気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

飛行場跡の1/1スケール飛行機模型を見てのモケジョさんの感想

2019年08月15日 | 観聞日記

 旧海軍鶉野飛行場跡の1/1スケールの飛行機模型は、私自身はもちろん、エリさんにもユキさんにも相当のインパクトを与えたようでした。京都までの帰りの車内での話題は、ずっと1/1スケール模型のことばかりになりました。
 エリさんは、1/1スケールの飛行機模型としては他にも瑞雲や烈風があることを知っていましたが、それぞれがどのような飛行機であるかは知らないようでした。それで私がだいたいの概要を説明しました。今回見た紫電改に関しては、愛媛県に海から引き揚げた実機があることを話すと、ユキさんが「そういう本物の飛行機の展示は他にもあるんですか?」と訊ねました。
 それで、思いつくままに列挙すると、エリさんが、「日本の兵器の展示って、飛行機はけっこう多いんですね」と感心していました。

 

 戦車に比べれば、飛行機に関しては日本は既に戦時中に一流レベルの機体を送り出していた実績があります。連合軍の飛行機と互角に戦い、時には圧倒していた機体も少なくありません。零戦が太平洋戦争の前半において最強であったことは、もはや神話みたいになってます。
 紫電改は、その零戦よりも性能が上で、戦後に米軍がテストしたところによれば、米軍のどの戦闘機も紫電改に歯が立たなかったそうです。

「そんなにスゴイ戦闘機だったんですか、紫電改・・・」
 半ば呆れたように呟いていたユキさんの横から、エリさんが聞きました。
「そんな日本軍がどうして強い戦車を作れなかったんでしょうか・・・」
「まあ、要因は色々ありますが、根本的には戦車をどう使うかの用兵思想の差がひびいた、という感じですかね・・・。ヨーロッパ諸国みたいに、周囲の国が戦車を持ってるので自国でも戦車を作ろう、という流れで戦車戦を想定したという経緯が日本にはありませんでしたから・・・。日本陸軍は歩兵主体の編成なので、戦車も歩兵を支援するための兵器、という概念がずっとありましたし、ノモンハンでソ連の戦車部隊と戦った経験すら有効に生かしていなかったみたいですし・・・」
「やっぱり、日本の戦車ってのは、ガルパンでもそうなってますけど、基本的に弱かったんですね。火力が無いとか、装甲が薄いとか、戦術が突撃一辺倒とか・・・」
「いや、そんなにひどくは無かったと思いますよ。きちんと作戦練って兵力を準備して、敵を圧倒した事例は幾らでもありますよ・・・、ただ、ドイツやソ連の機甲部隊と同列に考えたら比較にならない、というだけの話です」
「でも、飛行機に比べたら、いま国内に現存している数も戦車は2輌しかないじゃないですか。今度ボービントンから里帰りさせるっていうのも加えて3輌しかないじゃないてすか。飛行機はあちこちに沢山残されてるんですよね。戦車に関しては、あんまり世間一般の関心が無かったというか、薄いというか・・・、そんな印象を受けるんですけど」
 エリさんのその見解は、ある意味正しい、と思いましたので大きく頷いておきました。

 

 するとユキさんが言いました。
「世間の関心が無かったとか、薄いとかいうのんは、認知不足もあるんと違いますか?日本軍に大した戦車が無かった、という思い込みだってあるかもしれませんし。ガルパンの知波単学園が無かったら、日本の戦車もここまで注目されてたかどうか、知られるようになったかどうか・・・」
「それは言えますな」
「でしょう?今日のさっきの紫電改の模型ですが、本物じゃなくて模型なのに、あんなに迫力あって説得力充分じゃないですか。暑いのに大勢見学に来てましたよね。けっこう人気あるんですよね。観光の目玉みたいにはなってますよね。戦闘機を知らない人にも、これが戦闘機かと分かって貰える。戦争中の歴史に目を向けて理解してもらうのに、模型でも役に立つんやったら、これからの戦争関連の展示は1/1スケールの模型にしたら、費用も維持費も本物よりはかからないのと違います?」
「そうですな・・・」
「だから、戦車も無理して本物を海外から持ってくるんじゃなくて、1/1の模型で精巧に再現して展示したらええんやないかと思うんです。靖国神社遊就館とか、若獅子神社みたいな、ちょっと身構えないといけないみたいな場所じゃなくて、もうちょっと楽にみんなが行ける場所というか、そういう場所に展示したらええんですよ、きっと」

 ユキさんの意見に思いついたように、エリさんが続けました。
「そういえば、1/1スケールの戦車の模型って、モドキかもしれませんけど大洗にいっぱいあるじゃないですか。レプリカみたいなのでも充分に存在感があって人気あるじゃないですか。ガルパンの人気が前提ではあるんですけど、街中に戦車があっても当たり前、っていうあの雰囲気は、けっこうスゴイと思うんです。他でああいうことやったら絶対クレーム来ますよね・・・・」
「でも、それ、戦争中の戦車だという意識があるからでしょ。アニメのガルパンの戦車という切り口で展示したら、大洗でなくても、どこでもいけそうやな・・・」
「いけるんやったら、間違いなく観光の目玉になるんで、今回の紫電改みたいに1/1スケールで精巧に作ってさ、展示とかやったら当たりそうな気はする」
「あと、いま現存してない戦車も模型だったら作れるよね。プラモデル出てる戦車は1/1スケールでも作れる筈でしょ、浜名湖に沈んでる戦車だったっけ、ファインモールドさんが無理して引き揚げようとして、お金がかかって断念するぐらいなら、1/1スケールの模型で作ったほうが早くてお金もかからないと思う。模型のメーカーなんだから、1/1スケールだって作れるんじゃない?」
「作れるはずだよ。ホラ、秋葉原に1/1のあんこうチームⅣ号戦車が来てたやんか。確か、外国で作って持ってきたんでしょ。ああいうの、簡単に作れちゃう時代になってるんやで」
「そんなら、日本の戦車の変遷を1/1で再現してほしいなあ。プラモデル出してるファインモールドさんに資料や図面があるはずなら、それで1/1スケールの戦車で日本の戦車全部揃えて、戦車ミュージアムとかやったらええんじゃない?これ、絶対ウケるよ。だって、呉の戦艦大和のミュージアムとかものすごい人気観光地じゃない。京都の鉄道博物館やかて、一般の人も外国人も大勢行ってるやん。ああいう博物館みたいな形で戦車のカテゴリーで展示品は全部模型、その製作は全国のモデラーさんに参加してもらう、ってのはええかも」
「それええなあ、実際に作るとなったらさ、あたしたちも絶対参加したいよね」
「要するに、ファインモールドさんが1/1スケールのプラモデルを1個限定で出すわけだ。一人じゃ作れへんから、みんなで協力しあって楽しみながら組み立てて、塗装するんやね。めちゃくちゃ楽しそう。そうだ、これイベントにすりゃええんじゃん。全国のモデラーが集まったら、交流も盛り上がるし、みんなで1/1の戦車の模型作るってのは思い出になるし。そういうのを定期的にイベントでやって、一年に1輌ずつ作っていけば、10年ぐらいで博物館クラスの展示になってくるよ」
「ファインモールドさん、やってくれないかなー」

 そう言ってアハハハと笑い合うモケジョさん2人の話を聞きつつ、私自身も「それいいアイデアだなあ」と思いました。模型であっても1/1スケールであれば、飛行機でも戦車でも、大きな存在感と説得力とアピール性を帯びてきます。今回見た紫電改の模型が、そのことを改めて考えさせてくれましたが、同時に、模型と言うジャンルの新たな可能性というか、方向の一つを示唆しているようにも感じられました。

 大洗のガルパン戦車レプリカの例でも分かるように、第二次大戦中の戦車の1/1スケール品というのは日本では大変に珍しいので、注目されますし、観光資源の一つになり得ます。ガルパン人気にあやかって、アニメに登場している各校チームの戦車の1/1模型を、各校の地元の県に展示する、というのも悪くなさそうです。それによって戦車の認知度も高まるでしょうし、各地に保存されている蒸気機関車のような存在になっていけば、しめたものかもしれません。

 今回訪れた鶉野飛行場跡というのは、アクセス的にはちょっと手間取る場所にありますが、そこに1/1の紫電改があるというだけで、全国から見学客が訪れています。地元加西市も、その効果をよく分かっていて、大々的に戦跡ミュージアムの整備に向けて動いているようです。
 なので、1/1の各種の日本軍戦車が並んで展示されていれば、それはもうボービントンやクビンカのミニ日本版になりますから、世界中から観光客が訪れるかもしれません。模型で作ることにより、日本の模型技術のアピールも兼ねることになります。何よりも、日本の戦車を日本で見られる、という点に大変大きな意義があるだろう、と思います。

 なので、モケジョさんたちは冗談半分で「ファインモールドさん、やってくれないかなー」と笑っていましたが、冗談でなく、日本の歴史観光と歴史教育振興の面もあわせて真剣に検討していただけないか、と思います。

 

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飛行場跡の1/1スケール飛行機模型を見に行きました 後編

2019年08月13日 | 観聞日記

 展示資料館内の見学通路から見下ろした紫電改の1/1スケール模型です。両翼から突き出す4挺の20ミリ機銃が不気味にも感じられます。実物大の模型とは何か、を改めて考えせてくれます。

 ユキさんが、「ガルパンのCV33よりも強そう・・・」と呟いていましたが、実際に火力はこちらの方が上です。20ミリ弾が命中すれば、F6FヘルキャットもB29スーパーフォートレスもバラバラに砕け散ります。

 

 エリさんは「この戦闘機が、太平洋戦争末期に日本の空を護ったんですね・・・」と感慨深げに言ったのち、「海軍の戦闘機ということですと、航空母艦からも発艦出来たんですか?」と聞いてきました。
 いやこれは艦上機ではなく、局地戦闘機なので、空母での運用は想定されていない、と説明すると、「なんだかもったいないですね・・・。最強の戦闘機を発艦させて敵を完全に圧倒出来たなら、第一機動艦隊も哀しい負け戦続きにはならなかったのと違いますか?」と言いました。

 

 ユキさんが「真っ赤な日の丸のマークが分かりやすくて良い、これが日本の戦闘機だよ、と誇りに思えてしまうですよ」と話していました。まったく、その通りです。

 

 展示資料館の内部構造が戦時中のそれを忠実に模していますので、こういったアングルで見ていると、戦時中の格納庫内で待機中の紫電改、という雰囲気が濃厚に感じられてきます。

 

 この日は日差しが強く、風も強かったので、機体を外に出しての展示は中止されて、館内に停められたままでした。そして横風がさらに強くなったため、保全のために前後の扉を閉めるとのアナウンスが流れ、まず機体の前の扉がガラガラと閉められました。
 その様子をずっと見守っていたエリさんでした。

 

 そして、後面の扉もガラガラと閉められましたが、エリさんは微動だにせず、左手を腰脇に据えた姿勢のまま、ずっと紫電改を見つめていました。彼女なりに、色々と思うところがあったのでしょう。

 

 かくして前後の扉が全て閉められましたが、全面がガラス戸ですので、中の紫電改を見ることは出来ます。

 

 展示資料館の北側には、かつての滑走路の北側の広い空間がそのまま残されていました。戦時中はここに戦闘機が並べてあったそうです。いわゆる駐機スペース跡のようです。

 

 展示資料館にてボランティアガイドの方から、南に戦時中のコンクリート防空壕が残っています、と教えられていたので、帰りに立ち寄りました。民家の庭先に、上図の細長いカマボコ形のコンクリート製施設が残されていました。

 

 奈良に住んでいた頃、天理市にあった海軍奈良航空隊の柳本飛行場跡を調べて何度か遺跡見学に出かけたことがあり、似たようなコンクリート防空壕や飛行機を収容する掩体壕の遺跡を見ました。そちらは防空壕の中にも自由に入れたりしましたが、こちらの遺跡は中に入れませんでした。

 

 なので、外回りを見るだけにとどめましたが、二人のモケジョさんは、戦争遺跡の施設を見るのが初めてでしたから、興味深そうにあちこち見て、触って、スマホで撮影したりしていました。
 この種のコンクリート防空壕は、上に土をかぶせるのが普通でしたから、外からは小さな丘もしくは古墳のように見え、上空の敵機には発見されにくかったようです、と説明しておきました。

 

 

 御覧のように、このコンクリート防空壕の内部見学は、事前予約制となっています。ボランティアガイドの同行が条件となっており、一人では入れません。二名以上での予約が必須となっています。

 この遺跡をはじめ、ここ旧海軍鶉野飛行場跡には、他にも関連の遺跡、防空壕跡、対空機銃座跡などが残っていますが、大半が神戸大学関連の敷地内および民有地にあり、一般の見学は禁じられています。
 そのため、定期的に地元加西市での歴史見学ウォークなどのイベントが行われており、それに参加すれば、ほとんどの遺跡を見学出来るようになっています。
 加西市の公式サイト内の紹介ページはこちら。ガイドブックのダウンロード閲覧も出来ます。

 そのガイドブックをダウンロードしてプリントアウトしたものをユキさんが持参していました。なので、旧海軍鶉野飛行場跡関連の遺跡、防空壕跡、対空機銃座跡などの概要が全て分かりました。帰りの車内で、エリさんがそれを借りて熱心に読んでいました。  (続く)

 


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飛行場跡の1/1スケール飛行機模型を見に行きました 前編

2019年08月11日 | 観聞日記

 去る8月2日の京都への引越しに際して、モケジョの近藤エリさんと道下ユキさんがわざわざ手伝いに来て下さいました。二人とも近所さんになるので、お昼の弁当まで用意してくれ、大変に助かりました。
 それで、何か御礼をしましょう、と申し出たところ、エリさんが満面の笑みで応じました。
「それでは明後日に加西の旧日本海軍の飛行場跡へ連れていって下さい」
「加西・・・飛行場跡、・・・・というと、鶉野のこと?」
「そうそう、それ」

 というわけで、8月4日の昼前に集まって京都を出て、山陽自動車道の淡河PAにて昼食を楽しんだ後、加古川北インターで降りて加西市鶉野町へ行き、上図の飛行場跡資料館前の駐車場に入りました。

 

 旧海軍の鶉野飛行場跡の滑走路の北側に、今年新たに出来た格納庫風の展示資料館です。春にガルパンの製作関係者たちも訪れたそうです。
 鶉野飛行場資料館の公式サイトはこちら

 

 資料館の南には、約1200メートルの滑走路跡がほぼ往時の姿をしのばせる状態で残されています。将来的には歴史公園区域として整備される計画があると聞いています。

 

 展示資料館内には、1/1スケールの紫電改の模型がおさまっています。

 

 資料館の建物内部は、かつて飛行機を組み立てていた工場の現存建物の構造をそのまま模しているそうです。

 

 かつての組み立て工場に掲げられていた、機銃の名札であるそうです。

 

 1/1スケールの紫電改の模型です。エリさんとユキさんのお目当てはこれでした。

 

 模型といっても、ほとんど本物と変わりません。今年出来上がったばかりの新品なので、製造直後の飛行機の雰囲気があるていど分かります。

 

 紫電改の車輪です。これは本物だそうです。

 

 太平洋戦争中に日本海軍が実戦配備した戦闘機としては、最強であったとされています。ユキさんが「零戦より強かったんですかー」としきりに感心していました。エリさんは「ドイツの戦車に例えると、ティーガーⅡみたいなものですか?」と聞いてきました。
 まあ、そんなものですね、もっと数が揃っていれば、負けることはなかったでしょう、と答えておきました。

 

 資料館内には上に登る見学通路が設けられていて、紫電改を上からも見られます。周囲の見学者と比べれば、機体の大きさが分かります。

 

 機体の横にある机みたいなものは、整備用の作業台です。この紫電改と共に復元製作されたものだそうです。台車が付いていて、階段が設けられています。これでエンジンや機銃など、機体のあらゆる所に手が届いてメンテナンス作業が出来るわけです。  (続く)

 


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「たまこまーけっと」聖地上映に行きました 後編

2019年01月10日 | 観聞日記

 商店街の寺町口から北を見ました。劇中に出てくる銭湯「うさ湯」の方向です。この寺町通を南へひたすら歩いて御池からのアニメロードに行くのが、かつてのアニメファンまたは巡礼の定番コースであったと聞きますが、相当な距離があります・・・。

 

 寺町口は、劇中に出てくる商店街玄関口のモデルですので、豊郷タイプのキャラクターパネルがで両側に置かれています。上図は北側にある北白川たまこ&デラ・モチマッヅイです。よく特徴をとらえていますので、一目でそれと分かります。

 

 南側には、チョイ・モチマッヅイが居ます。南の国の鳥占官という設定ですが、私にはどうしてもエジプトの神殿の巫女みたいに見えてしまいます。「けいおん」のあずにゃんみたいなキャラクターです。

 

 上映時間まで一時間ほどあったので、昼食をとるべく、上図のカフェ「ロイとリン」に入りました。近くに喫茶 華波があって、劇中の「星とピエロ」のモデルとされていて巡礼ファンに人気であったそうなので、最初はそちらへ行こうかと考えたのですが・・・。

 

 店先のメニューの右側の「焼きカレーライス」というのに惹きつけられてしまいました。パスタもミニで注文し、ともに美味しくいただきました。京都のカレーはどこも煮込み加減がまろやかなので、やみつきになりますね。

 

 別のお店の壁に貼ってあった、同人イベントのチラシです。去年もやっていたようです。ファンの集いはずっと続いているようで何よりです。

 

 さて、上映時間が20分後に近づきましたので、商店街の中央東寄りに位置する映画館「出町座」に行きました。2017年オープンの新しい街なか映画館ですので、劇中の景色には出てきません。

 

 玄関口の横に並べてあったポスターです。2枚とも劇場版「たまこラブストーリー」です。今回の聖地上映企画では、テレビシリーズの「たまこまーけっと」全12話を14:00から19:00まで上映し、その後19:20から劇場版「たまこラブストーリー」を20:45まで上映するという内容でした。

 アニメ聖地のど真ん中での一挙上映という、大変に最高で胸熱な企画です。しかし、私自身はテレビシリーズの「たまこまーけっと」全12話も今回が初視聴であり、「たまこラブストーリー」まで観ると下宿に戻るのが22時ぐらいになってしまうので、翌朝の早朝出勤が辛くなります。
 そこで、「たまこまーけっと」全12話の鑑賞だけにしてチケットも予約して買いました。

 

 玄関の上に掛けられる注連飾り・・、いや「たまこまーけっと」の大きな布幕です。

 

 チケットは、あらかじめメールで予約しておき、カウンターに申し出てリストと照合して貰い、予約確認と席位置選びを行いました。この日は平日なので、席は半分ぐらいしか埋まっておらず、空いた席をどれか選ぶことも可能でした。その後に上図の自販機でチケットを買いました。
 御覧のように、「たまこまーけっと」全12話と劇場版「たまこラブストーリー」のチケットは別々になっていました。

 

 チケット購入時にカウンターでいただいた特別案内リーフレットとチラシです。

 

 この特別案内リーフレットは、上映案内のパンフレットを今回の聖地上映企画に際して特別にアニメキービジュアルの表紙にしたものだそうです。

 

 映画館の一階はカフェスペースおよび書店になっていますが、その奥壁に、アニメシリーズ放送開始時の宣伝ポスターが飾られていました。2013年1月からの放送でしたが、当時の私はガルパンに夢中になっていて大洗行きも繰り返していましたから、このたまこシリーズには全く縁がありませんでした・・・。

 

 声優さんたちのサインが入った当時のポスターです。かなり退色していて、歳月の流れを思わせます。

 

 チラシは、このように表が「たまこまーけっと」、裏が「たまこラブストーリー」のポスターデザインになっています。

 

 上映直前に席に着きました。約50人ほどの観客席の前半分に客が並びましたか、後ろ半分の席はガラ空きのままでした。

 そうして、「たまこまーけっと」全12話を初めて、ぶっ通しで観ました。なかなか面白い作品だな、と思ったのと同時に、「けいおん」と同じスタッフで別の作品を作ろうとしても、スタンスは共通しているので、設定などでかなり無理したんじゃないかな、アニメ作りの限界点も割と明確だったんじゃないかな、というのが正直な感想でした。

 なにしろ、キャラクターがけっこう「けいおん」と似ている気がします。北白川たまこは平沢唯を思わせるし、常盤みどりはほとんど秋山澪ポジションだし、チョイ・モチマッヅイはどう見ても中野梓を連想させるのでした。あと、朝霧史織も、「けいおん」のクラスメートの一人をそのまま持ってきたような感じでした・・。

 以上、初めての「たまこ」シリーズ聖地上映、および聖地レポートでした。  (了)

 

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「たまこまーけっと」聖地上映に行きました 前編

2019年01月09日 | 観聞日記

 おととい1月7日は、新年初の休日でした。年末年始はずっと仕事でしたから、個人的にはこの日が「正月休み」でした。

 ですが、下宿でゴロゴロする積りはなく、西大路からJRと京阪を乗り継いで、上図の出町柳駅まで繰り出しました。この日、出町桝形商店街にある映画館「出町座」でのアニメ「たまこまーけっと」の聖地上映を観賞するためでした。

 

 下鴨神社の南を通るので、ちょっとお詣りに寄ろうかと思いましたが、距離的にも時間的にもちょっとキツイので、やめておきました。今年の初詣は、一週間後ぐらいになりそうです。

 

 高野川に架かる河合橋を渡りました。川の改修整備事業は出合の北側にも拡げられていました。河合橋の橋梁本体にも補修がなされているようでした。

 

 鴨川デルタの飛び石を見ました。「けいおん」だけでなく、「たまこまーけっと」の劇場版「たまこラブストーリー」にも登場している聖地スポットです。

 

 出町橋を渡りました。

 

 まっすぐ進んで河原町通を渡れば、出町桝形商店街の河原口に着きます。出町桝形の「桝形」の呼称は、室町幕府の禅刹相国寺の東の参道筋が、寺町通と下鴨本通によってクランクして軍事上の要衝を成していた歴史にちなむとされています。

 あまり知られていませんが、この辺り一帯が応仁の乱での戦場の一つでもあります。応仁元年10月3日、東軍の細川野洲卿勝之が下鴨神社の森を陣場として高野川を濠にみたてて構えたところへ、西軍の大内左京大夫政弘が突入しました。それで乱戦となったところへ、京兆家救出を目指す安富民部丞元綱が細川勝之を支援すべく横から攻め寄せました。
 東軍が兵力で圧倒していたため、勝つと思われたのですが、相国寺の一部の僧侶が西軍に内応して東軍の背後に放火したため、総崩れとなって安富民部丞元綱は弟の盛継と共に壮絶な戦死をとげてしまいます。いわゆる相国寺合戦の東軍敗退の一因でした。

 

 出町桝形商店街のアーケード内に進みました。十数年ぶりでした。出町柳駅から相国寺エリアへ歴史散策する時にここを通っていたのでした。商店街の向こうの寺町通りに出て右へ進めば、織田信長墓所のある阿弥陀寺へ行けますし、南へ行けば京都御所の北に出ます。

 

 右手の何かのお店の前に、今回の聖地上映のチラシがずらりと並べて貼ってありました。内側にはアニメのフィギュア類がずらっと並んでいるのでしたが、玩具店ではないようでした。

 

 商店街の二つ目の辻から北を見ました。劇中ではこの先の左手に、北白川たまこ達の「玉屋」が位置していますが、実際には民家です。

 「玉屋」のモデルは、商店街の東口から河原町通沿いに少し南に行ったところにある餅屋「出町ふたば」です。模型サークルのメンバーで、百万遍に家があるK氏が、時々会合へ差し入れてくれる「名代豆大福」というのが、劇中の「玉屋」の看板商品そのまんまなんですね・・・。デラじゃありませんが、美味しくて何個も食べてしまいますね・・・。

 

 出町桝形は、鯖街道の終点にあたるので、かつては鯖の商いで栄えていました。その歴史を示すかのように、大きな鯖のオブジェがアーケードの屋根から吊り下げられています。

 

 現地は「たまこまーけっと」の舞台である「うさぎ山商店街」のモデルとして知られ、2013年のテレビ放送後は聖地巡礼スポットとして人気を集めました。上図の看板イラストは、その頃のものでしょうか。北白川たまこ、常盤みどり、牧野かんな、のバトン部三人組が鯖を持っています。

 

 しかし、この景色はどうも見た事あるな・・・。もしかして・・・?

 

 やっぱりそうか、アニメのキービジュアルの景色だったんだ・・・。そのまんまですね・・・。

 

 うれしいなあ、たのしいなあ、と書かれた大きな看板が吊り下げられていますが、その両端に自転車通行禁止のイラストが貼られているのが、どことなくシュールです。
 商店街自体、昭和のアーケード街といった雰囲気なので、個人的には「なんか懐かしいなあ」という感慨があります。

 

 西側の寺町口に出ました。寺町通りと交わっています。ここで北に進めば、劇中では町内会長の湯本長治の「うさ湯」の前に行けるわけですが、現実世界では京漬物のお店があります。  (続く)

 


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再び、岡山真備のエラヤへ行きました  後編

2018年09月06日 | 観聞日記

 帰宅してすぐに洗浄と消毒と整理にとりかかりました。翌4日に台風が接近して天気が大荒れになるということで、この日のうちに全部片づけておくことにしました。

 

 ランナーは全部で24枚、ガラクタ当然の山から探し出したもの、廃棄予定のゴミ袋詰めの中から引っ張り出したもの、などがあり、AFV関連はほとんど探し出した気がします。
 多くはバラバラですが、組み合わせると戦車が2輌ぐらいは組み立てられるのではないか、と思う程の量がありました。ガルパンの戦車を作る際に必要となる場合が多いパーツを含むものを優先的に探って集めましたので、当分の間、ガルパン仕様工作のための転用パーツには困らないと思います。

 

 AFV残存在庫の棚で見つけた戦車キット4点のうち、上図の1点を購入しました。ビニールでパックされたまま水没して、中の箱はフニャフニャのまま、底はまだ湿っていました。

 

 ですが、ビニール包装を解いて、西日に15分ほどあてると、パリパリに乾いてゆきました。箱の紙質のためか、泥の粉があまりまとわりついていない感じでした。

 

 同商品の見本画像です。ロシアのアークモデルスのBT-7です。これはガルパンでは継続高校チームの所有車としてコミック「フェイズエリカ」に登場します。私は既にタミヤのキットで同車輌を製作していますが、アークモデルスの製品はこれまで作ったことが無かったので、ひとつ経験してみようか、と考えて購入しました。

 

 中身はこんな感じでした。ランナーの袋はドロドロでしたが、開封してランナーを取り出して見ますと、意外にもそんなに汚れていませんでした。泥が付きにくいブラ材質のようです。
 組み立てガイド図はなんとか無事でしたが、デカールは半分破れて剥がれていて駄目でした。

 

 ぬるま湯に重曹とクエン酸を溶かしたものに入れて30分ほどつけ置きし、それからジャブジャブとやったら、上図のように綺麗になりました。

 

 続いて、24枚のランナーを全て袋から出しました。大部分がドラゴンの製品で、一部がアスカモデルズの製品でした。

 

 多くはあまり汚れが目立たなかったので、水に付けて洗い、エタノールで消毒するにとどめました。

 

 洗浄後に乾かしながらパーツの種類ごとに分類して整理しました。上図は全てM4系列のパーツ群です。車体パーツも1輌ぶんが含まれており、M4A1のようにみえました。VVSSや転輪はガルパン劇中車では必須の初期型タイプがほとんどで、約5輌ぶんの量がありました。私の今後の計画ではおさらく2輌分程度を使うことが見込まれますので、余剰分はサークル仲間やモケジョさん達にあげることにしました。

 

 こちらは、Ⅳ号戦車系列のパーツ類です。主に転輪類ですが、ラングの車体パーツらしきものも混じっています。

 

 これは、T-34系列のパーツ群です。スケルトンの砲塔パーツはAFVクラブの製品で、あとはドラゴンの製品です。1941年型の砲塔のパーツも含まれています。

 

 これはⅡ号戦車のパーツ群です。いずれガルパンのⅡ号戦車を最低でも2輌は作るでしょうから、幾つかのパーツが役に立つと思います。

 

 これはⅢ号戦車系列のパーツ類です。主に転輪類ですが、車体のパーツ類も含まれます。ハンドルやフック等の細かいパーツが多く含まれるので、ガルパン仕様への工作に使うパーツには当分困りません。

 洗浄と消毒に約2時間を費やし、整理と箱詰めを終えたのは午後5時過ぎでした。台風接近中のためか、風があって涼しかったのが幸いでした。
 これでエラヤでの購入品は二回分に及び、しばらくプラモデルを買わなくて良いぐらいの量が蓄積されました。

 

 8月20日の最初の買物支援にて購入した戦車キット4点のうちの2点を、順に作りました。上図は ピットロードのオキチスH38です。塗装前の組み立てを全て終えた状態です。

 

 もう1点が、ドラゴンのT34/76です。御覧のように「フェイズエリカ」の継続高校隊長トウコの搭乗車として仕上げました。
 ガルパン仕様の工作にあたっては、各所を改造し、タミヤやAFVクラブの同型車のキットのパーツを転用したりして劇中車に合わせました。左右フェンダーの前端に設けられる起倒式ヘッドライトは、パーツが無いため、ブラ材とエポキシパテで形を整えて自作しました。上図は、塗装前の組み立てを完了した状態です。履帯はタミヤ製品のベルト式パーツを転用する予定です。
 このT34/76は、ガルパン戦車模型工作の一つですので、いずれ改めて製作レポートを綴る予定です。  (了)

 


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再び、岡山真備のエラヤへ行きました  前編

2018年09月04日 | 観聞日記

 きのう9月3日、岡山真備のエラヤへ再び行ってきました。3日からいただいた休暇をゆるキャン△長野行きとガルパン大洗行きに使おうと計画したところ、4日から台風の直撃を受けて関東甲信越は暴風と大雨という予想となり、全ての予定が白紙に戻りました。

 ガッカリして、何もすることが無いまま、3日の朝に起きてとりあえずネット等を眺めていたら、エラヤの情報が入ってきたのでした。9月も営業している、というので、驚きました。8月いっぱいで終わる、というのは水没品九割引きセールのことだと悟った時、窓の外を見て晴天であるのに気付き、よしエラヤへ行こう、と思い立ってすぐに出発しました。

 

 エラヤに着いたのは午前10時頃でした。お店の様子は御覧の通りで、営業してるのかな、と思いましたが、店長の団迫さんが玄関口で水洗いをやっておられました。
 近づいて挨拶すると、「ああ、どうぞ中へ」と応じてきました。

 

 店内は、前回来た時よりも片付いていて、在庫量は半分以下になっていました。スチール棚も半分ほど撤去されていて、もともと広い店内が余計に広く感じられました。整理に勤しんでおられた奥さんにも挨拶したところ、ああ、この前の、と笑顔を向けてきました。
 客は、この時は私一人でしたが、まもなく三人ほどが入ってきて、みんな飛行機のキットの棚へ向かいました。AFVが目当てなのは、私だけだったようです。

 

 南側の長いスペースは完全に片付いて、空のスチール棚が置かれてありました。

 

 西側のAFVコーナーは商品もスチール棚も完全に無くなっていました。殆ど売れて無くなったのかな、と見回したところ、店内の商品全体が整理されて移動されていることに気付きました。

 

 つまり、残っている在庫は全て東側の棚列に移されて再整理されていたのでした。

 

 そして西側には、ジャンクパーツというか、箱の破損や客の乱雑な扱いによってバラバラになってしまったランナーパーツ類が山積み状態で集められていました。ゴチャゴチャと積み重なっているので、最初は何が何だか分かりませんでした。

 

 しかし、よく見るとドラゴンのⅢ号突撃砲の破れパッケージがありました。ランナーの一部がその下に埋もれていました。一つ一つ袋を見てゆくと、他にも相当な量のAFVランナーパーツが見つかりました。

 

 パッケージ単位で保たれている品は、みんな東側の棚に移してありました。上図の4つの棚が、全てAFVの残存在庫で埋められていました。前回来た時は見なかった戦車キットも三つほどあり、こんなのがあったのか、前回は見落としたかな、と思いました。とりあえず状態が良さそうな1点を取り出しました。

 

 反対側には車、飛行機のキットがまだまだ豊富にありました。もともとそちらに力を入れていたようです。

 

 塗料類も、今回はこれだけになっていました。8月20日の訪問時はもっとありましたから、いかに沢山の方が来られて、いかに多くが買われていったかが分かります。

 

 玄関口からの通路にはホースが引かれ、玄関口で店長団迫さんがスチール棚の泥を洗い流していました。奥では、後からやってきた客が買物をしていました。

 


 精算時に、団迫さんと少し話をしました。いつまで営業されますか、と訊ねたところ、「まあ、そうやな、9月いっぱいは色々片づけんとならんし、店もこうして開けとるし、その間は残品の販売も出来るだけやってくよ、いつまで出来るかちょっと分からんけどな」との返事が返ってきました。
 興味深いことに、閉店とか閉鎖という言葉を一切まじえませんでした。ひょっとすると今後も、と期待してしまいましたが、明らかな方向が示されているわけでもないので、それに関しては聞かないでおきました。

 精算額は2750円でした。ランナーは全部で24枚買いましたので、原則100円で販売ということなので、おそらく2400円、戦車キット1点は350円、という計算だったのでしょう。戦車キットのパッケージの側に残っていた値札には3500円とありましたので、350円であるならばこれも九割引きになります。
 そのセールは8月いっぱいで終わったのでは、と言いかけましたが、団迫さんがしっかりと値札を確認して電卓に入れておられたので、おそらくサービスなのだろう、と受け止めて、無言で頭を下げました。

 

 一時間ほどで買物を終え、汗だくになって外に出ました。エラヤさんが営業時間を午前中のみに限っているのは、店内のエアコンが水没でダメになって撤去したため、日中は室内が高温になって仕事にならないから、だそうです。確かに店内に居ると、時間と共に室温がぐんぐん上がってくるのが感じられました。

  なので、外のほうが涼しかったです。というか、この日は気温がそんなに高くなかったと思います。風もけっこうありましたが、これは台風接近の印だったのでしょうか。

 

 何と言うか、今回も様々な感慨がありました。模型の聖地とうたわれた老舗が、こうして一つの幕引きに向かってゆくのを見るのは、誠に残念なことです。

 遠い遠い昔、軍艦艦艇のキットをガンガン作りまくっていた若い頃、どうしても入手出来ないガレージキットの品を求めて、このお店に三度ほど行きました。その頃は矢掛の古い町並みの中にもお店があったのですが、三度とも、求めていた品がありました。奈良や京都や大阪や神戸の専門店にも無い商品があるとは凄い、と感動したのを覚えています。
 ここ真備のお店には、横溝正史ゆかりの地巡りの際に二度ほど来ました。その時も通路の狭さと天井近くまで高く積み上げられた商品の量に圧倒される思いが強かったです。その往時の状況は、2016年に石坂浩二が訪れた時の動画にて御覧下さい。こちら

 それらの思い出が、なにか大切な宝石のように思えて、こみあげてくるものがありました。記念の自撮りをやっている最中でしたから、目頭に力を入れてこらえたのでしたが、おかげで厳粛な顔つきになってしまいました。  (続く)

 

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岡山真備のエラヤへ行きました  後編

2018年08月25日 | 観聞日記

 エラヤで購入した水没品の開封とチェック、洗浄と消毒に取り掛かりました。強く照りつける太陽の下で、つぶれた箱も中身もみるみるうちに乾いてゆくので、まとわりついていた泥も粉末状に転じて風に飛散し始めました。頭にタオルを巻き、マスクをつけ、水の入ったバケツ、中性洗剤、ブラシ、重曹、クエン酸、アルコールスプレー等を用意して作業にとりかかりました。

 私はもともと専攻が文化財学で、水没した文化財の修復や消毒除菌のケースも数度経験しているので、今回の水害水没品の取り扱いに関しても、基本的には同等の認識で接すれば良い、と考えていました。参考資料としては、「文化財の虫菌害」69号(2015年6月刊行)に収録される「資料に付着した汚れやカビのドライ・クリーニング」の項が良いかと思います。公式サイトの紹介ページの該当記事をクリックすれば、PDFファイルが開きます。
 あと、広島県世羅町のホームページにて公開されている「水害時の衛生対策と消毒方法について」の項も参考になります。こちら

 まずは、アスカモデルのサスペンションセットを開封しました。今回買った中ではもっとも箱が原形をとどめていたのですが、開けてみると、中まで泥水が充満したことが明らかな状況でした。

 

 ランナーはみんなビニール袋に入っていますが、そのビニール袋にもとから換気孔がつけられていますので、泥水は中にも入りこんでいて、それが乾いてゆくと、中の泥が粉末状になってゆきました。そちらのほうが実は厄介で、袋を開けるとパッと飛散することもありました。
 とにかく、バケツの水に素早く移して沈めるしかありませんでした。バケツはもう一つ出して、そちらにはぬるま湯を入れ、重曹とクエン酸を溶かしておきました。泥汚れがひどいものはそちらへ放り込みました。

 

 ピットロードのオキチスH38のキットの開封に移りました。全ての箱がビニール紐で十字に梱包してあるため、箱がつぶれても中身がこぼれ出てしまう心配は無いものと思われましたが、念のためランナーやパーツが揃っているかのチェックもしました。

 

 これはまだ中身が濡れたままで、上図のカラー解説図も箱の内側にベッタリと貼りついていたのを、ゆっくりと剥がし取りました。熱いアスファルトの上に広げると、表も裏もあっという間に乾いて紙がパリパリになるのでした。

 

 組み立てガイドもびしょ濡れでしたが、一枚ずつ慎重に剥がして開いて、全てのページが無事に使えることを確かめました。暑い日差しの下で、数分ほどでパリパリに乾いてゆきましたので、アルコールスプレーを吹き付けて消毒しました。

 

 ランナーは全て袋から出して、バケツの水に放り込み、ジャブジャブと動かしていると泥が取れました。どうもキット毎のプラスチックの材質に差があり、泥が付きやすいものと付きにくいものとがあるようで、これは付きにくいほうに属しました。ピットロードの製品はパーツの精度が良い事で定評がありますが、ブラ材の方も汚れが付きにくい質であるようです。
 それで、難なく洗浄も終わって綺麗になりました。とりあえず、乾いたパッケージ内に上図のようにおさめました。デカールもまだ使えるようなので、共に保管しました。

 

 続いて、アスカモデルのM4コンポジットシャーマンの開封に移りました。箱はボロボロのヨレヨレでしたが、浸水してピッタリと貼りついた状態になっていましたので、中身が出て紛失していたりする可能性はまず無いと判断しました。それよりも、箱の上下が糊でくっついたようにになっていて、開けるのに一苦労でした。

 

 中身は、案の定ドロドロのままでした。箱を傾けると、底に残っていた泥水がしたたり落ちました。

 

 袋詰めのランナーは全てこんな状態でした。今回買った中で、最も泥汚れがひどかったので、これらは袋から出して、重曹クエン酸のぬるま湯に放り込み、三時間ほど付け置きしました。
 その後、中性洗剤を付けたブラシで軽くこすって洗い、乾かしてアルコールスプレーを軽く吹き付けました。
 

 

 ドラゴンのT34/76です。今回買った4点のキットのうちでは、最もパッケージの状態が良かったのですが、底面に幾つか穴が開いていて、中身が少し見える状態でした。それで、泥水の残留は無いだろうと考えましたが、その通りでした。

 

 開けてみると、中身もほぼ乾いていて、粉末状の泥の粒子がパッとあたりに飛んでゆきました。

 

 御覧のように、ランナーは全て揃っていましたが、一度泥水に浸かって、その後乾いた形ですので、全ての袋に泥の粉が貼りついていて、持ち上げると途端に風に飛散してゆきました。思わず風上に身を移して粉を避けました。

 

 心配していた組み立てガイドは、御覧のように表紙だけが泥汚れにまみれましたが、折りたたまれた部分は比較的綺麗に保たれ、ある程度乾いていました。
 ですが、いったん広げて、日に当てて乾かして、消毒処理を行いました。

 

 さすがにドラゴンのキットはパーツの量が半端無いです。これの洗浄と消毒が最も手間取りました。組み立てガイド図の部品一覧表と見比べながらチェックして袋から取り出し、バケツに放り込んでジャブジャブとやり、重曹クエン酸のぬるま湯に放り込み、三時間ほど付け置きしました。その後、中性洗剤を付けたブラシで軽くこすって洗い、乾かしてアルコールスプレーを軽く吹き付けました。

 

 最後にとりかかったのが、タコムのM3リーのキットでした。これは箱が完全につぶれていたため、中身も無事なのかと不安でしたが、泥でパックされて密閉されていたのに等しい状態であったため、開封してみたら全て無事でした。

 

 まずは一安心、と思ったのもつかの間、組み立てガイド冊子に相当なダメージがありました。もともと紙質が良くない薄い紙を使っているようで、、剥がすと裏面までビリビリと破れてしまうページがあり、更に光沢紙のページが、糊状に貼りついてしまって剥がせませんてした。
 なので、組み立てガイドの後半部分が使えなくなりました。ネット上でも組み立てガイドが見当たりませんので、タコムに請求するしかないか、と考えました。しかし、海外メーカーなので、簡単に事が進むとも思えませんでした。
 最悪の場合、キットのパーツを仮組みして、組み立て順序を推定復原したうえで制作するしかありませんね・・・。  (了)

 

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岡山真備のエラヤへ行きました  中編

2018年08月23日 | 観聞日記

 エラヤを退出したのはまだ11時前でしたので、少し観光でも楽しんで帰るか、と話し合いましたが、天気はあいにく不安定になっていて、またこの日は夕方から京都での定期会合にも出るため、三人ともいったん帰宅して、購入した水没品の洗浄と消毒をやっておこう、ということになりました。
 それで、二人をJR岡山駅まで送って、まっすぐ家に戻りましたが、その頃には天気は回復して強い日差しが戻っていました。

 ですが、水没プラモデルの乾燥と殺菌には好都合でした。さっそく自身の駐車スペースに、全ての購入品つまりキット4点、転輪セット1点、ランナーおよびパーツ類6点を上図のように並べました。まだ泥水がまとわりついている箱もあったので、日干しは欠かせませんでした。

 

 キット4点の1点目は、ドラゴンの品番6584のT-34/76でした。ガルパンにも登場する六角砲塔が特徴の1943年型第112工場製車輌です。転輪が全てディスク型であるのは、プラウダ高校チームのT-34/85と同じです。
 ですが、キューポラ付なので、コミック「フェイズエリカ」の継続高校隊長トウコの搭乗車のT-34/76と同じであることが分かります。

 

 これが商品見本画像です。このキットは古い時期の製品なので、模型店の店頭でもあまり見かけませんでしたが、さすがにエラヤさんにはありましたね・・・。
 ホビーサーチさんでの商品記事はこちら

 

 キット4点の2点目は、ピットロードの品番G06のオチキスH38です。ピットロードの1/35スケールのフランス軽戦車のキットですが、15年ぐらい前の古い製品なので、いまではあまり見かけない希少品に属します。ふと見つけて、あまりの珍しさに衝動買いしてしまいました。

 

 オチキスH38の商品見本画像です。ガルパンには出ていない車輌ですが、フランス製ですので、マジノ女学院やBC自由学園などが持っていそうではあります。最終章の第2話以降に出てくるかも・・・。
 ホビーサーチさんでの商品記事はこちら

 

 キット4点の3点目は、アスカモデルの品番35-034のM4コンポジットシャーマン 「チャイナクリッパー」です。ガルパンのサンダース大付属高校チームのM4とは別種です。アスカのキットは精度が良くて組み立てやすいので、これ作るの楽しいかも、と思って買いました。

 

 商品見本画像です。ものすごくカッコイイパッケージデザインです。これだけでも買いたくなってしまいますね。
 ホビーサーチさんでの商品記事はこちら

 

 キット4点の4点目は、御覧のように箱が原形をとどめておらず、泥でパックされたようになっていて、パッケージデザインすら分かりませんでした。店内で棚から引っ張り出して、これ何だろう、と思ったのですが、側面にかろうじて「M3LEE」の字が見えましたので、やっとタコムの品番TKO2089のM3リーだと分かりました。

 

 商品見本画像です。M3リーの中期型です。タコムからは前期型も後期型もリリースされていますが、ガルパンのウサギさんチームの搭乗車に近いのはこの中期型であるようです。
 ホビーサーチさんでの商品記事はこちら

 

 上図は、アスカの転輪セットの一つ、M4シャーマン垂直懸架サスペンションセットです。模型専門店でも大型量販店でもあまり見かけない一品ですので、買っておきました。これがあると、M3リーの足回りのディティールアップが出来ます。
 ホビーサーチさんでの商品記事はこちら

 

 これはランナーおよびジャンクパーツです。1点ものが四つ、2点を同封したものが一つですが、精算時にはパッケージ数ではなく、中身の点数合計で計算されました。1点のみが3円、あとの5点が10円でしたので、合計53円でした。

 

 3円だったのがこの、タミヤのB1bisの履帯パーツでした。これは店先のガラクタ置き場で見つけたものでしたが、店長の団迫さんは、「これは廃棄で処分するほうやったけども、どうしましょ、買うていただけるとは有り難いですので、ここは3円にしときます」と電卓をたたいていました。

 

 これはアスカのシャーマンファイアフライのランナーの一部です。右にサイドスカートのパーツが含まれますが、これはガルパンのサンダースチームの劇中車を再現する際の必需品の一つです。こういうのはあった方がいいだろう、と考えて買いました。10円でした。

 

 これはAFVクラブのT34/76のいずれかのランナーです。中央にある手摺のパーツは、けっこう重宝しますので、これは確保しておこう、と考えた次第です。

 

 これはアスカのシャーマンシリーズのランナーの一部です。ガルパン仕様への工作に使えるパーツが色々含まれますので、買っておきました。

 

 これはドラゴンのT34/76のランナーの一部です。ランナー二つが同じ袋に入っていますが、精算時にはパーツ2点、と数えられましたので、代金は20円でした。このパックには、ガルパン劇中車の標準的装備の一つであるディスク型転輪が含まれますので、買っておきました。  (続く)

 

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岡山真備のエラヤへ行きました  前編

2018年08月21日 | 観聞日記

 2018年8月20日、模型サークルの仲間2人と早朝の岡山へ行きました。去る7月7日の豪雨水害で被災した岡山真備の模型店エラヤの水没品セール買物支援のためでした。
 サークルでは既に盆休みの段階から会長以下十数名が買物支援に行っており、私たちは後発組でありました。車は私が出して、仲間2人をJR倉敷駅で拾い、エラヤのある真備町川辺に向かいました。
 上図は、岡山県倉敷市の高梁川に架かる川辺橋です。

 

 エラヤには、7時35分に着きました。この日の営業時間は8時から10時までの二時間なので、昼前には買い物が終わってしまいます。
 二時間というのは、模型店での買い物タイムとしては短いほうだと思いますが、今回のエラヤは水害で店舗が完全に水没して全ての商品が泥水の中に数日間沈んでいたという状態なので、果たしてどのように品を選んで買い物をしたらよいのか、見当もつきませんでした。
 エラヤのホームページはこちら。7月7日豪雨水害当時の岡山真備の報道動画はこちら

 

 店先の駐車場には、既に先客が四人ほど居ました。そのうちの一人と立ち話をしましたが、先方が数度目の来店であるということで、これまでの経緯や状況を手短に教えていただくことが出来ました。

 今回の買物支援にあたり、サークルの会長以下数名の先輩から、「汚れてもよい服装で、軍手とマスクとごみ袋を用意すること」とアドバイスを受けていましたので、私たちは三人ともその通りに準備をしてきましたが、先客の方々も似たり寄ったりの準備をしてきていました。

 

 駐車場横のガレージ内には、水没して駄目になった商品やガラクタ類が積まれてありました。盆休みの時点ではもっとあったそうで、水没商品も外に出して高く積んであったのだそうです。それらは全て売切れて、駐車場も元通りのスペースをとれるようになって駐車も可能になったということでした。
 しかし、買物客が多いと駐車場に行列が出来る場合があるということで、斜め向かいの閉店したゲオの駐車場に車を停めました。

 

 店先のスチール棚には、ジャンクパーツ類のような泥だらけのビニール袋が積まれてありました。店長の奥さんの話では、もとはちゃんとした商品だったのが水没で箱がダメになり、その後のセール中に買い物客がバラしたり壊したりしてしまってバラバラになってしまったものもここに集めてある、ということでした。もともとジャンクパーツは、余り扱っていなかったそうです。

 

 近づいてみると、確かに破れた箱がいくつかはさまっていて、パーツ類もある程度揃っているものが散見されました。半分ぐらいはAFVのパーツなので、一度調べてみたら、T34系列やM4シャーマン系列のランナーがかなりありました。
 これも売るよ、と店長団迫さんがおっしゃいましたので、後でじっくりと探すことにしました。

 

 8時になり開店しましたので、私たちは店内に進みました。同行者の一人、モケジョのエリさんは一度立ち止まって絶句していましたが、私も同様でした。
 上図は、入口から入って右手にあるAFVのコーナーです。ざっと見た所、左からミニアート、トランぺッター、ホビーボス、ICM、ズベズダ等の海外メーカー品の棚のようでした。全ての商品が御覧のようなボロボロのヨレヨレ状態で、茫然とせざるを得ませんでした。いくぞ、と同行者のもう一人のK氏に促され、帽子をかぶりマスクを付けて、品定めにはいりました。

 

 水没して泥水に数日間沈んでいた結果が、この状態です。箱が元通りに形を保っているのは一部で、多くはつぶれた状態になり、そして全てが泥まみれでした。

 

 こちらは、入口から左手にあたる飛行機、車などの陳列棚です。飛行機関連は点数も多いようで、この日の来店客の大半は飛行機のキットを購入していたようです。K氏は飛行機キット専門なので、そちらへ回ってゆきました。

 

 入口付近から右手のAFVコーナーのほぼ全体を見ました。既に数人の客が品探しに没頭していました。タミヤ関連はほぼ売り切れていましたが、ドラゴン、イタレリ、レベル、エレール、AFVクラブなどの海外メーカー品はまだ豊富な在庫がありました。
 とはいえ、盆休みの時はこの倍以上の在庫があったといいますから、人気商品やめぼしい品は大半が売れて無くなっていたようです。でも、私からみるとまだまだ魅力的な品が沢山あり、同じようにAFVが目的のエリさんに聞かれるままに、色々指して教えたりしました。

 私自身は、ガルパン車輌の再現工作にあてるキットは殆ど購入済みでしたので、今回は特に目当ての品があるというわけではありませんでした。しかし、エリさんは「ガルパン戦車の適応キットが一つでもあれば・・・」と話していましたので、一緒に探してあげました。
 意外にも、棚の後ろの隙間に落ち込んでそのままになっている商品のなかに掘り出し物がけっこうあり、計11点をエリさんに示したところ、満面の笑顔で全て購入しました。支払金額は6585円だったそうなので、九割引きセールですから定価合計は65850円であったことになります。エリさんが笑顔になったのも無理はありませんでした。

 このときエリさんが買った11点は、ドラゴンのパンターG型後期型、Ⅲ号戦車J型、Ⅲ号突撃砲F型、タコムのマークⅣ、トランぺッターのKV-2、ZiL157、イタレリのサハリアーナ偵察車、ズベズダのT34/76、BA-10、ホビーボスのT-26、モンモデルのFT-17、でした。全て、ガルパンの適応キットばかりでした。エリさんは「私はKV-2とマークⅣが作れたらええのです。あとは仲間に回します」と話しました。

 私自身は、面白そうな戦車のキットを幾つか見つけたのですが、いずれも破損がひどく、購入は最低限にとどめてジャンクパーツ類の方も探しました。

 

 精算は、御覧のように玄関の外に机を置いてカウンターとし、店長団迫さんが価格を値札やパソコンのリストで確認しつつ、全て九割引きで算出していました。レジもありませんから全て電卓計算で、金銭のやり取りは手渡しでした。客のほうも心得ていて、なるべくお釣りが発生しないように小銭もきちんと用意している人が殆どでした。

 私たちも、サークルの先輩たちに「予算を一万円にするならば、千円札9枚、五百円玉1枚、百円玉4枚、十円玉9枚、一円玉9枚を必ず準備していく事」と言われていたので、その通りにして、小銭はさらに多めに持っていきました。エリさんが、「こういう災害とかになると、カードも電子マネーも全部使えなくなるんですねー」と小さく囁いていたのが印象的でした。

 

 この日、私が購入した品々の全部です。戦車キット4点、転輪セット1点、ジャンクパーツ6点で、定価合計は27400円ですが、水没品九割引きセールなので、2740円となりました。水没損傷品とはいえ、定価の一割の価格でプラモデルを買ったのは、生まれて初めてのことでした。

 私とエリさんが精算を済ませて外に出た時、T氏も両手に一杯のゴミ袋を提げて支払手続きに入りました。氏は飛行機キットを28点、定価合計13万7800円を一割で買い、これまた見た事の無い笑顔でした。
 時計を見ると、既に閉店時間の10時を10分過ぎていました。が、まだ来店客もあって、店長は営業時間延長を決めたようでした。  (続く)

 

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京都のアニメとガルパンと街中と  その4 六波羅とベルダンディーと

2015年10月09日 | 観聞日記

 昼食後、アンドー氏の言う「第三ステージ」に移行しました。祇園から六波羅界隈を散策して四条大路に戻る、というものでした。八坂神社前のローソンで飲み物を補給し、花見小路に進みました。


 花見小路界隈は、古い街並みの景観が保たれて独特の歴史的風情が味わえるコースの一つです。祇園のメインルートですが、江戸期までは建仁寺の境内地であった地域で、現在の街路と街並みが形成されたのは明治になってからです。なので、古い街並みといっても明治、大正期頃のそれなので、江戸期までの街並みによく見られる重厚さがあまりありません。


 途中の店舗の店先にある、四条小橋の旧欄干標柱です。四条小橋とは、四条大路の高瀬川に架かる橋のことで、明治8年に架け替えられて不要になった標柱が競売に出され、これを現在の店舗の初代店主が買って店先に飾ったものです。この時期の石製欄干標柱は、現存例が少なくなっていますので、貴重です。


 花見小路の南端は、建仁寺の東門に接しています。アンドー氏は「境内を通ってゆくのもええけどさ、安井社や法観寺塔を見ながらのコースがええかもな」と言いました。
「それでいくと六波羅へは遠回りになるんかね?」
「いや、距離的には100メートルぐらい延びるだけですよ。法観寺塔は下まで行くんですか?」
「塔が望める場所まで行けたらええわ」
「そんなら安井神社の参道筋まで行きますか」
「星野はこのあたりの地図はだいたい頭に入ってるのやねえ」
「八坂から東山、六波羅、五条、七条あたりは庭みたいなもんですよ・・・」
 建仁寺の公式サイトはこちら


 建仁寺東門前から小路を東に折れて少し進めば、右に安井社こと安井金毘羅宮への裏参道があり、そのまま社殿の前庭に入れます。縁切り縁結びのパワースポットとして人気がある神社なので、若い女性が沢山集まっていてお札をいただく行列を作っていました。アンドー氏が話しました。
「お札のことをここでは形代って言うらしいが、これは本来は依り代のことであって、神霊が依り憑く依り代の一種であるわけやな。それで人間の身代わりとして参拝者がこれを持って奉納して、自身の罪とかケガレとか災厄などを形代に移してお祓いを受けるんやが、ここでは縁切りと縁結びの祈念を形代に込めて神前に報告し加護を受ける、というわけや」
「災厄駆除というのが形代の本来の機能だったらしいですね」
「せや。つまりは縁切りの方が、元々のお祓いの対象になってたんやろうけど、それに合わせて縁結びの方も面倒をみるようになったんやろうな」
 境内の有名な「縁切り縁結び碑」は相変わらず無数の形代を貼り付けられて真っ白になっていました。
 安井金毘羅宮の公式サイトはこちら


 安井金毘羅宮の参道筋をたどって東山通に出ると、車の往来のなかを観光用人力車が走っているのが見えました。


 交差点からは、法観寺の五重塔が見えました。俗に「八坂の塔」と呼ばれる室町期の建築で、二層目まで一般公開されています。国重要文化財の塔婆の中に出入りして登れる所はあまりありません。ただ、公開日が不定期なので、私自身も、20年ぐらい前に一度登ったきりです。アンドー氏は高所恐怖症なので、塔に登ること自体が「有り得ない」そうです。
 法観寺の観光案内情報はこちら


 南に進んで二つ目の辻が、有名な「六道ノ辻」です。そこから西に進んで六道珍皇寺へ行きました。
「かつては鳥辺野(とりべの)と呼ばれた広大な葬送地やなあ」
「そうですね」
「葬送地としての歴史は平安時代にもう始まっているんだっけな?」
「というよりも、平安京の東の端が鴨川で、そこまでが「この世」、そこから外側は「あの世」で具体的には都の葬送地といった性格があったみたいなんですね・・・」
「葬送地っていうと聞こえはええが、実態は死体の捨て場みたいなもんやろ。今でも工事をやったら人骨がゴロゴロと出てくるんかな」
「出るでしょうね」


 六道珍皇寺の境内に入りました。ここでも観光客が何人か参拝に来て行列を作っていました。アンドー氏はずっと平安京の葬送地について考えていたらしく、こう話しかけてきました。

「なあ、前に星野に教えてもらったことなんやが、平安京の葬送地って何ヵ所かあったんやってな」
「ええ、地名に「野」がついてる土地は大体そうですよ。大原野、嵯峨野、紫野、化野、蓮台野・・・」
「えっ、嵯峨野や蓮台野もそうやったんか。しかし、何か地名がこう、そのまんまなんやなあ、紫野なんか死体が紫色になって腐り始めることに因んでるやろうし、化野なんかお化けでストレートやないかい・・・」
「化野の化(あだし)は藤原期の日本語では「悲しい」「儚い」っていう意味なんですよ」
「そうなんか・・。こっちの鳥辺野ってのは、鳥葬や風葬の地ってことなんやろうね」
「多分そうでしょう。古代の日本では火葬が広まったとか言われていますけど、それは上流階級のことであって、庶民の多くは土葬か風葬がメインだったんですね。奈良時代に平城京が栄えていた時期だって、庶民が死ぬと死体を山に捨てて放置していたわけですからね。それは要するに風葬であるわけで、鳥が死体をついばむから鳥葬でもありますね。ここ鳥辺野は、平安期の葬送地としては最も古い歴史があるらしいんで、その葬送地の中に建てられた供養堂が、後に発展して現在の清水寺になりますからね」
「せやな。民俗学的にみるとな、本来の日本人は自然崇拝が信仰の中心やったから、葬送の有り方やって、原則としてはそのまま自然に帰す、自然の中で土に還す、ってのが基本やったはずなんや。土に還すことで新たな生命の息吹を期待して神に祈り感謝する、ってわけやな。やから、風葬や鳥葬が日本では古い葬送習俗にあたるというのは当然なんや。東北や九州の山間部じゃ、今でも風葬や鳥葬が残ってるらしいからなあ」

 その鳥辺野への入口に位置して、葬送の儀式の場ともなったのが六道珍皇寺でありました。六道珍皇寺の公式サイトはこちら


 寺の境内には、閻魔堂と呼ばれる小堂があります。内陣には閻魔王、弘法大師、小野篁が並んで祀られています。小野篁に関しては、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝承が広まっており、宮廷歌人としての経歴よりもそっちの方で有名になっています。パワースポットの一つになっているため、この日も若い女性の参拝客が何人か居ました。


 六道珍皇寺から東は鳥辺野ですが、西は六波羅と呼ばれた武家政権の伝統の地になります。地名にもそれが伝わっており、六波羅を六原と表記する地区も見られます。というよりも、もとは六道辻に通じる原っぱという意味で六原と書くのが古い表記であったと思います。
 この地に天台宗が一寺を創建し、後に六原の地名にちなんで六波羅蜜寺と改名しましたので、仏教的色彩を持つ六波羅の字が、やがて地名になったもののようです。直接的には平清盛政権の六波羅第、鎌倉幕府の六波羅探題の設置によって、武家の地としての色彩を急速に帯びてその軍事力をも象徴する代名詞にもなりました。


 六道辻から六波羅に至る三叉路の突き当りには、幽霊が水飴で我が子を育てたという伝承を伝える店が今も営業しています。


 商品名も「幽霊子育飴」と古い看板に書かれます。テレビで放送していた「まんが日本昔ばなし」にも「子育て幽霊」のタイトルでこのお店の伝承が紹介されていました。アンドー氏もそのことは知っていて、いつの間にか「ぼうやー、良い子でねんねしな、今も昔も変わりなく・・・」と「まんが日本昔ばなし」の歌詞を口ずさんでいるのでした。


 平安京屈指の名刹、六波羅蜜寺に着きました。私にとっては青春の思い出の地の一つであり、専攻の藤原彫刻史の研究において重要な遺品群が伝わるため、何度も通った寺院の一つです。


 なので、アンドー氏が「ここだけは記念写真を撮っておいたほうがええ」と言って一枚撮って下さいました。この寺には何度も来ていますが、記念写真を撮ったのは十数年振りでした。


 本堂に参拝し、裏手の宝物館で仏像などの名品群を鑑賞しました。というより、アンドー氏に解説していた時間の方が長かったです。その後、本堂前に出て、脇の古い五輪塔を見ました。
「おい、平清盛の塚って書いてあるで」
「単なる俗称ですよ」
「そうやろうな、実際の墓は福原の地(現神戸市)とかにありそうやもんな」
「それは多分正しいですよ、平家物語では、摂津の経の島に埋葬したと書いてますからね。でも今の神戸能福寺の平相国廟とは多分違う場所やろうと思いますけどね」
「要するに、どこにあったかは分からなくなってるわけやな・・・」


 境内地の一角に、古い礎石が一つ置かれています。その後ろの標石には、此の付近に「平氏六波羅第」及び「六波羅探題」が在ったと記されています。
「この近くに、武門の象徴、天下無敵の六波羅探題があったわけか」
「この南の通りが六波羅裏門通っていうんで、その南側の中学校あたりに中心施設があって、正門は南にあって五条通に面していたと思うんですけどね」
「そのイメージで大体合ってるんやないかね」
 六波羅蜜寺の公式サイトはこちら


 六波羅蜜寺を出て、北の松原通を西に進んで鴨川の東の宮川町通に折れました。このあたりも古い街並みをとどめて歴史散策の人気ルートになっています。


 途中のある料亭の店先には「京都日本酒倶楽部」の看板がかかっていました。お酒が好きなアンドー氏は、その前でピタリと立ち止まり、入りたそうにしていましたが、「今回のメインはアニメと歴史である」と自分に言い聞かせて再び歩きだしました。私はお酒があまり飲めませんので、こういったお店には全く縁がありません。


 突き当りを左に進んで、鴨川に架かる団栗橋を渡りました。ここまで来ると四条通はもうすぐです。


 橋の上でしばらく立ち止まり、鴨川の流れを眺めました。


 こちらは東の木屋町通に沿った高瀬川の流れです。


 木屋町通界隈も、最近は建物の建て替えが進んで現代的な街並みの景観にまとまってきています。この辺りには隠れ家的なカフェが多いせいか、観光客もかなり行き来していました。


 四条河原町の交差点に来ました。向かいには阪急河原町駅があります。ここから河原町通を渡って西にしばらく歩きました。


 最後の目的地、「B's Hobby京都店」に着きました。現時点では京都最大級の模型専門店で、私たちの模型サークルのメンバーもよく利用しています。私自身も、ガルパン戦車キットの製作を始めるにあたっての下見や模型用ツールの購入をこのお店でやっています。その時のレポートはこちら
 アンドー氏は、模型サークルの三代目会長を務めた関係で、このお店では常連客の一人になっているそうです。店員さんとも馴染みのようで、和やかに笑いを交えて雑談を楽しんでいました。

 私は奥の戦車プラモデルのコーナーでドラゴンやイタレリなどの海外メーカー品を色々と見ていましたが、そのうちにアンドー氏がやってきて、「何か買うのか?」と訊いてきました。
「いま作っているガルパンの黒森峰チームの車輛で、マウスだけは対象外にしてるんで、代わりに劇中には出てない車輛を一輌加えてみようかな、って考えとるんです」
「ああ、以前にそんなことを言ってたとTさんに聞いたが、まだ買ってないのか。そうやなあ、ガルパンの黒森峰チームって全部ドイツ軍車輛やからな、劇中に出てるやつ以外で考えると、公式とかの設定内ではⅡ号戦車とか、そういうのあったよな」
「西住みほの好きな戦車、って設定になってるんですよ。でもⅡ号は小さくて迫力負けするんで、あんまり作ろうって気がせえへんのです」
「そうやろうな。ティーガーとかパンターとかエレファントとかの大型がずらりと揃ってるもんな黒森峰は。でもドイツ車輛でも、大洗チームにいるⅢ突とかボルシェティーガーは除外するんやろ?」
「そうですね」
「すると、どれになるかな、ガルパンじゃ車輛は全部屋根つきの戦車か自走砲やもんな・・・、でも大体の車輛は劇中に出てるやないか。ティーガーⅡやろ、ヤークトやろ、ラングやろ、あとⅢ号もあったな・・・、ヘッツアーは大洗チームに居るし・・・、うん、こりゃちょっと難しいな、候補がパッと思い浮かばんなあ」
「でしょ、だから私もあれこれ迷ってるんですよ」
 話しつつ、棚の商品の数々を二人であれこれと見回していましたが、そのうちにアンドー氏が一つのパッケージを引っ張り出して、「これがあるやないか!」と低く叫びました。私もびっくりしました。
「あっ、これですか!これはいいですねえ」
「やろ?、これでいってみろよ・・・、待て、このキットやと、メリットがもう一つあるやないか!!」
 その内容を聞かされた私は、目から鱗が落ちるに等しい感動に包まれました。そうか、その手があったか、と何度も頷きました。そのキットを購入したのは言うまでもありませんでした。


 今回はアンドー氏も戦車プラモデルを一つ買って御機嫌でした。
「今日は色々と楽しかったな、ここの女神様の御加護だよほんまに」
 その女神様とは、店の入り口のショーウインドーに飾られているベルダンディーの1/1フィギュアを指します。アンドー氏はこれを見るのが大好きで、京都に来たら一度は挨拶しておかないと落ち着かないのだそうです。ですが、「ああっ女神さまっ」のコミックやアニメ自体のファンではないそうなので、妙なものです。
 しかし、何度見ても素晴らしい造形ですね。たぶんボークスの製品だろうと思うのですが。


 四条高倉のバス停に移動中、佐賀鍋島藩屋敷跡の標柱を見ました。
「ここで、例の化け猫騒動があったんかね?」
「それは単なる伝説ですよ。鍋島家のお家騒動の方は史実ですけど、ここじゃなくて佐賀藩で起こっているので・・・」
「確か、旧主龍造寺氏の生き残りが再興をめざして鍋島藩を騒動に巻き込んだんやな」
「ええ、徳川幕府は龍造寺氏再興は認めませんでしたから、鍋島家の安泰は保たれたんですが、藩主鍋島勝茂は悶死をとげましたんで、それを龍造寺党の崇りだと噂されたりしたのも事実なんですね。化け猫騒動の伝説はそれを下敷きにして作られたフィクションなんですよ・・・」


 四条高倉のバス停は、バス待ちの人々で混雑していました。四条通といえば京都市内でも賑わっている繁華街の一つであるのに、京都駅への直通路線は5系統の一本しかなく、それを観光客の大部分が利用しているので、どのバスも満員になっていました。あと一系統ぐらいは京都駅への直通路線を設けてくれてもいいと思うのですが、実際にはかつて三系統あったルートを一つに縮小してしまった流れがあります。四条から地下鉄が京都駅に連絡しているので、バスが無かったら地下鉄に乗って下さい、ということなのでしょう。


 京都駅に戻ってきました。実際にはその後、駅前のヨドバシに行って模型コーナーを見て回り、付近の食事処で休憩を兼ねて早い夕食をとったりしましたので、駅でアンドー氏と別れて帰途についたのは、一時間余り後の午後四時過ぎでした。 (了)
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京都のアニメとガルパンと街中と  その3 寺町新京極アニメロードへ

2015年10月08日 | 観聞日記

 「京まふ」会場を退出し、アンドー氏の言う「第二ステージ」に移動することにしました。寺町新京極の通称「アニメロード」と呼ばれる界隈を回ってショップ巡りを楽しもう、というわけです。
 とりあえず、移動時間節約のためにバスを利用することにし、32系統のバスに乗って御池通の京都市役所前まで行きました。


 御池通の京都市役所前に着きました。市役所の前庭で何かのイベントをやっていました。


 ですが、時間的余裕があまり無いため、まっすぐに寺町通へと向かいました。


 寺町通アーケードの北口です。通称「アニメロード」の北端にあたります。


 寺町通に入ってすぐ左手には本能寺があります。歴史に名高い「本能寺の変」の舞台ですが、当時は現在地ではなくて南西約600メートルの堀川通の東側、蛸薬師通の南側の一画に寺地を構えていました。現在の堀川高校の北側にあたります。それを豊臣政権が京都市街地再開発のなかで河原町の北に移転させたのが、現在の伽藍です。
 ここには、織田信長の墓所もありますが、実際には供養塔であり、本当の埋葬地および墓所は寺町通を北へ進んで下鴨神社と鴨川をはさんだ辺りの鶴山にある阿弥陀寺です。


 ある印章専門店の店先には、数多くのデザインのハンコが並べて売られていました。アンドー氏はこういったハンコ類が好きなようで、来年の年賀状に使うのだと言って3種類ほど購入していました。


 私は、こちらの石製印章を1つ買いました。原石は中国からの輸入品で、字は自分で好きなのをサンプルから選択し依頼するというシステムです。約三日ほどで仕上げて宅配便で送ってもらえますので、その手続きをして支払いも済ませました。


 辺りに独特の香りをただよわせていた松茸の売場です。にこやかに「一皿いかがですか」と話しかけてくる店主さんに、アンドー氏はこう言いました。
「松茸っていうと、イヨマンテの供え物としては重要だったんですかねえ」
「は?」
 何を言ってるんですか、アンドーさんってば・・・。


 矢田地蔵尊です。こういった社寺の前を通る際には、アンドー氏も私も必ず合掌礼拝します。
「おい、このお寺も奈良の矢田寺の別院なんだよな?」
「ここも、じゃなくてここしかありませんよ、矢田寺の別院は」
「あっ、そうなのか。本尊の地蔵さんは古いものなのかね」
「いえ、江戸期の模倣像の一種ですよ。奈良矢田寺の本尊は十世紀ぐらいの古像なんですが、これを模したのがこちらの本尊です。もとは古い像があったらしいんですけどね、五条の旧地からこちらに移転するまでに何度か罹災したらしいので、その際に失われてしまったかもしれないですね」
「ふーん、さすがに専門家だけあってよう知ってるなあ」
 矢田地蔵尊の案内情報はこちら


 「かに道楽」の前で道が三叉路になって右へ進めば寺町通、左に行けば新京極通に進みますが、通称「アニメロード」は右に進みます。
「おい星野、新京極通の辺りって伏水とか池みたいのよく見かけるな、あちこち多いねえ」
「そりゃそうですよ。中世戦国期ぐらいまでは鴨川の河原だったんですから」
「えっ、そうなん?」
「今と違って昔の鴨川は、西寄りに流れていましてね、その西岸の通りがいまの寺町通なんですよ。豊臣政権の時に三条通と三条大橋を改修整備したとき、それまであちこちにあったお寺をこちらに移転させて集めまして、河原を寺町の区域に組み込んだんです。それで成立した寺町の街区に、明治期に街路を新たに整備したのが今の新京極通なんですよ」
「それじゃあ、平安京から続いてる街路じゃないんやな」
「ええ、寺町通のほうは正しく平安京の小路からの歴史がありますけどね」


 そんこんなで、ショップ巡りの一ヵ所目、「とらのあな京都店」に行きました。


 続いて近くの二ヶ所目、「メロンブックス京都店」に行きました。このお店でガルパンコミックスの「激闘!マジノ戦ですっ!!」の第2巻を購入したことは、以前の記事に書いたとおりです。


 三ヵ所目は、「らしんばん京都店」でした。このお店でガルパングッズを安価で購入することが出来ました。その時の購入品はこちら


 「らしんばん京都店」の東側には、「迷子道しるべ」で知られる誓願寺があります。
「このお寺も由緒ある所なのかね?」
「ええ、もとは奈良にあった古代寺院の一つです。鎌倉期の初めに京都の一条小川に移りましてね、その旧地辺りの通りを元誓願寺通といまも呼んでます。で、さらに豊臣政権の市街地開発によって現在地に移転しています。本尊は阿弥陀ですが、古い優品は藤原期の毘沙門天像で、これは奈良にあった頃の本尊であった可能性が高いんです。僕はこの毘沙門天像を調べて勉強したことがありますんで、懐かしい思い出のある寺の一つですよ」
「そうか、星野の専門は藤原期の仏像彫刻史やったもんな・・・。京都のそういう仏像はみんな調べてるんやろうけど、ここの毘沙門天像は学術的価値も高いのかね?」
「ええ、国の重要文化財ですよ。藤原期京都仏師の正統的作品である、という意味において貴重かつ重要な遺品なんですが、残念なことに詳しい来歴が分からないんですよ。奈良にあった頃の誓願寺の歴史というのが、いまだによく分かっていませんのでね・・・」
 誓願寺の公式サイトはこちら


 少し歩いて、アンドー氏が左手に京都市街では珍しい櫓門を見つけて指差しました。
「星野、このお寺も知ってるんか?」
「ええ、誠心院(じょうしんいん)ですね。最近は「せいしんいん」って呼ばれてます」
「どういうお寺かね?」
「平安時代の宮廷女流歌人に和泉式部ってのが居たことは知ってますか」
「ああ、中古三十六歌仙の一人やったな。百人一首の歌やと「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」の作者やろ?」
「ええ、その和泉式部が晩年に出家して開基となった寺です」
「ほう、そりゃすごい由緒やな。でも寺の場所は変わってるんやろ?」
「ええ、元は岡崎に創建されたのを、鎌倉期に一条の方へ移して、それからこっちに・・・」


 本堂前に進んで合掌礼拝しました。


 本堂裏手の和泉式部墓所にお詣りしました。
「立派な宝篋印塔やねえ。風格があって古そうに見えるけど、これ和泉式部の没後に建てたものなのかね?」
「残念ながら。和泉式部は十世紀後半に生きた方なんですが、当時は墓を石塔で造るという習慣がまだありませんで、火葬骨埋納の型式だった筈です。これを寺院移転のたびに改装して、一条の方にあった時期にこの石塔を整備したことになります。室町期の正和二年、西暦1313年にこれが建立されまして、その後寺とともに墓も現在地への移転してるわけですね。厳密には浄土系の供養塔なので、この寺がかつては誓願寺の別院の念仏道場であった関係で建立された塔婆である、と解釈すべきです。和泉式部の墓塔というのも、いわゆる後世の俗称と理解しておいた方がいいかもしれません」
「石塔の遺品しては価値あるものなのかね?」
「室町期の遺構としては大型に続するんですが、九輪の請花と宝珠が後補でして、各所に痛みがかなりあります。一応、重要美術品の扱いを受けてますが、修理保全の処置をとれば県指定文化財クラスにリストアップされるかもしれませんね。奈良県だとこのクラスの遺品はだいたい文化財指定を受けてますね」
「なるほど」
 誠心院の公式サイトはこちら


 それから四ヶ所目の「アニメイト京都店」に寄りました。


 四条通に出て、四条高倉のバス停から祇園行きのバスに乗りました。ついでに祇園社にお詣りしよう、とアンドー氏が提案してきたからです。途中で四条大橋を渡り、窓から鴨川の流れを見ました。


 祇園社こと八坂神社に着きました。アンドー氏は京都の神社では大将軍八神社とこの八坂神社がお気に入りです。いずれも平安時代以来の大将軍信仰の拠点であったことで知られています。

 アンドー氏は、大学時代は歴史民俗学を専攻されていたので、宗教民俗および信仰というものにも多大な関心を寄せています。それ以前に信心深いところがあり、社寺の前では一礼する所作を絶対に欠かしません。街中で地蔵さんや墓塔に出会った時もそうなのて、京都や奈良の多くの古刹神域に対しては崇敬の意識を深く持っています。だから、趣味を聞くと、アニメや模型関連、歴史散策や古社寺巡り、の二つをほぼ同レベルの意識で答えてきます。
 アニメファンには珍しい有様ですが、そのために文化財や文化遺産にも興味や理解があり、そのうえでアニメを日本文化の一側面と捉えて国民性や民俗的潮流を理解しながら、アニメ作品それぞれの中身を解釈し評価する傾向があります。なので、その意見や解釈は、周囲の私たちにとっては参考にもなるケースが少なくありません。前月の初めての大洗行きにて、ガルパンと大洗の状況を的確に把握出来たのも、氏のそうした姿勢のなせるわざでしょう。


 西楼門から境内地に入りました。この日は縁日であったのか、参道筋には露店が並び、多くの参詣客で賑わっていました。


 参道の右手にある蛭子社の社殿を見ました。大学生らしき若者が建物をあちこち観察し、それから鈴を鳴らして礼拝していたので、アンドー氏は「あんなふうに見学してるところをみると、あの社殿は何か謂れがあるんかね」と不思議そうに言いました。
「この神社には国重要文化財の建造物が四件あるんですが、こちらの蛭子社社殿もその一つなんですよ。 江戸期の正保三年、西暦では1646年の建立です」
「ほう、そうやったのか」


 本殿に参拝しました。拝殿と本殿をワンセットにして大きな入母屋の屋根で覆う「祇園造り」と呼ばれる独自の建築手法をとり、江戸期承応三年(1654年)の遺構として国重要文化財に指定されています。かつては神仏習合の形態をとった祇園社の様相を色濃く残しており、一見して寺院の本堂に見える姿であるのもそのためです。
「なあ星野、この神社も明治の神仏分離までは寺院としての姿やったんやろ?」
「まあ、江戸期の境内伽藍絵図とかを見ますと、そのような感じですね。平安期には社殿が東、仏堂が西に位置して、南の門は社殿の門、西の門は仏堂への門、という状況たったみたいです。寺院の名前は観慶寺といったんですが」
「すると今の西楼門というのは、かつての寺院の観慶寺の門だったわけかね」
「そう理解していいんじゃないかと思います。仏堂は本尊が薬師如来でしたので、たぶん西向きに建っていた可能性が高いですから・・・」
「つまり、西から門をくぐって仏堂に進んで拝むと、薬師如来は東方瑠璃光浄土のほとけやから、東に位置してるのが正しいわけやな」
「ええ、そういうことです」
「その薬師如来像も明治の廃仏で撤去されて失われてしまったわけか・・・」
「いや、現存してますよ。ここからちょっと北の東山二条に大蓮寺というのがありまして、観慶寺が明治に廃止されたときに薬師如来像などをそこへ移したんです。薬師如来像はいまは国の重要文化財になっていますよ」
「ほう、それは良かったねえ、八坂祇園社の歴史の証人が、神仏習合の歴史を伝えて健在であるわけか。そういうのって、何かグッとくるもんがあるねえ。その薬師如来像とかを、その大蓮寺へ行ったら拝観出来るのかね?」
「いえ、普段は秘仏なんですよ。ずっと以前に京都国立博物館で「院政期の仏像」っていう特別展をやってたときに出品されてたのが唯一の公開でしたかね・・・」
「それは残念やな。八坂祇園社ゆかりの仏像の姿を、一目でいいから拝みいもんやねえ・・・」
 八坂神社の公式サイトはこちら


 観慶寺のあった場所を聞かれたので、参道を引き返しながら途中の大田社や疫神社の鎮座地を示しました。まさに西楼門の東にあたり、一段低い場所ですが、背後に祇園社社殿が位置するので、観慶寺仏堂の立地としては最適です。アンドー氏もそのことはよく理解出来たようで、何度も頷いていました。
 そして西楼門を出て、眼下に四条通と東山通の交差点を見下ろした氏が、つぶやきました。
「すると、四条通そのものが、祇園社観慶寺への参道にもなってたわけやなあ」
 その通りです。四条通界隈は、江戸期に至るまで祇園社の門前町としての色彩が濃かったとされています。


 正午過ぎになったので、近くの「餃子の王将」で昼食をとりました。京都観光ではとにかく有名な食事処や京都らしいオシャレな店に行くのが通、みたいに言われますが、京都にしょっちゅう行っている私たちからみると、そういうのは時間も費用もかかるコースになります。身近な店で手っ取り早く食べて、見物や散策にゆったりと時間をあてるほうが、京都散策をより楽しめると思います。
 アンドー氏によれば、京都の有名店や観光ガイド紹介店ほど、味があんまり良くないし、値段が高い割に量が少なくて食べた気がしない、ということでした。それについては、私も同感です。 (続く)
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京都のアニメとガルパンと街中と  その2 「京まふ」のガルパン

2015年10月06日 | 観聞日記

 続いてT・ジョイ・京都のブースに行きました。アンドー氏のリクエストでした。T・ジョイ・京都は、JR京都駅八条口の南西にあるイオンモール内にある映画館で、来たる11月21日から公開されるガルパン劇場版の上映施設の一つです。それでこの日も前売り券の販売を行なっていました。第一弾と第二弾とがあり、前者の特典のクリアファイルは13種類が全て揃っていました。
 私は以前に前売り券を3枚購入し、1枚をこのT・ジョイ・京都にて使用する予定です。そのことを話すと、アンドー氏は「京都なら近いし、俺もそこへ観に行こうかね」と言って前売り券を3枚購入していました。

「3枚買ったんですか。クリアファイルはどれを選んだんです?」
「これ(カメさんチーム)とこれ(カバさんチーム)とこれ(カモさんチーム)や」
「なんか珍しい組み合わせですね・・・」
「なに簡単や。「カ」で始まるチームを選んだだけや。勝ってやー、っていう気持ちを込めてな」
「あっ、そうやったんですか。さすがですねえ」
「で、星野も券は3枚買ってて持ってるんやろ?どこで観る積りなん?」
「一ヵ所はT・ジョイ・京都、一ヵ所は大阪の梅田ブルク7、そこは前にアンツィオ戦を観に行きましたよね(コチラ)」
「ああ、あそこか。梅田から行きやすいもんな。で、三ヵ所目はどこやね?」
「まだ決めてないんですけどね・・・」
「そんなら、こないだ完成したばかりのアースシネマズ姫路はどうや?一緒に行って案内してくれんかね?」
「えっ、姫路まで行くんですか?」
「いやー、実はやな、修理新装がなった姫路城へいっぺん行ってみたいのよ。姫路城を回って見物してついでに映画みて、って感じで楽しんでみたいねえ」
「それはいい案ですねえ、修理後の姫路城は僕もまだ登っていないんで、ええ機会になりますねえ。じゃあ、それでいきますか」
「せやな」


 前売り券販売コーナーで配っていたチラシです。大洗でも何度か見かけましたが、このイメージデザインはどう考えても意味を捉えにくいです。
「アンドーさん、この「取り戻せ」ってのは、何なんでしょうねえ・・・」
「簡単や。「愛を取り戻せ・・・」じゃねえのか?」
「なんで分かるんです?」
「youはShock・・・微笑み忘れた顔など、見たくはないさ・・・」
「北斗の拳じゃないですか、ちょっと、こんなところで歌わんといて下さいよ・・・」


 続いて私のリクエストである、コトブキヤのブースに行きました。今回の出展企業のなかで唯一、ガルパン関連グッズを出品し販売もしていました。東京都立川市に本社を置く玩具メーカーですが、大阪にも店舗があって春の「ガルパン大阪ぼちぼち作戦」にも参加していました。


 まず目に入ったのが、トウラブこと「刀剣乱舞」の展示でした。コトブキヤが「刀剣乱舞」のグッズも扱っていることを、今回初めて知りました。
 アンドー氏も私も、ほんのひと月前に水戸の徳川ミュージアムでトウラブの凄まじい人気振りに接していましたが、今回の会場で改めて似たような様相を見せつけられました。展示コーナーを見て騒いでるのが、ほとんど若い女の子ばかりでした。反対側のガルパンコーナーが男性ばかりであったのと対照的でした。


 展示のメインは上図の「侍箸」でした。刀剣を二本並べて箸に仕立ててあるのですが、私はこれを今回初めて見まして、面白い発想だなあと感心しました。アンドー氏によれば、この種のアニメグッズは、他にも似たようなものが幾つかあるそうです。
「この侍箸っての、実際に箸として使えるんですかね?」
「使うことを前提に開発してるやろうから、ファンの中には買って使ってるのも居るんとちゃうか」
「鍔の部分がかち合って持ちにくそうに見えるんですが・・・」
「俺も最初はそれを思ったの。でも前の交流会でファンの子に聞いたら、そんなことはないんやってさ。むしろ御飯が美味しくなるらしい」
「ほんまですかねえ・・・」


 反対側のガルパンコーナーです。サッカー試合の対戦チームのコラボアニメキャラが揃っています。


 左より、東京ヴェルディとコラボしている「甘城ブリリアントパーク」の千斗いすず、FC岐阜とコラボしている「のうりん」の木下林檎、そして水戸ホーリックとコラボしているガルパンの西住みほです。


 そして木下林檎と西住みほの二人は、ポーズも同じです。もともとはこの二人の組み合わせでアニサカのイベント企画が始まったらしい、と聞いていますが、本当にそうなのかもしれません。


 木下林檎です。かつては全国ツァーを壮行して大勢のファンを熱狂させたスーパーアイドルでしたが、ある出来事をきっかけに・・・、というストーリーの内容とキャラの人格の変遷ぶりがなかなかに印象的です。上図のような笑顔は、アニメ本編ではなかなか見られませんので、余計にインパクトがあります。

 「のうりん」は、私の実家のある岐阜県が舞台で、聖地となった美濃加茂市へは、車で30分もかかりません。大体の巡礼スポットは知っているので、まだ聖地巡礼には行ったことがありません。
 アンドー氏はアニメファンなので、当然「のうりん」の聖地巡礼にも行っています。長良川鉄道での旅がなかなか楽しかったそうです。


 西住みほです。どうもガルパンのキャラクターは子供っぽく、低年齢的に描かれる傾向が強いので、同じ高校生の木下林檎と比べると、中学生ぐらいに見えてしまいます。
 ですが、戦車に乗ると途端に人格が変わって、優れて頼もしい指揮官になるのは周知の通りです。そのあたりのギャップ感も、ガルパン独自の重要な特色の一つでしょう。


 水戸ホーリック観戦グッズなども展示されていました。こちらは水戸出身の五十鈴華がメインキャラクターになっていて、缶バッジなども同一のデザインになっていますが、私自身はこういったイベント限定品にはあまり縁がありません。


 むしろ、「のうりん」のコラボ缶バッジセットの方が欲しいぐらいです。「のうりん」の公式缶バッジは全部合わせても30種類に満たないのですが、常時配布されているものは一つもないため、大洗のガルパン缶バッジよりも収集が困難であると聞いたことがあります。初期のアニメイトのガチャにあった品も、今では殆ど入手出来なくなっているそうです。


 これが有名な「もえたま」のパッケージです。養鶏業も盛んな岐阜県なので、ブランド卵も各地にあります。なので、アニメに登場した無精卵を実際に商品化するのにも手間がかからなかったそうです。
 ですが、「もえたま」は普通の卵であるにもかかわらず、販売期間中はファンの注文が殺到してブランド卵よりも売り上げが飛躍的に伸びるそうです。宣伝キャラに良田胡蝶を起用しているのもポイント高いですね。


 ダンボーです。、あずまきよひこ原作のコミック「よつばと!」シリーズに登場する段ボール製のキャラクターです。第28話の「よつばとダンボー」にて初登場、中に早坂みうらが入って動き回り、小岩井よつばがこれを見て本物のロボットだと信じてしまうわけです。これが商品化されて、コトブキヤの主力商品の一つになっているそうです。


 さらにコトブキヤの主力商品の一つ、キューボッシュシリーズも展示されていました。アイドルマスターの如月千早とともに、ガルパンの西住みほも展示されていました。2016年1月に発売が予定されている新製品で、私自身は実物を今回初めて見ました。


 サイズはフィグマとあまり変わりませんが、アニメ調のデフォルメにて頭デッカチに仕上げて、カラコレなどに近い雰囲気になっています。関節は全て可動するそうで、フィグマ同様にいろんなポーズが楽しめるそうです。アンドー氏は「これは割合にウケるんじゃないかね」と言っていましたが、確かにファンならば絶対に買うでしょう。ナガシマさんも「絶対に欲しい」と書いていましたが、私ももちろん購入決定です。
 ただ、問題はその後にあんこうチームの他の4人も商品化されるのかどうか、ということですね・・・。


 見学後、一階の休憩フロアに移動し、アンドー氏のリクエストでキャラ弁や関連グッズ等の見物に付き合いました。


 フロアの一角にあった、「ご注文はうさぎですか?」のキャラクターパネルです。


 こちらは「魔法少女まどか☆マギカ」のキャラクターパネルです。アンドー氏はこのアニメは結構好きらしく、何度も写真を撮り、近くにいたファンの方と少し会話をしていました。


 キャラ弁や関連グッズ等の販売コーナーです。


 最も賑わっていたのが、アニメイトカフェの出張所ブースでした。アンドー氏は最初はここでドリンクを買う積りだったらしいのですが、長い行列を見て諦めたようで、すぐに隣のローソンのブースへ移動していました。そして、頼みもしないのに、私の分までソーダフロートを買ってきたのでした。 (続く)

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京都のアニメとガルパンと街中と  その1 「京まふ」2015

2015年10月04日 | 観聞日記

 2015年9月20日の朝9時前、京都駅で新幹線を降りて西口に行き、時計台「時の灯り」にて模型サークルの知人アンドー氏と合流しました。
「アンドーさん、おはようございます」
「おはよう、今日も元気に楽しむか」


 この日は快晴で、京都タワーの聳える空も青く澄み渡っていました。
「いい天気になりましたねえ、では早速バスに・・・」
「待て、その前に「京なび」に行っときたいんやが、どこやったっけ?」
「「京なび」って、総合観光案内所のことですか?何か用事があるんですか」
「せや、そこへ連れてってくれんか」


 そこで少し駅構内通路を引き返し、京都伊勢丹の入口の横にある京都総合観光案内所「京なび」に入りました。京都観光の資料や地図、宿泊施設の案内や予約、交通機関の資料など、たいていの観光資料がここで入手出来ます。私自身は、毎年春秋の文化財特別公開情報や関連資料などを時々ここで得ています。

 アンドー氏は、カウンターに直行して係員に「京都のアニメの巡礼地図を二部ずついただきたい」と言いました。
「アニメの巡礼地図、でございますか?」
「そう、二種類が配布されとる筈ですが」
 そこで係員は思い当った表情になり、すぐに該当の資料を二部ずつ持ってきて渡してきました。


「おい星野、これが「京都聖地巡礼マップ」の小冊子や」
「へえ、ネットでもダウンロード出来るアレですね。印刷物は初めて見ました」
「それから、二部のうちの一つがこれ」
 それが「有頂天家族」の京都探訪マップでした。下鴨神社を軸として、鴨川沿いの河原町から川端通界隈が舞台となっているアニメです。ガルパンより少し前にテレビ放送がなされていましたが、私は前半の数話しか見ていませんので、残りをいつかDVDレンタルで見てみたいです。
 「有頂天家族」の公式サイトはこちら


「それから、もう一部がこれな」
「あっ、「恋いろは」の巡礼マップじゃないですか、これは良いですよ・・・」

 伏見稲荷大社界隈を舞台とするアニメ「いなり、こんこん、恋いろは。」は、結構気に入っている物語の一つです。私自身が、かつて伏見稲荷大社ゆかりの歴史人物の名をハンドルネームに使っていたほどに、あの地域には青春の思い出が沢山あります。
 このアニメのテレビ放送は2014年にやっていて、全10話とOVAの11話を欠かさず見ていました。原作のコミックスも全て読みました。ですが、聖地巡礼はまだやっていません。何度も通った地ですので、行かなくても大体分かりますし、アニメに登場したスポットは全部知っています。
 今回、この巡礼マップを貰えましたので、一度、あのノスタルジックなストーリー世界に浸りつつ現地を散策してみようか、と思います。散策というより、本格的な山登りを伴いますが。
 「いなり、こんこん、恋いろは。」の公式サイトはこちら

 さすがにアンドーさんはアニメファンだけあって、こういうアニメ聖地巡礼マップの情報にも詳しいです。どこから情報を得てくるのでしょうか・・・。


 バスターミナルに行くと、長い行列が出来ていました。シルバーウィークの連休で観光客の人出が通常の三倍になっていたと聞きましたが、とにかく市バスも京都バスも満員状態でした。
「アンドーさん、こうなったら地下鉄で行きますか?」
「いや、(京まふの)会場へあまり早くに着いても混雑してる筈なんや。時間がかかってもええんや。ゆるゆると行けばええんで、バスで行こうや。乗り場はどこやね?」
「岡崎公園まで乗りますから、銀閣寺道経由の急行バス路線がいいでしょう。大抵の人はA1(乗り場)に行くでしょうから、我々はD1に行きましょう」
「さすがに詳しいねえ」
「京都はもう何度も来てますんで。大学にも通ってましたし、昔のサイト運営の事務所を河原町に置いていましたんでね・・・」


 アンドー氏が「切符はバスで買うのか?」と聞いてきたので、近くのバスチケット販売所へ寄って「市バス・京都バス一日乗車券カード」を購入しました。
「これって、一日フリー乗車券なのかね?」
「そうです。京都観光主要エリア内であれば、市バスと京都バスは何度でも乗れます。今日は最低でも4回は乗るんですから、これの方がトクですよ」

 京都のバスは観光主要エリア内の均一期間料金が230円です。これに四回乗ると920円かかりますが、この「市バス・京都バス一日乗車券カード」は500円なのでお得です。この日は、結果的には六回乗りましたので、大変にお得でした。
「おい、これも貰ってきたで」
 と、アンドー氏が私の分まで持ってきてくれた「バスなび」のマップでした。京都のバス路線はものすごく複雑ですから、これがあると重宝します。


 D1乗り場から100系統の急行バスに乗り、東山通を北上するコースで目的地へ向かいましたが、道路はどこも大渋滞でした。通常なら15分ぐらいでいくところを30分ほどかかって、目的地の岡崎公園にて降りました。そこから「京まふ」会場の京都市勧業館までは歩いて3分もかかりません。途中で平安神宮の建物を北に望みました。


 「京まふ」会場の京都市勧業館「みやこめっせ」に着きました。大いに張り切るアンドー氏でした。
「見ろ、混雑も行列も無いで。ゆるゆると来て正解やったようやな」


 チケット売り場で購入した当日券です。その直後にゲートで三分の一ほどが千切られました。


 ゲート横の案内板です。公式キャラクターの「都萌(ともえ)」は漫画家の藤島康介さんのデザインになります。藤島康介さんは「逮捕しちゃうぞ」や「ああっ女神さまっ」の原作者として知られています。


 今回は、アンドー氏も私も、出展会場のみへの入場でした。係員の誘導に従って列になり、三階の会場へのエスカレーターに乗りました。


 出展会場は、大変な賑わいでした。一見したところでは、男女の比率が四対六ぐらいでした。男はオッサンが目立つのに対して、女は若年層が大半を占め、10代から20代までが多かったです。これがアニメファン層の平均的な構成比でしょう。


 広い会場に並んだ出展ブースは50もあり、全部を見て回ると時間もかかるので、あらかじめ見たい所、興味があるブースを絞り込んでいました。でも、会場に入ってみると移動すらままならない混雑ぶりなので、見て回るというより流されるという感覚でした。


 コスプレイヤーさんもあちこちに居ました。アンドー氏はその何人かに声をかけては気さくに会話を楽しみ、資料もしっかり貰ってくるのでした。上図の「少年ジャンプ」のブースでは「ねえ、杉元佐一のイラスト画とか資料ないかね?」と聞いていました。

 氏は、最近ヤングジャンプにて連載中の「ゴールデンカムイ」にハマっています。この漫画は、明治期の北海道のアイヌ文化の紹介という側面も併せ持っていますので、大学では歴史民俗学を専攻し、日本の各地域の習俗や生活文化の差異を歴史的に捉える研究をやっていたアンドー氏にとっては、興味深いカテゴリーに属するのでしょう。
 それで、氏に勧められて私も原作コミックスを読みましたが、ものすごく面白いです。アニメ化の噂もチラッと耳にしたことがありますが、血生臭いシーンが少なくありませんので、映像化には相当の困難があるだろうと思います。


 会場の中央辺りに設置されて、かなり目立っていた「ラブライブ!」のねぶた人形です。実際に青森県五所川原市のねぶた祭りに出品されたといいます。キャラクター9人のうちの三年生チームで、左から綾瀬絵里、矢澤にこ、東條希です。
 「ラブライブ!」の公式サイトはこちら


 こちらはアンドー氏が大変な関心を寄せていた、京都精華大学のブースです。日本で唯一、マンガ学部を設置して漫画やアニメの人材を輩出しています。氏は「こういう学部で勉強して楽しみたかった」と常々話していますが、私も同感です。


 ブース前には、京都市交通局の地下鉄利用促進PR「地下鉄に乗るっ」の公認応援キャラクターのパネルが置かれていました。左は「太秦萌(うずまさもえ)」、京都市営地下鉄東西線の「太秦天神川駅」が元ネタです。京都市交通局のフェイスブックではレポーターを務めていますので、私もよく知っています。

 しかし、右のキャラクターは初めてみました。アンドー氏は首を傾げつつ、係員に「これは誰?」と訊ねていました。
「烏丸ミユ、といいまして、今回、国際マンガミュージアムのキャラクターとして新たに加わりました」
 その説明を聞いて、ああそうか、と思い当りました。「京まふ」の第二会場である国際マンガミュージアムは、京都市営地下鉄烏丸線の「烏丸御池駅」が最寄です。「烏丸ミユ」の「ミユ」はおそらくミュージアムに因んだ名前でしょう。

「おい星野、この娘(烏丸ミユ)のヘアスタイルな、織田信長の茶筅髷ってやつかね?」
「ちょっと違うような気がしますが。服装が中世期の京童みたいなデザインなんで、髪形もどっちかというと擬宝珠に近いスタイルですねえ、もしかして三条大橋の擬宝珠が元ネタかもしれませんよ」
「そういやあ、そうやな。京都なんやからネタはそっち系が相応しいね。すると、池田屋襲撃事件の切り傷ってのもあるんかねえ」
「そんなもの、あるわけないでしょうが・・・」

 三条大橋の擬宝珠は、豊臣秀吉の修造時のものがそのまま伝わります。江戸期の新選組による池田屋騒動の際の大立ち回りが三条大橋でも繰り広げられたとされ、その際の切り傷がいまも残っています。


 そしてこのポスターを、アンドー氏はものすごく欲しがっていました。
「地下鉄に乗るっ、っていうフレーズがシンプルでたまらんよなあ・・・」
「そんなにたまらないんですか・・・」
「せや。俺風に言うたらさ、イヨマンテの夜っ、てなるわけやからねえ」
「意味が分かりません・・・」


 こちらは、GAROアニメシリーズ第2弾の「牙狼-紅蓮ノ月-」の展示ブースです。2015年の秋からテレビ放送が予定されており、舞台が平安京となるようです。

「この星明っての、安倍晴明がネタなんやろうね」
「そうだろうと思いますけど、でもアニメでの設定は魔戒法師の女性ですよ」
「じゃあ、金時ってのは坂田金時なのかね?」
「かもしれませんね・・・」
「真ん中の雷吼ってのは?」
「これは歴史人物じゃないですね・・・。仏教の尊像に金剛夜叉明王ってのがあるんですけど、その持ってるヴァジュラっていう武器が古代インドの神話では雷を放つものでして、その雷鳴の響きを雷吼と表現するんです」
「ほう、すると明王の憤怒のパワーというところか」
「まあ、そういう感じですね。梵訳だとヴァジュラヤクシャなので、雷神の化身とされる金剛吼菩薩と一緒なんですよ」
「そういうのが、このアニメの主人公であるわけか・・・」

 「牙狼-紅蓮ノ月-」の公式サイトはこちら


 こちらは「ごちうさ」こと「ご注文はうさぎですか?」のキャラクターたちです。原作は「まんがタイムきららMAX」の四コマ漫画ですが、アニメ化もなされて、最近まで放送していました。現在は第二期が放送中だと聞いていますが、観たことがありませんので、詳細をよく知りません。
 しかし、ブースには若いファンが多く集まっていて、デモ画像や原画の展示に熱心に見入っていました。

「おい星野、この真ん中の、頭にウサギが乗ってる子な・・・」
「ああ、シャロですね。喫茶店のアルバイトやってる子ですよ」
「手前左の、頭に丸いネコみたいなのが乗ってるのは・・・」
「これは確かチノですよ。ラビットハウスのマスターの娘です」
「ラビットハウスって・・・?」
「舞台となってる喫茶店の店名ですよ」
「おい、アニメも観てないって聞いてたが、なんでそんなに詳しいんや」
「以前に李さんに原作コミックスの翻訳版を見せてもらったことがあるんですよ・・・」
「李さん、って、台湾のPETIT FANCYのメンバーやった人やな。去年の神戸イベントにも来てたな」
「その時に「これが素晴らしいよ」って、これの原作を見せてくれたんです。でもそれ中国語版なんで、改めてこっちの本を見て、だいたいのキャラは把握したわけです」
「俺はこれは全然知らないのや。よし今度マンガ喫茶でコミックス読んでこよう」

 「ご注文はうさぎですか?」の公式サイトはこちら


 こちらは京都嵯峨芸術大学のブースです。芸大生が描く作品は、いずれも独創や創意に溢れた面白いものがあり、前衛的な作風を押し出した作品も少なくありません。アニメやマンガの表現世界とは別種の趣を漂わせて興味深いものが多いので、私はこういった作品を見るのが好きです。
 私自身も京都造形芸術大学の芸術学部に学びましたから、こういった芸大系のブースの方々とは話題が合うことも多く、イラスト理論や絵画世界表現の可能性などについて少し話をしました。


 ブースでは、学生さんが絵画制作の実演をしておられました。私よりもアンドー氏が熱心に見入っていて、「この真ん中の男性は、俺よりもカッコ良いので困るな・・・」などと意味不明のつぶやきを漏らしていました。それに対して学生さんは「えっ?」と不思議なものを見るような目つきで応じていました。


 続いてアンドー氏が向かったのが、京都情報大学院大学のブースでした。そのマスコットキャラクター「きょこたん」が氏のお気に入りなのだそうです。


 これが「きょこたん」です。これを見るのは初めてでした。もうちょっとネーミングをそれなりに考案して欲しかったところですが、キャラクター自体も精華町マスコットの「京町セイカ」よりは安直なデザインに見えてしまいます。

 なので、アンドー氏に「この子の帽子の元ネタ分かるか?」と聞かれた際に、即座に「京都タワーじゃないですか」と答えました。
「なんですぐに分かるんや」
「だってデザインが安直・・・いやシンプルで分かりやすいじゃないですか」
「うん、シンプルで分かりやすいのが一番やね。こういうキャラクターデザインがええんやで」
「そうですね・・」と、ここはアンドー氏に合わせておきました。


 「ラブライブ!」の展示ブースの背面です。これが最も見栄えがするせいか、多くの見学者が一様にカメラやスマホで撮影していました。一番右側の三人組が、会場中央にあったねぶた人形のそれですね。


「おい星野、お前の好きな金田一耕助や」
「違いますって、これは金田一一(ハジメ)ですよ」
「えっ、金田一耕助とは関係ねえの?」
「一応、コミックの設定では金田一耕助の孫、ってことになってますよ」
「それはおかしいぞ、金田一耕助は生涯独身やった筈やろ。なんで孫がいるんや、説明しろ」
「なんで私が説明せんとあかんのですか。コミックの設定が横溝シリーズのそれとは別物なんだからしょうがないですよ・・・」
「じゃあ、こっちのキザな野郎はもしかして、等々力警部やったりするわけか?」
「違いますよ、明智警視です」
「明智って、明智小五郎かね?」
「いえ、明智健吾です」
「つまり、明智小五郎の孫ってわけやな?」
「そんな設定は無かった筈なんですけどねえ」
「なんでコイツ(金田一一)が金田一耕助の孫なのに、コチラ(明智健吾)は明智小五郎の孫じゃねえのよ?」
「そんなこと、私に聞かないで下さいよ・・・。そこの読売テレビのブースで聞いてきて下さいよ」
 それでアンドー氏は聞きに行きましたが、どんな会話が交わされたのかは、その場に居なかった私には知る由もありませんでした。

 「金田一少年の事件簿」の公式サイトはこちら。  (続く)

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伯耆大山 (下)

2015年05月25日 | 観聞日記

 大山寺門前町に戻りました。これで大山の社寺エリア散策は終わりましたので、休憩と食事をすることにしました。まずは散策で汗ばんだ体を洗うべく、門前町の温泉施設「豪円湯院」に立ち寄りました。

 ここの温泉は、大山の冠雪が長い時間を経て地下に浸透、地下で浄化され、1200メートルの深さから温泉として湧き出たものです。全国の天然温泉の中でも酸化還元電位の値が非常に低いことで知られ、天然で-320mVの数字は日本最大級といわれます。その効果によって疲労回復が期待できるとありましたが、その通り、湯に浸かっているうちに体が軽くなっていきました。湯上りには、大山の白バラバニラ牛乳がピッタリ合います。その味わいは最高です。
 「豪円湯院」の公式サイトはこちら


 「豪円湯院」の向かいには足湯の施設もあります。登山客が帰途によく利用しているそうです。「豪円湯院」と同じ湯ですが、こちらは無料です。


 近くの蕎麦屋さんで、大山蕎麦をいただきました。山陰地方には蕎麦どころが多いですが、鳥取県では倉吉の打吹蕎麦とこちらの大山蕎麦がよく知られています。大山麓のグルメのナンバーワンが蕎麦なので、お店もあちこちにあります。普通の蕎麦と異なり、実の甘皮までを挽き込む製法によって独特の黒い色と素朴な風味を引き出している点に特徴があります。岡山県側でも「蒜山蕎麦」というのがありますが、材料の蕎麦を大山の麓で栽培している点は同じです。

 鳥取県に住んでいた時期、大山には30回ほど行きましたが、北の大山町や琴浦町あたりから登った際の食事は大山蕎麦、南の蒜山から登った場合は蒜山焼きそばか蒜山バイキング、というのがお決まりのコースでした。今回もそれでいく積りでした。


 大山寺観光駐車場に戻りました。大山の北壁が北東から望まれて霊峰の風格を漂わせています。


 駐車場から出てすぐ地蔵石仏の立つ分岐路「地蔵別れ」に着きます。左に進めば「大山パークウェイ」の続きですが、今回は右折して大山町へと北進しました。なだらかに広がる裾野の原生林の緑のトンネルの中を走り、やがて広い田園地帯に出ました。あちこちに上図のような風力発電の巨大風車が見えてまいりました。

 大山の北麓にはこのような巨大風車が計41基も分布し、大山からの強いおろし風を利用して風力発電を行っています。このうちの15基が大山町にあり、町が管理運営する高田工業団地の巨大風車と、日本風力開発「大山ウインドファーム」のそれとに分かれます。なかでも高田工業団地にある風車は全長118.5メートルの大きさで、「太空海(たくみ)号」の名で呼ばれます。


 まもなく「仁王堂公園」に着きました。児童遊園地や交流広場をともなった地域の公園施設の一種ですが、ここには大山町のシンボルともなっている巨大な大山カラス天狗の銅像があります。
 カラス天狗は、霊峰大山の神の仮の姿ともされ、大山にて修行して神通力を得た山伏たちのパワーをシンボライズしたものともされています。古来より多くの伝説が語り継がれています。
 「仁王堂公園」の案内情報はこちら。大山カラス天狗伝説の紹介はこちら


 続いて、鳥取県のみならず山陰地域を代表する弥生時代の遺跡「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に行きました。大山麓には数多くの縄文、弥生時代の遺跡が点在しますが、こちらの遺跡は遺跡の規模や質が日本最大級で、一帯は国史跡に指定されています。
 私が鳥取に住んでいた時期の平成7年に発見されて発掘が続けられ、20年を経た現在も進行中です。範囲が156ヘクタールと広大なうえ、これまでに竪穴式住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基を検出しましたが、それでまだ全体のおよそ1/10の範囲での成果に過ぎません。全容解明までにあと50年はかかるだろう、などと聞きましたが、そんな凄い遺跡は日本中にそうそうあるものではありません。
 現在、発掘調査が完了した地区は、御覧のように竪穴式住居などが復元されて歴史公園になっています。こういう場所が大好きなホシノなので、竪穴式住居の一つ一つに入り込んで弥生時代のムードに浸ったりして楽しみました。


 ガイダンス施設の竪穴式住居復元レプリカや出土資料も楽しく見学しました。こうした遺跡や遺物に直接触れて歴史を追体験することが、日本と日本人の本当の歴史を学んで理解する一番の近道です。ホシノは全国各地でこうした遺跡などを積極的に見て回っていますが、それによって構築される歴史観やイメージの全体像は、一般的な教科書や歴史本の記述とはちょっと異なっていることが多いです。
 言い換えると、日本の考古学や歴史学の近年の目覚ましい進展や成果などが、まだまだ一般的な教科書や歴史本に反映されていない、ということです。時代別にみると、その傾向が最も顕著なのが、中世戦国期の歴史であるように思います。


 遺跡公園として整備された範囲だけでも広大なので、今回は竪穴式住居群のエリアである妻木山地区と、四隅突出型墳丘墓などの墳墓が並ぶ洞ノ原地区だけに絞りました。
 上図は洞ノ原地区の丘陵地で、私の背後に見える尾根先端部にも高床式倉庫などの建物が復元されています。遠くに望まれる海岸線は弓ヶ浜です。

 ここの遺構で興味深いのは、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)という山陰地域独特の墳墓形式です。弥生時代の中期以降ぐらいに広島県の三次エリアで発祥したとされ、吉備や山陰、北陸の各地方に広がっていったようです。近畿地方などに見られる方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形が特徴で、その突出部に葺石や小石を施すケースも多いです。現在は約90基ほどが確認されていますが、数の上では鳥取県や島根県に多く分布しています。地域文化の特徴がよく表れた一例と言えますが、こうした特色ある遺跡や遺物に触れることで、日本の歴史の多様さ、奥深さが実感出来ます。
 「妻木晩田遺跡」の案内情報はこちら


 「妻木晩田遺跡」の次に、近くにある「伯耆古代の丘公園」内にある「上淀白鳳の丘展示館」に行きました。私が鳥取県に住んでいた時期には「淀江町歴史民俗資料館」でしたが、近くの上淀廃寺の発見と国史跡指定によって遺跡公園施設としての再整備が図られ、近年にリニューアルして立派な展示館に生まれ変わりました。
 「上淀白鳳の丘展示館」の公式サイトはこちら


 この展示館の目玉は、上淀廃寺金堂の実物大復元展示です。法隆寺金堂壁画に次ぐ白鳳期の壁画遺品と独特の伽藍配置で全国的に有名になった上淀廃寺の、金堂の建物と内陣の仏像を、多数の遺物から推定的に復元したものです。上図のように、金堂の建物の一層目部分を、遺構と同規模で立体的に復元してありますが、このような展示施設は、日本でもここだけです。


 さらに凄いのは、内陣の仏像を、発掘で検出された塑像の断片多数から推定的に復元し、実物大の大きさで実験的に再現した点です。奈良の古代寺院に現存する仏像などを参考にして同時期の様式にて表していますが、地方の古代寺院の安置仏像を実物大のスケールで三尊とも推定復元した事例はここだけなので、それだけでも一見の価値があります。
 私は古代の仏教美術史を大学で専攻し、古代寺院の歴史にも興味を持って全国各地の遺跡を見に行きましたので、こういう復元展示があると、どうしても見に行きたくなってしまいます。


 壁画断片の出土状況を再現したレプリカです。平成3年に発見された当時は大騒ぎとなり、連日新聞の大一面を飾りました。その発掘調査が進むにつれて遺構や遺物が次々に検出され、その独特の寺観が話題となって早々と国史跡に指定されました。
 私が鳥取県に移住したのは、その発掘フィーバーが一段落した時期でしたが、「因泊古代寺院研究会」の見学活動で初めて訪れた時は、まだ発掘された生の遺構が見学出来て、とても興奮しました。


 その懐かしい上淀廃寺跡へ行きました。いまでは発掘も完了して一帯は復元整備され、遺跡公園になっています。


 現地にある案内板の復元図です。金堂の東に三重塔が二基並ぶという、他に例を見ない変わった伽藍配置ですが、計画ではさらにもう一基の三重塔が計画されていたようなので、最終的には三基の塔が並ぶという、これまた独特の景観になったはずです。奈良や京都の先進的な古代寺院にも見られない独特のプランが、どうやってこの地に実現されたのかは分かっていませんが、古代日本の仏教文化に多様な流れや広がりがあったことは理解出来ます。


 復元整備された金堂の基壇です。先に見学した建物の復元展示は、この基壇上の建築を同規模で再現したものです。基壇外面は瓦にて構築されていますが、こうした形式を瓦積み基壇といい、さらにその周囲に石列を設置するので、全体としては二重基壇の形です。これは朝鮮半島の古代の百済の寺院に多く見られる様式で、百済系の渡来人集団の関与をうかがわせます。


 こちらは三基の三重塔のうちの中塔の基壇遺構レプリカです。実際の遺構は地中に埋め戻されて保存され、その上に盛り土をして、発掘当時の遺構をそのままレプリカで再現して展示しています。ここまで積極的に取り組んだ遺跡展示法は、全国的にもあまり類例が無く、鳥取県の文化財行政のレベルの高さを示しています。
 発掘当時の生の状態を追体験出来るわけですので、下手な復元展示よりも分かり易いし、何よりも説得力があると思います。


 伽藍の前庭は、石敷きになっており、現在はそれも復元してあります。奈良の飛鳥寺などに類似の石敷き遺構が発見されていますが、地面を石敷きにするというのも朝鮮半島の仏教文化の要素の一つなので、石敷き遺構のある古代寺院には、渡来人集団の技術が生かされていると言えます。ただ、地方の古代寺院でこのような石敷きが検出された例はまだ少なく、私が実見した事例は岐阜県の杉崎廃寺ぐらいです。

 しかし、20年も経てば、遺跡の風景も完全に変わってしまうものですね。畑の中に生々しい発掘地表面が現れていただけの景色が、かつての私の見た上淀廃寺の全てだったのですが、いまでは歴史公園として広い範囲にわたって整備され、あちこち歩き回って楽しめるようになっています。懐かしいと言うより、初めて訪れた遺跡公園のようでした。
 上淀廃寺遺跡の紹介情報はこちら


 距離的には泊まりがけで行くのが相応しい地域ですが、無謀にも日帰りで強行しましたので、上淀廃寺遺跡の見学をラストにして、三時には帰途に着きました。淀江から米子インターまで移動し、米子道の蒜山サービスエリアでいったん休みました。
 大山は、すでに遠くになっていました。が、今回訪れた場所の多くが、懐かしい景色のままでした。鳥取市から歴史的好奇心に胸を弾ませて何度も大山の麓に通った日々を思い出しました。


 いい山容です。見飽きることがありません。私の楽しかった山陰滞在時代の景色を象徴する霊峰なので、とにかく色んな感慨が湧きあがってまいります。
 それで、自然にこう思いました。近いうちにまた参りますよ、と。 (了)

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