気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

レオポンさんチーム ポルシェティーガー 完成です!!

2015年01月31日 | ガルパン模型制作記

 車体の細部の塗装を行いました。前部の機銃やOVM類の金属部分は28番の黒鉄色で、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。砲塔の同軸機銃とジャッキと消火器は、公式設定資料図や劇中シーンを見ても車体色と同じであるので、グレーグリーン塗装のままとしました。
 車輪部分は、前回の記事で述べたように、グレーグリーンのグレー沈殿分を取り出して混ぜてから吹き付けましたので、車体色よりも明るめの色調に仕上がりました。


 公式キットにはガルパンデカールがついています。レオポンさんチームの自動車部の四人もデザインされています。


 今回使用したのは、1番の大洗校章が一枚、3番のレオポンさんマークが左右二枚、でした。


 デカールを貼りました。右側側面観はこんな感じで、この戦車唯一の大洗校章が明るく浮かび上がっています。


 左側の側面観です。OVM類がセットされているために、こちら側には大洗校章が貼れなかったのでしょうね・・・。


 正面観です。実際のドイツ軍でも最強クラスの攻撃力を誇った重戦車の迫力がみなぎっています。もちろん、大洗女子学園チームにおいても最強の戦車です。


 後ろから見ました。ガルパン仕様への追加工作や改造は、今回は可能な限り試みましたので、再現度はかなり高いと思います。


 このアングルから見ると、88ミリ主砲の長さが際立って見えます。砲塔が車体前部に位置しているためでもありますが、主砲が前に突き出していると、攻撃的な頼もしさが感じられます。


 とにかく車体が大きいです。これまで作ったキットがみんな中戦車と軽戦車でしたから、それらに比べるとパーツも大きくてゆったり感があり、チマチマと作っている気がしませんでした。


 吸気口のメッシュ部分にも余り違和感がありませんでした。100円のアイロンシートにも思わぬ利用法があるものですね。専用のエッチングパーツを使ったら、幾らかかるんでしょうか・・・。


 どこから見ても絵になる、レオポンさんチームのポルシェティーガーです。カッコイイですね。ドイツの戦車はみんなカッコイイんですよね。


 ラストの弁慶の仁王立ちのシーンを再現してみました。最強の黒森峰戦車部隊と正面から渡り合える唯一の戦車でしたから、最期の奮闘の凄まじさもよく共感出来ましたね。あの場面でガンガン撃っていたのがホシノですからね、これはもう感情移入しちゃっても仕方が無いですね。で、そのあとで「ゆっくりでいいよー」と明るく言うのはお約束ですね。ここは、金元寿子さんの声で元気よく言ってみましょう。


 以上で、レオポンさんチームの搭乗車が完成しました。製作期間は、12月26日から12月29日までの四日間でしたが、実際にキットを製作していた日数は3日でした。組み立てと改造に2日、塗装に1日、でした。自分でも驚いてしまったほどの、最短記録でした。
 大洗女子学園チームの八輌のなかで、一番大きくて改造箇所も少なくない戦車のキットをたった三日で仕上げられたのは、やっぱり私がホシノだったからでしょう。なにしろ自動車部のホシノですからねー。(アホかお前は)

 それにしても、このキットは従来言われてきたような難しい品であるという気があまりしませんでした。むしろタミヤのB1bisやアカデミーのM3中戦車リーの制作に比べたら楽だったと思います。砲塔の改造と後部エンジンフードの自作さえこなせれば、あとは小工作で済みますので、全体的にはスイスイと組み立てられました。ガルパン仕様に近づけるために使用パーツを間違えないことのほうが大変でした。
 このポルシェティーガーを完成させたことで、大洗女子学園チームの八輌が全て揃いました。それによる満足感もひとしおでした。
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レオポンさんチーム ポルシェティーガー 作ります!! その8

2015年01月30日 | ガルパン模型制作記

 ラストのステップ20では、砲塔を車体にはめ込んで完成となります。これは既に一度実施していますが、ガルパン仕様への追加工作はあと二つあります。


 劇中シーンで、残る二ヶ所のポイントを見てみましょう。車体側面前方に溶接固定された丸いハッチがあり、ワイヤーが無く留め具だけが七ヵ所に付けられています。留め具にはU字形の掛け具、挟み込んで固定する留め具の二種類があり、前者は側面の前後に四つ、後者は側面中央辺りに三つ並びます。


 追加工作に先立ち、車体や砲塔の各所に施されている溶接痕などのモールドをパテ塗りで埋めたりして消す作業をやりました。劇中車では、溶接痕は前部にある一ヵ所のみで、あとは合わせ目のラインだけが見られます。
 キットのパーツでは、至るところに色んなモールドがあるので、これまでの工程にて少しずつ削ったり埋めたりして消してきましたが、まだ残っている所もあったので、ここで一気に出来るだけ消しました。丸いハッチをつける位置にも溶接痕がモールドされていますので、そこは念入りにパテを塗り、乾いてからヤスって仕上げました。


 砲塔では上面に溶接痕がモールドされていますが、劇中では合わせ目のラインしかありませんので、出来る限りパテ塗りで埋めて消しました。、


 パテが乾いた後、ひたすらサンドペーパーでヤスって均しました。その後に合わせ目のラインを軽くラインチゼルで引いて再現しました。それから再びサンドペーパーでヤスって均しました。


 砲塔を再び車体にセットし、外観の雰囲気を確かめました。溶接痕がほとんど無くなったおかげで、劇中車のような平滑感が出てきているように思いました。まあ、こんなところでしょうか。


 丸いハッチは、あらかじめプラペーパーで作っておいたものを貼り付けました。留め具のうちのU字形の掛け具は、エッチングパーツの余りをカットして曲げて作りました。挟み込んで固定する留め具はコの字形をしているので、プラ板で形をそれらしく作り、車体に取り付けました。


 車外装備品のジャッキ二個と消火器も、劇中シーンを参照して所定の位置に接着しました。


 これで組み立て工程は全て終わりました。残るは吸気口のメッシュ部分のみとなりました。レポート記事を何回かに分けているので、長いことかかったように思えてしまいますが、今回は年末の多忙期の直前に突貫で作りましたので、この段階まで二日しかかかっていません。


 サーフェイサーを吹き付けて塗装の下地を整えました。履帯も接着して同じように真っ白に仕上げました。


 ここで最後の追加工作を行いました。吸気口のメッシュ部分の再現です。先行作例では高価なエッチングパーツや金網などの使用が紹介されていますが、私の制作においては、艦艇模型のディティールアップなどによく使われる方法を選びました。ダイソーで100円で販売されている「アイロンあて布」を使う方法です。
 これは、航空母艦のキットなどで転落防止ネットを表現する際によく使われるもので、そのメッシュのサイズがポルシェティーガーの劇中車のそれにほぼ近いです。


 この方法のメリットは、ナイロン製なので加工し易いことです。大きなアイロンシートなので、失敗しても何度でもカットしてやり直しが出来ます。そして模型用の接着剤および流し込み接着剤などで簡単にくっつけることが出来ます。上図のように、雰囲気もそれらしくなります。


 その後、本塗装を行いました。車体および砲塔はクレオスのMrカラーの36番のグレーグリーンを使用して吹き付けました。これはドイツ空軍機の機体上面色ですが、公式設定資料や劇中シーンを色々と検討した結果、ジャーマングレーより明るめでやや緑がかかった色であると判断しましたので、これにほぼ色調が共通するグレーグリーンを選びました。

 このグレーグリーンの塗料は、グレーの色素が下に沈殿する傾向があり、瓶をよく振って攪拌しても沈殿したグレー塗料がなかなか浮かび上がらないという性質があります。これをうまく利用すれば、車体をグレーグリーンで塗装したあと、瓶の底の沈殿分を棒などでかき出して混ぜてグレーがかかった色にして、車輪部分を劇中車と同じように明るめのグレーグリーンで塗装することが可能になります。つまり、一色の塗料で二種の色感を出すことが出来るわけです。
 なお、履帯のほうは28番の黒鉄色で仕上げました。 (続く)

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ガルパン コミックアンソロジー

2015年01月29日 | ガールズ&パンツァー

 ガルパンことガールズ&パンツァーは、アニメとして高評価を得ている作品の一つなので、二次創作もかなり盛んで、公式でもコミックアンソロジーが何冊か出ています。上画像はメディアファクトリーさんから刊行されているアンソロジーシリーズの第二巻です。アマゾンでも販売されています。


 私の手元には、上図のように三冊が揃っています。左から第一巻、第二巻、SIDE聖グロリアーナ女学院、となります。さらに、この1月24日にSIDEサンダース大学付属高校が発売されましたので、次の大洗行きの際に江口又進堂さんで購入しようと考えています。このSIDE対戦校シリーズは、たぶんアンツィオ校、プラウダ校、黒森峰女学院編も出ると予想されますので、楽しみですね。

 テレビ放送が終了して第二期が無いとされている現在では、ファンにとってはガルパンストーリーを更に楽しめるツールになっていると思います。最近ではコミックウォーカーさんでも最新ストーリーの対マジノ戦編が読めます。紹介ページはこちら
 あと、コミックフラッパーさんで連載された「リボンの武者」も有名で、こうした二次創作ストーリー物が、劇場版公開までの期間中の重要なコンテンツとして注目されているようです。

 個人的には、コミックアンソロジー第二巻の「エリカの誇り」が気に入っています。

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レオポンさんチーム ポルシェティーガー 作ります!! その7

2015年01月28日 | ガルパン模型制作記

 ステップ19では、砲塔の背後につく道具箱つまりゲベックカステンを組み立てます。ツチヤが「お疲れ様でした。ポルシェティーガー完成です」と笑顔でねぎらってくれます。キットの組み立て工程は、制作ガイドの指示においてはこれで完了となりますが、私の制作においては、ガルパン仕様への追加工作が幾つかあり、さらに別の工作も追加されるので、まだ完了には至りませんでした。


 劇中のワンシーンにて、ゲベックカステンのガルパン仕様をチェックしてみましょう。その形状は、キットのパーツL6では台形状になっていますが、劇中ではむしろ四角状になっています。砲塔背面との間に出来る隙間がもっと狭いです。
 そして、ゲベックカステンを留める金具が上部の一対のみです。下にもついているのかもしれませんが、劇中シーンでは確認出来ません。ですが、これだけで大きなゲベックカステンのパーツを接着し支えるには強度的にも無理があります。また、キットパーツには無い細長い板が側面の二ヶ所についています。


 ゲベックカステンのL5とL6を接着しました。


 L5の上にモールドされているヒンジの形状がそれらしくないので、片方を削り取って後でプラ板で再現することにしました。さらに砲塔背面に接着する二本の支持アームも若干長いので、劇中の形状に合わせて切り詰め、ゲベックカステンの上端がほぼ砲塔背面に接するように調整しました。
 厳密にはこの支持アームも劇中には見えず、一本の太い支持材で繋がっているように見えますが、その形状を確認出来ません。二本の支持アームでないと、物理的にゲベックカステンを砲塔背後に取り付けられないので、この状態で接着することにしました。


 調整したゲベックカステンを、砲塔の後ろに置いてみました。


 側面を上にして置き直してみると、やはり劇中と形状が異なりますので、砲塔背面との間の隙間が大きくなります。


 そこでゲベックカステンをもう少し改造することにしました。裏返すと底部にもコの字形のモールドがありますが、劇中車にこれがあるようには見えず、底面もフラットに見えます。


 コの字形のモールドを削り取って、底面をフラットにしました。


 続いてプラ板を張り増しして、ゲベックカステンの形状を四角に近づけました。砲塔背面のカーブに合わせて前部は丸く仕上げましたが、これでどうやって砲塔背面に繋げるかが問題になりました。窮余の一策として、上図のように薄いプラ板を、二本の支持アームの先端部と同じ位置にくるように貼り付けました。


 その状態で砲塔背面に接着しました。薄いプラ板の中央部だけが砲塔背面に接着され、二本の支持アームと共にゲベックカステンを支える形になりました。隙間も小さくなりましたので、薄いプラ板の部分は、外からはほとんど見えなくなり、好都合でした。
 さらに上端の留め金具L1の先端部の折り目をプラ板で追加し、劇中の形状に合わせました。


 キットパーツには無い、側面二ヶ所の細長い板をプラペーパーで再現しました。また上図では見えませんが、砲塔左後ろにあるピストルホールのパーツa2は、劇中ではホールの向きが逆ですので、それに合わせて接着しています。


 これでステップ19の工程は完了です。ゲベックカステンの形状も四角に近づけたので、劇中車の雰囲気により近づけることが出来ました。ネット上で見かける先行作例においては、ゲベックカステンの形状を修正している例を見かけませんでしたので、この部分は盲点に近いのかな、と思ったりもしました。 (続く)
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その10 「図書館と歴史館です!!」

2015年01月27日 | 大洗巡礼記

 この日の夕食は、水戸にて友人といつもの店でとる予定でしたが、早くも空腹感を覚えたので、大洗を出る前に少し食べておくことにし、お好み焼き道に立ち寄りました。来年春からの道路工事にてこのお店は立ち退きとなるため、新年1月末日をもっていったん閉店する、と聞いていたからです。最後の機会かもしれないので、入って焼きそばを軽くいただきながら、女将さんと色々話しました。

 前回は水浜電車廃線跡の見学の折に立ち寄りましたが、その時のことを覚えておられて「来年早々に線路跡も工事で無くなるみたいですよ」と教えて下さいました。大貫停留所跡の駐車場も、向かいの大野屋レストランや金子屋薬局も立ち退きで無くなる、ということです。金子屋薬局はこれを機に店をたたむそうなので、劇中シーンにも「兼子屋薬局」の名で登場してカバさんチームⅢ号突撃砲の活躍の場になったお店が消えることになります。寂しいことですね。
 お好み焼き道や大野屋レストランは、場所を変えてまた営業されるそうなので、新たなお店に行くのが楽しみです。


 大洗駅を18時56分発の列車にて発ちました。ガルパンラッピング車輛2号車でした。水戸駅には19時13分に着き、友人夫婦と中央改札口にて合流しました。
「やあ、ござったな。どうだった」
「今回も色々と忙しく回ってた」
「だろうな、のんびりと過ごしているっていうイメージが全く無いからな」
「そんなに忙しい奴にみえるのかね」
「あははは」
 横から奥さんが「今回もしゅんさいに行かれました?」と聞いてきました。いえ、と首を横に振ると、残念そうな表情になりました。完全にしゅんさいの大ファンのようです。


 いつものお店、とは大洗栗崎屋の支店のひとつ「すし一番」でした。水戸駅から近い方のお店なので、これまでにも五回ほど入っています。もう一つの支店「海鮮どんどん」へも何度か行きましたが、メニューは全く同じなので、どちらに入っても栗崎屋の味が楽しめます。

 寿司定食をいただきながら、今回の城跡探訪の成果などを報告しました。大館館遺跡、小館館遺跡については二人とも興味深々のようで、特に鉾田市出身の奥さんの方が色々と積極的に質問してきました。そういうあたりは、15年前に京都の芸大で同級生だった頃から変わっていませんでした。郷土の歴史文化にとても詳しく、大学での卒業論文のテーマも鉾田市の文化財に関する内容だったと聞いています。
 それで、奥さんが問うには、大館館遺跡、小館館遺跡はいわゆる「南方三十三館」に含まれるのか、ということでした。これに対する明確な解答は、どう考えても出てきませんでした。

「まあ、可能性の問題ですね」
 そう答えると、U氏が「三十三館っていうけどさ、いま残ってる城跡を合わせても三十ヵ所も無いんだろ?鹿島と行方の二郡合わせての数というなら、鹿島郡に含まれてる大洗の城も数えてるかもしれんぞ」と言いました。相槌をうちながら奥さんも「そうそう、大館館と小館館の城主も佐竹に滅ぼされたんですよ、きっと」と言いました。

「あのう、美和さんはやっぱり大館館と小館館の城主は常陸大掾氏の系譜に連なっていたと考えるわけですか」
「そうじゃないか、って思いますよ。いまじゃ伝承も記録も残っていないといいますからね、これは滅ぼされて全ての歴史を抹殺された結果じゃないかな、って考えるんです」
「でも、「和光院過去帳」に記載される十六人には、大館館と小館館の城主に該当するような人物は含まれていないみたいやけど・・・」
「それは、大田城で謀殺された人々のことですし、その後の佐竹の侵攻で滅ぼされた城主たちも居たはずですよ。常陸大掾氏の系譜筋は全て滅ぼされたということですから、そのなかに大館館と小館館の城主もいたんじゃないかと・・・」

 U氏は笠間市の出身なので、中世戦国期の歴史に関しては国人領主笠間氏のほうに愛着があるようですが、奥さんは鉾田市の出なので、当地に歴史を刻んだ大掾氏系列の「南方三十三館」の歴史に相当な思い入れがあるようです。
 その「南方三十三館」の城主たちを、戦国末期の天正十九年(1591)二月に佐竹義宣は居城の大田城に呼び寄せて謀殺し、直後に鹿島行方二郡に侵攻して「南方三十三館」の全てを攻め落としました。世にいう「南方三十三館仕置き」ですが、卑劣なだまし討ちの典型例として、現在でも地元の伝承などに深く根付いて語り伝えられています。だから、江戸期に秋田へ移封して名君といわれた佐竹氏も、鹿行地方においては残虐非道の極悪人として未だに悪く言われているようです。
 それで奥さんも「佐竹氏」と言わずに「佐竹」と呼び捨てにしています。私なんぞは佐竹義宣を「伊予守」とか「右京大夫」と呼びますが、奥さんに一度「佐竹の官位なんて官位じゃないですよ」と不満げに言われたことがあります。奥さんの旧姓は鎌田(かまた)なので、「南方三十三館」の城主の一人として謀殺された烟田(かまた)氏の末裔なのかもしれません。実際に末裔だとしたら、先祖を謀殺した佐竹氏をこころよく思うはずがありません。

 なので、私は大館館と小館館の城主が最終的には佐竹氏かその家臣であった可能性を、しまいまで言い出せずに終わりました。楽しい夕食での歴史談義を、気まずい方向へ持っていくのもどうかと思ったからです。奥さんは「大洗だって鹿島郡なんだから、佐竹に滅ぼされてしまった武士勢力があったに違いないよ、だから戦国期までの歴史が空白になっちゃったんだよ、きっと」と力説していました。

 ですが、私自身としては、どう考えても奥さんの言うような歴史的イメージが湧きませんでした。大洗エリアでは佐竹氏の侵攻を受けた痕跡がなく、むしろ那珂湊と共に「大貫村」までが佐竹氏領となって代官職に根本氏が就いています。在地武士とみられる大貫氏に至っては一伝に「譜代之由」とあって佐竹氏に三代以上仕えていたとする認識が記されます。大洗エリアは早くから佐竹氏支配圏に含まれていたのではないか、と考えています。
 現に、登城遺跡などは在地武士には似合わない規模と経済力を示しており、これと指呼の間にある龍貝館跡や字後新古屋遺跡の様相も、かなりの有力な勢力の関与を思わせますので、それらと尾根続きに位置する大館館と小館館にも同様なイメージを想定したほうが良さそうに思います。この場合、かなりの有力な勢力、とは佐竹氏以外に候補が思い当りません。

 佐竹氏は長年にわたって鹿行二郡の掌握をひそかにもくろみ、在地の大掾氏系列「南方三十三館」の勢力の殲滅の機会をうかがっていたのですから、有事に備えて最前線にあたる大洗エリアの南部に何らかの備えを施していた、と考えるのが自然でしょう。「南方三十三館仕置」の直後に侵攻した軍勢は一万を超えたとも言い伝えられていますが、事実であれば、それほどの兵力をどこから動かしたかが問題になります。
 「南方三十三館仕置」が成功すればただちに攻め込むという計画で、あらかじめ兵力が準備されていたのであれば、その軍勢は鹿行二郡にすぐに展開出来る場所に配置されていた筈です。その候補地として登城遺跡、字後新古屋遺跡、大館館遺跡などの、在地城館にしては広すぎる規模の遺跡群が注目出来ます。

 それで、私の現時点での仮説として、登城遺跡、字後新古屋遺跡、大館館遺跡などの最終段階が、天正十九年(1591)二月時点の佐竹氏の兵力の駐屯地であった可能性を指摘しておきます。これらの遺跡に城主や由緒などの記録が残っていないのも、在地支配の拠点ではなく、佐竹氏による一時的な軍事作戦の駐屯地として使用されたため、と考えれば辻褄が合います。
 もしそうであれば、城主は存在せず、佐竹氏家臣が代官もしくは城代として任じられるだけなので、登城遺跡のように代官職根本氏の名が記録されていても違和感はありません。


 夕食後は水戸市内原の友人宅に泊めていただきました。まいわい市場で買ってきた干物や酒などを渡してささやかな二次会となり、今回貰った缶バッジなどを披露しました。
 U氏は「なんでこう、次から次へとバッジを出すんだろうな」と不思議がっていましたが、奥さんは「大洗の商店街としてはこうでもしないとファンのリピーターや新たなファンに来て貰えなくなるからでしょうね」と核心を突いた見方をしていました。

「だって大洗って、昔からの海水浴場だったし観光地だったから、それなりに賑わっていたはずなんだよ。ガルパンのブームでそれ以上に儲かっていい思いをしたから、そういうのから離れられなくなったんでしょうし、ブームが去った後の元の状態には戻れない体質になっちゃったのと違うかな」
 さすがに地元民の見方は冷めてるなあ、と思いました。ひょっとしたら、大洗で盛り上がっているのは一部の商店街と常連ファン達だけなのかもしれない、と考えてしまいました。


 翌日は、朝からU氏と水戸市内を回りました。中世戦国期の歴史に関する資料とかを調べたい、と話してあったので、最初に水戸城跡内にある茨城県立図書館へ案内して貰いました。


 何度見ても見事な、江戸期水戸城の空堀です。前回は下草がありましたが、今回は草刈り整備の後なので、遺構面が綺麗に見えました。


 虎口跡を通り両脇の立派な土塁をみながら、旧城内に進みました。


 茨城県立図書館です。その二階の郷土資料室で、U氏と手分けして大洗地域や周辺の中世戦国期に関する資料を検索しました。思った通り、大洗町の報告書類は数も少なく内容も簡素で、私たちが既に得ている情報以上の成果は得られませんでした。大洗町の埋蔵文化財調査報告書も三冊ほど閲覧しましたが、内容的には「茨城の城郭」のほうがしっかりしているので、そのコピーをとって貰いました。


 続いてバスに乗って茨城県立歴史館へ行きました。他県の県立歴史博物館に相当する施設で、歴史関係の刊行物も充実しているそうです。ただし、中世戦国期に関する資料があるかどうかはU氏も知らないそうで、この機会にきちっと調べておこう、と話していました。
 茨城歴史館の公式サイトはこちらです。


 敷地内にある旧水海道小学校本館を見学しました。明治十四年(1881)の建築で、明治初期の小学校建築の形態を伝える遺構として、昭和三十三年に茨城県文化財に指定されています。その紹介記事はこちら


 敷地内の屋外展示品では、上写真の石幢が興味深かったです。室町期の遺品なので、まさに中世戦国期のものです。仏教の石塔の一種で、六角または八角の石柱の上に仏龕(ぶつがん)や笠、宝珠などを載せた意匠に造られます。外見上は灯籠に似ていますが、仏像を安置し祀る施設にあたるので、灯籠とは別です。源流は中国にあり、日本には中世期に伝来し、現存遺品は室町期からのものが多いです。
 石幢の有名な遺品は、東京都立川市の普濟寺の延文六年(1361)銘のそれで、国宝に指定されています。普濟寺の公式サイトでの紹介記事はこちら

 茨城県では、石幢を灯籠型に造ることが多かったとありますが、六地蔵を石幢や石灯籠の六面に配置する遺例は、近畿ではあまり見聞きしたことがありません。むしろ中部や九州に分布しています。


 歴史館の建物は、城郭の石垣を思わせるようなデザインの外観でした。常設展示コーナーや刊行物コーナーで色々と探し、館員さんにも訊ねたのですが、中世戦国期に関する資料はあまりなく、研究も進んでいないとの事でした。常陸国の中世戦国期関連の研究は、地域的にばらつきがあり、鹿島神宮に多数の史料が伝わる鹿島郡の関係でもまとまったものが少ない、ということでした。
 むしろ、城郭研究者や城郭ファンの方がそうした歴史の研究にも早くから着手している傾向があるので、その関係の刊行物やネット情報などを検索した方が良いように思いました。

 調べ終わってから、館内の休憩スペースでコーヒーを飲みながらU氏と話しました。相手は、昨晩の夕食の際に私が最後まで何かを言い出せなかったことを察していたようでした。
「ここには美和はおらんから、話してくれよ。重要な事なんだろ?」
「そうやな、今の時点では単なる仮説に過ぎないんやけどな・・・」
「仮説でも、重ねれば史実や真実ヘの道しるべとなるんだ。違うか?」
「そうやな、つまりは大館、小館の城跡に関することや」
「ふむ?」
「あれは、たぶん最終的には、三十三館殲滅作戦の拠点として使われたんじゃないかと思う」
「だろうな、俺もその可能性を考えてるよ。でも言ったら美和が怒るからな」
「ちょっと聞きたいんだが、美和さんはやっぱり烟田城の釜田兄弟の末裔なのか?」
「俺も詳しくは知らんのだが、その本家にあたる家の長老さんが烟田城の西光院の檀家でな、いちど「烟田八館」の子孫たちを集めて慰霊の会とかを主催していたよ」
「それじゃ、完全に烟田城の末裔じゃないか・・・」
「まあ、そういうことなんだろうな」

 それで、大館、小館の城跡に関することとは何か、と問われました。
「南方三十三館仕置の状況は詳しく分かってないそうやが、一万を超える軍勢が動いたという伝承もある。佐竹氏としても宿願の達成ということになるんで、佐竹氏は当主みずから大将に立ったんやろうかな」
「それは当然じゃないかね?石田三成の口利きで豊太閤の許可も得てるんだから、常陸介(佐竹義重)が自ら動いたに決まってるぜ」
「常陸介も出ただろうけど、主役はおそらく右京大夫(佐竹義宣)やな」
「ああそうか、右京大夫の方が三成と親しかったもんな・・・」
「やから、三十三館攻撃の実質的な大将は右京大夫。だが名目上の大将は親の常陸介がなってたはず」
「だろうな」
「この場合、当時の呼び方だと、当主を大殿、その後継者を若殿とかになるけど、古文献とかを見ると大館、小館と呼び分けるケースもあったらしいんでな・・・」
「なるほど、大館館と小館館の呼称がそこからきたというわけか。うん、それは有り得るな。ということは、大館館と小館館の二ヶ所は佐竹氏親子の陣場であった、三十三館攻撃の時の本陣であった、と、こういうわけだ」
「うん、そういう可能性を考えてみたんやけど、どうかな」
「いいんじゃないか。俺にもそういうふうに思えてくるし、遺跡そのものは戦国末期の状態になってるんだろ?」
「昨日見てきた限りでは、どうも南北朝期の城で終わったとは思えなかった」
「なら、その見解を大切にしろよ。もう一度行くんなら、それを再検証してみるんだ」
「その積りや。図面もその時にとってみるよ」


 館外に出ました。庭に配置された埴輪のレプリカは、サンタの格好になっていました。
「あと二週間でクリスマスか」
「その一週間後には新年になってるんやな」
「年末年始はずっと仕事だと聞いたが、最初の休みはまとまって貰えるのか?」
「最低でも連休にはなる筈やけど」
「なら、また大洗に初詣に行ったらいいんじゃないか」
「うーん、そういう選択肢もあるか・・・」
 そこで、なんとなく笑ってしまいました。私の干支の2014年は過ぎてゆきつつありますが、ガルパンや大洗との縁は、劇場版公開が予定される2015年までは確実に続きそうです。

「だからさ、また来いよ」
「ああ」
 そう言って、水戸駅の改札口前にて握手を交わし、手を振って別れました。

 以上にて「ガルパンの聖地・大洗を行く13」のレポートを終わります。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その9 「夕方までの街歩きです!!」

2015年01月26日 | 大洗巡礼記

 大洗磯前神社の大絵馬は、すでに来年の干支の未になっていました。私の午年もあと僅かなんだなあ、と改めて思いました。


 左手の絵馬奉納台とガルパン大絵馬です。ガルパン大絵馬の方も新年度の新しいデザインに替わるという情報を聞きましたが、この時点ではまだ替わっていませんでした。新デザインは、たぶん劇場版予告ポスターのような感じでキャラクター全員が揃うのじゃないかな、と想像しました。(実際には、その通りになりました。)


 絵馬奉納台に近寄りました。


 私が以前に絵馬を懸けさせていただいたあたりには、新たな絵馬が増えていました。


 私の絵馬は見当たらず、その位置には「艦まん」の作者として知られる神楽つなさんの絵馬が懸けられてありました。この方のガルパンイラストは、初めて見たような気がします。


 で、その下に私の絵馬が隠れていました。奉納したのが6月13日なので、ちょうど半年になりますが、やつれや変色がかなりありますね・・・。


 神前に拝礼を済ませ、幣門から出て大鳥居ごしに鹿島灘を見ました。このアングルが、2015年度のガルパンカレンダーの図柄の一つになっています。


 ウスヤさんに立ち寄り、コーヒーをいただきながら店主の関野さん夫婦と数分ほど世間話をしました。


 江口又進堂では、相変わらず歴史談義となりました。前に登城遺跡へ行ったときの事などを話し、今回見てきた大館館遺跡、小館館遺跡の印象などを報告しました。涸沼駅から近いうえに道があって簡単にアクセス出来ることを述べ、大洗の新たな歴史散策コースとして実験的に立ち上げてみてはどうか、と提案しておきました。

 あまり知られていませんが、鹿島臨海鉄道の沿線には、中世戦国期の城跡が幾つか残っています。主に鉾田市域に分布しており、その幾つかは鹿島臨海鉄道の駅から近いです。大洗町の大館館遺跡、小館館遺跡はそうした城跡分布の北端に位置しており、南に移動すればさらに二、三ヵ所の城跡へのアクセスも可能となります。いわゆる列車での城跡巡り、というのが楽しめるわけですが、これが最近の私のテーマになりつつあります。機会をみて、鉾田市エリアの城跡も一ヵ所ぐらいは訪ねてみようかと思いました。


 鳥孝では、稲石さん夫婦と雑談を楽しみました。缶バッジの話題でも盛り上がりましたが、そのうちにバンダイ関係者による商店街向けの説明会があるということを聞かされました。なんでも版権に抵触するような事例が度々あるそうで、いま一度商工会を経て商店街の面々にルールの再説明を行ない理解を深めて貰う、ということのようです。
 他のアニメの聖地ではあまりそういう事例を聞きませんので、大洗のガルパンブームの在り方がある意味特殊で独特の展開をもっているのかな、と感じました。
 あと、ガルパンの場合は大洗町の商店街の方々も積極的に仕掛けてファンと共に楽しんでおられる傾向がありますので、成り行きによっては、行き過ぎになるケースも有り得るんだろうな、と感じましたが、稲石さんも似たような感想を抱いておられたようです。ウチも色々楽しんでるけどさ、パネルの扱い一つでも、ちゃんと商工会に問い合わせて許可貰ったりしてたんだ、と話しておられました。例として、キャプテン磯辺典子の声を演じた菊地美香さんが来店された際、パネルにサインを描いて貰った時にも、商工会の許可を得た、というエピソードを教えてくれました。


 鳥孝を退出して、リゾートアウトレットに向かいました。もう夕方なので、マリンタワーの聳える空も次第に暗くなりつつありました。


 まいわい市場の二階の戦車プラモデル展示コーナーを見に行くと、その左側に大きな八九式中戦車甲型のモックアップが展示されていました。以前に秋葉原などでイベントの際に展示されていたものだそうですが、最終的にはこちらに寄贈されておさまったようです。実車とはあちこちで形状が異なりますが、それでも雰囲気はそれらしい感じでした。


 大貫商店会の歴史ギャラリーも見ました。この12月末で終了するということでしたので、今回が私にとってはラストでした。


 最後にまいわい市場で買い物をしました。この日は水戸の友人の自宅に泊めてもらうことになっていたので、土産物を幾つか買いました。干物や水産加工物など、この日初めて購入した商品も少なくありませんでした。 (続く)

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大洗の曲松商店街の謹賀新年ポスター

2015年01月25日 | ガールズ&パンツァー

 上画像は、大洗の謹賀新年ポスターで、曲松商店街独自のものです。曲松商店街のお店だけに配布されて新年の営業開始日の案内用に使われるものです。ですが、ガルパンキャラクターが入ってるので、ガルパンポスターの一種として、公式の認可を受けています。
 これを、1月の大洗行きの際に、ひょんなことから幸運にも機会を得て貰うことが出来ました。下さったお店の方、どうもありがとうございました。


 全体はこんな感じです。ブログに出すんだったら15日以降にしてくれと言われ、その通りにさせていただきましたが、ポスター自体はこのように自室の本棚にガルパンカレンダーと共に並べてかけてあります。

 1月の大洗行きの一番の記念品になりましたが、今年正月期間のみの限定ポスターであるうえ、常連ファンにも配布していないと聞きましたので、超レア物であることは間違いありません。イベント限定の配布品よりも価値があると思います。
 考えてみますと、夏の大洗海水浴ポスターといい、普通は入手不可能なものに何故か縁がありますね・・・。

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レオポンさんチーム ポルシェティーガー 作ります!! その6

2015年01月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15からは砲塔部分の制作になります。まずは88ミリ主砲の砲身を組み立て、次のステップ16で砲塔の側面部分を組み合わせます。ステップ15はガイドの指示通りに進めますが、ステップ16からはガルパン仕様への改造や追加工作が加わります。


 劇中のワンシーンにて、ガルパン仕様へのポイントをおさらいしてみました。砲塔上面においては、キューポラハッチの形状や向きがキットと異なること、天板がフラットであること、天板中央に砲俯角時のクリアランスをとるための張り出し(通称モヒカン)があること、ベンチレーターが無いこと、等が挙げられます。側面においては、左右の円形覗き窓(クラッペ)のC34とC35の位置がキットの指示位置よりもやや上に位置すること、キットのパーツにある溶接痕などが無いことが挙げられます。


 ステップ15の組み立てが完了しました。機銃パーツのC27と砲身尾部留め具のa9は、砲身を砲塔に組み付ける際に接着することになります。


 ステップ16の組み立ての最初に、砲塔形状の改造をやりました。手順は「ガールズ&パンツァーモデリングブック2」の64ページの記事を参考にしました。マスキングテープを真っ直ぐに貼ってその線に合わせてパーツ上面を真っ直ぐに削り均しました。


 改造は約3分ほどで終わりました。ヤスリで少しずつ削り、定規を当てて真っ直ぐになるかをチェックしながら調整してゆくだけなので、思ったよりも簡単でした。


 ステップ17では砲塔上面を組み立てます。このうちC12は劇中車に見られないので不要です。ベンチレーターがありませんので、C7を裏から接着して穴を埋め、C6とC29は使いませんでした。

 ステップ18ではキューポラ部分を組み立てました。このうち、キューポラのハッチ部分パーツのC28は、ガルパン仕様と異なります。不要パーツの中に含まれるa25を使い、そのヒンジ部分も不要パーツのうちのa26、a27、a28を使います。さらにC4とC31も必要となります。これらのパーツは公式設定資料図や劇中シーンを参考にして組み立てました。


 ステップ17では、まず天板パーツC20の屈折部をフラットにすることから始め、裏に切れ目を入れながら少しずつ曲げてパーツを平らになるように調整しました。それでもエッジが残りますので、サンドペーパーで軽くヤスって均しました。


 通称モヒカン部分は、グレードアップパーツのGB12を使用し、いったん二つにカットして削り、その折れ目の位置を後ろに下げる改造を施し、両側に細長いプラ板を貼って塞ぎました。接着剤が乾いてから、細長いプラ板のはみ出し部分を切り落とし、全体を軽くヤスって均しました。


 ベンチレーターの穴は、パーツC7を裏から逆向きに貼り付けてパテで埋め、キューポラの基部には砲塔改造で生じた傾斜を元に戻すべくプラ板を貼り増ししました。前半分は1ミリプラ板、後半分は0.3ミリプラ板を三枚階段状に重ねておき、乾いてからヤスって整形しました。


 改造途中の砲塔を横から見ました。天板はなんとかフラットに直すことが出来ました。


 キューポラ部分も完了し、88ミリ主砲や通称モヒカン部分を組み付けました。重厚な砲塔の威容が出来上がってきました。パンツァー・リートの規則的な旋律が格調ある響きを伴って、次第に心に響いてくるような気がしました。


 ステップ18の工程が完了した時点で、砲塔を車体に一度乗せてみました。ポルシェティーガーの独特の姿が一気に立ち上がってきて、心に響くパンツァー・リートの音色が最高潮に達しました。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その8 「アッサムの誕生日です!!」

2015年01月23日 | 大洗巡礼記

 かま家さんで楽しい昼食のひと時を過ごした後、買い物をしに国井屋さんへ行きました。ガルパングッズの「茶ーちる歩兵煎茶」も良いのですが、今回は「しいたけ茶」が目当てでした。しいたけの粉とエキスを煎じて飲むお茶で、お茶の専門店でもなかなか売っていない商品ですが、国井屋さんでは取り扱っておられます。


 店先には、アッサムの誕生日記念の大きなメッセージボードがありました。前の日曜日に店頭で誕生日イベントを行って大勢のガルパンファンが集まった、と聞きました。この種の寄せ書き類は、どこでも同じような人のサインやイラストを見かけますので、書き込むファンの方もほぼ固定化しているという印象を受けます。


 アッサムも、劇中では一回もセリフが無かったにもかかわらず、大洗では人気者になっています。大勘荘の丸山紗希と似たようなパターンだなと感じました。しかし劇場版の予告編では明らかに何かしゃべっているので、初めてのセリフが聞けるようです。楽しみてすね。


 パネルの足元に置かれたティーカップセットです。ファンから贈られたとみられる誕生日イラストも飾られていました。
 目当ての「しいたけ茶」を二個購入し、アッサム誕生日記念の公式オリジナル缶バッジ二個セットをいただきました。日曜日の誕生日イベント限定の缶バッジですね、と話したら、店主さんは笑いながら「実はね、アッサムの誕生日は今日(12月10日)なんですよ、でも平日ですんでね、イベントは前倒しでこの前の日曜日にやったんですね。それで今日までを誕生日記念期間ということにして、お買い上げいただいたお客様にはこのバッジセットをお渡ししておりますよ」と説明して下さいました。
「そうしますと、このバッジセットは、今日までとなりますか」
「そうですけどね、まだ少しありますのでね、明日ぐらいまでは配布する積りです」
 言いながら、お店の新しいオリジナル缶バッジ「亀チャーチル」も出して「これもつけときますよ」と笑顔でサービスして下さいました。


 そのあとは特に予定がありませんでしたので、大洗磯前神社に行ってみようと思い立ちました。修理工事の様子を見ておくのも、ひとつの記念になるでしょう。


 神磯の鳥居に参拝しました。


 この日の鹿島灘は潮が満ちているようで、鳥居のたつ岩礁は海面に孤立していました。波は穏やかで、風もあまりありませんでした。


 海はいいですね。岐阜県、奈良県と海と縁のない地域に長く住んでいましたので、海というものが珍しく、海を見ると嬉しくて元気になれます。今回も堤防の上に座って、20分ばかり眺めていました。


 寒くなってきたので、神社境内へ登ることにしました。立派な鳥居を見上げ、そしてくぐって参道階段を上りました。


 修理工事は着実に進行中で、幣門も廻廊も修理の足場や覆屋に包まれていました。参道のスペースだけが仮に開放されているだけでした。


 覆屋の壁にかけられている修理完成予想図です。神社本来の建築群、本殿や拝殿や幣門などは旧軌にのっとって現状維持がはかられ、先の震災などで生じた痛みや破損個所などを直します。これに付属する社務所などの施設は、増床増築が図られて従来よりも大きな建物に生まれ変わります。

 おそらく、これまで拝殿で行なってきた諸神事や祭儀の幾つかを、これからは新しい施設にて執り行うものと予想されます。古い由緒ある神社はどこでもそうですが、本殿や拝殿などが古建築で文化財指定を受けていることもあり、その保全と維持が課題になってきている傾向があります。それで、社務所などの付属施設に祭殿を設けて神事などを移すことで、古建築への負担を軽減するという流れがあります。
 京都や奈良の神社もそういった形での修理増築工事を行なったところが多く、私が身近に見聞きした例としては、奈良県の大神神社が挙げられます。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その7 「過去から現在に戻ります!!」

2015年01月22日 | 大洗巡礼記

 登城遺跡の主要部はほとんど草薮に覆われていますが、発掘調査時の状態から数年が経てばどんな遺跡でも自然に還ります。空堀も埋まりつつありますが、まだ窪地となって残っていましたから、外からでも位置は分かりました。上写真は、Ⅰ郭とⅡ郭とを隔てる四号堀の部分で、草薮の中に窪地となって続いていました。


 Ⅱ郭は、北側が土居状になって一段高くなるので、これもかつては土塁で囲まれていたのかもしれません。土居状部分の向こうには、農道になっている堀跡があります。その北側の千代田テクノルさんの敷地にはⅢ郭があったようですが、これを取り巻く堀は完全に繋がっていなかったようです。


 Ⅱ郭の北端より、南を見渡しました。広大かつ複雑な空間構成をもった台地上の平城タイプの城郭の景色は、他県でもなかなか見られないものだけに、それ自体が貴重な歴史的景観となります。しかし道路設置によってその景観の何割かは消滅します。


 中世戦国期の歴史は、大洗においてはほとんど明らかになっていません。登城遺跡の広大な城館は、単なる地方の一勢力ではなし得ない規模を示し、その運営においても相当の経済力を必要とした筈です。常陸大掾氏とか江戸氏とかいった在地勢力との関連よりも、上位勢力の関与を想定するほうが良さそうですが、そうした勢力とは、常陸国においては佐竹氏しか思い浮かびません。


 Ⅱ郭北の堀切跡です。登城遺跡の堀遺構のなかでは最大の規模をもつので、城域を護る第一の防御線であったことは間違いありません。その造成に必要とされた土木量を考えると、これも在地勢力のなし得るところではないな、という気がします。やっぱり佐竹氏だろうな、と思いました。

 佐竹氏の関連史料の一つとして知られる「佐竹古證文」に収録される「文禄五年蔵納帳」には、当時の佐竹氏領の一覧がおさめられますが、そのなかに「大貫村」もみえます。その代官職が「根本賀茂三郎」とあるので、文禄五年の時点では佐竹氏家臣の根本氏が代官として大貫村の「千七十一石六斗九升」を統治していたことが分かります。
 根本氏は、周知のように藤原氏系の小野崎氏の庶流にあたり、常陸国信太郡根本を本願地とする武士勢力です。佐竹氏が本家の小野崎氏を傘下に加えるにあたって根本氏もこれに従ったとされており、戦国期を通じて佐竹氏家臣としての動きが諸史料に散見されます。「大貫村」を統治した「根本賀茂三郎」もその係累であった可能性は高く、文禄五年時点の代官支配も、それ以前からの状況を端的に伝えているのかもしれません。


 そうすると、大洗地域の在地武士であったとされる大貫氏は、根本氏の下に在ったと考えるべきでしょうか。道路工事現場の出入り口に至って遺跡の方角を振り返りながら、思いを巡らせました。
 「佐竹氏家臣系譜」に収録される大貫氏の「家伝書」では「譜代之由」とあって、大貫氏が佐竹氏に三代以上仕えた家臣であったことが判明するほか、別伝の「大貫系図」では本姓が小野木であり、「常州鹿島郡大貫郷由緒有ニ暫ク居住ス」と伝え、これによって「氏ヲ大貫ト改ムル」と記されます。いかなる「由緒」で大貫郷に居住したのかを知りたいところですが、大貫氏が一伝において常陸大掾氏の系譜に連なる者であるとされる点と関係があるのかもしれません。


 色々と考えながら自転車を走らせているうちに、大洗町の中心街に戻りました。中世戦国期の過去から一気に平成の現在に戻ってきたわけです。途中でココストアに立ち寄って、乾いた喉を潤すべく、飲み物を買いました。店先には、ガルパンの新しい幟が並んでいました。


 三村時計店に立ち寄り、店主さんに登城遺跡のことなどを話しました。三村さんは大貫商店会の歴史探訪スタンプラリーを発案し立ち上げられた方だけあって、大洗の歴史にも詳しい方です。それで私も色々と教えていただく機会が多いですが、今回は登城遺跡の発掘調査当時のエピソードなどを伺いました。


 昼食をとらずに動き回っていたので、空腹でした。食事処を探すのも面倒なので、途中でブリアンに立ち寄って「ガルパン」を買いました。ナカジマの缶バッジ付きでした。


 ナカジマです。中嶋悟ではありませんが、ナカジマです。


 ブリアンの店先に展示されている、ポルシェティーガーの完成品です。ファンの方からの寄贈品だそうです。ガルパン仕様に作ってあるようですが、そうでない箇所も見られました。「ガルパン」を食べながら見ているうちに、自分で作った場合にどれだけガルパン仕様に近づけられるだろうか、と考えたりしました。
 それで、よし次はこれにするか、とポルシェティーガーの制作を決めたのでした。


 曲松商店街まで進んで年宝菓子店の店先を通りました。秋山優花里が帽子とマフラーをまとっていました。最近の大洗商工会のルールにより、ファンの方がキャラクターパネルに服を着せたり飾り付けたりすることは禁じられましたが、パネルを設置している店舗の側で相談し合ってある程度の着せ付けを行なう流れになっているので、キャラクターパネルに何かを着せるという状況そのものは、あまり変わっていないように見受けられます。


 「ガルパン」一個では全然足りませんでしたので、かま家さんで海鮮丼を注文して美味しくいただました。さかなや隠居の常連客である関係で、隣のかま家でよく食事をしますので、店主さん夫婦ともすっかり顔なじみになっています。
 この日は大貫台地のゴミ投棄問題や、夏海の原発実験炉のことなどで話が盛り上がりました。いただいた逸見エリカの缶バッジは、いつの間にか、新しいデザインになっていました。そういえば、以前に店主さんが新たに申請していると話していたな、と思い出しました。 (続く)

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ガールズ&パンツァー 八九式中戦車甲型エンディングVer. 応用編

2015年01月21日 | ガールズ&パンツァー

 年末に届いた、ピットロードの「ガールズ&パンツァー 八九式中戦車甲型エンディングVer.」をふたたび撮影して楽しんでみました。


 ファインモールドの1/35スケールの公式キットと並べると、大きさが半分程度であることが分かります。それにしては外見上の特徴をよく捉えて再現してありますね。


 前から見ると、車体の横幅はそんなに変わらないことが見て取れます。エンディングVerの戦車はフィギュアを乗せる関係である程度の幅が必要になりますね。


 アヒルさんチームの四人をそれぞれの位置に乗せてみました。完全におもちゃの戦車に乗っているという感じです。


「キャプテン、あっちの八九式は大きくて乗り心地も良さそうですねえ」と佐々木あけび。
「それでは、いっぺん乗り換えてみようか」と磯辺典子。


「おお、これはなかなか・・・」
 フィギュアの大きさがよくマッチしています。さすがピットロードさん、分かっていらっしゃいますね。


 傾斜地で車体が傾いても、「根性!!」で立て直す磯辺典子キャプテンでした。


 次は佐々木あけびがキューポラにおさまりました。
「わあ、なんだか新鮮な感じですねえ」
「そうだろう、中村・・・いや、佐々木」


 続いて近藤妙子がおさまりました。意外にもサマになっていますね。こういうシーンは劇中では有り得ませんので、ものすごく新鮮な気がします。


 河西忍がおさまっている図もなかなか決まっています。磯辺典子よりもシッカリ感があるので、車長のポジションは結構似合っているように思います。このシーンを劇中で見てみたい気がします。


 四人を適当に並べてみました。キューポラに二人を入れる場合、磯辺典子と佐々木あけびのペアがアンツィオ戦の偵察行動でキューポラから共に上半身を出していたシーンを再現してみたいところですが、フィギュアの形状の関係で無理でした。替わって近藤妙子と河西忍のペアがキューポラに共におさまりましたので、あとの二人には車外にてポーズをとって貰いました。


 ラストはやっぱり磯辺キャプテンの車長姿で決まりです。劇中でもこの状態が多かったですから、絵になりますね・・・。
 エンディングVerのキャラクターフィギュアは、1/35スケールの戦車とも違和感なくフィットするので、ピットロードさんには頑張って大洗女子学園や対戦校の全チームを出していただきたいと思います。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その6 「消えゆく遺跡です!!」

2015年01月20日 | 大洗巡礼記

 登城遺跡における道路工事は、北の千代田テクノルさんの前まで伸びている車道を、さらに南へ500メートルほど延長する目的で実施されています。その計画線は、もとから同じ位置にあった細い農道をなぞる形で設定されています。元の農道が城跡の東の谷間に降りて通っていたのに対し、車道となる新しい道路は谷間に降りずに城跡の台地の東側を使い、地盤を削って長い下り坂として作られるそうです。
 その計画線にあたるⅡ郭の東側では、重機による地ならしが進んでいました。


 Ⅰ郭の中心部はまだ手つかずでしたが、計画線の予定標識が立てられているので、Ⅱ郭と同じように東側が道路になります。郭面がやや高い場所なので、いずれ重機によって地表面の削平がなされるでしょう。


 Ⅳ郭から北方向のⅠ郭およびⅡ郭を見ました。重機が小さく見えるので、城域の広大なことがお分かりいただけるでしょう。大洗町では最大の規模を誇る中世戦国期の城跡です。その東側の重要な遺構が、だんだんと工事によって破壊され消えてゆきます。


 Ⅳ郭から南のⅤ郭にかけては、御覧のように重機の通り道がつけられて地表面は大きく攪乱され、東端の段差面などは完全に破壊されています。


 Ⅴ郭の辺りからⅣ郭を見ました。Ⅳ郭の郭面が一段高くなっている様子がうかがえます。段差左側の笹薮が三号堀の位置にあたりますが、堀そのものは再び埋まっていてあまり深さがありませんでした。Ⅳ郭は城域内で最もよく郭としての状態を保っていますが、その東側がいずれ車道になります。


 Ⅳ郭の北側で西の草薮に入ってみました。すぐに土塁の盛り上がりが見えました。土塁の南の窪地が堀跡にあたり、これは発掘調査範囲で検出された四号堀の延長上に位置しています。土塁の北側つまり内側にはⅠ郭の平坦面が位置しています。このあたりは道路工事の計画地から外れているので、土塁や堀跡などはこのまま残されるものと思います。


 Ⅴ郭の東側へ行ってみました。東の谷間の南側まで重機が進んで作業を行っていました。その南には、前月に訪れた字後新古屋遺跡や龍貝館跡などがある尾根が横たわります。


 東の谷間では、伐採作業が進んでいました。向かいの細い尾根は飛城遺跡の範囲にあたりますが、城館に関連する遺構は発見されていないそうです。


 Ⅳ郭の南側を区切る土塁の残存部分です。約1メートルぐらいの高さを残すところもあり、かつては立派な土塁がⅣ郭を囲んでいたものと推定されます。これは草薮の中にあって道路工事の計画地から外れているので今後も残されるでしょう。その外側には堀があったはずですが、完全に埋まっていて識別出来ませんでした。


 ふたたびⅣ郭の東側に戻りました。谷底との高低差が5メートル以上あるので、切岸を整えれば、立派な防御線として機能したことでしょう。


 Ⅳ郭の東側切岸を北から見ました。奥にみえる人影と比較すれば、その切岸面の傾斜と高さがかなりのものであることが理解出来ます。登城遺跡は、西側では堀と土塁で護られていますが、東側では天然の谷間を利用して切岸を主体とした防御がなされていました。
 この立派な切岸も、やがては道路になって破壊消滅してしまいます。惜しい遺構の一つです。


 引き返して北へと戻り、Ⅳ郭からⅠ郭へと歩きました。前月は凄まじい草薮に覆われていた範囲ですが、工事に先立つ草刈りのおかげで、今回は郭面がきれいに見え、そのうえを歩き回って確かめられる情報も多かったです。
 開発工事は遺跡を破壊しますが、その直前のタイミングを捉えれば、遺跡の地表品や遺構を最も良く観察出来るチャンスに恵まれる場合があります。今回の登城遺跡のケースは典型的な好事例といえましょう。この種の情報は積極的に集めて、破壊される遺跡があれば、何回か通って状況の推移を見守ることも必要だと思います。


 Ⅱ郭東側での地ならし作業は少しずつ進んでいました。土を近くの建材置き場からダンプカーで運び、遺跡の地表面におろして、それを重機が平らに敷き伸ばしてゆく、といった手順を繰り返していました。新年の1、2月ぐらいまではこういった地盤固めの基礎工事が続く、とのことでした。チャンスがあれば、1月にも2月にも行ってみようか、と思いました。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その5 「再び登城遺跡です!!」

2015年01月19日 | 大洗巡礼記

 涸沼駅を10時10分に発車する水戸行きの列車で大洗駅に戻り、榎澤輪業商会さんへ直行してレンタサイクルを借り、そのまま登城遺跡へ向かいました。大貫商店街から旧街道筋に折れて浅間神社の丘へと登るルートをとり、10分余りで現地に着きました。


 道路工事現場では、重機やダンプカーが動き回っていました。発掘調査範囲のトレンチもそのままでした。本当に埋め戻されるんだろうか、と疑問に思いました。


 仮事務所に挨拶すると、前回の見学時にお世話になった現場監督の方が居られました。熱心に見学されるんですなあ、と言われました。もちろん工事現場への立ち入りも許可していただきました。トレンチを反対側から見たりして、堀切の規模の大きさを改めて実感しました。


 前回、左衛門助佐に降臨いただいた空堀跡の農道も、そのままでした。


 ですが、城館遺跡の郭群の平坦面の状況は、前回とは変わっていました。重機が地表面を削り均している範囲が広がっていて、計画される道路の幅に近い規模で基盤が構築されつつありました。


 報告書ではⅡ郭とされる広い平坦面の、東側は道路部分にあたりますが、西側はそのまま残されるようでした。草刈りがかなり西側まで施されているので、郭内を歩き回ることも可能でした。登城遺跡の概要や郭の配置などについては、以前の記事に載せた二枚の概念図を参照下さい。


 草刈りが行われていない所へは、草刈りされた笹竹や枝などが積まれて余計に入りづらい状態になっていました。このまま放置されるようであれば、遺構の残存部に入ることはさらに難しくなるでしょう。


 Ⅱ郭と中心のⅠ郭とを分ける四号堀の二重部分の東の開口部を見ました。草刈りされたおかげで郭端の開口部はよく分かりましたが、その奥の二重堀の部分は草薮に包まれたままなので、少しかき分けて覗きこんだりしました。かなり深い堀が発掘で検出されましたが、その後放置されていたために流れ土などで半分ほど埋まってしまっていました。


 Ⅰ郭の東端から西を見ました。郭内は平坦ではなく、段差によって幾つかの区画に分かれていたように思えます。奥の茂みの中には、Ⅰ郭の南を区切る土塁の盛り上がりも認められました。


 Ⅰ郭東側の南では重機の作業道が作られて地表面が大きく削られていました。その断面を観察すると、地層の重なりが全く認められず、黒土の盛り上げが見られました。つまりⅠ郭の東側は自然の傾斜地に土を盛り上げて平らに均しての造成工事が施されていたことがうかがえました。


 Ⅰ郭の南にはⅣ郭、Ⅴ郭とされる平坦地が続きますが、御覧のように完全な平坦地ではなく、東の谷間に向かって段差をともない、東端は切岸状の急傾斜面になっている様子が分かりました。この切岸を防御線としていたことがうかがえます。草刈りが実施されたおかげで、城域の地形がよく見えました。


 Ⅳ郭とされる平坦面の東側を進みました。重機の作業道が東端をえぐるように設けられており、それをたどれば城端を楽に移動出来ました。Ⅳ郭は造成がしっかりしているようで、郭面の残存状況も良好でした。


 Ⅳ郭の東側よりⅠ郭の方向を振り返りました。郭面の高さはⅠ郭がやや高いですが、これは前述のように盛り上げ造成によるもののようです。これに対してⅣ郭では重機で削られた断面に地層が見えるので、完全な地山を削りならして造成された平坦面であったことが分かりました。したがって、地盤の安定度ではⅣ郭の方が勝っていますが、建物などが配置されたのはⅠ郭の方であったようです。 (続く)

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レオポンさんチーム ポルシェティーガー 作ります!! その5

2015年01月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ13では、車体に様々な装備品などを取り付けます。ここでもガルパン仕様への修正点が幾つかあります。また、不要のパーツも少なくなく、A19、A37、A38、H5、H6は取り付けません。
 さらに、キットのガイドでは不要とされているパーツのうち、E15が必要になります。このE15は操縦室斜め側面のクラッペとしてA14およびA15に取り付けます。また、ライトやOVMの接着位置が異なります。


 劇中のワンシーンにて、ガルパン仕様への修正点を再確認してみましょう。まずライトは車体側面ではなくてフェンダー上に設置されています。車体後部につけられるアンテナは、右側のみにつけられます。OVMの斧やスコップは同一の留め具でセットされておらず、分割して別々に留めて配置してあります。
 ジャッキはキットには一個しかありませんが、劇中車は二個を装備しています。もう一個はグレードアップパーツに入っていますので、それを使用します。いずれも留め具がつきますが、キットに該当するパーツA25が一個しかないので、もう一個は複製するか、適当に自作するかのどちらかになります。また、消火器はキットのパーツには入っていませんので、タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットから調達するか、他キットから転用するかのどちらかになります。


 以上の諸点をふまえて、ライトの取り付けから取り掛かりました。ライト本体はE16、E17を指示通りに付けますが、基台のA20およびA21は形状が少し異なるので、劇中車に合わせて少しカットして小さく縮めました。これについているコードは、0.03ミリ銅線で劇中シーンを参考にしてセットしました。


 OVMの斧やスコップは、キットのパーツA32ですが、御覧のように同一の留め具で繋がっています。劇中車では分割して別々に留めて配置してありますので、これも改造が必要です。


 分割して取り付けました。接着位置は、公式設定資料図や劇中シーンなどを参考にしました。


 この段階で、操縦席前面装甲板の両端にある隙間を埋めるべく、プラ板を張り付けました。グレードアップパーツの操縦席前面装甲板も、キットのそれも幅が短いので、劇中車のような状態にするには左右の端をプラ板で調整する必要がありました。


 ステップ14では、車体後部の様々な部品を取り付けます。ここでもガルパン仕様への修正点が幾つかあります。また、不要のパーツも少なくなく、A6、A7、A35、A36、B17、K3は取り付けません。
 さらに、キットのヒンジのパーツA25は劇中車と形状が異なります。不要パーツの中に、劇中車のヒンジ形状にほぼ一致するF25、F26がありますのでこれらを使用します。ジャッキの組み立てにおいては、留め具のA11は劇中では見えませんので不要です。


 このステップに先立ち、仮組みのままだった車体上面パーツを接着しました。


 プラ板で自作したエンジンフードパネル、左右の吸気口パネルも接着しました。


 エンジンフードパネル尾部のヒンジは、F25、F26のパーツを使用しました。これで劇中車のヒンジ形状にほぼ一致します。


 ジャッキも二個作りました。一個はキットのパーツを組み立てて留め具のA25もつけました。A11は劇中車にありませんので不要でした。もう一個はグレードアップパーツにて組み立てましたが、こちらは留め具のA25がありませんので、ジャンクパーツから適当なのを選んでカットしてそれらしく作りました。

 消火器は、不思議なことに、キットには該当するパーツが全く見当たりませんでした。ドラゴンの元キットにも入っていないのかどうかは分かりませんが、無いのであればグレードアップパーツにて追加してほしかったと思います。タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットに二種類の消火器パーツが含まれていますが、劇中車のと大きさや形状がやや異なります。
 そこで、ジャンクパーツを探したところ、以前にあんこうチームのⅣ号戦車D型を作った際のタミヤのキットの不要パーツの中にピッタリなのが見つかりました。これに三角形の留め具をプラ板で追加したのが、上画像の消火器です。 (続く)

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figma「五十鈴華」が届きました

2015年01月17日 | ガールズ&パンツァー

 マックスファクトリーのfigmaシリーズの236番、「五十鈴華」が1月17日に発売となり、私の所には前日の16日に届きました。グッドスマイルカンパニーさんはいつも出荷が早いですね。


 パッケージの裏面はこんな感じで、色は予想通りの青でした。このキャラクターには、なぜか青というカラーが似合っている気がします。


 パッケージは211番「西住みほ」と同じ大きさでした。砲手席など、比較的大きな付属パーツが同梱されているからでしょう。ということは、次の「冷泉麻子」も操縦席などが付属しますから、同じ大きさのパッケージになるものと予想されますね。


 中身はこんな感じです。砲手席や主砲尾部、照準器などが入っています。表情は三種類、髪形も二種類で片方にはヘッドホンがついています。


 劇中のイメージに沿った姿勢にて立たせてみました。公式画像では両手を前で組んで立つポーズが有名ですが、この姿勢をとるには関節の動きが伴わないのです。ボールジョイントの可動域が思ったよりも小さかったです。


 いつもながら見事な再現度です。五十鈴華の独特の穏やかな雰囲気をよく写し取っています。あんこうチームの五人の中では一番の「お嬢様」キャラですが、その感覚がしっかりと把握されていて感心します。


 独特のアホ毛もしっかりと造形されています。アホ毛というより、髪形全体のアクセントになっていて重要な毛であるという気がします。アングルによって微妙に情感が変わるからです。


 個人的にはこのアングルが好きですね。奈良の有名な写真家のひとり永野太造先生がこのアングルで被写体をさらりと捉えておられるので、その方法を真似してみました。 


 正面観です。いい感じのお嬢さんですね。アニメの雰囲気そのままに立体化されているのが素晴らしいです。


 パッケージ裏面に示されるサンプルポーズの一つをとらせてみました。髪をたくし上げる仕草です。その姿も絵になるのが、五十鈴華なんですね。


 付属パーツの砲手席に座った姿です。大きな後ろ髪が干渉するので、席に深く座るのは不可能でした。姿勢も自然な形にするのが難しかったです。


 座った姿も絵になりますね。西住みほや秋山優花里や武部沙織が同じように座っても、五十鈴華のような穏やかな優雅さというのが出てこないのです。そういった情感まで造形表現し得るところが、figmaのfigmaたる所以ですね・・・。

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