が攻め寄せて合戦となったのです。
 この内紛に際して、将軍の足利義政が調停して両畠山氏への支援を停止させたにもかかわらず、双方とも義政の命令を無視して実力行使に及んだわけです。管領の候補者が上司の将軍の指示に従わないという異常な状態でしたから、細川勝元、山名持豊ら二大有力者の工作が功を奏しなかったのも無理はありませんでした。

 かくして文正二年(1467)1月18日の払暁、畠山義就率いる三千が上御霊社に突入、境内に陣取る畠山政長および筒井成身院順宣の三千と激突しました。夕方まで両軍は競り合いましたが、次第に義就側が優位を占め、斯波義廉および山名政豊の援軍を得て政長を敗走せしめて勝利を得ました。

 

 傍らの案内板に、当時の上京の状況や街区の概要が示されています。いまの京都においては全てが市街地の下に埋もれ、確認された遺跡も断片的でしかないため、私のように中世戦国期の歴史や室町幕府史を勉強している身でもいまひとつピンと来なかったり、現地の歴史的イメージがあまり掴めなかったり、ということがよくあります。せめて模型でジオラマ的に再現してくれると有り難いのですが・・・。

 

 上御霊神社の南門は、伏見城の四脚門を移築したものと伝わりますが、いまの建物は社寺の門の形式を示しています。伏見城からの移築云々が事実であるならば、その古材を転用したというのが実態に近いかもしれません。
 それよりも、普通はこの南口が神社の正面になりますが、前述のとおりこの神社は西面していますので、この南門は単なる脇口ということになるでしょう。上御霊社合戦当時の境内地の様子は分かっていませんが、畠山義就勢が攻めかかったのは南側からであったといいます。当時もこの南口は存在したのでしょうか?

 

 というのは、上御霊社合戦当時、神社境内の南側には隣接する相国寺の「藪大堀」つまり藪と大堀があり、西側には今出川が流れていて、西と南は天然の防御線がしかれていたからです。畠山政長も、この防御性を頼んでここに立て籠もったわけですが、その「藪大堀」に向かって出入口が置かれていたのだろうか、という疑問があります。さらに、畠山義就勢はこの南側の「藪大堀」を越えて境内地に突入したのだろうか、という疑問も加わります。

 上図は現在の境内地の南側で、南門の前を通る上御霊前通が東の加茂街道まで続きます。かつてはここまでが相国寺の境内地であったそうなので、「藪大堀」もこの辺りにあったのでしょう。この辺りだけ、道路の幅が広いのも示唆的です。

 

 神社境内地の南側には、いまも土塀と上御霊前通にはさまれた低地が細長く伸びています。かつて境内地を護った堀の跡なのでしょうか。どうもよく分かりません。

 ちなみに相国寺の「藪大堀」に関しては、それを裏付ける遺跡も確認されていませんが、相国寺旧境内地の西辺では2011年に戦国期の二重堀が検出されています。16世紀代の土器をともなっていますので、15世紀代の上御霊社合戦とは無関係ですが、相国寺が四囲に堀を回していた様子がある程度うかがえます。

 

 再び境内に戻りました。拝所および本殿が西面している現在の構えが応仁の乱当時のままかどうかは分かりません。なにしろ当時は、南側には相国寺の「藪大堀」があり、西側には今出川が流れていましたから、北と東にしか開けていなかった筈です。畠山義就の軍勢も北および東から攻め寄せていますから、当時の神社の正面が今とは別の方位にあった可能性も考えられます。

 

 現在の本殿です。昭和45年の建立で、旧建築の享保十八年(1733)寄進の内裏賢所御殿を踏襲復原したものと伝わります。それ以前の社殿の様子は不明ですが、少なくとも上御霊社合戦によって当時の社殿は炎上したと伝記にありますので、それ以降の再建による構えが今に受け継がれているものと思われます。  (続く)

 


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中世上京を歩く その1 上御霊神社へ

2021年01月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年10月15日、久しぶりに京都の歴史散策に出かけました。テーマは、中世上京の二つの通りを歩いてみる、でした。二つの通りとは、上御霊前通と小川通です。まずは上御霊前通からたどってみるべく、地下鉄烏丸線の鞍馬口駅で降りて南口から地上に出て、烏丸通をひとつ先の辻まで南下しました。その辻の北東隅に、上図の案内標識が立っています。

 

 案内標識の矢印にしたがって、御霊神社への道を進みました。これが上御霊前通で、奥に御霊神社の西鳥居が見えていました。

 

 御霊神社の西口に着きました。京都御苑の南に位置する御霊神社との区別称である「上御霊神社」のほうで広く知られる神社です。御覧のように西が正面にあたって鳥居の奥に楼門が建ちます。

 

 鳥居の脇に立つ説明板です。

 

 楼門は、江戸期の寛政年間(1789~1801)の再建ですが、江戸期建築にしては小ぶりで組物も古式です。再建前の旧建築の様相を踏襲しているようです。御霊神社は本来は南面していたと思われるのですが、現在は拝殿や本殿の並びが西に向いています。その理由については御霊神社のほうでも不詳としているように聞きましたが、中世戦国期に西の上御霊前通が上京の北の境界道として機能したことに対応したからではないか、と個人的には推察します。

 

 境内にある松尾芭蕉の句碑です。「半日は神を友にや年忘れ」とあります。元禄三年(1690)12月に参詣した際に奉納した句ですが、実際に半日もここで過ごしたのでしょうか。

 

 楼門をくぐると拝殿そして拝殿の柱間に本殿が望まれます。京都市の神社には珍しい西向きですが、おそらく神社の一つの盛期が中世戦国期に有って、西の上御霊前通をメインストリートとした経緯に拠るのでしょう。平安京衰退後に街区が再編または新設されて室町幕府の中枢が上京に置かれた歴史とも密接に関連すると思われます。

 

 境内の南西隅に建つ御車庫です。後陽成天皇より寄附された牛車が納めてあるそうです。皇室の菊花紋が神々しく輝いています。神社の祭神は早良親王(祟道天皇)で、社伝によれば延暦十三年(794)5月にその御霊を桓武天皇がこの地に祀ったのが始めとされます。皇室との縁が深い古社のひとつです。

 

 扉前の木柵に付けられていた、牛車の写真と説明文です。  (続く)

 

 上御霊神社の地図です。

 


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宇治巡礼10 浄妙寺跡

2020年08月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治市の木幡地区は、かつては藤原氏の墓所として知られ、いまも「宇治三七陵」と呼ばれる陵墓が広い範囲にわたって散在しています。藤原摂関家の代々、例えば藤原兼家や道長、頼通らも葬られていますが、現在では所在地が分からなくなっていて、どの陵墓が誰の墓であるかが不明になってしまっています。

 かつて、藤原道長が、父兼家とたびたび木幡の先祖の墓所を尋ねた際に、古い塚が並んでいるものの仏事供養も行われずに荒廃していて、誰の墓かも分からなくなっているので思わず涙してしまった、と日記「御堂関白記」に述べています。
 似たような経験を、道長のライバルであった藤原伊周もしています。彼の父藤原道隆の卒塔婆を建てて葬った場所へ一年後に詣でたところ、沢山の塚や卒塔婆があったので、父の墓がどれなのか分からなくなってしまったそうです。

 当時の貴族は「穢れ」を忌み嫌う傾向があり、動物の死骸を道端で見ただけでも「穢れた」と認識して仕事を休むのが常でした。親や親族の死体でさえ「穢れ」の対象であり、葬儀や埋葬に直接携わることが無かったのですから、墓が荒れ放題になる、親の墓の位置が分からなくなる、というのは当然でした。

 ですが、さすがに藤原道長はこのままではいけないと考えたのでしょう。荒れ放題の宇治陵に眠る先祖代々の霊を鎮め、かつ一門子孫の人々を極楽に引導すべく、一堂を建立して三昧を修めることを決めました。その一堂というのが、いまの木幡小学校の位置にあった浄妙寺でした。
 その浄妙寺は、上図のごとく、いまは遺跡として校地の地下に保存されており、木幡小学校の南側通用口の傍らに標柱が建てられています。

 

 浄妙寺跡の遺跡案内板は、木幡小学校の西通用口の脇に立てられています。創建は寛弘四年(1007)で、本堂にあたる三昧堂のほかに多宝塔、築地塀などがあったことが発掘調査によって明らかになっています。

 最近の発掘は平成22年に実施されましたが、その現地説明会には私も行きました。このときの検出遺構は築地塀や南側の旧堂ノ川の川床跡で、寺の南限が確定されました。現地の字名が「ジョウメンジ」であるのも、浄妙寺の読み「ジョウミョウジ」の名残です。

 

 木幡小学校の西通用口の脇に立てられる遺跡案内板は、御覧のように風雨にさらされて褪せてしまい、読みづらくなっています。最近の発掘調査の成果も反映されていませんので、リニューアルが望まれます。

 

 宇治市立源氏物語ミュージアムにある、浄妙寺の復元想像図です。昭和42年の発掘調査で検出された三昧堂の遺構をもとにして描かれています。藤原氏の葬送地である宇治三七陵のほぼ中央に位置しており、藤原道長が建立した寺としては最初の例となります。

 藤原道長の寺といえば、豪華絢爛を極めた法成寺のことがよく挙げられますが、浄妙寺はそれ以前に建てられた藤原摂関家の氏寺でありました。権力を手にした道長が、一門をまとめてゆくうえでの精神的支柱および宗教的象徴として建立し、宇治三七陵の墓守寺としての性格も担っていたものと思われます。

 浄妙寺は、室町時代の寛正三年(1462)の土一揆で焼かれて廃絶しました。もし現在に残っていれば、藤原頼通の創建した平等院とともに、摂関家の記念塔として国宝に指定され観光地となっていたのは間違いありません。

 


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宇治巡礼9 宇治上神社

2020年08月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 源氏物語「宇治十帖」に登場する八ノ宮の「宇治山荘」のモデル地として宇治神社と共に親しまれている宇治上神社は、宇治神社境内地から約50メートルほど東へ登ったところにあります。その境内地は狭く、宇治神社の半分ほどしかありませんが、山裾の傾斜地にあたって各所には磐座とみられる巨石が点在し、かつては磐座信仰の拠点としてはじまった祭祀スポットであったことを思わせます。当然ながらルーツは原始時代にさかのぼるとみられます。

 

 境内地の奥の傾斜地に建つ本殿は、御覧のように桁行五間、梁間三間の平面規模をもつ流造、桧皮葺の建物で、内部に一間社流造の内殿が3棟並びます。2004年2月の建築部材の年輪年代測定調査により、藤原時代11世紀の半ば、1060年頃の建築と判明し、現存する最古の神社建築であることが確定しています。
 
 宇治川をはさんでむかいあう平等院が永承七年(1052)の創建であり、その平等院の鎮守社に指定されたことと考え合わせれば、藤原氏による神仏一体の整備事業として宇治上神社も平等院と同時期に現在の姿に整えられた可能性が浮かび上がります。

 江戸期までの日本では神仏混交の状態が普通でしたから、寺社を建てる場合は、たいていワンセットでの建立や整備を行っています。神宮寺や鎮守社の位置にあればなおさらで、宇治において平等院を創建する際にも鎮守社の整備は不可欠だった筈です。
 宇治神社および宇治上神社は間違いなく平等院よりずっと前から境内地も建物も存在していた筈ですが、だからこそ、藤原頼通は平等院を創建するにあたって宇治川をはさむ対の位置に寺地を定めて、その二神社を鎮守社にしたのでしょう。したがって何らかの再整備を行ったはずです。現存する宇治上神社本殿と平等院の建築が同時期であるのも偶然の一致ではありません。

 そして、この寺と神社が、当時の面影を今にとどめて立派に現存しているという、日本でも稀有の文化財保存状況になっています。紫式部が生きた時期より僅かに半世紀ほど後の建築であり、源氏物語の世界観の舞台でもあります。宇治における歴史観光の最大の魅力であると言えましょう。

 

 祭神は3柱、本殿内に並ぶ内殿の左棟に菟道稚郎子命、中棟に応神天皇、右棟に仁徳天皇が祀られます。応神天皇は菟道稚郎子命の父、仁徳天皇は兄にあたります。3棟の内殿のなかで左棟がやや古いため、建設は左棟から始められたのではないかと思われますが、それは祭神が宇治の産土神ともいうべき菟道稚郎子命であるからでしょう。

 

 本殿とともに国宝に指定されているのが、本殿の前下に建つ上図の拝殿です。切妻造、檜皮葺きで、桁行六間、梁間三間の母屋の左右に各一間の庇を付けます。これに応じて切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設けるため、切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がりますが、この形を縋破風(すがるはふ)と呼びます。
 母屋の周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部には板床と天井を張ります。扉には蔀戸を多用しており、藤原時代のいわゆる寝殿造と呼ばれる住宅風の構えを示しています。

 

 なので、建物自体は鎌倉時代前期の造営ですが、もともとは本殿と共に建てられた藤原時代の拝殿を踏襲して建て直したものであるかもしれません。上図のように背後から見ますと、これが神社の拝殿かと思うような、あまり拝殿らしくない優雅さと、いかにも王朝絵巻に描かれる邸宅の構えを示しています。

 源氏物語ファンが、作中の世界観に一番ひたれる建築遺構である、とするのも誇張ではありません。まさに八ノ宮の隠棲した「宇治山荘」もこんな感じの建物だったのだろう、と思わせます。
 なので、「宇治十帖」の聖地巡礼においては最も人気がある場所となっていますが、それ以上に、平等院と合わせて藤原時代全盛期の寺社の遺構が現存する場所、という点では日本でも唯一のエリアでもありますから、世界遺産の構成要素に指定されて、外国人観光客にも人気があるのも頷けます。

 一般の観光客は、平等院には必ず訪れますが、宇治上神社まで行く人は距離の関係であまり居ないと聞きます。ですが、宇治の歴史と文化的風土を時系列で俯瞰した場合は、宇治上神社のほうが古いですから、まずは宇治上神社に参拝して、それから朝霧橋を渡って平等院に行く。その順で巡るとより藤原時代王朝文化のロマンにもひたれる筈です。

 源氏物語の聖地巡礼ルートがその順路になっているのも、「宇治十帖」の世界観での物語が現実の宇治の歴史状況をそのままなぞっているからでしょう。宇治上神社は、八ノ宮の「宇治山荘」のモデル地としてルートの要の位置にあります。ヒロイン三姉妹の大君、中君、浮舟たちのロマンスをしのぶのにも最適の場所でしょう。

 

 宇治上神社の地図です。


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宇治巡礼8 宇治神社

2020年08月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 源氏物語「宇治十帖」の舞台モデルといえば、多くの源氏物語ファンや巡礼者は第一に宇治神社を挙げるそうです。作中に登場する八ノ宮、その三人の娘たちをとりまく人間模様の後半が、八宮の隠棲地である「宇治山荘」を舞台として繰り広げられますが、その「宇治山荘」のモデルが宇治神社であるとされているからです。

 上図は、去年2019年の9月に訪れた際の写真で、宇治神社の大鳥居がまだありません。2018年9月の台風21号で倒壊してしまい、基礎石だけを残して撤去されていたからです。そして2019年12月25日に新たに建て直されましたが、その写真をまだ撮っていません。

 

 大鳥居から参道を登っていくと、拝殿である桐原殿を経て、上図の二の鳥居と本殿中門に至ります。この境内地一帯が、付近では最も広い平坦面であり、藤原時代における公卿階級の邸宅地にも相応しい面積があります。
 
 一般的には奥の宇治上神社を「宇治山荘」のモデルとするようですが、宇治上神社の境内地は山裾の傾斜地であり、貴族の邸宅を造るには適しない地形です。紫式部による作中の舞台描写をみると、例えば「橋姫」では「網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて」とあり、「椎本」では「宇治山荘」に関して「水に臨きたる廊に造りおろしたる階」があったと述べています。つまり、宇治川に近い場所にあり、川辺に廊(通廊)や階(建物)があったわけですが、そういう邸宅を建てるならば、宇治上神社の境内地では遠すぎます。宇治神社の境内地ならば可能となります。

 

 本殿は鎌倉後期の三間社流造で、檜皮葺です。国の重要文化財に指定されています。建築の細部に古式を踏襲したあとがみられますので、もとの平安期の本殿の造りを受け継いで造替されているのかもしれません。
 この種の社殿としてはかなり背が高い建物ですので、御覧のように周囲から玉垣越しに見る事が出来ます。

 

 祭神は菟道稚郎子、応神天皇の三男にして皇太子に立てられたものの、異父兄の大鷦鷯尊に皇位を譲るべく自殺し、その大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇となったというストーリーにて知られます。実際には宇治を本拠とする和邇氏の娘を母に持つ菟道稚郎子が、河内・難波を地盤とする大鷦鷯尊との後継者争いに敗れて自殺させられた、ということでしょう。
 その菟道稚郎子の像とされる神像が、本殿内陣に安置されています。平安期の作で国の重要文化財に指定されています。

 紫式部えがくところの八ノ宮は、この菟道稚郎子がモデルになっているようです。兄弟間の皇位継承問題に悩まされたことや、宇治に隠棲したことなどが共通要素として挙げられるからです。
 さらに、宇治神社の通称である「離宮社」は、当地がもとは菟道稚郎子の「桐原日桁宮」または「菟道宮」の跡地であることに因みます。そして神社の真東の朝日山に菟道稚郎子の墓所がありますから、宇治神社というのは、菟道稚郎子ゆかりの地であるわけです。
 なので、八ノ宮の「宇治山荘」も、「桐原日桁宮」または「菟道宮」のイメージがモデルになっているのでしょう。

 

 境内地の南側に並ぶ摂社群です。右より春日社、日吉社、住吉社です。春日社は古い建物で、京都府の指定文化財になっています。

 ですが、多くの源氏物語ファンや巡礼者は、春日社の右手にある石列群のほうに向かいます。遥拝所の木札が立つその場所が、パワースポットとして有名になってきているからです。「願いうさぎ」と呼ばれるウサギの置物もあって人気を呼んでいるようです。

 

 宇治神社の地図です。


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