気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

五十鈴華と冷泉麻子はいつ?

2015年05月31日 | ガールズ&パンツァー
 周知のように、ねんどろいどのガルパンキャラクターは、西住みほ、秋山優花里、武部沙織の三人が製品化されています。残るはあと二人です。


 五十鈴華の製品化は既に昨年末にアナウンスされていますが、その後は何の情報もありません。


 冷泉麻子も同様です。フィグマの方はチーム全員がようやく揃いましたが、ねんどろいどの方はまだまだです。グッドスマイルカンパニーさんが倉吉に生産拠点を移したことによって製品化スケジュールにも影響が出たのでしょうか。

 とにかく、いつになったら出るんでしょうかね。ぐま子に聞いても「ぐまー」しか返事がありませんし・・・。

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戦車道チームを有する高校は20校?

2015年05月30日 | ガールズ&パンツァー

 去る5月2日にオープンしたガルパンギャラリーの案内ブログで、5月16日より上図のような新缶バッジが配布されるとの案内記事を見ました。こちら

 画像に示された5種の校章のうち、見たことがあるのは3種です。ヴァイキング水産高校、ヨーグルト学園、知波単学園、です。あとの2校は初めて見るので、これらの高校って、アニメシリーズにあったかなあ、と首を傾げました。以前に「戦車道チームを有する高校」と題する記事を書きましたが、それに挙げた16校のなかには、メイプル高校と伯爵高校は無かったのです。
 画像をよく見直すと、「今回はTV/OVA版に登場していないライバル高校の缶バッジになります」とありました。なるほど、他にもあるのか、知らなかった、と思いました。


 そこで調べてみたところ、ネット上で上掲の写真画像を見つけました。これはガルパンギャラリーにある展示パネルの一つで、最近に実物を見ましたが、戦車道チームを有する高校は全部で20校に増えていました。奈良県のグレゴール高校なんて、初めて聞きましたよ・・・。
 さらに詳しく資料を追いかけたところ、月刊戦車道のほうで新たに追加された高校があるのだと分かりました。要するに公式の二次追加創作なのですね。

 ですが、アニメシリーズ本編に出ていない以上、リアリティにはどうしても欠けざるを得ません。ガルパンギャラリーで新缶バッジの5種全てを購入特典として貰いたいかというと、私自身はそこまで思いません。アニメシリーズに登場したトーナメント表に並んだ16校が、私にとっては全てだからです。
 なので、今回の配布5種の缶バッジのうち、ヴァイキング水産高校、ヨーグルト学園、知波単学園の3種がゲット出来れば充分である、と感じた次第です。

 ところで、「東北、関東編 +北海道」とあるのに、青森県のプラウダ高校が抜けてるのは何故でしょうか・・・。
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figma「冷泉麻子」が届きました

2015年05月29日 | ガールズ&パンツァー

 マックスファクトリーのfigmaシリーズの247番、「冷泉麻子」が5月28日に発売となり、私の所には前日の5月26日に届きました。グッドスマイルカンパニーさんはいつも出荷が早いです。この時は大洗に滞在していたので、現物を見たのは帰宅してからでした。


 パッケージはこんな感じで、色は濃青でした。前回の「五十鈴華」のパッケージが青でしたから、もう少し違う色にしてもよかったのでは、と思います。でも、冷泉麻子には、イメージ的にも青系のカラーが似合っている気がします。


 パッケージの裏面です。テレビシリーズの各場面を再現したポーズが並びます。付属品には戦車教本も含まれるので、あんこうチーム五人のなかで唯一、読書シーンが再現出来ます。


 付属品には操縦席なども付くので、パッケージのサイズも大きいです。上図左が前回の「五十鈴華」のパッケージで、同じ大きさです。


 中身はこんな感じです。操縦席や戦車教本などが入っています。表情は三種類です。


 劇中のイメージに沿った姿勢にて立たせてみました。公式シーンでは両腕をやや前に垂らしてだるそうにしているポーズが有名ですが、それを再現するのは困難です。腕や肘の可動域がそこまで達していないようです。


 まさしく冷泉麻子です。いつもながら見事な再現度です。独特の飄々とした雰囲気をよく写し取っています。あんこうチームの五人の中では一番の秀才キャラですが、その知的な雰囲気も的確に表現されています。世界に冠たる日本のフィギュア造形技術水準の一端をみる思いがします。


 斜め横からの姿形もアニメシーンそのままの立体化がなされています。長い黒髪が軽くウェーブを描いて後ろになびく一瞬も、見事に捉えていて感動ものです。表情もまた冷泉麻子そのものです。


 付属品の操縦席です。レバー類は全て可動します。シートも位置が前後に調節出来るようになっていて至れり尽くせりです。ただ、シートの柱のはめこみがしっくりいかない感じでしたので、少しヤスって調整しました。


 操縦席につく冷泉麻子です。このポジションで様々なシーンでの優れた運転をこなしてチームの勝利に貢献してきたわけですね。


 まずは戦車教本を一読する冷泉麻子。一回読んで内容を素早く整理して要点を捉えて理解してゆくシーンです。決まってますなあ・・・。他のメンバーだとこういう雰囲気が出ないのですね。


 早速操作を開始して、クラッチをバックに入れ、吊り橋から落ちかけたⅣ号戦車を立て直す、というシーンの積りです。


 続いて左右の履帯の動きを調節してⅣ号戦車を橋の中央線に乗せる、というシーンの積りです。表情を変えずに色んな動作をする冷泉麻子なので、そういうところもきちんと再現しているのは素晴らしいです。


 再び戦車教本を持たせて立たせてみました。冷泉麻子はこういう読書シーンがものすごく似合いますね。難しい専門書もスラスラと読みこなしそうな雰囲気です。


 将来は研究者か大学教授か、というタイプです。上のシーンにもその片鱗がほの見えています。完全に学校の先生のスタイルですね・・・。このスタンスで、武部沙織に第二級アマチュア無線技士取得の手ほどきもしたのでしょうね・・・。


 実に素晴らしい造形表現度です。本を読む女子高生がこんなにカッコイイとは思いませんでした。私も研究などで色んな本を読みますので、似たような姿勢を取っていることが多いです。
 なので、冷泉麻子にはとにかく親近感を覚えてしまいます。あんこうチームの五人の中では一番好きなキャラクターです。


 かくして、figmaシリーズのあんこうチーム全員が出揃いました。ここまで長かったですね・・・。あとはねんどろいどシリーズの方を・・・、というところですが、そちらはまだまだ時間がかかりそうです。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その25 「大洗駅の左衛門佐です!!」

2015年05月28日 | 大洗巡礼記

 「大久保酒店」の前を通りました。元気な阪口桂利奈が居ました。


 「年宝菓子店」の秋山優花里です。背後のウインドー内には同じ姿の旧パネルも見えました。


 次第に空が曇ってきていました。天気予報の通りになるぞ、と思い、大洗を午前中に出立することに決めました。そこで、自転車で一通り回って終わりにしようと考えました。


 「山戸呉服店」です。


 「黒沢米穀店」と「江口又進堂」の並びです。それぞれのキャラクター新パネルもよく見えました。


 磯浜新道の「理容キムラ」の付近です。予習PVにてクルセイダー隊がⅣ号戦車を追撃していたシーンの舞台ですが、道路拡張工事にていずれは建物も立ち退き改築となるようで、景観も大きく変化することになりそうです。


 少し南に行ったところの分岐です。予習PVの追撃シーンでクルセイダー隊がこの分岐を通るはずですが、細い道から磯浜新道に合流してくる地点でさらに別の戦車が加わってきたら、緊迫した場面になるかもしれませんね。Ⅲ号突撃砲F型が待ち伏せるにはちょうど良い感じの路地です。


 髭釜商店街の「豊年屋機工部」と酒店「プラザ」の並びです。ツチヤも秋山好子も見えました。


 「お好み焼き道」さんの本宅玄関の大野あやです。新旧二つが並んでいました。


 旧パネルの方がスマートに見えるのは、私だけでしょうか。


 「お好み焼き道」さんの本宅玄関先より店舗の跡地を見ました。


 民宿「大勘荘」です。丸山紗希の新パネルが玄関に、旧パネルが廊下内に見えました。


 「みむら時計店」の金春希美です。劇場版ではどのような活躍をみせるのでしょうか。


 知人への土産を幾つか買うべく、まいわい市場に立ち寄りました。


 ガルパングッズ販売コーナーの商品は、通販でも購入出来ますので、私はこちらで買うことはあまりありません。


 おやつとして、アンコウ焼きの豆乳クリームタイプを買いました。以前に通販で三種類を取り寄せたうちで、豆乳クリームタイプが最も美味しかったので、今回は店頭で焼きたてをいただきました。やっぱり美味しかったです。


 レンタサイクルを返却しに「榎澤輪業商会」の仮店舗へ寄りました。今回の自転車で、那珂湊や虎塚古墳まで行きましたので、これまでの利用のなかで最も長い距離を走ったことになります。


 大洗駅に着くと、数人のガルパンファンが左衛門佐の旧パネルを抱えて駅前で写真撮影を楽しんでいるのに出会いました。江口さんが気さくに貸し出しておられるようで、最近は色んなところへ左衛門佐が「出張」しているようです。新パネルが加わったこともあり、旧パネルの扱いは以前よりも自由自在になってきているように見えました。
 そういえば、私も以前に登城遺跡の空堀跡まで左衛門佐を連れていったことがありましたね・・・。

 大洗駅から水戸駅へ移動し、予定より三時間ほど早い列車に乗りました。上野東京ライン開業後でしたので、水戸駅発の常磐線特急列車はそのまま東京、品川へと進みました。以前までの上野駅乗り換えの手間が省けましたので、ずいぶん楽になりました。

 以上にて「ガルパンの聖地・大洗を行く16」のレポートを終わります。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その24 「四日目の朝です!!」

2015年05月27日 | 大洗巡礼記

 四日目の朝は、鹿島灘の水平線から朝日が立ち昇る時刻に起きました。窓のカーテンを開けて朝日を拝みました。


 穏やかに凪ぐ鹿島灘の水平線上には朝日の朱色がほんのりと漂ってみえました。これは天気が崩れる予兆でした。天気予報でも、午前中から曇りになるとのことでした。


 朝食をいただいたのち、一階のガルパンコーナーを見物しました。展示されているポスターの一枚が、ポスターにしては妙な色具合であるのが気になりました。


 近づいてみると、小さな絵を貼り合わせて絵柄が作られていて、それぞれがピースになって組み合わさっているのが分かりました。モザイクアートの一種だな、と気づきました。


 するとこれが「ガールズ&パンツァー モザイクアートジグソーパズル1000ピース」なのか、と気づきました。京都のアニメイトで3000円ぐらいで販売しているのを見かけたことがありますが、完成品を見るのは初めてでした。


 晴れ間が残っているうちに、大洗磯前神社にお詣りして、今回の大洗行きが好天に恵まれて那珂湊方面へも快適に行けたことを感謝しておくことにしました。荷物をまとめてフロントで手続きを済ませ、出発して参道石段へと移動しました。


 修理工事の大部分を終えて落ち着きを取り戻した神域の、朝の風景でした。


 随神門の前の左右に配置される狛犬は、珍しい陶製品です。備前焼の淡い焼き肌ににた雰囲気がありますが、実際に備前焼であるのかもしれません。向かって左側の吽形のほうですが、前右脚にヒビが入っており、以前に前右脚だけがズレたことがあるようです。


 向かって右側の阿形のほうは、損傷もなく完全に伝わっているようです。どう見ても備前焼なのですが、備前焼の狛犬は岡山県の備前市などで幾つか見たことがあり、いずれも姿形がよく似ています。前脚を真っ直ぐ立てて上半身を高く見せるデザインです。
 私が見てきた作例で印象に残っているのは、大阪府住吉大社、島根県松江市の美保神社、岡山県赤磐市の春日神社などの狛犬ですが、備前焼の本場である岡山県備前市伊部にも立派なものが幾つかあったように記憶しています。


 拝殿の銅板葺屋根も装いを新たにして、甍の線にも流れるような曲線が甦っていました。


 境内の絵馬奉納台も、すっきりした感じになっていました。以前はガルパン絵馬が幾重にも重なって全体的に膨らんだ感じになっていましたね・・・。


 ガルパン大絵馬です。正月仕様のままですが、5月にやっと模様替えを施して迎春の字も外し、劇場版の公開日時も正しく11月21日に入れ直したとのことです。


 私の奉納した絵馬も、まだありました。かなり古い絵馬が残されていますので、一年経ったら外してお焚き上げ、というのでもなさそうです。


 鹿島灘に面する二ノ鳥居の内側にある狛犬は石造ですが、風化磨滅が激しく、かなり古いもののようです。


 阿吽いずれも損傷が激しく、欠けた部分もあります。地震などで転げ落ちたりしたのでしょうか。


 神社を後にして、商店街を歩き、「丸五水産」の店先に着きました。角谷杏の旧パネルが店先の中央に居て、その脇には干し芋が並べてありました。


 旧パネルが長らく立っていた位置には、新パネルがありました。足元には造花の向日葵もしっかり添えられていて、角谷杏の好きな花を再現してありました。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その23 「戦車プラモと戦車ケーキです!!」

2015年05月26日 | 大洗巡礼記

 「大久保酒店」の阪口桂利奈は新パネルでした。ウサギさんチームの六人の中では最も動きのあるポーズです。キャラクター本来の元気さがよく表されています。


 「さかなや隠居」の西住まほです。新パネルも毅然としていますが、表情は和やかになっていて、こちらがお姉ちゃんの素顔なのだろう、と思ってしまいます。これを撮影していたら、ちょうど女将さんが出て来られたので、挨拶して少し話をしました。
「今回は満員になっちゃって、ごめんなさいねえ」
「小学生体操大会、というのは毎年あるんですか?」
「ううん、毎年じゃあ無いんだけど、でも去年もここでやってたわねえ、来年はまだ分からないけどね」
「その時期にこちらにお世話になる場合は、事前に調べて早めに予約したいと思います」
「そうだわねえ、是非またいらして下さいねえ」


 「ウスヤ」さんの店内に飾られている、ねこにゃーのオリジナルフィギュアです。トレードマークの眼鏡をかけていませんので、別人のようです。ガルパンキャラクターの中でも独特の個性が目立つのですが、テレビシリーズではチョイ役にとどまりました。劇場版では是非活躍して欲しいものです。


 「さかげん」の店内に展示されているプラウダ高校チームの戦車のキットです。ファンの方からの寄贈品のようですが、細かく作りこまれていて見応えがあります。ただ、私のキット制作計画にはプラウダ高校チームの戦車は入れておりませんので、キットなどの詳細についてもよく知りません。


 プラウダ高校チームの戦車のキットは、プラッツから公式キットが出ていますが、例によってあまり良い評判を聞きません。先行作例も、多くはタミヤやドラゴンなどのキットを用いて制作されているようです。要するに公式キットは劇中車とは違う仕上がりになるのでしょう。


 宿に戻り、部屋の窓から鹿島灘を眺めました。


 この日の宿泊特典です。ポストカード、名刺3種、缶バッジ4種、オリジナルブックカバー、となかなかに豪華です。ガルパン応援宿泊プランを実施している施設のなかでは、最も種類が豊富です。実は、さらに特別に一品をいただいているのですが、それに関しては軍事機密扱いとさせていただきます。


 お約束のノーブルシスターズの紅茶です。このノリノリ感が楽しいですね。


 左よりアッサム、ダージリン、オレンジペコです。どれを飲もうかと迷ってしまいますね。


 紅茶を味わいつつ、海の景色をのんびりと眺めて過ごしました。


 この日の鹿島灘は、潮も満ちてきているようでした。


 神磯の鳥居の立つ岩礁も、海水に囲まれて独立していました。


 この日の夕食です。今回も美味しくいただきました。


 特典の戦車ケーキです。戦車というよりは自走砲に近い形状です。ドイツ軍のエレファントなどを連想させますが、上部構造物を平たく作って砲も水平に伸ばせば、ラングに見えてくるかもしれません。 (続く)
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伯耆大山 (下)

2015年05月25日 | 観聞日記

 大山寺門前町に戻りました。これで大山の社寺エリア散策は終わりましたので、休憩と食事をすることにしました。まずは散策で汗ばんだ体を洗うべく、門前町の温泉施設「豪円湯院」に立ち寄りました。

 ここの温泉は、大山の冠雪が長い時間を経て地下に浸透、地下で浄化され、1200メートルの深さから温泉として湧き出たものです。全国の天然温泉の中でも酸化還元電位の値が非常に低いことで知られ、天然で-320mVの数字は日本最大級といわれます。その効果によって疲労回復が期待できるとありましたが、その通り、湯に浸かっているうちに体が軽くなっていきました。湯上りには、大山の白バラバニラ牛乳がピッタリ合います。その味わいは最高です。
 「豪円湯院」の公式サイトはこちら


 「豪円湯院」の向かいには足湯の施設もあります。登山客が帰途によく利用しているそうです。「豪円湯院」と同じ湯ですが、こちらは無料です。


 近くの蕎麦屋さんで、大山蕎麦をいただきました。山陰地方には蕎麦どころが多いですが、鳥取県では倉吉の打吹蕎麦とこちらの大山蕎麦がよく知られています。大山麓のグルメのナンバーワンが蕎麦なので、お店もあちこちにあります。普通の蕎麦と異なり、実の甘皮までを挽き込む製法によって独特の黒い色と素朴な風味を引き出している点に特徴があります。岡山県側でも「蒜山蕎麦」というのがありますが、材料の蕎麦を大山の麓で栽培している点は同じです。

 鳥取県に住んでいた時期、大山には30回ほど行きましたが、北の大山町や琴浦町あたりから登った際の食事は大山蕎麦、南の蒜山から登った場合は蒜山焼きそばか蒜山バイキング、というのがお決まりのコースでした。今回もそれでいく積りでした。


 大山寺観光駐車場に戻りました。大山の北壁が北東から望まれて霊峰の風格を漂わせています。


 駐車場から出てすぐ地蔵石仏の立つ分岐路「地蔵別れ」に着きます。左に進めば「大山パークウェイ」の続きですが、今回は右折して大山町へと北進しました。なだらかに広がる裾野の原生林の緑のトンネルの中を走り、やがて広い田園地帯に出ました。あちこちに上図のような風力発電の巨大風車が見えてまいりました。

 大山の北麓にはこのような巨大風車が計41基も分布し、大山からの強いおろし風を利用して風力発電を行っています。このうちの15基が大山町にあり、町が管理運営する高田工業団地の巨大風車と、日本風力開発「大山ウインドファーム」のそれとに分かれます。なかでも高田工業団地にある風車は全長118.5メートルの大きさで、「太空海(たくみ)号」の名で呼ばれます。


 まもなく「仁王堂公園」に着きました。児童遊園地や交流広場をともなった地域の公園施設の一種ですが、ここには大山町のシンボルともなっている巨大な大山カラス天狗の銅像があります。
 カラス天狗は、霊峰大山の神の仮の姿ともされ、大山にて修行して神通力を得た山伏たちのパワーをシンボライズしたものともされています。古来より多くの伝説が語り継がれています。
 「仁王堂公園」の案内情報はこちら。大山カラス天狗伝説の紹介はこちら


 続いて、鳥取県のみならず山陰地域を代表する弥生時代の遺跡「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に行きました。大山麓には数多くの縄文、弥生時代の遺跡が点在しますが、こちらの遺跡は遺跡の規模や質が日本最大級で、一帯は国史跡に指定されています。
 私が鳥取に住んでいた時期の平成7年に発見されて発掘が続けられ、20年を経た現在も進行中です。範囲が156ヘクタールと広大なうえ、これまでに竪穴式住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基を検出しましたが、それでまだ全体のおよそ1/10の範囲での成果に過ぎません。全容解明までにあと50年はかかるだろう、などと聞きましたが、そんな凄い遺跡は日本中にそうそうあるものではありません。
 現在、発掘調査が完了した地区は、御覧のように竪穴式住居などが復元されて歴史公園になっています。こういう場所が大好きなホシノなので、竪穴式住居の一つ一つに入り込んで弥生時代のムードに浸ったりして楽しみました。


 ガイダンス施設の竪穴式住居復元レプリカや出土資料も楽しく見学しました。こうした遺跡や遺物に直接触れて歴史を追体験することが、日本と日本人の本当の歴史を学んで理解する一番の近道です。ホシノは全国各地でこうした遺跡などを積極的に見て回っていますが、それによって構築される歴史観やイメージの全体像は、一般的な教科書や歴史本の記述とはちょっと異なっていることが多いです。
 言い換えると、日本の考古学や歴史学の近年の目覚ましい進展や成果などが、まだまだ一般的な教科書や歴史本に反映されていない、ということです。時代別にみると、その傾向が最も顕著なのが、中世戦国期の歴史であるように思います。


 遺跡公園として整備された範囲だけでも広大なので、今回は竪穴式住居群のエリアである妻木山地区と、四隅突出型墳丘墓などの墳墓が並ぶ洞ノ原地区だけに絞りました。
 上図は洞ノ原地区の丘陵地で、私の背後に見える尾根先端部にも高床式倉庫などの建物が復元されています。遠くに望まれる海岸線は弓ヶ浜です。

 ここの遺構で興味深いのは、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)という山陰地域独特の墳墓形式です。弥生時代の中期以降ぐらいに広島県の三次エリアで発祥したとされ、吉備や山陰、北陸の各地方に広がっていったようです。近畿地方などに見られる方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形が特徴で、その突出部に葺石や小石を施すケースも多いです。現在は約90基ほどが確認されていますが、数の上では鳥取県や島根県に多く分布しています。地域文化の特徴がよく表れた一例と言えますが、こうした特色ある遺跡や遺物に触れることで、日本の歴史の多様さ、奥深さが実感出来ます。
 「妻木晩田遺跡」の案内情報はこちら


 「妻木晩田遺跡」の次に、近くにある「伯耆古代の丘公園」内にある「上淀白鳳の丘展示館」に行きました。私が鳥取県に住んでいた時期には「淀江町歴史民俗資料館」でしたが、近くの上淀廃寺の発見と国史跡指定によって遺跡公園施設としての再整備が図られ、近年にリニューアルして立派な展示館に生まれ変わりました。
 「上淀白鳳の丘展示館」の公式サイトはこちら


 この展示館の目玉は、上淀廃寺金堂の実物大復元展示です。法隆寺金堂壁画に次ぐ白鳳期の壁画遺品と独特の伽藍配置で全国的に有名になった上淀廃寺の、金堂の建物と内陣の仏像を、多数の遺物から推定的に復元したものです。上図のように、金堂の建物の一層目部分を、遺構と同規模で立体的に復元してありますが、このような展示施設は、日本でもここだけです。


 さらに凄いのは、内陣の仏像を、発掘で検出された塑像の断片多数から推定的に復元し、実物大の大きさで実験的に再現した点です。奈良の古代寺院に現存する仏像などを参考にして同時期の様式にて表していますが、地方の古代寺院の安置仏像を実物大のスケールで三尊とも推定復元した事例はここだけなので、それだけでも一見の価値があります。
 私は古代の仏教美術史を大学で専攻し、古代寺院の歴史にも興味を持って全国各地の遺跡を見に行きましたので、こういう復元展示があると、どうしても見に行きたくなってしまいます。


 壁画断片の出土状況を再現したレプリカです。平成3年に発見された当時は大騒ぎとなり、連日新聞の大一面を飾りました。その発掘調査が進むにつれて遺構や遺物が次々に検出され、その独特の寺観が話題となって早々と国史跡に指定されました。
 私が鳥取県に移住したのは、その発掘フィーバーが一段落した時期でしたが、「因泊古代寺院研究会」の見学活動で初めて訪れた時は、まだ発掘された生の遺構が見学出来て、とても興奮しました。


 その懐かしい上淀廃寺跡へ行きました。いまでは発掘も完了して一帯は復元整備され、遺跡公園になっています。


 現地にある案内板の復元図です。金堂の東に三重塔が二基並ぶという、他に例を見ない変わった伽藍配置ですが、計画ではさらにもう一基の三重塔が計画されていたようなので、最終的には三基の塔が並ぶという、これまた独特の景観になったはずです。奈良や京都の先進的な古代寺院にも見られない独特のプランが、どうやってこの地に実現されたのかは分かっていませんが、古代日本の仏教文化に多様な流れや広がりがあったことは理解出来ます。


 復元整備された金堂の基壇です。先に見学した建物の復元展示は、この基壇上の建築を同規模で再現したものです。基壇外面は瓦にて構築されていますが、こうした形式を瓦積み基壇といい、さらにその周囲に石列を設置するので、全体としては二重基壇の形です。これは朝鮮半島の古代の百済の寺院に多く見られる様式で、百済系の渡来人集団の関与をうかがわせます。


 こちらは三基の三重塔のうちの中塔の基壇遺構レプリカです。実際の遺構は地中に埋め戻されて保存され、その上に盛り土をして、発掘当時の遺構をそのままレプリカで再現して展示しています。ここまで積極的に取り組んだ遺跡展示法は、全国的にもあまり類例が無く、鳥取県の文化財行政のレベルの高さを示しています。
 発掘当時の生の状態を追体験出来るわけですので、下手な復元展示よりも分かり易いし、何よりも説得力があると思います。


 伽藍の前庭は、石敷きになっており、現在はそれも復元してあります。奈良の飛鳥寺などに類似の石敷き遺構が発見されていますが、地面を石敷きにするというのも朝鮮半島の仏教文化の要素の一つなので、石敷き遺構のある古代寺院には、渡来人集団の技術が生かされていると言えます。ただ、地方の古代寺院でこのような石敷きが検出された例はまだ少なく、私が実見した事例は岐阜県の杉崎廃寺ぐらいです。

 しかし、20年も経てば、遺跡の風景も完全に変わってしまうものですね。畑の中に生々しい発掘地表面が現れていただけの景色が、かつての私の見た上淀廃寺の全てだったのですが、いまでは歴史公園として広い範囲にわたって整備され、あちこち歩き回って楽しめるようになっています。懐かしいと言うより、初めて訪れた遺跡公園のようでした。
 上淀廃寺遺跡の紹介情報はこちら


 距離的には泊まりがけで行くのが相応しい地域ですが、無謀にも日帰りで強行しましたので、上淀廃寺遺跡の見学をラストにして、三時には帰途に着きました。淀江から米子インターまで移動し、米子道の蒜山サービスエリアでいったん休みました。
 大山は、すでに遠くになっていました。が、今回訪れた場所の多くが、懐かしい景色のままでした。鳥取市から歴史的好奇心に胸を弾ませて何度も大山の麓に通った日々を思い出しました。


 いい山容です。見飽きることがありません。私の楽しかった山陰滞在時代の景色を象徴する霊峰なので、とにかく色んな感慨が湧きあがってまいります。
 それで、自然にこう思いました。近いうちにまた参りますよ、と。 (了)

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伯耆大山 (上)

2015年05月24日 | 観聞日記

 以前に倉吉の伯耆国府跡から眺めた、霊峰伯耆大山(ほうきだいせん)の姿がずっと頭から離れなかったので、思い切って再訪しました。鳥取県に住んだ二年間余りの間、倉吉と同じようによく出かけて遊んだのが、伯耆大山のエリアでした。

 東の富士、西の大山、と並び称される、中国地方最高峰の雄大な姿と広い裾野には、私の語りつくせない数々の思い出があります。鳥取県に住んでいた時期、手紙やメールなどに自身を「伯耆守」と書くほどに楽しく過ごしていました。歴史や文化財に恵まれ、自然も豊かで温泉も多く、食べるものが何でも美味しい、とくれば、魅せられずにはいられませんでした。戦国の勇将「鬼の吉川」こと吉川元春にならって果敢に東奔西走した日々でした。
 その時期に眺めた風景は、20年余を経ても変わらないところが多いようです。倉吉と並ぶ、私の心の故郷へ、数時間をかけて走って、朝には米子道の蒜山(ひるぜん)SAに着きました。懐かしい山の景色が見えました。

 伯耆大山は、最高峰の剣ヶ峰が標高1729メートルを測ります。岡山県側から見ると南壁が見え、鳥取県側からは北壁が望まれて風景も変化に富んでいます。蒜山SAからは南壁の険しい山肌が見えますが、その荒々しい有様を間近に見るには、蒜山インターを出てすぐに大山パークウェイへ入るのが近道です。
 伯耆大山の観光案内情報はこちら


 大山パークウェイは、一般的には蒜山大山スカイラインとも呼ばれますが、現地の標識では大山パークウェイとあるのみで、場所によっては行先の地名しか表示されていないことが多いので、初めて行く人はよく脇道に迷い込んでしまうことが少なくありません。私は大山の裾野を走ること既に30数回に及びますが、それでも道を間違え、あさっての方向へ行ってしまうことがよくありました。
 それで今回は行先の地名だけを見ながら進み、一度も迷うことなく、最初の展望スポットとして知られる「鬼面台(きめんだい)展望所」に着きました。
 現地の標高は869メートル、大山を望む岡山県側の展望所としては最高所に位置します。南側には蒜山高原の雄大な景色が広がります。


 そして北には、大山の南壁が見えました。何度も眺めた、ギザギザの断崖が、あおあおと広がる裾野のブナ林の奥に望まれました。「星野伯耆守よ、戻ってきたか」と御山に声を掛けられたような気がしました。
 「鬼面台展望所」の案内情報はこちら


 さらに大山パークウェイを走って、標高910メートルに位置する「鍵掛峠(かぎかけとうげ)」の展望所に着きました。大山の南壁が、より近くに迫ってきました。何度見ても素晴らしい景色です。鳥取県側に位置する、大山の南側の展望所としては、ここが唯一です。
 「鍵掛峠展望所」の案内情報はこちら


 カメラの望遠モードで大山の南壁を撮りました。今でも一日に千トン程度の砂や岩が崩落してゆくという大山の三峰のギザギザの山肌です。左より弥山、剣ヶ峰、天狗ヶ峰と並び、これを総称して大山と呼びます。
 登山路は弥山(1709メートル)の西側の頂上小屋までつけられ、一般の登山客はそこまで行きますが、それから東には大山の三峰の険しい稜線が続くので、本格的な装備が無ければ行けません。私自身は二度登ったことがありますが、いずれも一般登山路ルートのみでした。それでも眺めは最高でした。


 大山パークウェイは東麓の枡水高原を経て北東麓の社寺エリアに続きます。今回はその社寺エリア、大山寺(だいせんじ)および大神山神社(おおがみやまじんじゃ)奥宮の範囲を再訪するのが主な目的でした。
 大山寺観光駐車場からは、上図のように大山の北壁が望まれます。


 大山寺観光駐車場のすぐ上にある「大山自然歴史館」です。各地の登山名所に設置されているビジターセンターの一種で、初めて来た方が大山の観光情報や登山路または歴史散策路などの案内情報を得るのもここです。
 大山は、長く山岳修験の聖地として栄えてきましたので、信仰の歴史も古代からの流れがありますが、それに関する案内展示もあります。大山寺および大神山神社に参拝する場合は、事前にここの展示で予習しておくと良いです。近くに観光案内所の「大山情報館」もありますが、展示内容はこちらの方が充実しています。
 「大山自然歴史館」の公式サイトはこちら


 大山寺の参道脇には、このような石仏や寄進石塔や標識などが至るところに立っています。中世期にさかのぼる遺物も少なくないので、これらを巡るだけでも楽しい歴史的体験が味わえます。


 参道の門前町を抜けて登ってゆくと、右手に大山寺の宝物館「霊宝閣」があります。大山寺の本堂や阿弥陀堂以下の諸施設は普段は一般公開しておらず、また大山寺一山の文化財は大部分がここに収容されていますので、参拝時には見学しておくと良いです。本堂との共通参拝券も購入出来ます。


 さらに登って、大山寺の山門に着きました。山門からは参拝料が必要ですが、宝物館「霊宝閣」で共通参拝券を購入しておくと、その共通参拝券を掲示するだけで入れます。


 参道は、山門の前で分岐していて、左にそれると大神山神社奥宮への参道になります。その入口には江戸期の文政三年(1820)に建てられた石造の明神鳥居が建ちます。この時期の明神鳥居としては貴重な遺構であり、国重要文化財に指定されています。


 大山寺の山門をくぐり、参道の石段を登ってゆくと右手に護摩堂があります。その背後には大山の北壁の一部が望まれます。神仏の安らう聖なる御山、と謳われた無双の霊峰の景色の一つです。


 大山寺の本堂にお詣りしました。開創は天平期にさかのぼる古刹ですが、現在の建物は昭和26年の再建で、本尊は地蔵菩薩です。霊峰大山は、天台宗による宗教拠点としての整備発展のなかで鉱山としての側面ももち、豊かな鉱物資源を産出してきたことで知られます。その本尊が、埋蔵物を象徴する地蔵菩薩であるのは、当然の成り行きでした。
 大山寺の公式サイトはこちら


 大山寺本堂の裏手へ進むと、大神山神社奥宮への参道の石畳道に出ます。そのまま進んで神門に至ると、前方には長い石段が続き、奥に大神山神社奥宮の拝殿の建物が見えます。


 大神山神社の「大神山」は、大山の古代における呼称です。古代には山岳信仰の拠点として栄えていたので、そのルーツはおそらく神話時代までさかのぼるとみられます。その大山信仰の実質的な中心拠点が、この大神山神社奥宮です。これに対する里宮が本宮として東麓の米子市域にありますが、本来の神域はこちらであったと推定されます。祭神は出雲大社と同じです。
 その長い歴史を象徴する、奥宮の建物は日本最大級の権現造で、江戸期までの神仏混交の形態をそのままとどめています。正面の長廊両翼は約50メートルに及び、本殿までの建築群は国重要文化財に指定されています。拝殿前からは、大山の北壁も拝めます。
 大神山神社の公式サイトはこちら


 大神山神社の左脇に鎮座する、末社のひとつ下山神社です。津和野藩主亀井氏の寄進による建物で、本殿、幣殿、拝殿が一続きの建物となる形式は大神山神社と同じです。こちらも国重要文化財に指定されています。


 大神山神社から降りて、参道の途中から大山寺本堂の裏手を経て、南光河原と呼ばれる場所に行きました。大山の北壁を源流とする佐陀川の中流にあたり、大山北壁から元谷や金門をくだって大山寺橋に至るまでの範囲を指します。


 南光河原にかかる大山寺橋を渡って大山寺の旧境内地エリアへと移動しました。その中を通る道は、夏季の大山山頂への登山ルートとして利用されています。多くの登山客が行き来していましたが、かつては大山寺を支えた幾多の坊舎が建ち並ぶなかの通用路であった歴史を持ちます。
 両側の坊舎は大多数が明治の神仏分離にて廃絶し、登山路の両脇の林間には、苔むした石垣や遺跡が残るのみです。


 奥には、大山寺唯一の建築遺構として知られる室町期の阿弥陀堂が、幾多の災害や兵火を逃れて今に伝わります。中世期阿弥陀堂の様相を今に伝え、これも国重要文化財に指定されています。


 阿弥陀堂は、春秋の連休中に公開され、内陣の藤原期の阿弥陀三尊像を拝むことが出来ます。私も過去に三度ほど拝観したことがありますが、本尊の阿弥陀如来像以下は、典型的な定朝様式を踏襲する地方の丈六仏の佳作としていまでも印象に残っています。
 上図は、案内板にあった本尊阿弥陀如来坐像の写真画像です。大学で仏教美術史を専攻し、それ以降の数年間、藤原期の定朝様式の仏像の歴史を探究して全国各地を駆け巡った私の、若き日の思い出の一コマがこの美しい仏像と共に、いまも心の中に鮮やかです。 (続く)

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あんこうチーム Ⅳ号戦車D型改(F2型仕様) 作ります !!  その6

2015年05月23日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12では車体左側フェンダー上にOVM類を配置してゆきます。ここではガルパン仕様への変更が二つあります。一つ目は、クリーニングロッドのパーツC11を、C10に交換することです。二つ目は、梯子のパーツD3がキットでは上に揚げて収納した状態になりますが、劇中車では下に降ろした状態なので、それに合わせることです。このパーツD3の取り付けに際しては各部の小改造が必要となるため、後の段階で作業することにしました。


 ステップ12にて取り付ける全てのパーツです。予備転輪につけるキャップは、キットのA1を使わずに、タミヤのJ型のキットからA17を転用しました。クリーニングロッドのパーツは、劇中車のと同じ形状のC10に換えました。


 全て取り付けた状態です。C1の取り付け位置は、公式設定資料の図面を参考にしました。予備転輪は塗装してから取り付けますので、この段階では仮組みのままですが、そのままではC1に収まりませんので、転輪裏面の突起を少し削って調整する必要がありました。


 各パーツの組み合わせもスムーズにいきました。パーツの精度も高く、指示通りに取り付けるだけで劇中車の状態を再現出来ます。
 塗装においても、OVM類の大部分がなぜか車体色と共通するので、金属系カラーへの塗り分けが不要となるようです。プラウダ戦時の場面を見ても、暗いシーンや降雪の中でのシーンが多く、戦車の車体色そのものが全体的に簡易化されているようにみえます。D型では車体と転輪の色が異なりますが、このF2型では転輪も車体と同じ色に表されているので、全体的に塗装は楽になりそうです。


 後部の状況です。クリーニングロッドのパーツをC10に換えた他は、キットの指示通りに取り付けています。H18のような小さなパーツもあるので、紛失しないように注意を払いました。


 続いてステップ13では車体右側フェンダー上にOVM類を配置してゆきます。ここでもガルパン仕様への変更が三つあります。一つ目は、C6のパールをH6のキャタピラ張調整ツールに交換します。二つ目は、フェンダー後端にライトを追加します。不要パーツの中にあるG12を使用します。三つ目は、アンテナケースのC4が劇中車では短いので、それに合わせて長さを調整します。


 ステップ13にて取り付ける全てのパーツです。C6のパールをH6のキャタピラ張調整ツールに交換してあります。ジャッキは組み立ててありますが、劇中車のそれにはハンドルだけが見えないので、ハンドルのパーツC24だけは付けないでおきました。


 組み立ての最中に支持アームのH5を取り付けますが、これの取り付け方法がガイドには示されていないので、ここで手順を紹介しておきます。まず、上図に示したように前部増加装甲の隅のボルト一つをあらかじめ削っておきます。


 ボルトを削り取りました。その位置へ支持アームのH5を取り付けることになります。


 取り付けの際に、上図のようにH5の端を少し斜めにカットしておくと、隣のボルトに干渉せずに組み付けることが出来ます。劇中車もこの状態になっています。


 C6のパールはH6のキャタピラ張調整ツールに交換し、キットには指示が無いが劇中車にはついているフェンダー後端のライトを不要パーツのG12にて再現しました。


 三つ目の変更点である、アンテナケースのC4およびアンテナのG17です。上図がキットのパーツですが、劇中車のよりも長いので、短くする必要があります。


 公式設定資料図などをチェックしたところ、劇中車のアンテナケースの長さは、後方の取り付け金具のところまでになるので、その位置でカットしました。ケース内に収納するアンテナのG17も、それに合わせてカットしました。


 短くしたアンテナケースのC4およびアンテナのG17を車体に接着しました。その下のフェンダー上には、予備履帯のセット位置となる穴三つが三ヵ所にあるので、これらをパテで埋めておきました。


 ジャッキの取り付け位置も、キットの指示位置より僅かにずれていますので、公式設定資料図などを参考にして取り付けました。その内側に大洗女子学園校章のデカールの貼り位置があるので、ジャッキの取り付け位置がずれるとデカールの見え具合も異なってしまいます。地味に注意が必要な箇所の一つでした。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その22 「再び西住みほの宿です!!」

2015年05月22日 | 大洗巡礼記

 「大洗シーサイドホテル」に着きました。この日の宿でした。今回の滞在期間中に大洗で全国小学生体操大会が開かれて、大部分の宿泊施設が満員となってしまったため、予約が取れる宿が非常に限られてこの日は「大洗シーサイドホテル」しか無かったのでした。


 この宿には以前に一度泊まったことがあり、今回もガルパンプラン専用の部屋に入りました。前回泊まった部屋とは別ですが、壁にガルパンのタペストリーが掛けられてある点は同じでした。絵柄は異なっているので、部屋ごとに違うのかもしれません。


 壁に懸けられたガルパンのタペストリーを接写しました。


 窓の外には、鹿島灘の海原が広がっていました。


 廊下の窓からは、大洗磯前神社の鳥居が見えます。


 一階のエントランスロビーに降りて、ガルパンコーナーを見ました。西住みほのパネルは新旧が並んでいました。左が新パネルです。


 まだ日も高いので、少し休んだ後に近辺を散歩しました。民宿「いそや」のガルパンコーナーにも入ってみました。


 こうしたコーナーは、長期間の維持が難しいと聞いています。長い時間が経つと展示品が傷んだり劣化したりする場合が多いので、常時入れ替えるか、保護ケースなどに入れるかして、展示品の保全管理をする必要がありますが、大洗の各店舗ではどこでも保全管理への意識が薄いので、ブーム初期のグッズや展示品ほど痛みや劣化が目立ちます。「いそや」の場合は室内にあるので、まだマシでしょう。

 5月からリゾートアウトレットの一角にガルパン関連の展示コーナーが設けられると聞きましたが、これはある意味必然の流れと言えます。ガルパンで盛り上がって聖地以上の賑わいを実現し、町の歴史の中にガルパンというアニメが定着した以上、その歩みと経緯を記録し公開するという手順にいずれは進まないと、その歴史の何割かが後には記憶から消えてしまいかねません。その意味でメモリアルコーナーのような施設が必要とされてくるわけですが、実際にそれが実現するようです。
 5月のオープン後にまた見に行くことにしましょう。


 「さかげん」の店先です。


 店先のカチューシャとノンナです。昨日とは配置が逆になっていました。


 「新屋酒店」の山郷あゆみです。新旧のパネルを比較すると、新しい方が親しみやすい絵柄になっています。


 「森屋菓子店」の河西忍も新旧のパネルが並んでいます。新パネルの方は海門橋の北脇にあるパネルと同じデザインです。


 今回は、今まで行ったことのなかった、丘上の観音堂へ登ってみることにしました。


 振り返ると、けっこう眺めが良いことに気付きました。フェリー埠頭にはさんふらわあの姿も見えました。


 一帯は西福寺の境内地の一部であるようです。千手観音堂は、おそらくは現地の惣堂であったものが現在は西福寺の管理下にある、という形なのでしょう。


 敷地の一角には護摩壇が設けられ、その本尊である不動明王の石像が祀られています。新しい像なので、護摩壇も最近に設置されたのかもしれません。


 護摩壇の付近から海の方を眺めました。


 千手観音堂は、建物も近年の再興になるようで、西福寺の奥の院としての位置に置かれて維持されているようです。横にかつての庫裏であった建物が残されているので、本来は西福寺とは別の寺院であったことがうかがえます。どのような歴史を経てきたのかは、案内板も見当たらなかったので知ることが出来ませんでした。


 観音堂参道の脇の小さな覆屋の中には、古い石仏が数体祀られています。多くは破損していて、一度は墓地などが荒れ放題になって石仏も退転したことが分かります。以前は無住の荒れ寺だったのでしょう。
 石仏の古いものは江戸期を遡らないように見えますので、観音堂自体も江戸期あたりに磯浜地域の一集落の惣堂として始まったのかもしれませんが、確かなことは分かりません。 (続く)
コメント (2)
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その21 「再びぶらぶら巡りです!!」

2015年05月21日 | 大洗巡礼記

 永町商店街まで戻ったところで、お腹が空いてきたので蕎麦を食べるべく「大進」に立ち寄りました。


 この日の園みどり子は新パネルでした。


 店主さんパネルのおすすめメニューが幾つかありました。


 玄関内には旧パネルもありました。かなり褐色していますね・・・。


 蕎麦をいただいた後、適当にぶらぶらと走りました。途中で見かけた「カットアイ」の秋山淳五郎は旧パネルのままでした。


 リゾートアウトレットの南隣にある食事処「えんやどっと丸」です。海鮮料理がメインのようですが、大洗産の海産物を使わないそうで、いわゆる地産地消型の施設とは違うようです。どのようなお店なのか、といった噂もあんまり聞こえてこないので、地元の方々もあまり利用していないのかもしれません。私も今まで全く入ったことがありません。


 近くのベンチで一休みしました。


 レンタサイクルを返却した後、前回の訪問時に入った「サザコーヒー」に立ち寄ってココアを一杯いただきました。


 蕎麦一杯だけでは少なかったためか、再びお腹が空いてきました。そこで「かま家」に立ち寄って海鮮丼を頂きました。このお店とも馴染みですので、店主の関根さんとしばらく雑談して楽しみました。虎塚古墳のことも御存知で、ずっと昔に行ったことがある、と話しておられました。


 向かいの茨城県信用組合の小山柚子は新パネルでした。


 続いて漁港近くの「かねふくめんたいパーク」に行きました。同じ施設が名古屋にもあるので、そちらへは一度行ったことがありますが、大洗のこちらへは今回が初めてでした。最近にフードコートが新設されたのですが、家族連れや観光団体の客で賑わっていました。大型ショッピングセンターなどで見かけるフードコートと同じような造りでした。メニューのいずれにも明太子が含まれているようでした。


 気のおもむくままに漁港から北へと走り、やがて大洗海岸の白い灯台を見ました。 (続く)

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奈良・吉野山

2015年05月20日 | 観聞日記

 山の辺の道を歩いた日から数日後、歴史散策仲間のMさんに「今度は吉野山に行きたい」と言われました。今の時期は天気が不安定なので、吉野山あたりだともっと天候は不安定ですが、と話したのですが、今度はKさんにも「今までにも行こう行こう言ってるけど全然行けてないから、思い切って行かないといつまでたっても行けない、天気が少し悪くたってかまわない、雨が降らなきゃいい」と言われました。
 お二人がそこまで仰るのであれば、ということで案内役を務めることにしました。早朝の京都駅を近鉄の特急列車で出発しました。


 京都から吉野へ近鉄で行く場合、橿原神宮駅で乗り換える必要があります。京都線は橿原神宮駅が終点なので、これに連絡する南大阪線にて吉野まで行きます。双方の特急列車は橿原神宮駅で乗り換えられるダイヤになっていて、地元では「吉野連絡特急」と呼ばれます。しかし、実は吉野線においては各駅停車となるので、普通列車に乗っているのとあまり変わりません。


 吉野駅に着きました。記念写真におさまるMさんとKさん。車内は陽気でポカポカしていたので眠くなってウトウトしていた、とMさん。


 今回は吉野山の奥千本から蔵王堂までのいわゆる奥駈道ルートを下る形での散策となりました。その方が楽ですが、ロープウェーと連絡バスの時間が限られているので乗り遅れないように注意しました。一気に奥千本の金峰神社境内地まで移動しました。
 金峯神社(きんぽうじんじゃ)は、金峯山寺蔵王堂の奥宮にあたり、吉野山修験の重要な信仰拠点として多くの施設を有しましたが、明治の神仏分離にて荒廃し、現在は再整備された小さな境内地に再建の社殿がひっそりと建つのみです。付近には数多くの遺跡が草木に埋もれ、修験の石畳道と標識とが、大峰山系へのルートを示しているのみです。


 散策ルートの起点は、金峰神社の裏手にある「義経隠塔」でした。源義経が、兄の頼朝に追われて吉野山入りして滞在しましたが、やがて追手が迫り、義経はいったんこの塔に隠れ、屋根を蹴抜けて、 下谷、宮滝の方へ落ち、西河へ敗走したといいます。塔はもともとは五重塔であったのが、一層目だけが残り、覆屋根を追加して現在に至っているということです。
 現在の建物は、義経の時代のものではないとする説もあります。古址と言われるぐらいなので、当時の建物は建て替えられている可能性もあります。見た感じでも鎌倉時代の建物という感じがあまりしませんでした。


 金峰神社に参拝して奥駈道ルートを歩きだしました。吉野杉の森の下の緩やかな下り道ですが、両側には幾つかのお堂や施設などの遺跡が点在しています。上図の牛頭天王社跡は、明治の神仏分離で廃絶した当地の高城山ツツジが城の鎮守での跡です。いまでは人家も無い山中にありますが、明治初年頃まで付近に人家もあり、境内では盆踊りなども行われていたそうです。


 奥駈道ルートを歩きました。Mさんは時々スマホで現在位置を検索していましたが、吉野山の山中では電波も届かないのか、「全然動かん、何も出てこないねん」とボヤいていました。ガイドブックの地図を見た方がええんちゃうか、と言ったら「だよねえ」と笑ってその通りにしていました。


 吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)に参拝しました。この神社は、延喜式内社の一に数えられ、奈良では葛城水分神社、都祁水分神社、宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた古社です。祭神の一つ木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像は鎌倉期の佳品として国宝に指定され、上図の本殿を始めとする建築群六棟は豊臣秀頼による再興の遺構として国重要文化財に指定されています。こじんまりとした境内地に建物がぎっしりと並ぶので、実際以上の広がりと奥行きを感じさせます。
 私が好きな大和の古社の一つで、吉野山に行く時はここに立ち寄らないと登った気がしません。


 吉野水分神社から少し下っていくと、吉野山随一の眺望で知られる花矢倉(はなやぐら)に着きます。ここからは蔵王堂を中心とする金峰山寺の伽藍域と門前の街並みがよく見渡せます。
 花矢倉は、吉野比曽寺の鐘楼があることからもとは比曽寺の境内地の一部だったようですが、源義経の潜伏期には防御陣地の一つとなり、義経の忠臣佐藤忠信がしんがりをひきうけて、攻め登る吉野の山僧と攻防戦を展開し、吉野一の悪僧とされた横川覚範を討ち取っています。また南北朝期にも南朝方の防御陣地として使われたようですが、詳しいことはわかっていません。


 花矢倉展望台から、蔵王堂を中心とする金峰山寺の伽藍域を望遠モードで撮影しました。桜の時期には全山が桃色に彩られますが、初夏のあおあおとした新緑に包まれる景色もまた格別の味わいがあります。


 ひたすら歩いて金峰山寺の門前エリアまで下り、街中の食事処「西澤屋」に入りました。今回の昼食休憩はこのお店でした。私は何度か入ったことがありますが、Kさんが事前にガイドブックで「このお店が評判みたい」と言って決めてあったものです。


 今回いただいた「うどん定食」です。天麩羅うどんに、吉野の特産物である柿の葉寿司とデザートが付きます。私はいつもこれをいただいていますが、初めての来店だったお二人は柿の葉寿司が気に入ったようで、本場の味はやっぱり違うねえ、などと話していました。
 市販の商品に比べると甘酢がよく効いており、その香りがスッと広がるのが、吉野山で食べる本場の柿の葉寿司の味です。


 暑くなってきたこともあり、Kさんの提案で、隣のアイス屋でアイスを買いました。勝手神社の裏階段にて座って食べましたが、いつの間にかMさんが私ホシノのカメラで撮影していました。Kさんはカメラに気付いていましたが、ホシノは写真を見るまで知りませんでした。


 中千本エリアの山道をたどりました。桜の時期には花見客で賑わい、混雑して前に進むのにも苦労しますが、新緑の時期には落ち着きを取り戻し、緑の絨毯の中に白い道がくねくねと巡る景色になります。


 いつもながらの健脚ぶりを発揮するMさん(上図右のピンクのシャツ姿)。アップダウンの連続に息切れしつつあるKさんやホシノを後ろに引き離しつつ、如意輪寺への長い石段もサッサッと登って行くのでした。


 如意輪寺(にょいりんじ)の本堂です。平安期開創の古刹で、もとは真言宗修験の拠点として栄え、南北朝期には後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際の勅願所とされました。寺の背後には後醍醐天皇の塔尾陵(とうのおのみささぎ)もあります。
 南北朝期の正平二年(1346)冬、楠木正成の長男の楠木正行が四條畷への出陣に際し、一族郎党とともに当寺に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠みました。正行はその句を本堂の扉に鏃(やじり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わっています。南朝の哀史を伝える遺品の一つとされています。


 寺の本尊である蔵王権現像は、鎌倉期の遊品で国重要文化財に指定されています。かつては秘仏扱いでしたが、文化財指定を受けて宝物館に祀られるようになってからは、いつでも拝観出来る状態になっています。
 吉野山は役行者が開いた修行場の一つとされ、多くの寺院が蔵王権現を本尊としています。金峰山寺蔵王堂の本尊も同じですが、ここ如意輪寺の本尊像は姿形が最も美しいことで知られています。


 如意輪寺から道を引き返して金峰山寺蔵王堂エリアへと向かいました。相変わらず足が速いMさんでした。山伏顔負けのスピードです。数分もすれば視界から消えてしまいますので、私よりも年上であるというのが未だに信じられません。


 次に立ち寄った大日寺(だいにちじ)の門です。大海人皇子(後の天武天皇)ゆかりの歴史を伝え、吉野山では最古の寺院とされていますが、伽藍や建物は近年の再興です。ただ、本尊として祀られる五智如来像は、日本でも遺品が稀な藤原期の遺品で、国重要文化財に指定されています。
 また、この寺は南北朝の抗争期に南朝の大塔宮の身代わりとなって戦死した村上義光、義隆親子の菩提所でもあり、そちらの方で参詣する方が多いです。


 吉水神社(よしみずじんじゃ)に着きました。吉野山観光の主要スポットだけあって観光客で賑わっていました。この神社は、本来は金峯山寺の僧坊の一つ吉水院(きっすいいん)でしたが、明治期の神仏分離によって神社に変わりました。しかし、書院などの建物は僧坊時代の遺構をそのまま残しており、主要部分は国重要文化財に指定されています。


 この神社は、歴史的には 源義経らの潜伏地、後醍醐天皇の行宮、豊臣秀吉の吉野花見の本陣、などの故事で知られています。書院内には後醍醐天皇の行宮だった時期の、天皇の玉間などが伝わっています。
 学生時代、歴史研究サークルの活動で三回吉野山に行きましたが、吉水神社に行くといつも先輩たちが「君は南北朝のどっちを支持するんだ?」と質問するのが常でした。先輩の一人は典型的な南朝贔屓で、後醍醐天皇の陵墓の方角に向かって恭しく拝礼するような人でした。
 そういう先輩方に向かって「私は室町幕府と北朝を評価します」としゃべったものですから、その後しばらくの間は睨まれて、話も出来ないような状態になりました。南北朝の争いじゃあるまいし、と思ったのを覚えています。
 でも、奈良では古くから住んでいる方ほど、ウチは南朝方だ、俺んとこは北朝に組みした、などと言い合って喧嘩になる事例が多いそうなので、南北朝期の争いがいまだに尾をひいているのかもしれません。


 吉水神社から金峰山寺へ行く途中、ちょっと休んで吉野の葛キリでも食べませんか、と提案し、上図の「八十吉」というお店に入りました。吉野山界隈ではかなり知られた老舗です。公式サイトはこちら
 写真を撮り忘れましたが、こちらでは「吉野葛きりセット」をいただきました。


 金峰山寺(きんぷせんじ)に着きました。本堂は蔵王権現を本尊とするので蔵王堂と呼ばれます。豊臣期の再建ながら日本では東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築遺構として国宝に指定されています。
 外見上は二層のように見えますが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、内部の柱には、原木の曲がりを残したツツジ、チャンチン、梨などの木柱が用いられています。付近の原生林の大木を使用したのでしょうか。


 蔵王堂前にてMさんと記念撮影をしました。写真はKさんに撮っていただきました。本尊の蔵王権現は秘仏ですが、護摩法要のためか、厨子の扉は開かれていて、三体の巨像のうちの一体を拝むことが出来ました。
 吉野山一帯は2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部に含まれて世界遺産に登録されており、それを契機としての秘仏開帳が二度ほどありました。なので、かつては拝見も出来なかった蔵王堂本尊像の姿は、いまではかなり知られているようです。


 金峰山寺の山門にあたる仁王門です。室町期の康正二年(1456)の再興で、国宝に指定されています。本堂が南面するのに対して仁王門は北面しています。これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためといわれますが、もとの吉野山への入山ルートが北からつけられていたため、山門を北に向ける必要があったものと考えられます。
 門の左右に安置する像高約5メートルの金剛力士像は延元四年(1339)、仏師康成の作で、仏像彫刻史上の重要遺品として国重要文化財に指定されています。


 銅鳥居を経て黒門まで下りました。金峯山寺の総門で、黒塗りの高麗門なので黒門の俗称で親しまれています。現在の門は昭和60年の再興ですが、古式を踏襲して造られています。その下でKさんがなかなか来ないMさんを待っていました。


 帰りの列車はあべの橋行きの急行でした。でも橿原神宮前駅までは各駅停車なので、特急でも急行でも変わりません。料金的にはこちらの方が安いです。
 橿原神宮前駅で乗り換えましたが、京都行きの列車も急行でした。三人とも散策の疲れで寝ていて、京都駅に停車する直前までの一時間近くをその状態で過ごしたことでした。奈良からでも吉野山は遠いので、京都からだとかなりの遠路です。Kさんの言葉通り、思い切って行かないと、なかなか行けない所ですね・・・。
 私にとっては、二年ぶりの吉野山でした。やっぱりああいう歴史豊かな地域は良いものです。

 風はどこから、吹いてるのでしょうか・・・
 青空の下、日差しを受け止めた、吉野山の木々が、誰かに手を振る・・・

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あんこうチーム Ⅳ号戦車D型改(F2型仕様) 作ります !!  その5

2015年05月19日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では車体上部の組み合わせを行ないます。一つ一つ丁寧にしっかり組み付けないと、あちこちに微妙なズレが生じますので、いったん仮組みしてみました。後部パネルのIを取り付ける際にMとNの端を少し削って調整する必要があると分かりました。
 また、MとNを、あらかじめJ1の内部に組み付けてから、J1を接着します。組み立てガイドの図ではその点が少し分かりにくいです。


 調整しながら組み立てました。簡単そうにみえますが、なかなか大変でした。


 後部パネルのフックA52の片方がいつの間にか折れてしまいましたので、両方とも真鍮線に交換しました。


 これでステップ11は完了です。次のステップ12からOVM類を各所に取り付けますが、その前に車体の各所をガルパン仕様に修正する作業が必要です。


 公式設定資料図にて、修正ポイントを紹介します。後部においては、赤円内に示した位置のボルトが劇中車にはありません。


 キットのパーツでは、御覧のようにボルトがついています。


 削り取りました。


 前部においては、砲塔前の跳弾リングが一本ですが、キットでは前のみ二段になっています。またキットの前面上部パーツにはネジ穴があり、先端には合わせ目の溶接痕がありますが、劇中車にはありません。


 さらに、キットでは車体上面の各所にネジ穴がありますが、劇中車には全くありません。また砲塔の左後ろの小さな丸い蓋にもネジ穴が二つ並びますが、劇中車ではボルトが跳弾リングのラインに沿って斜めに並びます。


 以上の情報をふまえて、車体前半部の修正から始めました。上図に赤円で示したのがネジ穴ですが、これらをパテで埋めました。続いて前で二段になっている跳弾リングを一本にすべく、前の突起を削り取りました。
 車体先端の合わせ目の溶接痕は、溶きパテなどを塗り重ねてヤスって消しました。すぐ横に消してはいけないパネルやネジ穴のモールドがあるので、ヤスるのに苦労しました。


 車体前半部のネジ穴を全て埋め終わった状態です。砲塔右側のサイドにも二つのネジ穴がありますので、これもパテで消しました。


 跳弾リングの修正が終わりました。


 車体先端の合わせ目の溶接痕も、何とか消しました。


 車体後半部の修正に進みました。排気口カバー上面のネジ穴を全て埋め、砲塔の左後ろの小さな丸い蓋のネジ穴をボルトに変更して跳弾リングのラインに合わせて斜めに並べ直しました。


 修正後の状態です。車体後半部のエンジンフード上はあまりメリハリがないので、砲塔の左後ろの小さな丸い蓋すらも比較的目立ちます。これを修正するのとしないのとでは、外見上の印象も変わります。


 これで車体後半部も劇中車の状態に何とか近づけることが出来ました。車体部分におけるガルパン仕様への改造および修正の大部分が終わりました。あとは二、三の小改造やパーツの交換などがあるだけです。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く16 その20 「道路は未完成です!!」

2015年05月18日 | 大洗巡礼記

 マリンタワー広場で休憩中に、役場で道路計画に関する資料を見せてもらおうと思いつきました。役場に問い合わせると、簡単な要図の写しをくれるというので、役場に行って受け取りました。その後「江口又進堂」に立ち寄って江口さんに道路計画のことで二、三の質問をし、次いで「黒沢米穀店」で前回買えなかったお箸セットを購入しました。


 宇津木優季の新パネルです。


 それからリゾートアウトレットに引き返し、ベリークルーズさんのレンタサイクルを利用することにしましたが、開始時間まで間があるので、埠頭の先端にある記念公園でのんびりと海を眺めたりしました。


 記念公園の景色です。南側にマリーナ施設、北側にはフェリー埠頭などが望まれます。


 マリンタワーは、こんなアングルで見えます。


 リゾートアウトレットに引き返しました。


 今回利用したレンタサイクルは、大貫商店会の5台のうちの八九式中戦車甲型でした。大洗行きの度に1台ずつ利用して、今回で5台すべてを利用したことになります。


 役場でいただいた要図の写しを参考にして、道路の計画地域に沿って進みました。いつもの浅間神社の丘からの道を進むと、右手の台地上にピンクテープの目印が次第に目立ってきたので、道路計画線の位置がおおよそ掴めました。浅間神社の北のウツギ崎の辺りから大貫台地上を南北に貫いて、千代田テクノルさんの前の道に繋がるルートでした。


 この辺りで、現在の道を斜めに横切ることになるようで、ピンクテープの目印が左側に続き、そのあたりには車道用地らしき細長い更地が見えました。


 車道用地らしき細長い更地は、そのまま上図の交差点の端に続いています。今は狭まっている車道幅も、やがては二車線に整備し直されるのでしょうか。


 問題の登城遺跡エリアの車道建設地へ行ってみると、3月27日の完成予定の筈が、まだ舗装もしていない状態のままでした。この日は測量と法面の状況観察を実施するとかで、数人の建設関係者が現場に来ていました。


 どうやら、新道建設そのものは大幅に工期が延びているようです。以前はあった完成予定時期の表示板も撤去されていました。付近に重機やダンプカーが全く見当たらなかったので、道路の基礎造成工事自体は完了しているように見えました。
 道路脇の発掘調査トレンチは、御覧のように埋まりつつありました。


 登城遺跡の北を区画する空堀は、車道敷設後も上図のような感じで姿をとどめてゆくのでしょうか。


 トレンチの北側部分はよく形をとどめていましたが、車道の側溝施設などの位置にあたれば、やがては破壊されることになるのでしょう。


 車道の輪郭はほぼ出来上がっているようでした。かなり広く幅をとっていて、千代田テクノルさんの前までの歩道付きの広い道路がそのまま延長されてゆくのだろうと想像出来ました。城跡の三段の郭群は東側で完全に削られて均一の道路面に整えられていました。
 見た感じでは、もとの城郭遺構の東側の三分の一ほどが削られて無くなったようです。


 車道建設現場から引き返し、大貫台地の東へ降りて西光院の前を通りました。


 「島屋米穀店」に立ち寄り、店の方と少し話をしました。車道計画のことを尋ねたら、駅前から成田町まで一本に繋げる計画らしいよ、と言っておられました。そういえばココストアのある信号交差点の南側でも道路が途切れたみたいになっていますが、そこから新道を延長していくようです。でも丘陵地のへりにあたっているので、長い切通しを設けるなどの大規模な土木工事が必要だろうね、というお話でした。


 現状でも大洗町内の道路網は、割合に整備されていると思うのですが、情報では不足だということで、2015年度以降に三ヵ所で道路整備の計画があるそうです。その一ヵ所は若見屋信号交差点からエコス前に至る部分の道幅拡張、一ヵ所は大洗駅から大貫商店街を経てアウトレット北側へ直通するルートの新設で、これによって「お好み焼き道」などが解体撤去されたわけです。
 三ヵ所目が例の登城遺跡を破壊した新道ですが、現在の工事区間は、その全ルートのごく一部に過ぎないようです。 (続く)

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ガールズ&パンツァー コミックアンソロジー SIDEアンツィオ高校

2015年05月17日 | ガールズ&パンツァー

 一迅社さんより刊行されている「ガールズ&パンツァー コミックアンソロジー」の三冊目が、「SIDEアンツィオ高校」として5月14日に発売されました。アマゾンでの紹介記事はこちら


 で、私自身は翌15日に近くの書店で買ってきました。グロリアーナ、サンダース、アンツィオと対戦順に出ていますので、次は「SIDEプラウダ高校」でしょうね。

 最近はガルパンのスピンオフ作品が幾つかスタートしているようで、劇場版に続くガルパンのコンテンツとしての重要度も上がってきているように思われます。これらを原作として新たなアニメ化が成される可能性までが、見据えられているのかもしれませんが、もしそうだとすれば、とても楽しみなことです。


 同じ日に買ってきたのが上図の「紫電改のマキ」です。以前に「リボンの武者」を買って読んだらとても面白かったので、作者野上武志さんの別の作品が読みたくなり、探したらこの三冊があったわけです。まだ連載中なので、続刊があるようです。
 アマゾンでの紹介記事はこちら

 タイトルの元ネタは「紫電改のタカ」だと分かりますが、内容は全然違う物語です。ガルパンに劣らぬ破天荒な設定であるわりには、その世界観にさほどの違和感を覚えることなく自然体にて読んで楽しめます。
 漫画とは、本来は非日常の世界とストーリーを展開出来るフィールドなのですから、「紫電改のマキ」も良い作品として構成されているなあ、と分かります。ガルパンの世界観とあまり変わらない感覚に満ちています。女子高生と兵器との組み合わせは、得てして似たような感覚世界に落とし込まれるのかな、と感じた次第です。

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