上図は、みなさん御存知の知波単学園チームの特二式内火艇カミの公式キットです。私の製作は2019年12月19日に始まり、2020年5月の連休時点で製作進捗度98パーセントに達しています。外装は完成しましたが、インテリアの一部がまだ仕上がっていません。とりあえず、5月中には目処をつけたいと思います。
このキットの製作に関しては、旧海軍特別陸戦隊の一員としてパラオ方面にて特二式内火艇カミに艇長として乗務し、幾多の激戦を経験された、もと海軍少尉のSさんの御協力をいただきました。
Sさんには、平成4年の戦跡巡拝、遺骨収集事業にてパラオ諸島に行った際に初めてお会いし、祖父の知り合いだったという縁にて、今まで色々とお世話になりました。第一機動艦隊の空母「葛城」の機関将校として戦後の復員輸送事業にも従事された方ですが、「葛城」に転じる前はパラオ方面の特別陸戦隊の一部として特二式内火艇カミに乗っていたそうです。
それで、ガルパン最終章第2話の視聴にお誘いして、躍動たるカミの勇姿を御覧いただいたこともありましたが、それを契機として、それまで一切語らなかったカミの昔話を少しずつ聞かせてくれるようになりました。
私の知る限り、Sさんはカミ艇長として実戦を経験された方としては、現在唯一の生き残りであるらしいです。多くの同期生は太平洋各地の戦場でカミと共に戦没され、Sさん自身も艇を撃沈されて乗組員3名を亡くしています。終戦後に戦地より帰還したカミ乗員の消息も不明であったため、今では多くの事柄が分からなくなっています。謎になってしまった部分も少なくありませんから、Sさんが語り始めた内容は、私にとっても非常に興味深いものばかりです。
それで、上図のキットを作る際に、Sさんの証言も出来るだけ反映させて作ってみようという気持ちになり、Sさんに指導監修をお願いしたところ、快諾していただきました。もう自分しか語れる者が居ないだろうし、最後の機会になるだろう、と笑っておられました。
おかげで、キットはインテリアも忠実に再現することが可能となりましたので、Sさんの許可をいただいて、その乗務しておられたカミの内部を証言通りに再現製作することにしました。外装はガルパン仕様となっていますが、艇内は帝国海軍パラオ方面根拠地隊所属艇の状態に合わせています。
キットの製作に先立ち、特二式内火艇カミに関しても勉強しておくことにして、5度にわたってSさんのお宅にお邪魔し、当時の資料や記録類などを見せていただきながら、数多くの事柄を教えていただきました。
それらの内容に関しては、キットの製作レポートのほうで大体を述べる予定ですので、ここでは特二式内火艇カミに関する史実および新知見について簡潔にまとめてみたいと考え、Sさんの証言の一部もそのまま収録して、裏話と銘打って5回にわたり綴ることにしました。
文章は全てSさんに査読いただき、訂正箇所は直して、許可をいただいたのちにブログに入れました。写真画像の数枚はSさんが過去に調べてコピーし切り抜き保存されていたものを見せて貰い、その元画像をネット等で探したりして、出来るだけ引用先を明記しました。
上画像の引用元(https://www.worldwarphotos.info/gallery/japan/japanese-tanks/japanese-1st-yokosuka-snlf-type-2-ka-mi-amphibious-tank-side-hull-hit-saipan/)
従来、特二式内火艇カミに関しては戦時中の情報記録類が断片的にしか伝わらず、太平洋各地の戦場で戦った車輌の行方も、ほとんどが不明です。どれだけの数がどのような編成でいかなる部隊に属して行動したのか、まったく分かっていません。米軍側の記録類にも体系立ったものは見られないようです。ネット上で探しても、上図のような、撃破されたカミの写真ばかりが目立ちます。
なので、現在までに知られているカミ関連の文献は、全て戦後の軍事関連誌などにまとめられたものばかりで、カミの関係者の証言とか、記録類といったものは全然ありません。
それに関するSさんの見解は単純明快でした。
「それはもう、みんなやられてますからね・・・。配備自体も戦局急な中で慌ただしく行われたもんですから、計画とかの記録もろくに作ってないんじゃないかと思いますね。第一、戦闘がみんな玉砕で終わるでしょ、原隊もみんな消滅してしまいますから、戦闘詳報すら無いわけです。ああいうのは、ああいう記録はね、部隊の一割でも生き残ってくれないと、報告も証言もまとまりませんからね・・・」
「特に、私らみたいな臨時編成の陸戦隊ともなれば、南洋の島嶼防備でもとから分散してましたからね、所属とか指揮系統もあいまいなまま、孤立みたいになって戦場も別々になってしまうし、大体はみんな全滅してしまったわけです。パラオ派遣の分隊も合わせると24隻で、8小隊がおったんですが・・・、生きて戻ったのは私ら3人だけのようでしてね・・・、他の艇の方の消息は全然分かっとらんのですよ・・・。居たとしても、今となっては、もうみんな鬼籍に入られたでしょうな・・・」
Sさんは、長い事カミに関しては沈黙を守り、取材も一切断って語ることをしませんでしたが、記録収集や研究は自身なりに努力されておられたそうで、現在はかなりの情報量が蓄積されています。ですが、そのなかに、戦地から帰還したカミやカミ関係者の情報は一切無く、内地に留め置かれたまま終戦を迎えた関係者のデータのみが断片的に集められたにとどまっています。
つまり、太平洋各地の戦場におけるカミの正確な情報というのは、Sさん達の艇を除いては、未だに無いということになります。レイテ島のオルモックにて逆上陸を試みたカミ部隊もその後壊滅して所属兵は全員が戦死したようなので、詳細が分かっていないのはむしろ当然かもしれません。
上画像の引用元(https://www.reddit.com/r/TankPorn/comments/6ow161/a_type_2_ka_mi_amphibious_tank_from_1st_yokosuka/)
上図は、サイパン島にて撃破されたカミの写真です。米軍の近接攻撃で対戦車ライフルを撃ちこまれ、中で爆発を起こして装甲の端がめくれあがっているうえ、炎上して車体の各所が黒焦げになっているという、無残な姿です。カラー写真なので、とても生々しいです。
Sさんの話では、もともと水上航行可能なように軽量化が図られてるため、装甲は無いに等しく、しかも軟鉄が使われてるので、手榴弾のような小爆発でも致命的で車体が割れたりする、米軍の攻撃をまともに受けたらとても助からない、乗員は死ぬしかない、ということでした。
「・・・何しろですな、米軍のシャーマンとかが出てきますとね、あれの砲は75ミリでしょ、当たればカミは装甲薄いですからね、一発で穴があいてしまう、爆発四散してしまいますわね。カミの砲は37ミリで速射砲なんだけれども、シャーマンには効かない。跳ね返されるわけです。一撃も何もあったもんじゃない。カミより上の九七式中戦車でも歯がたたんのに、どうするんじゃ、というわけですよ・・・。アンガウルでも、ペリリューでも、カミは3隻ぐらいは配備されとった筈ですが、消息は完全に途絶えていましたからね、いっぺんにやられたんだと思いますね・・・」
上画像の引用元(https://live.warthunder.com/post/793765/en/?comment=3045375)
だから、カミの運用としては、上図のように壕内に定置して砲台として使用するのが最上であっただろう、というのがSさんの意見でした。
ですが、上図のクェゼリン島にて玉砕したカミの姿を見るまでもなく、壕内に定置して砲台として使用したところで生還の見込みは無かったわけです。戦地に派遣されたカミの大多数は、似たような状況におかれて全てが撃破され、乗員もみな戦死してしまったのです。
「・・・カミというのは特車でしてね、海軍では内火艇でしたから、乗員は基本的に艦隊勤務の延長上で訓練を受けて選抜されたわけです。水陸両用の機関を持つので操作も整備もちょっと特殊になりますから、乗員の一人は必ず専任の機関兵があたりましたね。それとの関係で艇長も機関将校が任ぜられる場合が多かったみたいですね・・・。私も舞機(舞鶴海軍機関学校の出)でしたから命令書が来ましてすぐに、呉に出張して特殊訓練をやったんです。これは艇長予定者のみで分隊単位でやったわけですが、そのときの同期はみんな戦死です。悲惨なもんですよ、哀しいもんですよ・・・」
上画像の引用元(https://www.awm.gov.au/collection/C74763)
しかし実際には、戦闘に参加しないまま連合軍に接収されたカミもかなりの数にのぼったようです。上図はオーストラリア軍に接収されて集められた6輌のカミのうちの1輌です。
Sさんが、この写真について話してくれた内容は、こうでした。
「これね、6隻並んでるでしょ、3隻で小隊を組みますからね、2小隊そのまんまなんですね。降伏して接収されて、そのまんまの状態みたいですね・・・。砲にカバーかけたままでしょ、それからエンジンデッキにもカバーかけてあるでしょ、これ私らの小隊と同じ作業規定でやってるんですよ、待機状態の時はこういうふうにカバーで保護しておくんです。戦闘命令が下ったらカバーを外すんですよ。だから、この6隻みんな、戦わずして接収されたんだろうと思うんですが、じゃあ、その乗員はどうなったのか、それを探したんですけどね、全然分からなかったですよ。記録も無かったみたいですんでね・・・」
上画像の引用元(https://live.warthunder.com/post/765271/en/)
戦地に派遣されたカミの総数は、正確には分かっていません。ウィキペディアの記事においては約180輌が完成したと記されていますが、Sさんによれば、約180輌というのは完成数ではなく、南方戦線に実際に派遣された数だろう、ということです。
正式な記録は無いものの、戦時中にSさんが呉での訓練中に聞いた話として、艇長予定者の訓練が昭和18年度より行われ、Sさんが訓練を受けた昭和19年2月の時点で述べ216名となっており、修了した最初の分隊は北方戦線に派遣されている、ということだったそうです。
この北方戦線とは、現在の北方領土地域の千島列島に相当し、例えば占守島などに十数輌が配備されたそうです。その実態や記録は不明ですが、上掲の、停戦後に占守島にてソ連軍に接収されたカミの写真では5輌が並んでいます。現在も島に残る残骸が数輌分あるそうですので、占守島だけでも3小隊、9輌ぐらいは居たんじゃないか、というのがSさんの説です。
さらに、占守島だけでなく、幌筵島にも択捉島にもカミが配置されていたようだ、ということです。
「だからね、単純に考えても北方戦線全体で10小隊、30隻ぐらいは配置されたんじゃないか、と思いますね。訓練受けたのが述べ216名、その艇長予定者はみんな戦地に行ってるわけです。カミもね、生産された分はみんな輸送船で運んでいってるから、内地には残ってないわけですよ・・・。北方戦線向けを30隻ぐらいと見積もって除いたら、南方戦線には約180隻ぐらいが派遣されている計算になりますよね・・・」
Sさんの戦時中の記憶によれば、昭和19年の秋の時点でパラオ本島群(バベルダオブ、コロール、マラカル)の陸軍第14師団との連携作戦区域のみで8小隊、24輌が配備されていたそうです。それとは別にアンガウル、ペリリューにも分遣隊のカミが3輌ずつ居たものと推測されるそうなので、合計すればパラオ方面だけでも30輌が配備されていたことになります。
別にサイパン島には4小隊12輌、グアムやテニアンにも分遣隊のカミが居たらしいとのことであり、他にクェゼリン環礁、トラック諸島にもかなりの数が派遣されていたようであり、フィリピンやニューギニア方面も含めた広範囲に相当数が配備されていたようだ、ということです。
ですが、それは戦地へ輸送されたカミの一部に過ぎないだろう、というのがSさんの見解でした。フィリピン方面への竹船団、ヒ船団での輸送作戦では多くの輸送船が敵潜水艦の雷撃によって撃沈されており、それに積載されていたカミもあったらしいそうです。多号作戦でもカミを積んだ輸送艦が多く沈められており、カミの揚陸に成功したのは九次作戦の第140号輸送艦のみであるそうです。
つまり、Sさんが推測する南方派遣の約180輌のカミのうち、大半は輸送中に敵の攻撃で失われたものと考えられます。なんとも哀しいことです。
なお、パラオ方面に配備されたSさん達を含むカミの大半は、内火艇として海上にて警備や哨戒や輸送などの諸任務にあたっていたということです。
Sさん達がパラオ入りする直前の3月30日に米軍の空母機動部隊がパラオに来襲し、港湾地区および在泊の船舶に相当の被害が出ました。特に小船舶の多くが沈められたため、当該地域における船舶不足が深刻化したそうです。同時に沿岸防衛の兵力も欠乏したため、それを補うべく、到着したばかりのカミを港湾および根拠地周辺の海上兵力として転用したのだそうです。
「・・・なにしろ、本来は内火艇ですからね、船として使えるのであれば船として活用する、というのが海軍の基本方針であったわけです。陸戦隊の規定でもそうなってましたね。特車は艦艇とすべし、とかね。他の所ならいざ知らず、パラオの場合は、直後に陸軍の第14師団もやってきてましたし、その戦車部隊も居たわけです。一定の陸上兵力が確保されているわけですから、海軍としては空襲で被害を受けた船舶の修理、船舶不足への対応が優先となったわけですね・・・。それでカミは、到着次第に我々も含めて内火艇として港湾地域および沿岸警備に回された、ということです・・・」
そして米軍はパラオ諸島南部のアンガウル島およびペリリュー島への上陸作戦に際してパラオへも艦載機による空襲や潜水艦による襲撃を重ねたため、海上で行動していたカミも片っ端から狙われて、Sさんの艇も含めた全てが撃沈されてしまった、ということです。
「・・・・とにかく、パラオが大空襲を受けて船舶に深刻な被害が出た直後に我々が行きましたのでね、船が足りない、何とかしろ、ってんで配備命令も変わるわけですよ・・・。カミもすぐに内火艇として働かされたわけですが、たぶんそういう事情があったが為に、記録にも記憶にも残らなかったということかもしれませんね・・・。カミってのは外見がああですから、陸に上がれば相当目立つんですけれども、内火艇として海上にあったから、そのへんの小船舶と一緒に見られてしまうわけです。撃沈されても、救助にも来てもらえない。乗員はみんな死ぬしかないわけですよ・・・」
内火艇という小船舶のゆえに雑役船同様に見られていたため、正式な戦闘記録すら残されなれなくても当然であったそうですが、その哀しい末路はパラオ以外の戦線に派遣されたカミにおいても同じだったのではないでしょうか。
つまり、現在においてあまりカミの戦歴が伝わっていないのも、陸上戦力としてではなく、艦艇の一種たる内火艇として海上で戦って、人知れず沈められてしまった艇のほうが多かったからではないか、と思います。戦闘詳報すら一件も残されていないのも、そうした厳しい状況を物語るのでしょう。 (続く)