気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

黒森峰女学園 パンターG型(2輌目) 作ります!! その1

2020年05月31日 | ガルパン模型制作記

 5月の連休中に、模型サークルの先輩F氏より上図のキットが届きました。そのときの記事はこちら。私の一番好きな戦車でありますので、嬉しくてたまらず、届いた日のうちに作り始めました。キット自体は初めてみるグンゼ産業の製品でしたが、中身はドラゴンの古い時期の製品であるようでした。赤外線装置付きのパンターG型ですが、赤外線装置のパーツを付けなければ、黒森峰女学園の劇中車に作れます。

 

 中身はドラゴン製品ですが、現在の製品とはちょっと違います。パーツ割が大まかで、数も少なく、一体成型のパーツが多いようでした。例えば、上図にみえる下部車体には、現在のキットならば別パーツになっているサスアームが一体成型されて一つのパーツになっています。これは組み立て易そうだ、と思いました。

 

 組み立てガイド図は、ドラゴンのものをそのまま取り込んであるという感じでした。

 

 なので、ドラゴンのキットを組み立るのと変わらない気分になりました。ステップは20までありますが、パーツ数が少ないので、組み立てそのものは手間がかからないと見込まれました。ガルパンの劇中車に仕上げるための幾つかの小改造を忘れないようにして、作業の段取りを決めました。

 

 ステップ1では、車輪類の組み立てを行ないます。転輪は塗装後に取り付けますので、ここでは仮組みだけにしておきます。

 

 車体とサスアームが一体成型されているおかげで、取り付けの工程も少なくて済みます。

 

 転輪を仮組みしてチェックしました。起動輪および誘導輪も仮組みとし、接着は後送りとしました。組み立てていて気付いたのですが、起動輪E2の取り付けは軸棒ではなく突起にはめ込むという珍しい合わせ方になっていました。

 

 ステップ2では足回りの組み立てを続けます。ステップ3では背面の排気管を組み立てます。いずれも組み立てガイドの指示通りに進めます。

 

 転輪が一杯あります。全て塗装後に取り付ける予定ですが、一度サスアームの軸に通してチェックします。ドラゴンのキットにおいては、転輪の穴に軸が通らないことが稀にあるからです。

 

 案の定、3個の転輪の穴とサスアームの軸とが合いませんでした。穴を大きくして軸に通るように調整しました。その後、3種類の転輪パーツを混同しないように名前を記した付箋を付けて分けておきました。

 

 ステップ3に移りました。現在のキットに比べてパーツ割りが大まかです。昔のタミヤと似たような傾向です。ドラゴンにもこういう時代があったのかと驚かされました。

 

 なので、楽に組み上がりました。次のステップからガルパン仕様への工作が加わります。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラウダ戦記 第16話前編から

2020年05月30日 | ガールズ&パンツァー

 去る5月19日にコミックウォーカーさんにて更新された、第16話前編には、いくつかの不明点というか謎があります。模型サークル仲間のT氏との長電話にて、色々と話しました。

 

 まずは上掲のページの2コマ目と3コマ目に描かれる計8人の制服です。このうち、3コマ目の左から2番目の制服が、どこの高校チームのものか分かりません。他は全部分かります。2コマ目の左より、ボンプル高校、マジノ女学院、アンツィオ高校、青師団高校。3コマ目の左端は継続高校、右よりコアラの森学園、中立高校、です。

 不明の1人は、私自身はサンダース大付属高校じゃないかと思ったのですが、T氏は「違うんじゃないか?」と言うのです・・・。

 

 続いて、上掲のページの2コマ目の戦車です。私自身は、ハンガリーのトゥラーン中戦車じゃないかと思ったのですが、T氏は「違うんじゃないか?」と言うのです・・・。

 

 そして、最も分からなかったのが、第62回戦車道全国高校生大会の状況です。トーナメント表を教えてくれと言われましたが、そんなものあるのか?公式設定には次の第63回の分しか出ていないのでは・・・?と思いました。

 上図によると一回戦の第3試合にてプラウダ高校はボンプル高校と対戦するようです。その後、決勝に勝ち進んで黒森峰女学園を下すわけですが、それはいいとして、この対戦時のボンプル高校の隊長は誰なのか、という謎もあります。

 最終章の無限軌道杯でのボンプル高校はマイコが隊長でしたが、第62回大会というのは時系列的には前の年になりますので、先代の隊長が登場してくるのかもしれません。もしかして、あのお方?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モデグラのマジノ女学院特集

2020年05月29日 | ガールズ&パンツァー

 5月25日に発売されたモデルグラフィックス2020年7月号には、マジノ女学院チームの戦車プラモのミニ特集記事が入っています。
 この記事が、どういうわけか、交流サークル仲間のモケジョさんたちの間で好評のようです。実は、モケジョさんに「面白い記事あるから今月号は買いだよ、つーか絶対買ってね!」と言われて、今月号を買ったのでした。

 

 で、モケジョさん達にLINEで、「面白い記事」とはマジノ女学院チームの戦車プラモのミニ特集記事の事?と訊ねたところ、冒頭のコミックの3コマ目が面白いのだと教えられました。
 え?このコマ?と改めて上図のコマを見ました。コミックシリーズ全2巻においては全く見なかった名前付きのモブキャラクターが4人出ています。

「この4人のモブ、面白いですよね!全員お菓子の名前ですよ・・・!」
「はあ・・・・」

 みんな食べた事の無いお菓子ばかりですが、モケジョさん達はたぶんよく食べているのでしょう。それがキャラクター名になっているのが面白くてしょうがないようです。

 君たち、戦車のほうはどうなの?・・・面白くないの・・・?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モデルグラフィックス 2020年 7 月号

2020年05月28日 | ガールズ&パンツァー

 5月25日に発売された、モデルグラフィックスの2020年7月号です。昨日、職場の帰りに河原町通京都バルの丸善にて買いました。
 アマゾンでの案内情報はこちら

 今回の号には、ガルパンアハトゥンクの記事はありませんでした。というか、最終章2話までの新登場車輌は全て紹介されているので、続きは第3話にて新たな車輌が登場してからでしょう・・・。

 その新たな車輌が何輌出てくるのかは分かりませんが、継続高校チームの車輌は間違いなく入ってくるでしょう。楽しみです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知波単学園チーム特二式内火艇カミに関する裏話 その5

2020年05月27日 | ガールズ&パンツァー

 私の特二式内火艇の公式キット製作における大きなテーマは、艇内のインテリアの再現でした。前回で述べた如く、キットにはインテリアパーツが一部しか含まれていないのに落胆されたSさんの様子を見て、作ろうと思えば作れるけれど、資料も写真も無い、と私が述べたのが事の始まりでした。

 従来、特二式内火艇カミの内部構造や艇内のインテリアに関しては全く資料類が存在していないようです。現存する実車の内部を取材調査した事も未だに無いようで、詳細は不明のままです。
 ただ、パラオのコロール島の現存実車を実測調査した際に艇内の一部も撮影したものが「グランドパワー」2011年10月号にまとめられており、現時点ではこれが唯一の公刊資料であるようです。

 ですが、Sさんによれば、「コロールのカミは、戦時中の状態とは全然違います。失われた部分が多いですね・・・」との事です。Sさんは機関将校であり、今風に言えばエンジニアですから、自身の搭乗するカミに関しても操作と整備の両面にわたる詳細な記録をとっており、図面や見取り図も細かく書いていました。
 それらの図面や見取り図などは機器や操作部ごとに分けて描かれているので、キットのインテリア制作の基本資料とするために私がそれらを艇内の立体図に入れて描きまとめたのが上掲の図です。
 これに、戦時中の修理部分や追加施工部分が加わりますので、Sさんに細かく教えていただきながら、艇内の各所の細部も再現すべく、基本設計図を何枚も書きました。

 おかげで、カミの水陸両用車輌としての機構、戦時中の改修箇所も全て把握出来ました。

 

 上図は、コロール島の現存車輌の内部を撮影したものです。手前の三菱製空冷直列6気筒ディーゼルエンジンは九五式軽戦車に使われていたものと同じですが、Sさんによれば、カミ向けに一部の機構を改造したり外したりしていたため、全く同じ状態ではなかったそうです。
 例えば、戦車としての推進軸と内火艇用の推進軸とが別になっているため、その変換器が追加されています。また発電機や排水用ポンプのモーターなどもエンジンに取り付けていたそうですが、上図の現状写真ではそれらが全て失われています。
 さらにパラオに配備されたカミが全て同じ内部状況であったのではなく、艇ごとに艇長および機関兵の判断にて色々と手を加えていたそうです。Sさんの艇も例外ではなく、排水用ポンプの位置を変更したり、艇内への浸水に備えて簡易甲板を張ったり、37センチ砲を25ミリ単装機銃に換装したのにともなって弾倉用の収納棚を設けたりしたそうです。

 ですが、キットは外見上は知波単学園チームの西原の搭乗車の姿に作ることになっていたため、艇内の様子については、Sさんの艇が37センチ砲を装備していた時期、つまり25ミリ単装機銃に換える前の状態にすることに決まりました。Sさん曰く、「その時点での艇内が最も綺麗にまとまっていたと思いますね、弾倉棚も無かったしねえ・・・」でした。

 

 その結果、製作したカミのインテリアです。艇内への浸水に備えて張った杉板製の簡易甲板も再現したほか、Sさんの艇だけに施されていた小改修も全て再現しました。

 これらの製作工程およびSさんの教示内容については、製作記の記事にて述べる予定です。

 

 残された問題は、現時点でまだ作っていないインテリアの一部のパーツです。そのパーツとは、37ミリ砲の砲弾の木箱です。カミの艇内における本来の弾庫は、7.7ミリ機銃の弾倉用の棚しかないため、37ミリ砲の砲弾はどうやって積んでいたのかが分かりませんでしたが、Sさんの証言により、木箱での収納であったことが判明しました。

 上図の、サイパンで撃破された車輌の後や脇に置かれている木箱がそれです。米軍では敵の車輌を撃破した後に、危険防止のために残留の弾薬を全部外に出しておく場合があったことが記録からも知られますが、上図からもその状況がうかがえます。
 おかげで、普段は車内に積まれて見えないカミの37ミリ砲弾木箱の様子がよく分かります。これを参考にしてブラ板などで作って艇内に入れる予定です。

 Sさんによれば、カミ用の37ミリ砲弾は薬莢とあわせて6発ずつを木箱におさめていたそうで、それが22個、総計132発がカミの装備定数であったそうです。しかし、実際には砲弾の生産が間に合わなかったため、15個、90発しか積んでいなかったのだそうです。そして、木箱に入れて積み込んだのには、もう一つ重要な事情があったそうです。
 その事情については、製作記の記事にて述べる予定です。  (了)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 70(V)ラング 完成です!!

2020年05月26日 | ガルパン模型制作記

 塗装に移りました。軽くサーフェイサーを吹き付けた後、クレオスのガルパンカラーセットの黒森峰ゲルブⅡにて本塗装を行ないました。

 

 転輪のゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 車輪類をセットしました。

 

 ベルト式履帯は28番の黒鉄色で吹き付け塗装し、乾いた後に装着しました。

 

 車外装備品類を塗りました。木製部分は43番のウッドブラウン、金属部分は28番の黒鉄色で塗りました。ジャッキのハンドルは展開状態になっていますが、これはガルパンに登場する車輌のなかではラングのみに見られる特徴です。

 

 車外装備品類を取り付ける前のエンジンフードの様子です。

 

 車外装備品類を取り付けました。

 

 ペリスコープは28番の黒鉄色で塗りました。

 

 左右フェンダー後端のバックランプは47番のクリアーレッドで塗りました。

 

 塗装が終わったのでデカールを貼りました。モデルカステンのガルパンデカールセットNo.5から劇中車と同じ12ミリサイズを2枚切り出して、左右側面に貼りました。
 上図は左側面の1枚です。

 

 右側面の1枚です。

 

 デカール貼りが終わりました。つや消しクリアーを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 このアングルが個人的には好きです。

 

 背面観もいいですね。

 

 ラングのような低車高の戦闘車輌は、高い位置から見下ろすように捉えると、その車高の低さが目立つように思います。

 

 かくして、黒森峰女学園チームの70(V)ラングが完成ました。作業期間は、2020年3月25日から4月30日まででした。組み立てに9日、塗装および塗装後の組み立てに2日、の計11日で仕上がりました。塗装は、さきに作った譲渡タミヤキットの改修分と、まとめて行ないました。

 今回はプラッツの公式キットを使用しました。私の製作では3輌目となりましたが、使用キットがタミヤの新旧とドラゴンであるため、それぞれに差異や特徴が見られて興味深いものがあります。
 なかでもドラゴン製品のプラッツ公式キットが、全体的にみて最も劇中車に近いように感じられました。組み立ても割合に楽でした。なので、足回りのパーツが劇中車に合っておらずに他からの転用が必須となる点は何とかして欲しかったところです。また、組み立てガイドの内容に誤記や抜けが多かったのも残念でした。
 これらの不備が改善されれば、公式キットのなかでも指折りのおすすめキットになるのではないかと思います。残る問題は、ラングという車輌の人気の無さ、でしょう。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知波単学園チーム特二式内火艇カミに関する裏話 その4

2020年05月25日 | ガールズ&パンツァー

 プラッツの公式キットで特二式内火艇カミを作っていて、これは何だろうと思った部品の最たるものが、上図の車体左側後部に付いているアーム状の部品でした。キットには2種類のパーツが入っており、上端が環状になっているものとそうでないものとがありました。
 初めてこのパーツを見た時は、旧海軍の艦艇にまま見られるアンテナ用の起倒式竿かなと思いましたが、Sさんに尋ねたところ、半分正解でした。

「・・・これは航行時に軍旗を掲げるための旗竿ですよ。これは下半分だけになってますね。もう一本の棒の端をを環にはめ込んで使うわけです。だから高さは倍ぐらいになりますね・・・。未使用時は上半分を外して、下半分も倒して収納します。旗竿以外に、立てて無線の空中線を張る際にも使いましたね・・・。本来は真っ直ぐの後ろに付けるべきなんですけれども、カミの本体の後端はハッチになっていて、竿が立てられませんから、左側に寄せたんでしょうね」

 

 上画像の引用元(https://www.reddit.com/r/TankPorn/comments/6g589w/japanese_type_2_ka_mi_amphibious_tank_destroyed/)

 サイパン島で撃破されたカミの後からの写真にも、起倒式竿がよく見えます。これも収納状態ですので、環で連結する上半分の竿は艇内に収納されていて見えません。
 従来、模型誌や軍事関連誌などで謎の部品とされていて、色んな仮説が立てられていたようですが、全て外れでした。カミが海軍の正式な艦艇に含まれることを考えれば、航行時の軍旗掲揚は当たり前ですから、そのための竿が必要であります。

 ただ、旗竿は本来ならば起倒式ではないのですが、カミの場合は航行時に操舵手が後部デッキ上に陣取って舵のハンドル(後部フロートの上にある8の字形の部品)を操る場合もあって、その際に竿が邪魔になるので起倒式にしてあったのだろう、というSさんのお話でした。

 

 製作中に、迷った事の一つが、舵へ繋がるワイヤーを付けるべきかどうか、という事でした。上図のキットにも、舵ワイヤーを通すリールが3ヶ所に付いていて、実際に細い銅線などを通して再現出来るように、ちゃんと穴もあいています。キットの組み立てガイド図においては、舵ワイヤーのパーツも取り付け指示もありませんが、劇中車にはワイヤーが見えます。
 それで、最初は銅線を通して舵ワイヤーを付けようと考えたのですが、Sさんに、アニメのように陸上での姿に作るのであれば舵ワイヤーは外して下さい、と教えられました。

 実は、上陸してフロートを切り離す際、もくしは陸上での作戦行動時には、舵ワイヤーを外して艇内に引き込むのだそうです。したがって、ガルパンの車輌のようにジャングル内を疾駆しているのであれば、舵ワイヤーは必要ないのでした。

 

 上画像の引用元(https://www.worldwarphotos.info/gallery/japan/japanese-tanks/type-2-ka-mi-tank-turret/)

 上掲の、オーストラリア軍に捕獲された車輌の写真にも、舵ワイヤーが艇内に引き込まれていたのを右ハッチから出して垂らしている様子が見えます。その先端は艇長が砲塔内で操作する転把に繋がっており、その転把が砲塔内ではかなり場所を取るので、航行しない場合は取り外す決まりになっていたそうです。転把と舵ワイヤーは一つに繋がった一個の装置であるため、未使用時は転把に舵ワイヤーを巻き付けて箱に収納したのだそうです。

 つまり、航行時の状態でのみ、舵ワイヤーをリールに巻いて展開するのだということです。このような、実際に扱った方だけが知っている事柄というのは、カミのような特殊な構造の車輌には多いので、関係者の証言というのは本当に貴重だな、と思います。

 なので、車輌としての姿に作られるプラッツの公式キット、元製品のドラゴンキットの組み立てガイドに舵ワイヤーの取り付け指示が付いていないのは、Sさんに言わせれば「正しい」わけでした。同時に、ガルパンの劇中車が上陸後も舵ワイヤーを付けたままであるのは、厳密には「間違い」であることになります。

 

 上画像の引用元(http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/palaukoror/pic119003.html)

 カミに関して従来より疑問が呈されている事のひとつに、コロール島の現存車輌の後部に13ミリ連装対空機銃が載っている件が挙げられます。

 平成4年の戦跡巡拝時に現地でこれを見学した際、案内ガイドの老人が「昔は機銃は隣にあったんだけど、邪魔だったためか、車体の上に乗せてしまった」というように話していたと記憶しています。カミの構造を考えても、上に機銃を乗せるのは有り得ないと思いますが、念のためにSさんに聞いてみました。すると即座に「あれは戦後に乗っけてるだけですよ」と断言されました。

「・・・あれは誤解されますよ・・・。知らない人が見たら、戦時中にああやって作戦行動していたのかと思ってしまうでしょ、実際には有り得ない事ですからね、ああいうことをやったら駄目ですね・・・」
「・・・あの機銃はデッキの上に乗せてあるでしょ、発動機の真上。これがまず有り得んわけです。カミの発動機は架台に乗せてあるだけですから、交換がすぐに出来るように、真上は三枚のハッチになってるんです。装甲なんて無いわけです。放熱用の窓もついてるから、薄っぺらい鉄板でしかない。そのうえに1トン近い連装対空機銃乗せたらハッチがつぶれて落ちますよ・・・。支持架台を付けないと無理ですが、そんなもの付けられる余地も無い訳です・・・」

 その語りついでに、本来の搭載機銃および、戦時中の機銃交換の顛末、自艇の最期についても話してくれました。

「機銃はね、カミの場合は7.7ミリ機銃が予備も含めて4挺あるわけです。前に突き出す1挺、砲塔上の支持架に付ける1挺、通風筒の上に付ける1挺が戦闘配置時の武装になります。しかしね、7.7ミリは、敵機の空襲を受けた時にはてんで役に立ちませんでしたね・・・。9月に最初の空襲を受けた時に、そのとき一緒に居た4隻で応戦したのですが、まるで当たらないし、当たっても効いていない。それどころか、掃射で2隻がやられて乗員が全員戦死して、艇も穴だらけになって沈んでしまいましたよ・・・」

 その後も敵機の攻撃で4隻が失われて2小隊が全滅したため、残存の3小隊9隻に順次、武装交換を実施したのだそうです。当時の軍艦、艦艇では対空機銃の増設が急がれていたそうですから、パラオの在泊艦艇にも同様な処置が施された、ということです。

「・・・9月の終わり頃から空襲が増えましてね・・・。グラマンとかの艦載機がやってくる、これはもうパラオに敵が上陸してくるな、ということで色々と防備対策に追われましたが、あれは実際にはアンガウルとペリリューに上陸しかけるための牽制だったわけですね・・・。でも当時はね、パラオ本島群にもやってきそうだという観測がありましたから、根拠地隊全体で武装を強化しろという成り行きになってましたね・・・。それで、我々の艇も、敵機対策のために25ミリ機銃を載せることになったんですね。4月に修理でお世話になった「明石」の工員が来てくれて、砲塔の37ミリ砲を25ミリ機銃に換装したんです・・・。もう換えないといけなかったんですよ・・・、なにしろ弾薬がね、もう無かったんですよ・・・」

 25ミリ機銃に換えた理由の第一は、37ミリ砲用の砲弾が払底してしまったからだそうです。パラオに運んできた際に予備が無かったため、各艇に元から積んであった弾のみが全てで、それもすぐに使い果たしてしまったそうです。
 その頃、パラオには、3月の空襲で沈められた輸送船などに取り付ける予定だった増設用25ミリ機銃の在庫があり、弾薬も輸送船団で次々に運ばれてきて豊富にあったため、「明石」の工員が25ミリ機銃に換えたほうが良い、と提案してくれたのだそうです。それに乗る形で、余っている25ミリの単装を貰い、砲塔の37ミリ砲と交換するか、艇の後部に取り付けるなどして、各艇がめいめいに武装強化を図ったそうです。Sさんの艇は37ミリ砲との交換を選んだそうです。

 換装した25ミリ機銃の威力は、それまでの7.7ミリとは比べ物にならなかったそうです。10月の空襲時にSさんの艇は敵機3機と交戦、そのうちの1機を撃墜したほか、別の空襲でも敵機を追い払うことに成功したそうです。さらに敵潜水艦の攻撃を受けた際にも弾幕を張って撃退したそうです。

「・・・さすがに威力ありましたね、25ミリは・・・。弾も15発入りの弾倉を挿して連射が出来たんです。速射砲の37ミリよりも速かった。毎分100発ぐらいは撃てたんです。弾幕をサッと張れましたから、けっこう牽制にはなったんですよ。敵機だけじゃなくて敵潜にも有効でしたね。水平射撃で敵の船体に何発か命中させたこともありましたね・・・。あの敵潜、すぐに潜っていって。それから気配が消えましたから、ひょっとして沈んだのかな、と思いましたね・・・」

「敵潜の襲撃は、我々の艇は7回受けました。カロリンやペリリューまで臨時輸送をやるという任務もあって、夜中に艀に食料や弾薬積んで曳航していったんですけど、その途中で雷撃を受けたりしたんです。カミが艀を曳航してるとね、あれ遠くからみたら巡洋艦とか駆逐艦ぐらいに見えちゃうんですよ・・・。敵もそれで攻撃してきたんだろうと思いますけどね、我々の艇は4月の修理で履帯や車輪やサスを全部撤去して軽くして喫水も浅くなってましたからね、魚雷がスーッと艇の下を通り過ぎていっちゃうんですな・・・。敵にしてみたら、命中してるはずなのに命中してない、これはおかしい、ということで浮上して確認するわけですね・・・。そうするとこっちも25ミリで応戦する。それで撃退出来たわけですよ・・・。でもね、敵機のほうは動きが速いですからね、照準がなかなか追いつかんのですよ・・・」

 そのうちに敵機が小型爆弾も携行してくるようになり、ついには爆撃機もやってくるようになり、海上のカミは凄まじい攻撃にさらされて1隻、また1隻と沈められてしまったそうです。そして10月中旬にはSさんの艇の他には2隻しかなくなってしまい、アンガウル島に敵が上陸した10月21日の翌日に、マラカル島沖合で5機のグラマンに襲われ、3隻全てが撃沈されてしまったのでした。

 Sさんの艇は、右舷に掃射を受けて乗員3人が戦死し、機銃の発砲が途絶えたところへ爆弾を至近に投下されて後部フロートに大穴があいて舵も吹っ飛び、一気に浸水して右後ろに傾いて沈没したのだそうです。残ったSさん達3人は浮いていた弾薬用木箱につかまったものの、潮に流されて沖に出てしまい、もう死ぬんだと覚悟を決めたそうです。

「・・・そしたらね、目の前にいきなり潜水艦が浮上したんですよ。また敵か、よし死んでやる、と思ったのが、よく見たら日の丸がついてる友軍の艦だったんです。呂号潜水艦だったかな・・・、たまたまその針路上で我々が交戦して沈められましたので、向こうも敵が去ってから生存者確認のためにいったん浮上したわけですな・・・。奇跡と言うか、本当に奇跡でした。とにかく救助されましたが、その艦がパラオから出て内地に向かう任務だったために、パラオに戻ることは出来ないままとなりましたね・・・」

 かくして、Sさん達3人は、共に戦った全ての艇と戦友を失うも、激戦地のパラオから奇跡的に帰還したのでした。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 70(V)ラング 作ります!! その7

2020年05月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16では、上下の車体を貼り合わせます。私の製作では既にステップ15の最後に車体を合わせています。ここでのガルパン仕様への工作は、シュルツェン架C54の取り付け位置の変更、後部側面アーマープレートB43、B44の取り付け、の2つです。後者は組み立てガイド図には指示がありませんが、劇中車にはありますので組み付けます。

 

 シュルツェン架C54の取り付け位置変更の作業に入りました。まずキットの取り付け位置の穴をパテで埋めます。劇中車のC54の取り付け位置は左右非対称になっていますので、公式設定資料図などを参考にして位置を確かめます。

 

 パテが乾くまでの間、キットの取り付け位置が劇中車においても同じシュルツェン架のパーツを取り付けます。ついでに後部側面アーマープレートB43、B44も取り付けます。

 

 組み上がりました。

 

 パーツC50は車外装備品ですが、カラーは車体色と同じですので取り付けました。

 

 パテが乾いたのでヤスって整形し、シュルツェン架C54を劇中車の配列に合わせて取り付けました。

 

 シュルツェン架C54の取り付け位置は、左右で異なります。

 

 ラストのステップ17です。アンテナを取り付けますが、収納上の理由により、アンテナのK2は基部のみをカットして使用します。

 

 アンテナの基台と基部です。

 

 取り付けました。

 

 以上で、塗装前の組み立て工程およびガルパン仕様への工作が全て完了しました。シンプルな車体に長い砲身、という独特の分かりやすい姿です。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知波単学園チーム特二式内火艇カミに関する裏話 その3

2020年05月23日 | ガールズ&パンツァー

 プラッツ発の公式キットの中身は、現在において特二式内火艇カミをキット化したものとしては唯一であるドラゴン製品です。現存する実車への徹底的なリサーチに基づいて製品化されたようで、Sさんも「よう精密に出来とりますね。小さな部品は幾つか無くなってますけれども、この大きさでこれだけ再現しておるのは、大したもんですねぇ・・・」と感心しておられました。

 ですが、Sさんは艇内も再現されていると思ったらしく、キットを開封して内部のパーツ類が一部しかないのを説明すると、少しガッカリした表情を示されました。それを見てなんだか気の毒になってしまい、「艇内も作ろうと思えば作れます。でも資料とか写真がありませんので、どうやって作ればいいか分かりませんけど・・・」と続けたところ、「ああ、それなら大丈夫、私がよう知っとります。今でも隅々まで覚えております」と応じられました。
 それが契機となってカミのインテリアも製作する事になったわけですが、私が分からなかったのは艇内の詳細だけではありませんでした。外回りの幾つかの部品に関しても、何であるのか、どういう機能を持った部品であるのかが分かりませんでした。

 例えば、上図のキットの車輌本体側面の前後についている丸いハンコのような突起物がそうでした。ドイツの戦車でも車体や砲塔の各所に似たような雰囲気で吊り下げ用のフック等が付いていますので、最初はそれに近いものかと考えました。
 しかし、Sさんは笑いながら教えてくれました。

「吊り下げ用のものでは無いです。これは輸送船で運ぶ時に車体をロープで係止固定するためのものです。・・・吊り下げるというのは、うーん・・・・、私らはそういう使い方はしたことないですな・・・」

 

 上画像の引用元(https://www.flickr.com/photos/150334035@N07/35303415484)

 説明しながらSさんがスクラップブックから取り出してくれた切り抜きの写真が上図です。第101号型輸送艦での輸送状況を撮影したもので、カミの係止状況がよく分かります。履帯の前後にも白い三角形の車留めが見えます。

「・・・こういうふうにロープと車留めでしっかり固定しておくわけですよ。船ってのは揺れますからねえ、縦にも横にも。ピッチングとローリングですな、これに耐えうるように係止しないといけないわけですよ。そうしておかないと、大波で船が大きく揺れた時にね、車輌がコロッと海に落ちちゃう場合がありましてね・・・」
「カミは、潜水艦にも積めるように設計されてますので、これも本来は潜水艦に搭載する場合を想定しての係止法なんだろうと思います。我々の時は民間の貨物船を海軍が徴用したのに積み込んでまして、クレーンで吊り上げて上甲板に並べとったんですが、その時はワイヤーを車体の前後の下に巻いて吊り上げてましたね・・・」
「我々がパラオまで乗った輸送船は甲板が広かったですからね、デリックの間に入れてロープをなるべく四方に張るようにして係止しましたね・・・。こっちの写真(上図)の輸送艦は海軍が作った専門の艦艇なんですけれども、我々がパラオへ行った時はまだ制式化されてなかった筈です。だいぶ後になってから出来て、主に比島方面の作戦に使われたみたいですね・・・」

 

 ついでに、フロートの前端や側面についている小部品についても教えていただきました。

「ああ、これですよ、こっちが吊り下げる時に使うリングですよ。舳先についてる四角のは、停泊時にアンカーチェーンを巻く時にも使ったんです。これと同じのが艇尾にもあります。左右についてるのも吊り下げ用のリングですが、これは、穴が開いてないな・・・」

 この説明によって、フロート左右の突起が吊り下げ用リングの基部であると分かりました。そしてキットのパーツではリング部分が省略されていることも判明しました。

 

 上画像の引用元(https://www.awm.gov.au/collection/C63349)

 Sさんがスクラップブックから取り出してくれた切り抜きの写真です。1942年10月にオーストラリアのセントルシアにて撮影された、捕獲車輌です。フロート左右の突起の上端がリング状になっているのが分かります。ここにワイヤーやロープを通してフロートを吊り上げたり、引っ張ったりして移動させたのだそうです。分かりやすい資料画像です。

「これは浮舟が一個なんでね、いわゆる試作型ですね。豪軍に捕獲されてますから、割と早い時期にニューギニア方面に送られたもののようですな・・・」

 Sさんによれば、いま私たちがカミの前期型と呼んでいる前部フロート一体型は、海軍では試作型と呼んでいたそうです。実用試験の結果が良くなかったために前部フロートを左右分割式に変更して、それを正式に採用したということなので、いま後期型と私たちが呼んでいるタイプが、海軍の制式採用型にあたるわけです。
 ですが、試作型のほうも、すぐに戦地へ送られていたことが上図の写真で分かります。撮影日時が昭和17年10月なので、カミが制式採用されて実戦配備され出した頃の、初期の生産車輌が早くもどこかの戦場で連合軍の手に落ちたのでしょう。

 

 上画像の引用元(https://www.awm.gov.au/collection/C63348)

 こちらは後部フロートを引っ張り出した際の写真です。艇尾のアンカーチェーン用の方形リングにもロープが通されているのが分かります。舵に繋がるワイヤーもよく見えます。

「・・・こっちの後の浮舟はね、車内でハンドル回して繋止鉤を引っ込めますと、ズルーと滑ってこういう形でストンと立ち上がるんです。舵が二つついてる所に最も重量がかかってますからね。それでロープをこういうふうに結んで引っ張るわけですが、これちゃんと帝国海軍の繋ぎ方になってるんですね・・・。浮舟にロープ結ぶのは、輸送船に乗せる時もやります。浮舟は別々にして運ぶので、これもロープできちんと係止しておくわけです・・・。たぶん、輸送状態のままで接収されたんと違いますかね・・・。そうでないなら、接収されたときに乗員も捕虜になったかして、向こうにロープの結びつけ方とかを教えたか、自身が結んで繋いでみせたか、でしょうな・・・」

 Sさんが呉でカミの特殊訓練を受けた際にも、同じ結び方、繋ぎ方を教わったのだそうです。浮舟つまりフロートの切り離し訓練も行ったそうですが、重いものなので、取り付けるほうはトラックにつけた起重機が使われ、上図のように結ばれたロープで吊り上げて行われたそうです。

 ちなみに、パラオに行ってからはSさんの艇も含めた5小隊が内火艇として海上で作戦行動したため、フロートを切り離す機会は無かったそうです。それどころか、大破した工作艦「明石」からの物資荷揚げを手伝った際に、あちらの造船将校の一人がカミにいたく関心を寄せ、小修理などもやってくれたそうです。その際にフロートも固定したのだそうです。

「・・・パラオに来て三日目でしたか、輸送の作業中に小隊の数隻に故障が続発しましてね、2隻は浮舟がずれちゃってましたね。ろくにチェックもせずに工場から出してるせいか、車体の横とかに隙間もあるんですよ。小隊長の艇は発動機が時々息をついたりする。「明石」から大量の工具類の箱を下ろして筏に積んで、曳航するという時に発動機が停まってしまう。小隊長は頭を抱えてましたね・・・」
「・・・・我々の艇もね、前に隙間があってね・・・、航行の度にチョロチョロ海水が艇内に入ってくるわけですよ・・・。だから浸水がずっとあって、ポンプで一応は汲み出してたんですが、どうにも心もとない。他の艇も似たり寄ったりで、4隻ぐらいに何かしら不具合があった。それを見かねたのか、「明石」の工作部の修理艤装担当の将校だったと思いますが、責任者とおぼしき方が工員を三人貸してくれましてね、我々のカミも含めて色々直してくれたのです。機材を陸揚げした作業へのお礼の意味もあったんでしょうなあ・・・」

 このときの修理で殆どの艇の前後のフロートも繋いで固定し、隙間も塞いだそうですが、同時に不要だからと履帯と車輪も外したのだそうです。2小隊6隻のうちの4隻がこの修理を受けたそうで、Sさんの艇も同様でした。
 重い履帯と車輪を撤去したおかげで、艇が軽くなり、航行性能も向上したそうです。喫水が浅くなり、舵の効きが良くなり、速力も2ノットほど上がったそうです。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 70(V)ラング 作ります!! その6

2020年05月22日 | ガルパン模型制作記

 ステップ13では、天板関連の各部品を組み立てます。私の製作ではハッチ類は閉じた状態にて接着固定しますので、パーツC51、K1、P3は不要です。

 

 ステップ13で組み付けるパーツ類です。

 

 組み付けました。

 

 ステップ14ではハッチ類を組み立てます。ガイド図の通りに進めました。

 

 ハッチはみんな閉じて接着するので、ハッチのアーム等は不要になりますが、ガイド図に従ってそのまま組み立てました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ15では車体上部を組み立てます。クリーニングロッドのG24は、ガルパン仕様では短くなっていますので、劇中車に合わせてカットします。

 

 組み立てるパーツ群です。

 

 クリーニングロッドのG24は、上図のペン先あたりの位置でカットして縮めます。

 

 カットしました。

 

 パーツG5は内側に取り付けました。

 

 次のステップ16で上下の車体を合わせるので、ここで前倒しで合わせました。車体パーツに僅かな反りがあって隙間が生じることが仮組みの際に判明していたため、テープで固定して瞬間接着剤で貼り合わせました。

 

 車体の貼り合わせは慎重に行ってしっかりと固定しましたので、綺麗に合わさりました。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知波単学園チーム特二式内火艇カミに関する裏話 その2

2020年05月21日 | ガールズ&パンツァー

 上画像の引用元(https://yuripasholok.livejournal.com/8882732.html)

 太平洋各地における、特二式内火艇カミの戦時中の動向については詳しい事が分かっていないままですが、各地で接収または鹵獲されたもの、放棄されてそののままになっている車輌などが幾つか現存しています。大まかに見ますと、北方千島諸島のエリアと南方パラオ諸島のエリアとに大別されるようです。

 前回で述べたように北方千島諸島では占守島などで数輌が接収されたようですが、そのうちの一輌がテスト用にソ連本国に送られたといいます。いまクビンカ博物館のパトリオットパークに展示される上図の車輌がそれであるそうです。前後のフロートも備えた完全な個体ですが、多くの小部品が失われています。前部フロートが左右分割式となる後期型の特徴を示しています。

 この車輌がガルパンの劇中車のモデルとなったようで、製作側の取材が行われており、劇中車にみられる特徴の幾つかがこの展示品より採られているそうです。

 

 上画像の引用元(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Type_2_Ka-Mi_-_Victory_Park,_Moscow_(27041889469).jpg)

 さらに同じくモスクワのビクトリー・ミュージアムにも前後のフロートを外して前後に置く形の車輌が展示されています。これも占守島から持ってきたもののようですが、残骸をレストアしたものらしく、前後のフロート、砲塔、通風筒がレプリカとなっているそうです。

 

 上画像の引用元(https://www.indiedb.com/members/taranov/images/type-2-ka-mi-amphibious-tank-shumshu)

 占守島には、現在も数輌分の残骸が戦跡に残されているそうです。千島列島地域にてソ連軍によって接収されたカミは、占守島のほかに幌筵島にもあったといい、大部分は戦後に処分されたようです。

 Sさんの話によれば、北方への配備は南方への配備より早かったらしいという事です。昭和19年3月に訓練を受けた際に知らされた輸送船団によるカミ輸送計画は、全て南方向けであったそうです。

「つまりですな、カミの配備はまず北方にてなされたんでしょうな。・・・カミが制式化されたのは昭和17年の秋頃ですが、訓練教程が始まったのは確か昭和18年になってからだったと思います。その3月から北方のアッツ、キスカ方面へ輸送作戦が始まっとりますでしょ、そのときにカミも小隊単位で積んで行ったんではないかと思いますね・・・。確か、その頃でも輸送船に積み込むカミは3隻ないし6隻となっていたようです。私らのカミを運んだ輸送作戦でも、6隻を輸送船の甲板に3隻ずつ並べて係止しとりましたからねえ・・・」

 ちなみにSさんたちのカミが運ばれたのは、昭和19年3月22日に館山を出てパラオへ向かった輸送船団であったそうです。

「・・・我々の部隊は南方のパラオに行くんだということで、輸送作戦の船団は「松」と呼ばれたんです。同じ南方でもフィリピンやニューギニア方面に行くのは「竹」と呼ばれてましてね、要するに絶対国防圏の外郭を守備するということで、その兵力を二方面に急遽展開させるべく輸送したわけですな・・・。訓練終了後すぐに、同期の5人と共に館山に行きまして、そこで初めてカミの乗員と合流したんです・・・。その際に特別陸戦隊の編成命令も受けましたから、とにかく慌ただしいもんでしたよ・・・。小隊長への報告も後でいいから、って急かされて輸送船に乗せられてしまいましてね、そのままパラオ行きですよ・・・ハハハ・・・」

 この輸送船団の正式名称は「東松3号船団 」といい、3月30日にサイパン島に到着、船団の一部はサイパンまでとなり、残りがパラオに向かおうとしたところ、その日のうちにパラオ方面に米軍の空母機動部隊が来襲したとの知らせがあって引き返し、4月2日にサイパンへ避難したのち、再出航して4月14日にパラオに到着したそうです。

「・・・パラオに着いた時点で報告に行きまして、守備地域の指示を受けたんです。出発前の編成命令ではパラオ根拠地隊となっていたんですが、我々が着いた時点でまだパラオの海軍第30根拠地隊は3月に編成されたばかりで人員も装備もまだ揃ってませんでした。先発隊は居たようですけど、大方の人員と物資は次の輸送船団で来る予定だから、と言われてねえ・・・。最初に追移動を命ぜられた先はコロール島でした・・・。ひとまず陸軍さんとも協力し合う体制になっていましたが、その14師団もまだ来てなかったんですよ。我々より後の輸送船団で10日後に来ましたね・・・」

 Sさんの話によれば、パラオに到着した時点で既に現地のバベルダオブ島にカミが2小隊、6輌配置されているとの連絡を受けたそうです。おそらくはこの2小隊、6輌の先行配置が、第30根拠地隊の編成にともなう最初の配備であったのだろう、と推測されます。しかし、Sさんたちの小隊にはそれへの合流命令も無く、連携を取るどころか、分遣隊として隣のコロール島へ配置されたということです。

「・・・コロールへ着いたらすぐに海上に出て、(3月30日の空襲で大破擱座した)工作艦「明石」からの物資の運び出しをやらされました。海軍一の優秀艦だけに狙われて散々に爆撃受けて炎上したということで、まあ見るも無残な黒焦げの姿でしたが、工作艦だけにいろんな機材とかがまだ残ってまして、使えるものはとにかく陸へ運べ、ということでしたね。陸軍さんの船舶部の大発も応援に来てくれまして、一緒に筏に物資や器材乗せて曳航して往復したんです・・・」

 その時点で、パラオには12輌のカミが有り、次の「東松4号船団 」および「東松5号船団 」で6輌ずつが運ばれてきたため、合わせて24輌に達したということです。そしてその次の「東松6号船団 」はカロリンへ向かったが、それにもカミが6輌ぐらいは乗っていたのではないか、というSさんの見解でした。これをふまえての、アンガウルおよびペリリューに3輌ずつぐらいは配置されたんじゃないか、という推測でした。

 

 上画像の引用元(http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/palaukoror/pic119001.html)

 パラオ本島群に配置された24輌のうち、現地にいまも8輌が残骸となって残っているそうです。上図はそのうちの有名な1輌です。旧首都のコロールの市街地の野球場の裏にあり、戦跡観光ルートにもなっているので、最もよく知られてネット上にも多くの写真が挙げられる現存車輌です。

 私自身も、平成4年の戦跡巡拝・遺骨収集事業にてパラオ入りした際、コロール島にも行ってこの現存車輌を見ました。他に通信隊施設前のカミ、飛行場跡西側のカミも見ていますが、このコロールのカミでは内部も見ました。当時の観光ガイドの方と割と打ち解けていたせいもあり、この車輌の内部に入る許可もいただいて、ボロボロの艇内にもぐりこんであちこち見学したのを覚えています。もちろんSさんも同行しておられましたが、その時はカミについての話は一切しなかったのでした。
 なので、上図の現存車輌についての見解を聞いたのは、今年2020年になってからでした。

「・・・あれは、我々とは別の小隊の艇ですね。我々がコロールにおったのは一週間足らずで、その後はマラカルに移動を命じられまして、それからずっとマラカル島を根拠地としてパラオの沿岸警備および臨時輸送の任務についていましたから、その後に配置された小隊の艇でしょうかね・・・」

「・・・・パラオ本島群は一括して警戒区域になってましてね、どうも米軍が上陸をしかけてくる気配が濃厚である、ということでね・・・・、海上では潜水艦の出没も報告されてましたから、海上での警備活動が手薄なのは困る、輸送船団もまだ何回かやってくるから、とにかく海上の警備兵力が要る、という認識があったようですね。4月に我々が2小隊でコロールに移動して「明石」からの機材運び出しをやってるうちに、次の輸送船団で3小隊が到着しまして、海上で合流したわけです。それからマラカルに移動命令を受けまして、5小隊が内火艇のまま行動してね、5月からは分散して沿岸で哨戒つまりパトロール、それと輸送に従事しておったんですよ・・・」

「・・・・残りの3小隊?いやあ、それはどうなったのか、実は聞いておらんのですよ・・・。海上では見かけませんでしたから、たぶん陸上にとどまっていたんでしょうな・・・。マラカルで一緒に輸送任務をやっていた陸軍さんに聞いても知らないということでね・・・・。その後ずっと合流する機会も無かったですし・・・」
「・・・沿岸で内火艇として作戦行動した5小隊は、6月から敵の空襲や雷撃などで我々の艇も含めて全て撃沈されましたから、いまパラオに8隻が現存しとるというのは、あの頃陸上に配置された3小隊9隻の大部分が残ったということでしょうなあ・・・。たぶん、あと1隻もどこかの密林内に人知れず残されとるんではないでしょうかね・・・」

 パラオ本島群における現存車輌は、バベルダオブ、コロール、アラカベサンの各島に点在しています。アンガウルとペリリューでは米軍の上陸作戦が行われて双方の日本軍守備隊は玉砕して全滅しましたが、パラオ本島群に対しては空襲のみで上陸作戦が無かったため、陸軍第14師団主力をはじめとする陸上配置兵力は、戦闘の機会を得ないままに無傷で終戦を迎えたということです。陸上に配備されたカミがほとんど現存しているのも、そのためでしょう。

 

 上図の引用元は(https://imgur.com/)

 そのパラオでの現存車輌のもう一例を挙げておきます。平成4年の戦跡巡拝・遺骨収集事業にて見学した飛行場跡西側のカミがこれです。バベルダオブのアイライに置かれた海軍航空隊の飛行場跡の西側のキャンプ・カチュー地域にあります。飛行場跡の大部分はいまのロマン・トメトゥチェル国際空港になっており、空港の周辺の大部分が戦跡保存地区になっています。
 先に挙げたコロールのカミや通信隊施設前のカミは一般観光客も気軽に見学出来ますが、こちらは保存地区内にあるためか、許可が必要だそうです。

 私がこの現存車輌を見たのも戦跡巡拝・遺骨収集事業での巡拝コースに入っていたからですが、印象としては、コロールのカミや通信隊施設前のカミよりも格段に保存状態が良かったように思います。フロートは後部のみが付いたままですが、前部のほうは周辺にも見当たらなかった記憶があります。

 そしていま、気になったのは、これらの現存カミの乗員たちは、その後どうなったのか、という点でした。Sさんによれは、戦後に色々調べたけれど消息は全く掴めなかったそうです。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 70(V)ラング 作ります!! その5

2020年05月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9では砲身を組み立てます。ガイド図の指示通りに進めます。

 

 切り出したパーツ群です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ10でも砲身を組み立てます。細かいパーツが多いですが、丁寧に組み立てます。特にペリスコープのクリアパーツM1は、天板の穴を通って上に突き出る部分ですので、取り付け位置がずれると大変です。そのM1に繋がるパーツは、ガイド図ではG52、G53となっていますがこれは誤記で、C52、C53が正しいです。

 ステップ11では車体上部を組み立てます。ここでも誤記があり、パーツのC22はC23が正しいです。

 

 ステップ10に進みました。

 

 組み上がりました。

 

 完成後は見えなくなる部分ですので、記録を兼ねて記念に撮っておきました。

 

 なかなか精巧に再現されています。ペリスコープのクリアパーツM1が天板の穴を通るかどうかを後で仮組みして確かめました。

 

 ステップ11に進みました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ12では砲身を車体に組み付けます。ガイド図の通りに進めますが、パーツF3は劇中車にありませんので不要です。

 

 組み立てるパーツを切り出して並べました。

 

 組み上がりました。長砲身がカッコイイです。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知波単学園チーム特二式内火艇カミに関する裏話 その1

2020年05月19日 | ガールズ&パンツァー

 上図は、みなさん御存知の知波単学園チームの特二式内火艇カミの公式キットです。私の製作は2019年12月19日に始まり、2020年5月の連休時点で製作進捗度98パーセントに達しています。外装は完成しましたが、インテリアの一部がまだ仕上がっていません。とりあえず、5月中には目処をつけたいと思います。

 このキットの製作に関しては、旧海軍特別陸戦隊の一員としてパラオ方面にて特二式内火艇カミに艇長として乗務し、幾多の激戦を経験された、もと海軍少尉のSさんの御協力をいただきました。
 Sさんには、平成4年の戦跡巡拝、遺骨収集事業にてパラオ諸島に行った際に初めてお会いし、祖父の知り合いだったという縁にて、今まで色々とお世話になりました。第一機動艦隊の空母「葛城」の機関将校として戦後の復員輸送事業にも従事された方ですが、「葛城」に転じる前はパラオ方面の特別陸戦隊の一部として特二式内火艇カミに乗っていたそうです。

 それで、ガルパン最終章第2話の視聴にお誘いして、躍動たるカミの勇姿を御覧いただいたこともありましたが、それを契機として、それまで一切語らなかったカミの昔話を少しずつ聞かせてくれるようになりました。
 私の知る限り、Sさんはカミ艇長として実戦を経験された方としては、現在唯一の生き残りであるらしいです。多くの同期生は太平洋各地の戦場でカミと共に戦没され、Sさん自身も艇を撃沈されて乗組員3名を亡くしています。終戦後に戦地より帰還したカミ乗員の消息も不明であったため、今では多くの事柄が分からなくなっています。謎になってしまった部分も少なくありませんから、Sさんが語り始めた内容は、私にとっても非常に興味深いものばかりです。

 それで、上図のキットを作る際に、Sさんの証言も出来るだけ反映させて作ってみようという気持ちになり、Sさんに指導監修をお願いしたところ、快諾していただきました。もう自分しか語れる者が居ないだろうし、最後の機会になるだろう、と笑っておられました。
 おかげで、キットはインテリアも忠実に再現することが可能となりましたので、Sさんの許可をいただいて、その乗務しておられたカミの内部を証言通りに再現製作することにしました。外装はガルパン仕様となっていますが、艇内は帝国海軍パラオ方面根拠地隊所属艇の状態に合わせています。

 キットの製作に先立ち、特二式内火艇カミに関しても勉強しておくことにして、5度にわたってSさんのお宅にお邪魔し、当時の資料や記録類などを見せていただきながら、数多くの事柄を教えていただきました。
 それらの内容に関しては、キットの製作レポートのほうで大体を述べる予定ですので、ここでは特二式内火艇カミに関する史実および新知見について簡潔にまとめてみたいと考え、Sさんの証言の一部もそのまま収録して、裏話と銘打って5回にわたり綴ることにしました。

 文章は全てSさんに査読いただき、訂正箇所は直して、許可をいただいたのちにブログに入れました。写真画像の数枚はSさんが過去に調べてコピーし切り抜き保存されていたものを見せて貰い、その元画像をネット等で探したりして、出来るだけ引用先を明記しました。

 

 上画像の引用元(https://www.worldwarphotos.info/gallery/japan/japanese-tanks/japanese-1st-yokosuka-snlf-type-2-ka-mi-amphibious-tank-side-hull-hit-saipan/)

 従来、特二式内火艇カミに関しては戦時中の情報記録類が断片的にしか伝わらず、太平洋各地の戦場で戦った車輌の行方も、ほとんどが不明です。どれだけの数がどのような編成でいかなる部隊に属して行動したのか、まったく分かっていません。米軍側の記録類にも体系立ったものは見られないようです。ネット上で探しても、上図のような、撃破されたカミの写真ばかりが目立ちます。
 なので、現在までに知られているカミ関連の文献は、全て戦後の軍事関連誌などにまとめられたものばかりで、カミの関係者の証言とか、記録類といったものは全然ありません。

 それに関するSさんの見解は単純明快でした。
「それはもう、みんなやられてますからね・・・。配備自体も戦局急な中で慌ただしく行われたもんですから、計画とかの記録もろくに作ってないんじゃないかと思いますね。第一、戦闘がみんな玉砕で終わるでしょ、原隊もみんな消滅してしまいますから、戦闘詳報すら無いわけです。ああいうのは、ああいう記録はね、部隊の一割でも生き残ってくれないと、報告も証言もまとまりませんからね・・・」
「特に、私らみたいな臨時編成の陸戦隊ともなれば、南洋の島嶼防備でもとから分散してましたからね、所属とか指揮系統もあいまいなまま、孤立みたいになって戦場も別々になってしまうし、大体はみんな全滅してしまったわけです。パラオ派遣の分隊も合わせると24隻で、8小隊がおったんですが・・・、生きて戻ったのは私ら3人だけのようでしてね・・・、他の艇の方の消息は全然分かっとらんのですよ・・・。居たとしても、今となっては、もうみんな鬼籍に入られたでしょうな・・・」

 Sさんは、長い事カミに関しては沈黙を守り、取材も一切断って語ることをしませんでしたが、記録収集や研究は自身なりに努力されておられたそうで、現在はかなりの情報量が蓄積されています。ですが、そのなかに、戦地から帰還したカミやカミ関係者の情報は一切無く、内地に留め置かれたまま終戦を迎えた関係者のデータのみが断片的に集められたにとどまっています。
 つまり、太平洋各地の戦場におけるカミの正確な情報というのは、Sさん達の艇を除いては、未だに無いということになります。レイテ島のオルモックにて逆上陸を試みたカミ部隊もその後壊滅して所属兵は全員が戦死したようなので、詳細が分かっていないのはむしろ当然かもしれません。

 

 上画像の引用元(https://www.reddit.com/r/TankPorn/comments/6ow161/a_type_2_ka_mi_amphibious_tank_from_1st_yokosuka/)

 上図は、サイパン島にて撃破されたカミの写真です。米軍の近接攻撃で対戦車ライフルを撃ちこまれ、中で爆発を起こして装甲の端がめくれあがっているうえ、炎上して車体の各所が黒焦げになっているという、無残な姿です。カラー写真なので、とても生々しいです。

 Sさんの話では、もともと水上航行可能なように軽量化が図られてるため、装甲は無いに等しく、しかも軟鉄が使われてるので、手榴弾のような小爆発でも致命的で車体が割れたりする、米軍の攻撃をまともに受けたらとても助からない、乗員は死ぬしかない、ということでした。

「・・・何しろですな、米軍のシャーマンとかが出てきますとね、あれの砲は75ミリでしょ、当たればカミは装甲薄いですからね、一発で穴があいてしまう、爆発四散してしまいますわね。カミの砲は37ミリで速射砲なんだけれども、シャーマンには効かない。跳ね返されるわけです。一撃も何もあったもんじゃない。カミより上の九七式中戦車でも歯がたたんのに、どうするんじゃ、というわけですよ・・・。アンガウルでも、ペリリューでも、カミは3隻ぐらいは配備されとった筈ですが、消息は完全に途絶えていましたからね、いっぺんにやられたんだと思いますね・・・」

 

 上画像の引用元(https://live.warthunder.com/post/793765/en/?comment=3045375)

 だから、カミの運用としては、上図のように壕内に定置して砲台として使用するのが最上であっただろう、というのがSさんの意見でした。

 ですが、上図のクェゼリン島にて玉砕したカミの姿を見るまでもなく、壕内に定置して砲台として使用したところで生還の見込みは無かったわけです。戦地に派遣されたカミの大多数は、似たような状況におかれて全てが撃破され、乗員もみな戦死してしまったのです。

「・・・カミというのは特車でしてね、海軍では内火艇でしたから、乗員は基本的に艦隊勤務の延長上で訓練を受けて選抜されたわけです。水陸両用の機関を持つので操作も整備もちょっと特殊になりますから、乗員の一人は必ず専任の機関兵があたりましたね。それとの関係で艇長も機関将校が任ぜられる場合が多かったみたいですね・・・。私も舞機(舞鶴海軍機関学校の出)でしたから命令書が来ましてすぐに、呉に出張して特殊訓練をやったんです。これは艇長予定者のみで分隊単位でやったわけですが、そのときの同期はみんな戦死です。悲惨なもんですよ、哀しいもんですよ・・・」

 

 上画像の引用元(https://www.awm.gov.au/collection/C74763)

 しかし実際には、戦闘に参加しないまま連合軍に接収されたカミもかなりの数にのぼったようです。上図はオーストラリア軍に接収されて集められた6輌のカミのうちの1輌です。
 Sさんが、この写真について話してくれた内容は、こうでした。

「これね、6隻並んでるでしょ、3隻で小隊を組みますからね、2小隊そのまんまなんですね。降伏して接収されて、そのまんまの状態みたいですね・・・。砲にカバーかけたままでしょ、それからエンジンデッキにもカバーかけてあるでしょ、これ私らの小隊と同じ作業規定でやってるんですよ、待機状態の時はこういうふうにカバーで保護しておくんです。戦闘命令が下ったらカバーを外すんですよ。だから、この6隻みんな、戦わずして接収されたんだろうと思うんですが、じゃあ、その乗員はどうなったのか、それを探したんですけどね、全然分からなかったですよ。記録も無かったみたいですんでね・・・」

 

 上画像の引用元(https://live.warthunder.com/post/765271/en/)

 戦地に派遣されたカミの総数は、正確には分かっていません。ウィキペディアの記事においては約180輌が完成したと記されていますが、Sさんによれば、約180輌というのは完成数ではなく、南方戦線に実際に派遣された数だろう、ということです。
 正式な記録は無いものの、戦時中にSさんが呉での訓練中に聞いた話として、艇長予定者の訓練が昭和18年度より行われ、Sさんが訓練を受けた昭和19年2月の時点で述べ216名となっており、修了した最初の分隊は北方戦線に派遣されている、ということだったそうです。

 この北方戦線とは、現在の北方領土地域の千島列島に相当し、例えば占守島などに十数輌が配備されたそうです。その実態や記録は不明ですが、上掲の、停戦後に占守島にてソ連軍に接収されたカミの写真では5輌が並んでいます。現在も島に残る残骸が数輌分あるそうですので、占守島だけでも3小隊、9輌ぐらいは居たんじゃないか、というのがSさんの説です。
 さらに、占守島だけでなく、幌筵島にも択捉島にもカミが配置されていたようだ、ということです。

「だからね、単純に考えても北方戦線全体で10小隊、30隻ぐらいは配置されたんじゃないか、と思いますね。訓練受けたのが述べ216名、その艇長予定者はみんな戦地に行ってるわけです。カミもね、生産された分はみんな輸送船で運んでいってるから、内地には残ってないわけですよ・・・。北方戦線向けを30隻ぐらいと見積もって除いたら、南方戦線には約180隻ぐらいが派遣されている計算になりますよね・・・」

 Sさんの戦時中の記憶によれば、昭和19年の秋の時点でパラオ本島群(バベルダオブ、コロール、マラカル)の陸軍第14師団との連携作戦区域のみで8小隊、24輌が配備されていたそうです。それとは別にアンガウル、ペリリューにも分遣隊のカミが3輌ずつ居たものと推測されるそうなので、合計すればパラオ方面だけでも30輌が配備されていたことになります。
 別にサイパン島には4小隊12輌、グアムやテニアンにも分遣隊のカミが居たらしいとのことであり、他にクェゼリン環礁、トラック諸島にもかなりの数が派遣されていたようであり、フィリピンやニューギニア方面も含めた広範囲に相当数が配備されていたようだ、ということです。

 ですが、それは戦地へ輸送されたカミの一部に過ぎないだろう、というのがSさんの見解でした。フィリピン方面への竹船団、ヒ船団での輸送作戦では多くの輸送船が敵潜水艦の雷撃によって撃沈されており、それに積載されていたカミもあったらしいそうです。多号作戦でもカミを積んだ輸送艦が多く沈められており、カミの揚陸に成功したのは九次作戦の第140号輸送艦のみであるそうです。
 つまり、Sさんが推測する南方派遣の約180輌のカミのうち、大半は輸送中に敵の攻撃で失われたものと考えられます。なんとも哀しいことです。

 なお、パラオ方面に配備されたSさん達を含むカミの大半は、内火艇として海上にて警備や哨戒や輸送などの諸任務にあたっていたということです。
 Sさん達がパラオ入りする直前の3月30日に米軍の空母機動部隊がパラオに来襲し、港湾地区および在泊の船舶に相当の被害が出ました。特に小船舶の多くが沈められたため、当該地域における船舶不足が深刻化したそうです。同時に沿岸防衛の兵力も欠乏したため、それを補うべく、到着したばかりのカミを港湾および根拠地周辺の海上兵力として転用したのだそうです。

「・・・なにしろ、本来は内火艇ですからね、船として使えるのであれば船として活用する、というのが海軍の基本方針であったわけです。陸戦隊の規定でもそうなってましたね。特車は艦艇とすべし、とかね。他の所ならいざ知らず、パラオの場合は、直後に陸軍の第14師団もやってきてましたし、その戦車部隊も居たわけです。一定の陸上兵力が確保されているわけですから、海軍としては空襲で被害を受けた船舶の修理、船舶不足への対応が優先となったわけですね・・・。それでカミは、到着次第に我々も含めて内火艇として港湾地域および沿岸警備に回された、ということです・・・」

 そして米軍はパラオ諸島南部のアンガウル島およびペリリュー島への上陸作戦に際してパラオへも艦載機による空襲や潜水艦による襲撃を重ねたため、海上で行動していたカミも片っ端から狙われて、Sさんの艇も含めた全てが撃沈されてしまった、ということです。

「・・・・とにかく、パラオが大空襲を受けて船舶に深刻な被害が出た直後に我々が行きましたのでね、船が足りない、何とかしろ、ってんで配備命令も変わるわけですよ・・・。カミもすぐに内火艇として働かされたわけですが、たぶんそういう事情があったが為に、記録にも記憶にも残らなかったということかもしれませんね・・・。カミってのは外見がああですから、陸に上がれば相当目立つんですけれども、内火艇として海上にあったから、そのへんの小船舶と一緒に見られてしまうわけです。撃沈されても、救助にも来てもらえない。乗員はみんな死ぬしかないわけですよ・・・」

 内火艇という小船舶のゆえに雑役船同様に見られていたため、正式な戦闘記録すら残されなれなくても当然であったそうですが、その哀しい末路はパラオ以外の戦線に派遣されたカミにおいても同じだったのではないでしょうか。
 つまり、現在においてあまりカミの戦歴が伝わっていないのも、陸上戦力としてではなく、艦艇の一種たる内火艇として海上で戦って、人知れず沈められてしまった艇のほうが多かったからではないか、と思います。戦闘詳報すら一件も残されていないのも、そうした厳しい状況を物語るのでしょう。  (続く)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 70(V)ラング 作ります!! その4

2020年05月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7ではフェンダー、履帯を取り付けます。履帯はガイド図では連結組み立て式になっていますが、今回のキットではベルト式パーツを選びました。
 ガルパン仕様においては、バックライトのB12とM7の組み合わせではなく、車間表示灯に交換します。不要パーツのK4が使えますが、私の製作ではジャンクパーツで間に合わせました。
 さらにフェンダー後端のスプリングC4、C5は劇中車にありませんので不要です。さらにキットでは省略されている部品を幾つか追加します。

 

 ステップ7で取り付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ドラゴンのジャンクパーツを転用した車間表示灯です。キットにも同じものがあります。不要パーツのK4です。

 

 続いて、キットでは省略されている部品を幾つか追加しました。まずは、フェンダー後部の連結ヒンジ部分とフェンダーピンをブラ板と真鍮線で作り、リベット8個も付けました。

 

 フェンダー前部の連結ヒンジ部分とフェンダーピンはモールドされていますが、ピンの先端だけが欠けていますので、先端を真鍮線で追加再現しました。

 

 ステップ8ではエンジンデッキの範囲を組み立てます。ガルパン仕様への工作が多岐にわたるうえ、ガイド図の誤植もみられますので、順に紹介します。

 

 まず、車外装備品は全て塗装後に取り付けますので、ここでは仮組みして位置を確認しておきました。劇中車の装備品の配置と大体同じですが、微妙にズレているパーツもありますので、全て合わせます。
 また、小箱H41は劇中車には無く、同位置に蓋状の方形板があるのみですので、ブラ板で再現します。
 なお、ガイド図にて予備転輪固定具のパーツにB8がありますが、これはB29にします。

 

 パーツB30およびB31において、ガルパン仕様への修正を行ないます。劇中車にはグリル周縁の枠がありませんので、削り取ります。中央の桟もありませんので、カットします。

 

 枠を削り取り、桟をカットしました。

 

 予備転輪固定具のB29、B48、ハンドルのA47、小箱H41と交換した蓋状の方形板を取り付けました。B29は脚を縮めて劇中車と同じ収納状態にしました。

 

 ジャッキを組み立てます。ガイド図ではこのジャッキの組み立て手順が抜けていますので、元製品のドラゴンスマートキットNo,6397のガイド図を参照しました。パーツはJ1、J2、J3、J4、J7を使います。
 このうち赤ペン先で示したパーツJ3のハンドルは、御覧のように折り畳み状態となっています。これが劇中車では展開状態になっていますので、改造します。なおジャッキの留め具は、劇中車では片方のみですので、B36だけを使います。B37は不要です。

 

 ジャッキのパーツ群です。ハンドルのJ3は展開状態にしました。

 

 組み上がりました。留め具のB36も付けました。本来は留め具は車体カラーと同じ色である筈ですが、劇中車においてはジャッキと同じ色にまとめられていますので、上図のように組み付けて一体化しておくのが良いです。

 

 次の組み立てに進んでパーツ類を準備しました。このうち、パールはガイド図には描かれますがパーツ番号が抜けています。B17にあたります。
 さらにシャックルのA8とB34は、ガイド図では横に重ねますが、劇中車では縦並列にセットされていますので、それに合わせます。

 

 組み上がりました。車外装備品は全て塗装後の取り付けとなります。  (続く)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近に貰ったガルパンプラモデル

2020年05月17日 | ガルパン模型制作記

 新型肺炎対策の一環となる緊急事態宣言の対象地に京都府が含まれたため、1月からずっと続けていた外出自粛を5月いっぱいまで遵守することになり、5月連休もずっと自宅で過ごしました。
 もともと休みには家でのんびりしてプラモデルを楽しむのが私の普段の有り方ですので、外出自粛はさほどの影響もなく、むしろ疲れた身体を休める絶好の機会と捉えていたほうでした。連休期間中は、生活そのものは規則正しく早寝早起きで、外出は買物のみとし、あとは家で家事、室内や押し入れの整理、読書、ブログ執筆、そしてプラモ製作などをやっていましたが、最も時間をかけていたのがプラモ製作でした。

 模型サークルの活動は既に2月から自粛停止となりましたが、普段からメンバー相互の連絡は主にLINEやメールでやり取りしているので、顔を合わせる機会が無くなったとしても、交流頻度は大して変わらなかったと思います。
 だから、サークル仲間や交流仲間のモケジョさん達の動向も、ほとんどリアルタイムで把握出来ていたような気がしますが、それ以上に活発だったのが、プラモの交換でした。仲間同士で不要の品を交換したり、始末に困る品を譲ったり、入手困難な品を譲ってもらったり、というようなケースです。

 なので、私も5月連休期間中には2個のプラモを貰いました。いずれもガルパンの劇中車に作れる品ですから、送ってくれた方もよくわかっていらっしゃる訳でした。

 

 一つ目は上図のグンゼ産業のパンターG型でした。サークルのAFV部会の理事も務める先輩のFさんにいただきました。先月に還暦祝いとして「神の河」を贈ったので、その返礼かと思われます。かなりの積み在庫を持っておられる方ですが、呑み会の席などで「死ぬまでに全部作るのは無理や」とか話していて、時々周りに不要プラモを贈ったりしています。そして私もその恩恵にあずかることになったわけです。

 届いた直後にお礼の電話を入れましたら、「星野君の一番好きな戦車やろ?」と言われました。そうです、と答えると、「たぶん知らない品のほうがええかなと思ってな」と笑っておられました。
 確かに、これは今回初めて見たキットでした。というか、グンゼ産業の製品はあんまり知らなくて、見る機会も少なかったのでした。こんなのあるんだ、と感動しました。古い製品のようですが、中古ショップで見かけたこともありませんでした。

 グンゼ産業の戦車プラモというと、私自身の基本的なイメージとしては、海外メーカーの品を日本でパッケージしてあるもの、という感じになります。以前にイタレリのルノーやオチキス軽戦車をグンゼ産業が扱ったキットを中古ショップで購入した経験があるからです。
 ただ、その取扱い販売時期が随分と昔のことで、私が小学生か中学生ぐらいの頃ですから、いまでは新品では有り得ないと思います。ですから、現在は中古市場にて探して買うしかないと思います。

 それで、今回のパンターも海外メーカーのどれかの品なのだろうと思って開封して調べてみましたが、ドラゴンでした。現在出ているキット群よりも古い製品で、パーツ割りも少なく、タミヤの初期シリーズを思わせるようなシンプルな中身でした。
 届いた日の夕方に早速作り始めましたが、組み立て工程が少ないために1日で仕上がりました。あとは塗装作業になります。
 製作時のツィートはこちらこちら

 

 二つ目は、交流サークル仲間のモケジョのエリさんにいただきました。前触れもなくいきなり届きましたから、驚いて電話したところ、モケジョさん達の間で映画「T34」がブームになっているから、と知らされました。
 ちょっと前までは知波単学園車輌がブームになっていたはずですが、若いお嬢さん方の気は移ろいやすいようです。と言うか、コロコロと変わっている気がします。知波単学園車輌の前にはリボンの武者の軽戦車で盛り上がっていたような・・・。

 ともあれ、この品をわざわざ送ってきたのは、このタミヤのキットを作ってレポートしてくれ、という意図かと悟りました。私自身がこの品を扱ったことが無かったからです。従来、劇中車がこれをモデルにしていると指摘されていたと聞きましたから興味はあったのですが、なかなか購入の機会を得なかったのでした。
 古い製品でスポット生産扱いになっていると聞いていましたが、どうも最近に再販されたらしく、モケジョさん達が7人とも買ったのだそうです。それで拙ブログの製作レポートをあてにして、まずキットを送ってきたのでしょう。

 とりあえず作ってみたところ、意外にもプラウダ高校の劇中車に仕上げる工程は最低限で済みました。プラッツ発の公式キットや海外メーカー各社のキットに比べると、さすがにタミヤですから作り易いと思いました。

 ただ、タミヤ製品の常として、細部をかなり省略しています。そのあたりは色々と再現するしかありませんが、それでも大がかりな改造は有りませんので、個人的には楽でした。ガルパンの適応キットのなかでも上位に入ると思います。
 製作時のツィートはこちらこちら

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする