「ふじやま温泉」を辞して富士急「ゆるキャン△」コラボ施設巡りを完了しました。時刻は12時過ぎでしたので、昼食をとるべく、上図の蕎麦屋「承知庵」に行きました。国道139号線河口湖バイパスの東恋路交差点の西方に位置します。
「ゆるキャン△」とは無関係ですが、地元では名店の一つに数えられます。富士吉田の老舗菓匠「金多留満」の三代目当主が趣味で始めたお店だそうですが、けっこう評判になっているようで、八王子からきた企業重役らしき一行、静岡から来た大学生の四人組、甲府から来た老夫婦、らが同時刻に来て食事していました。店主が自ら給仕をつとめつつ、賑やかに話しかけ、色々と語るので、聞いていて面白かったのですが、客の全てに必ず「どこから来られた」と尋ねるので、どこから来店したかが周りにも分かってしまうわけでした。
店内は古民家風で落ち着いた感じです。京都ではこの種の食事処が多いので、なんとなく懐かしい気分にもなりました。私は唯一の個人客でしたが、店主さんは他の客と同じように賑やかに話しかけてきました。
まず、席に伝票をいきなり差し出して、「おすすめは青い所です」と言われたのには驚きました。なんと、客が自分で伝票に注文数を書くシステムでした。
とりあえず「ざる蕎麦」の欄に「1」と記入すると、重々しく頷いて「100 パーセント玄そばです。食後に甘味を出します」と言われました。
「あの、甘味というのは・・・」
「こちらの「はまなし」です」と、上図右の表札を示しました。皇室献上の品であるようで、土産物として販売もしているそうです。現に、来店客の大半はそれが目当てらしく、食後の精算時にその菓子包を買っていました。
「ところで、どちらから来られたな」
「京都です」
「おおう、これはまた遠くからようこそ。関西のお人は珍しいよ」
「はあ・・・」
「なら、こういうのには親しみありますかな」
そういって、上図の古そうな高級漆器や調度品を紹介し、説明して下さいました。話好きなお方のようでした。
今回いただいた「ざる蕎麦」1900円です。出された品をしばし眺めていると、重々しく「信越の蕎麦粉をブレンドしてます。水はここ富士山麓の湧水を使います」と横で説明して下さいました。はあ、と少し緊張しつつ頭を下げるしかありませんでした。
「それから蕎麦のこの器ですが、これは一刀彫の品、漆も選び抜いてます」
まるで器も自ら製作されたような話し方でした。伝統的な菓匠の御当主ならば、それぐらい当たり前なのだろうな、と思いつつ、器だけでなく、角盆も一刀彫の良い品であることを見てとりました。表面の深みのある朱漆にも気付きました。
「これは、木曽の漆ですか」
「おおう、お分かりか」
「はい、春慶ですね」
「そう、そうです。こういうのが分かる・・・、お兄さんは詳しいのかね」
「いえ、少し文化財や伝統工芸とかを学びましたので・・・」
「おおう、なるほど。やっぱりな」
何が「やっぱり」なのかよく分かりませんでしたが、店主さんは大いに納得の御様子でした。「写真もどうぞ撮っていきなさい」と上機嫌ですすめられました。
十割蕎麦ですが、なめらかに仕上げてあって味にも深みがありました。蕎麦湯はとろみが無く、白濁の度合いが濃いものでした。つなぎを使わずに丁寧に打ち込みしてある蕎麦だということが、よく伝わってきました。美味しくいただきまして、温泉からひきずってきた淡い眠気も吹き飛びました。
「承知庵」のサイトはこちら。
「承知庵」を辞して、国道139号線の鳴沢分岐で県道71号線に進み、富士の西麓の樹海のなかを延々と走りました。途中で、上図の本栖湖を望む展望所駐車場にて小休憩しました。富士山そのものは、その中腹にいるせいで見えませんでした。
ひたすら南下して富士宮市に入り、上井出まで行って、上図の旧陸軍少年戦車兵学校跡地に入りました。昨日訪ねる予定でしたが、雨に降られたため今日の訪問地に加えてあったのでした。
ここに、日本の戦車部隊の養成機関であった陸軍少年戦車兵学校が置かれて広大な敷地内に数多くの施設を構えていました。北の朝霧高原一帯が演習場でした。
陸軍少年戦車兵学校そのものは、昭和14年に千葉の陸軍戦車学校内に設置されましたが、昭和17年に現地に移転しています。以来、約4000名の戦車兵を養成し戦場に送り出しています。
ここの初代校長が、ガルパンの知波単学園チームの玉田ハルの元ネタとなった玉田美郎少将であることは、ガルパンファンの間では基礎知識の一つとなっています。
跡地の一角には、若獅子神社が建立されています。太平洋戦争で戦死した陸軍少年戦車兵学校の教官および生徒600余名の英霊を祭神として祀っています。
若獅子神社の公式サイトはこちら。
境内地の一角には、慰霊塔のほか、「帰還戦車」と呼ばれる九七式中戦車が安置展示されています。サイパン島に進出して全滅した戦車第九連隊所属の57mm砲搭載型で、戦後に二両が日本に返還されて一両はこちら、もう一両は東京の靖国神社遊就館に展示されています。
九七式中戦車の要目説明です。御覧の通りです。戦時中は「チハ」と呼ばれることが多かったそうです。ガルパン劇場版にも登場し、知波単学園チームの所属車輌であることもふまえて「チハたん」の愛称で親しまれます。
安置展示車両は、サイパンの戦場にて撃破された状態のままで返還され、幾度の改修が行われていますが、経年劣化および錆の進行は断ちがたく、また心無い人々による破損もあったりで、相当痛んできているようです。
ですが、太平洋戦争を通じて旧陸軍の主力戦車であったことは、その堂々たるスタイルからも偲ばれます。用兵思想の差異の故に不本意な戦闘を数多く強いられて悲しい歴史を刻んだことはともかく、当時においてこれだけの戦車を作れた事自体は、技術史の観点においては注目し誇っていいことだと思います。
砲塔は左に向けられ、主砲はやや下に向けられた状態です。この車輌の最後の瞬間が凝縮されたままなのでしょうか。ガルパン劇場版では、いわゆる旧砲塔型として登場しますが、ガルパンの劇中車は意図的に車台を新砲塔型のそれと交換してありますから、こちらの展示車輌とは厳密には違います。
ですが、国内にたった二両しか現存しない貴重な実車です。ガルパン劇場版の知波単学園チームの戦車の原資料として見る価値は大いにあります。
転輪の一部にはタイヤゴムも残っています。よく残っているなあ、と思いました。全体的に保存状態は悪化しているようで、大部分の転輪の風化破損が著しいです。
車体の各所には、戦闘での被弾箇所がチョークらしき白線で囲まれて示されていますが、多くは貫通していて、この戦車の装甲が米軍の小火器にすら抜かれる程度のものだったことが理解出来ます。
元戦車兵だった方の話では、機関銃の弾が車内にも飛び込んできて負傷する兵が多く、それで戦車が停止してしまって撃破されるケースが多かったそうです。
厳粛な気持ちで見学し、武運つたなく散った数多の戦車兵の魂に深く頭を下げ、しばらく合掌しました。なので、記念の自撮り画像でも、厳粛な表情のままおさまりました。
私は、20代後半から30代前半にかけての約十年ほど、家族親戚に海軍関係者が居て多くは第一機動艦隊に所属した関係で、その関係者および遺族の団体にも参加した時期がありました。祖父は第三艦隊第四航空戦隊の航空戦艦「伊勢」、大叔父の一人は第二艦隊第一戦隊の戦艦「長門」、大叔父の一人は第653航空隊に属して空母「瑞鶴」より発艦した最後の空母攻撃隊の一員でした。
その関係で、七年ほど、南太平洋各地の戦跡での遺骨収集事業に参加しまして、約110柱ぶんの遺骨を持ち帰りました。大部分は千鳥ヶ淵の戦没者霊苑に納めましたが、稀に遺族が判明した事例もあり、先方に遺骨遺品をお渡しする機会も二、三度ありました。
そうした日々のなかで、各地の戦跡にて何度か九七式中戦車の無残な骸に接し、かの地に眠る戦死者たちの供養塔も数多く見てきました。落涙と祈り無しには居られない場所、遺物ばかりでした。
なので、日本軍の戦車にはどうしても厳粛な気持ちを抱かずにはいられません。脱帽のうえ襟を正して直立し礼拝合掌の儀を欠かすことは出来ません。こちらの現存戦車も、いままで一度も拝んだことがありませんでしたから、この機会にお参りせねば、と固く決めて現地にやってきた次第でした。
こういう私ですので、趣味の一つとして楽しんでいるガルパン戦車プラモデルにおいても、知波単学園チームの九七式中戦車や九五式軽戦車に関しては、特別の心情を拭えず、なかなか作る気分になれないでいます。もう少し時間が必要だなあ、と思っています。 (続く)