気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

けいおん!の聖地をゆく9 その3 京都修学旅行編 鹿苑寺庭園

2017年06月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金閣寺の総門が9時に開かれ、待機していた修学旅行団体の列が徐々に移動に移って門の中へとすいこまれていきました。それにともなって門前の大混雑も次第におさまり、観光客の波もやや落ち着いてきました。それまで上図の案内図などを見ながら待ちました。


 待つこと20分余り、総門の前がようやく落ち着いてきたので、一枚撮りました。


 劇中にも出てくる建物なので、どうしても同じアングルで撮っておきたかったのでした。


 ですが、中に入って次に行く拝観受付でも行列が出来ていて、それ以降はずっと混雑の中にありましたので、劇中シーンのスポットを自在に撮影することは出来ませんでした。


 拝観券です。大人400円なり。近頃は朱印集めが流行っていますので、金閣寺でもこうした朱印を拝観券に使っているようです。なかなか気が利いています。


 大混雑の中を、平沢唯よろしく潜り抜けて最前列に出て、なんとか撮った一枚。


 劇中ではこういう引いたアングルで出ますが、同じ景色を撮ろうとすると観光客の大群にさえぎられてしまいます。改めて別の機会にリベンジを試みるより他にありません。


 この黄金色の輝きを放つ舎利殿が、観光客の人気を集めています。外国人観光客の「クール」「トレビアン」「ワンダフル」の各言語がやたらと聞こえました。中国人観光客が数の上では多かったようで、やたらに横柄で下品な物言いが目立ちました。しかもカメラを構える際に周りの人々に大きく手振りで「そこをどけ」と追い払うのでした。民度が低い、というのはこういう連中です。
 ですが、かつては日本人も海外で似たような振る舞いを繰り広げて白目で嘲笑された経緯があります。あまり他国人を悪く言えません。


 秋山澪は、物憂げな表情で左手を凝視しています。澪ファンのナガシマさんなら、同じように左手を凝視して澪になりきってしまうでしょう。


 秋山澪が視線を向けていた方向には、鹿苑寺庭園の中心である鏡湖池の景観が広がります。鏡湖池は「きょうこち」と読み、経典に説かれる浄土変相図にある七宝の池を模しています。七宝は、古来は金、銀、瑠璃、蝦蛄、瑪瑙、珊瑚、琥珀を指しましたが、室町時代には金、銀、瑠璃、水晶、珊瑚、赤真珠、深緑玉とされ、池には金の砂が敷かれると説かれます。
 もちろんこれは仏教世界の理想的イメージでありますが、足利義満は、そのイメージを一つの参考にして日本最高の庭園を造らせました。寺域の北側には、北山殿以前にここにあった西園寺家の西園寺の遺構のひとつである安民沢「あんみんたく」の古池を中心とする庭園がありますが、これも鹿苑寺庭園に取り込まれて奇観名勝の一角を成しています。


 その要は、金色の舎利殿です。経典では、七宝の池の縁に金銀と宝石で飾られた殿堂が建ち、池を金銀と宝石で飾られた回廊が囲む、と説かれます。それを具体化したのが創建当時の北山殿の構えで、金色の舎利殿に回廊が繋がった状態であったそうです。
 現在は、回廊や付属建築が失われているため、舎利殿の金閣のみが鏡湖池の北東隅の鬼門を鎮めて建っています。


 鹿苑寺庭園の東に伽藍の建築群が連なります。上図は本堂にあたる方丈で、江戸期の延宝六年(1678)に後水尾法皇の寄進により再建されたものです。普段は非公開で、春秋の特別公開の期間中に中に入る事が出来ます。内陣には、本尊の聖観世音菩薩像、脇侍の梵天像、帝釈天像が三尊形式にて祀られ、他に開基の夢窓国師、足利義満らの木像が安置されています。


 劇中では、同アングルで琴吹紬の笑顔が出てきますので、肝心の方丈の建物が隠れてしまっています。でもムギちゃんのファンですから許します・・・。(アホかお前は) (続く)
コメント (7)
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ガルパン・ファンブック 月刊戦車道 別冊2冊

2017年06月29日 | ガールズ&パンツァー

 バンダイビジュアルより、2014年2月から12月までに計6冊が刊行された「月刊戦車道 増刊号」、2015年11月と2016年5月に計2冊が刊行された「月刊戦車道 特別号」に続く新刊として、上掲の「月刊戦車道 別冊」が計2冊刊行される予定です。

 そのうちの1冊は「ガルパン入門」で、劇場版公開以降の新規ファン向けの入門解説本とされています。発売日は2017年9月27日です。価格は3000円。既に2017年6月23日より予約受付が始まっており、期間は2017年8月21日までです。詳細はこちら
 もう一冊は「ガルパンマニアックス」で、これはブーム初期以来のファンに向けた「マニアック本」であるそうです。価格は2000円。発売日は2017年11月24日です。既に2017年6月23日より予約受付が始まっており、期間は2017年10月17日までです。詳細はこちら

 これまでのシリーズと異なって、内容が「新規ファン向け」と「熟練ファン向け」とに分かれているようで、ファンはいずれかを買えば良いことになります。が、熱心なファンは両方揃えたくなるでしょうから、2冊とも予約購入される方が大半なんだろうな、と予想されます。

 私は・・・、とりあえず後発の「ガルパンマニアックス」で充分・・・かな?

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けいおん!の聖地をゆく9 その2 京都修学旅行編 金閣寺へ

2017年06月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今宮神社境内の一角には、おみくじを結びつける為のしめ縄が張られています。本来は疫病神の祭祀拠点にはじまって無病息災や健康長寿の神として信仰された歴史をもつ神社ですが、現在はどちらかというと縁結びの神様として有名になっています。

 その由来は、江戸期に氏子の西陣の八百屋に「お玉」と呼ばれる娘がいて、後に徳川3代将軍家光の側室となり、後の5代将軍綱吉の生母となって桂昌院を名乗り、官位は従一位に達しました。これが「玉の輿」の語の起源となったわけですが、桂昌院自身が故郷の氏神である今宮神社への崇敬が大変に篤く、江戸期までの復興整備事業寄進もたびたび行っています。


 そのエピソードにあやかってか、劇中でも山中さわ子先生がお札を結びつけていますが、幸せそうなカップルを横から睨み付けては、悔しさをにじませて立ち去ります。

 その場所は、どうも実際の境内の風景と異なるようです。境内を一巡して探しましたが、おみくじを結びつける為のしめ縄は本殿前の右手に一ヶ所あるだけでした。


 桂昌院の信仰と寄進によって神殿群の景観がととのった今宮神社ですが、残念なことに明治29年(1896)に本社殿を火災で失いました。現在の建築群は六年後の明治35年(1902)に再建されたものです。


 境内からみた楼門です。江戸期までは神仏混交の形態にあって神宮寺も併設、仏教関連の資料もあったようですが、廃仏毀釈と明治29年の火災で殆ど失われました。平安時代の石仏遺品が唯一の関連ですが、現存最古の在銘像ですので、研究者の間では広く知られています。


 江戸期の町並みの風情を伝える、東門前の商店街です。神社名物の「あぶり餅」をひとつ体験してみようと考えたのですが、まだ朝のうちでどのお店も開いていませんでした。


 そこで、今宮神社の見学を完了として、境内地を出ました。


 楼門前から南に続く旧参道の今宮門前通を進み、朱塗りの鳥居をくぐりました。その東側には大徳寺塔頭群の広大な敷地が並び、西側には紫野高校などがあります。列をなして登校する生徒たちは、みな私服でした。


 北大路通に出てすぐの船岡山バス停より205系統に乗り、金閣寺道バス停で降りました。鞍馬口通の金閣寺交差点の辻に、上図の標識が立っています。


 これがそのまま劇中にも登場しています。


 金閣寺、正式には鹿苑寺の境内に進みました。庭園エリアから背後の大北山原生林に広大な敷地をしめ、京都では最大級の広さを誇る境内地です。


 参道横に広がる苔庭がいい雰囲気です。木立の間から香り高いそよ風が吹き抜けてきました。心が安らぎました。京都には、こういう神社仏閣が沢山ありますので、どこへ行っても落ち着きますね・・・。


 しかし、そのまったり気分は、総門前で待機する数校の修学旅行団体の長い行列および大勢の外国人観光客の波を見て無残に打ち砕かれました。
 しまった、そういえばリアルでも修学旅行シーズンのピーク期だったんだ、と頭を抱えました。自身の迂闊さを思いっきりののしりました。けいおん劇中のシーンに合わせた時期を選び、参拝時間開始の9時前に到着すべくやってきたのですが、この大混雑は想定外でした。

 考えてみれば、金閣寺は京都観光の人気ナンバーワンです。狭い拝観散策路に大勢の観光客がおしかけて大渋滞が慢性的に続くことで知られていますが、最近のインバウンド効果で外国人観光客が増加したため、混雑の度合いがさらに酷くなっています。
 それで、拝観散策路を広げるとか、コースを回りやすいように改変するとかの対策が必要である筈ですが、一帯は国の史跡および特別名勝に指定されているうえに、世界遺産にも登録されていますので、現状維持が絶対条件になっています。散策路そのものが鹿苑寺庭園の保全を考慮した必要最低限のコースで設けられているため、余裕が全くありません。

 こうなると、あとは入場制限を設けるより他にありませんが、そんなことをすれば門前の行列や混雑がさらに酷くなって観光駐車場もパンクしてしまうので、どうにもならなくなっているみたいです。国際観光地としての総合的な再整備を計画的に行う必要がありますね。 (続く)

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けいおん!の聖地をゆく9 その1 今宮神社

2017年06月27日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2017年5月18日、数えて九回目の「けいおん!」巡礼を楽しみました。対象範囲は紫野、北山、北野としました。1期第7話「クリスマス!」の舞台である今宮神社、1期番外編(第14話)「ライブハウス!」に登場する船岡山、2期第4話「修学旅行!」に出てくる金閣寺と北野天満宮などがこのエリアに集まっているため、これらを半日で回ってみることにしました。

 朝7時半前に西大路の下宿を出発、近くのバス停から京都市バス202系統に乗り、千本丸太町バス停で降りて46系統上賀茂行きに乗り換え、今宮神社前バス停で降りました。時刻は8時13分でした。


 今宮神社の正門にあたる、朱塗りの楼門です。このような仏教系の建築を門に据える神社は、殆どが神仏習合期において仏教的色彩が濃かったのですが、この今宮神社も例外ではありません。平安時代の線刻四面石仏を伝えており、国の重要文化財に指定されています。


 楼門をくぐる際に、境内からの風が吹き抜けてきて、若葉の香りが鼻腔をくすぐりました。空には雲一つなく、爽やかな気分につつまれました。社寺参詣は早朝がベスト、といわれるのは正しいですね。


 拝殿は、神楽殿を兼ねており、例祭の舞楽奉納の舞台としても機能します。私はこの今宮神社にはあまり縁が無く、参拝も今回で二度目で、祭事の見物にすら行ったことがありません。なので、この神社の祭事の舞楽がどういうものかも知りません。

 俗に「京都の三大奇祭」というのがあり、 鞍馬寺の鞍馬の火祭、広隆寺の太秦の牛祭、今宮神社の夜須礼(やすらい}祭が相当します。私は学生時代から鞍馬寺の鞍馬の火祭と広隆寺の太秦の牛祭には何度か行っているのですが、どういうわけか今宮神社の夜須礼祭には行く機会を得ないままです。国の重要無形民俗文化財に指定される有名な祭礼ですので、これをまだ見ていないというのは京都の歴史文化に関心を持ち学んできた身としては迂闊、と言わざるを得ません。


 本社の幣門です。唐破風屋根に最も高い格式が示されます。既に鎌倉時代の弘安七年(1284)に神階は正一位に達しています。本来は疫神として崇められた歴史を持ちますが、疫神は仏教化して護法神としての性格を帯びたため、中世期には戦闘神の一種として武家の信仰を集めたようです。

 応仁文明の乱の際に西軍の総帥となった、山名右衛門督持豊(山名宗全)は、西陣に戦旗を掲げつつも、味方が近くの船岡山に城を築いて立て籠もる作戦に最初は反対したそうです。船岡山が今宮神社の結界の一角を占め、疫病を鎮めるための御霊会の場となった経緯があるため、今宮の疫神のたたりを恐れた、というのが反対の理由だったとされています。それどころか、今宮神社方面への発向も禁じたそうです。
 ところが、一族の備前守護職の山名相模守教之が船岡山方面での緒戦にて東軍と激突、船岡山城を圧迫されて軍勢の一部が今宮社に退却したため、これを追う東軍の展開を受けて神社も戦場となってしまい、本殿以下の主要施設が被害を受けてしまいました。これを知った山名右衛門督持豊は激怒し、また祟りに恐れおののいたそうです。
 山名宗全ほどの大物が恐れたぐらいですから、当時の今宮神社の神威というのは、相当なものだったのでしょう。正一位の神階は、それなりの宗教的威力および信仰の深さを反映しているわけです。


 さて、その今宮神社ですが、上図のようなアングルで1期第7話「クリスマス!」の初詣の場面に登場します。


 このシーンですが、細部があまり似ていません。現地で取材ロケをせずに、写真または資料図版からの引用で済ませたような形跡すら感じられます。


 似ているのは屋根の形ぐらいなものです。劇中では白壁になっている部分が、実際の建築では透塀となっており、重厚な造りの連子窓を連ねた形で本殿の結界を区画しています。


 唐破風の幣門を東横から見ました。


 ほぼ同じアングルでのシーンです。透塀の部分が対面所もしくは受付のような造りに変わっています。どうみてもかなりのアレンジがなされているようで、神社の建物が忠実に描写されていません。


 なので、HTTのメンバーが参拝の際に鳴らした本坪鈴も、実際の唐破風幣門のそれとは異なるようです。


 しかし、本社の西側に鎮座して同じ透塀に囲まれる疫神社の幣門のそれが、劇中のによく似ています。ひょっとして、こちらがモデルになったのかもしれませんね・・・。 (続く)

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プラウダ高校チームのBM-13「カチューシャ」は戦後型

2017年06月26日 | ガルパン模型制作記
 2017年5月17日の八度目の「けいおん!」巡礼の後、京都四条にて模型サークルの先輩N氏と出会い、そのまま近くの模型店「B's Hobby京都店」へ同道しましたが、その際にガルパン車輌プラモデルに関する重大な御教示にあずかりました。

 事の次第はこうです。まずN氏が「九四式六輪自動貨車」に関して尋ねてきました。随分前に、そのキットをガルパン車輌向けに、と譲って下さった方です(関連記事はこちら)から、その後のキットの消息を気にしておられたようです。

「実は、まだ作ってないんです。済みません・・・」
「別に謝らんでもええよ。大事に持っとけば、それでええ。あのキットも絶版に近くなったんでな」
「えっ、そうなんですか」
「元々マイナーなやつなんで、ファインモールドの出荷数も少なかったし。再生産は当分ねえかもしれんしな。ガルパンに出たことで多少名前が知られるようになったみたいで、どこでも売れてしまって無くなっとるんよ」
 そのことにどこか満足げなN氏でした。トラックマニアだけに、トラックのキットが売れてゆくのが嬉しくてならないのでしょう。

 店内の商品の列を丹念に見ながら、次に聞いてきたのは、プラウダ高校チームのBM-13「カチューシャ」は作ったのか、という内容でした。
「まだ作っていませんが、キットは確保してありますんで、いずれ作ります」
「それはええ。キットって、どこのやつなん?」
 同じ商品がたまたま隣の棚にあったので、指さして教えました。


 上図のズベズダの品でした。ズベズダが販売していますが、キット自体はイタレリの製品です。詳細はこちら

 それを見たN氏は、どういうわけか「うーん」と考え込みました。
「これ、ちょっとアレやね。ガルパンの車輌と違うね」
「えっ?・・・これ買ったの間違いやったのですか?」
「半分は、間違いやな・・・」
「マジですか・・・!」


 同じ棚にはソ連軍車両のキットが集まっていたので、上図のキットもありました。詳細はこちら
「これは・・、このホビーボスのキットは・・・」
「それも半分違う。ズベズダと一緒の車輌やからな・・・」


 私は続けて上図のキットを示しました。ICMのキットです。詳細はこちら
 しかし、N氏は苦笑しつつ「それも違う。車輌が米軍のスチュードベーカーになっとる」と言いました。
「つまりやな、ガルパンのやつは、トラックの車種がここに並んでるキットのやつとは全然違うのよ。ここに並んでるキットのやつは全部、戦後に造られたトラックなんよ」
「トラックが・・・、違うのですか?」
「そう」
「するとあれですか、戦車道の規則にいう1945年までの車輌でないってことですか」


 その際にN氏は上図の品を指しました。アークモデルズの製品です。詳細はこちら
「1945年までの車輌、ってことであれば、こういうやつがバッチリや。トラックはZis-6で戦前戦中の量産型やからな。やけど、ガルパンのBM-13のトラックとは違うやろ?」

 その問いかけに、私もようやく意味がのみこめてきました。どうやらBM-13「カチューシャ」というのは、時期によって異なるトラックを使用していたようで、ガルパンの劇中車は私が買ったズベズダのキットを含めた前述の製品群とは異なる、ということのようでした。
「つまりは、トラックの部分がガルパン独自のやつ、ということですか?」
「独自、ってわけでもねえ。実際にソ連軍では沢山運用してるし、そのタイプのBM-13もあるんや。要するにガルパンのやつは、トラックがZil-157になってるのよ・・・」
「Zil-157・・・ですか?」
「うん、Zil-157はソ連の戦後のカーゴトラック型の二代目や。改良版がZil-157Kなんやが、ガルパンのはどっちか分からんな」
「外見上は同じなんですか?」
「うん、エンジンの一部とトランスミッションを改良しただけやから、車体そのものは同じや」

 ミリタリートラックに関しては、彼の右に出る者はいない、とサークル内でも一目置かれているN氏の説明によれば、BM-13「カチューシャ」はトラック部分が時期によって四種類ぐらいあるそうです。戦前戦中はZis-6、戦後からはZis-151、Zil-157、スチュードベーカーが運用されたということです。そしてガルパンの劇中車は、Zil-157を使用しており、その適応キットは現時点では存在しないそうです。
 ちなみに私が確保していたズベズダのキットは、トラック部分がZis-151であるそうです。確かに「半分は間違い」であるわけです。

「いまのお話だと、ガルパンのBM-13を完全再現出来る適応キットが無いわけですから、あとは改造しか方法が無いことになりますか?」
「いや、ニコイチで作れると思うよ。Zil-157は、トラックのキットが出とるから・・・」


 そのZil-157Kトラックのキットは、上図のトランぺッターの製品が唯一であるそうです。昔の製品なので既に入手困難になっているようで、あとは中古品の在庫を探すよりないだろう、ということでした。詳細はこちら

 N氏は「そのトランぺッターのキットがあれば、そのトラックのシャーシーにズベズダのBM-13のユニットを載せればええんや。それでガルパンの車輌が再現出来る」と言いました。
「すると、両方のキットの残りのパーツは・・・」
「それもガルパンの車輌に作れるよ。ほら、劇場版でプラウダチームのメンバーを荷台に乗せてるトラックがちょっとだけ出てきたやろ?あれはたぶん、Zis-151や。ズベズダのキットのトラックと同じや。トランぺッターのキットで余る荷台部分をそれに乗せたら、そのままZis-151トラックを再現出来るんと違うかな。荷台部分はZis-151もZil-157Kも共通やったからな」
「なるほど・・・!!」


 それからの二、三回の休日は中古ショップ巡りに打ち込み、ほうぼうへ探しに出かけた挙句、岡山市のリサイクルショップのプラモデルコーナーで、やっと目当てのZil-157Kトラックのキットを見つけました。上図のように状態は良好でしたが、長い事売れなかったためか、値引きシールが3枚も貼り重ねられ、価格は700円に落ちていました。


 かくして、ガルパンのBM-13「カチューシャ」および劇場版のZis-151トラックを上図の二点のキットの組み合わせで再現出来る目処がたちました。

 そのことをN氏に報告すると、「あれはガルパンの戦車道試合の規則では対象外の車種なんやねえ。Zil-157KもZis-151も戦後型やからねえ。せやから支援車輌になってるわけやね」と笑っていました。
「そういうことなんでしょうね・・・」
「で、作るのはだいぶ後のことになるか」
「ええ、たぶん・・・」
「作る時はきっちり覚悟決めて、気合入れてやっていけよ。ほとんどアートやから」
「は?アート・・・?」
「うん、ズベズダのやつもトランぺッターのやつも、アートって言うか、芸術的レベルで精巧なキットやからな・・・」

 そのN氏の言葉は、両方のキットの中身を見た途端に、大変によく理解出来ました。いずれもフルインテリアキットで、エンジンや動力伝達部などが多数のパーツで構成されているという、今までに見たことのないような細かいモデルであるからです。
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アンツィオ高校 P40重戦車 作ります!! その1

2017年06月25日 | ガルパン模型制作記

 先日の模型サークルの会合にて、ガルパン戦車プラモデル仲間のTさんに「アンツィオのP40、いつ作るん?」と聞かれました。黒森峰女学園の35(t)戦車(フェイズエリカ仕様)を完成させて一週間後のことでした。
「それとも、他に作る候補が決まってるんかね?」
「いえ、まだ何も決めてませんが・・・、アンツィオの車輌は久しく作ってませんので・・・、それでいってもいいかなと思います」
「よし、それいってくれよ。P40に関しちゃ、ネットで見ると皆がみんな、いろいろと不満や批判ばっかり流してるんでめちゃ難しいキットなんかと思っちゃうけど、星野君が作るとどういうふうになるんか、興味あるねえ」
「はあ・・・」
「例えばさ、難しそうやなとか、とっつきにくそうやなとか、思うん?」
「そんなの、実際に作ってみなきゃ、分からんじゃないですか」
「うん、そういうことやね」
「正直言って、ガルパン戦車というのは大体作ること自体が楽じゃないんで、改造とか修正とか、全くやらずに完成したのは一つも無いんですよ。苦労したのも結構ありますんで、P40だけが特に難しそうだ、っていう感触はあんまり無いですね・・・」
「よし、そんなら僕も次はP40を作ることにしよう。どっちが早く仕上げるか、競っちゃう?」
「いえ、遠慮しておきます・・・」


 かくして、私の35作目は、アンツィオ高校チームのP40重戦車になりました。使用キットは、上図のタミヤイタレリシリーズの製品です。キット本体はイタレリからのOEM供給ですから、本質的にはイタレリのキットを作るわけです。

 このキットでガルパン劇中車を再現する場合、別にジェリカンのパーツが3個分必要になります。以前に同じアンツィオチームのM41セモヴェンテを製作した際に調達した、アスカの「WWⅡイタリアジェリカンセット」の余りパーツが豊富にありましたので、そのなかから3個分を取り出して準備しました。


 中身はこんな感じで、パーツ数はそんなに多くない感じです。ドラゴンやドラゴン系のプラッツ公式キット群よりは間違いなく少ないです。車体も全てが箱組みなのでパーツが分割されていますが、それでもパーツの全体数が抑えられているな、という印象を持ちました。


 左が製作ガイド、右がイタレリ製の写真解説冊子です。後者は実車の各所の細部を色々と紹介していて参考になります。
 ガルパン劇中車もおおむね実車に近い状態であるので、公式設定資料画像の細部が小さくて見づらい時などには、この冊子が重宝します。


 ステップ1では、車体下部の組み立てを行います。箱組みですので、事前の仮組みによるチェックが重要です。古い時期の製品であるためか、パーツにバリなどが目立ちますので、パーツのそれぞれに丁寧な処理を施しておくのが良いだろうと考えました。


 各パーツを切り出して準備しました。


 パーツの一部には、上図のように僅かな反りや歪みが見られました。以前にドラゴン系の公式キットでⅢ号突撃砲F型やⅢ号戦車J型を作った時には、フェンダーのパーツなどにもっと大きな反りが見られましたので、今回のはまだマシな方でした。


 パーツのそれぞれに残るバリなどを、丁寧にカットした後、アートナイフで全体をなぞって軽くカンナがけ処理を進めました。こうしておくと、パーツの組み合わせもしっかりしてくるだろう、と考えました。


 反っているパーツは、まず半分ぐらいを接着しました。


 接着の際には、表面のモールド等をしっかり合わせ、内側からもチェックしてズレが無いか確かめました。


 半分接着した部分が乾いてから、残る半分の反った部分をテープで仮留めして接着し、内側からさらに流し込み接着剤を入れました。この状態でしばらく置いて乾燥させました。


 少しずつ接着を進めて、反りや歪みのあるパーツも丁寧に仮留めしながら合わせてゆきました。とくに問題もなく、上図のように組みあがりました。


 背面部も、上図のようにきっちりと合わさりましたので、流し込み接着剤でくっつけるだけで充分でした。


 組み立てが完了しました。目立った破綻は無かったものの、車体前面部の先端に隙間が生じました。


 こんな感じの隙間でした。仮組みの時点でこの隙間が生じていたので、これは仕方がないものと受け止めて、パテで埋めることにしました。 


 ブラ板で埋めるには細い隙間なので、溶きパテを塗り込みました。最近、モケジョさんに教わったアイデアに、溶きパテの上に流し込み接着剤をかぶせて塗ると整形とパテの硬化が同時に出来て簡単、というのがありましたので、今回実験的に試してみました。

 溶きパテを隙間に塗り込んで埋め、はみ出たパテなどを、流し込み接着剤をつけた平筆でなぞるようにしてこすりました。パテがいったん液状化して、筆で平らに均すことが出来ました。その際に、平筆についた流し込み接着剤と混ざった溶きパテを、隙間部分に集めるようにしてさらに塗り込みました。するとそのまま接着剤が乾いてパテの硬化固着も進み、隙間が埋まりました。
 あとは、サンドペーパーで軽くヤスるだけで充分でした。普通のパテだと、固まるまでに時間がかかりますが、これは溶きパテを接着剤で一気に硬化させますので、思ったよりも時間がかかりません。 (続く)
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けいおん!の聖地をゆく8 その10 糺の森から祇園四条へ

2017年06月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 叡山電車の出町柳駅を出て、高野川に架かる河合橋を渡りました。南には、劇中オープニングでもおなじみの鴨川デルタの飛び石が見えました。相変わらず観光客で賑わっていました。


 この日のけいおん聖地巡礼は完了しましたが、まだ時間があったので、久しぶりに下鴨神社に参拝しようと思い立ち、河合橋の西から北に折れて糺の森へと進みました。


 参道筋に、最近に復元工事が成ったばかりの「秀穂舎」が公開されていたので、立ち寄って見学しました。「秀穂舎」は「しゅうすいしゃ」と読みます。
 下鴨神社の運営主体である鴨の氏人組織の後継者養成機関に「鴨社公文所・学問所」があり、その一つの役職として「鴨社画工司」がありました。いわゆる神社専属の絵師であり、平安時代以来の歴史と伝統を持っています。
 「秀穂舎」は、その「鴨社画工司」を担った氏人の浅田氏の屋敷を修理復元したもので、現存する唯一の下鴨神社社家建築遺構として貴重な存在です。その復元は第34回式年遷宮事業の一環として行われ、春秋には「鴨社資料館」として一般公開されます。

 こうした主要神社の社家建築というのは、京都でも現存例が稀になっており、奈良でも春日大社の社家建築遺構が一軒のみかろうじて残存、これを修理保存のうえ歴史資料として活用しようとする動きが始まったばかりです。神社に代々仕える職能集団の屋敷であるので、建物内には神棚がまつられ、担当職に応じた専用の部屋が設けられており、通常の屋敷とは造りが異なっています。それを一般公開している事例は、京都ではここだけなので、一見の価値があります。


 続いて下鴨神社の摂末社のひとつ河合神社に行き、境内に復元展示されている鴨長明の方丈を見ました。日本三大随筆である「方丈記」はこうした方丈にて書かれたためにこの名があります。

 一見して、組み立て式の簡易な小屋、といった風情ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての典型的な民家というのはこの程度以下でした。古代以来の掘立小屋を改良し、すぐに解体出来る移動可能な小屋に変更していたわけですが、簡易組み立て式であるだけに耐久性はまるでなく、自然災害には弱かったそうです。
 戦国時代末期に再び柱を地面に固定する頑丈な民家建築が普及するまでは、こうした建物に日本人の大半が住んでいたわけですが、そのために中世期までの都市というのは街区がこぢんまりとしていて、建物自体が幾らでも移動出来るために痕跡が錯綜し、発掘調査で街区を検出してもまとまった町の景観が想定しづらかったりするケースが多いです。

 平安時代や鎌倉時代の絵巻物などに描かれた建物を見ますと、社寺建築や公家や武家の屋敷は例外として、大多数の民家はみんな粗末な小屋の姿で表現されています。台風でも来たら吹き飛ばされそうな、火事が発生すれば瞬時に焼け落ちてしまいそうな、頼りない姿です。現代風にいえば簡易プレハブであり、律令制度以来の規則にのっとって標準的な面積を一丈(約三メ-トル)四方としたために「方丈」と呼ばれます。この「方丈」を基本単位として連結することで建物の大型化をはかり、屋敷として整備する形です。

 なので、こういう復元展示を見ることで、日本の古代中世の一般的な住居のありようがよく理解出来ます。現在でも日本人の住まいは狭いと言われますが、昔はもっと狭かったのです。


 河合神社に参拝しました。祭神が女性の守護神である玉依姫命なので、古くから女性の美の神様として信仰されており、安産・育児・縁結び・学業・長寿の神様ともされます。模型サークルにて交流のあるモケジョさん達も、時々参拝しているそうです。そのうちの誰かが、境内にある鴨長明の方丈をペーパークラフトで作っていましたね・・・。

 鴨長明は、この河合神社の神職の家系に生まれましたが、兄弟眷属が多かったために神社の要職に就けませんでした。後に後鳥羽院から河合神社の禰宜に推挙されますが、一族筆頭の賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼の反対により叶わず、世を嘆いて出家し、隠遁生活に入りました。
 が、鴨長明の和歌の才を惜しんだ飛鳥井雅経の推挙により、鎌倉幕府三代将軍源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向し、日本最初の武家政権における京文化の普及に努めました。「方丈記」を著したのは、鎌倉下向の翌年に京都へ戻ってからのことでした。


 下鴨神社、正式名称は賀茂御祖神社です。世界文化遺産に登録されているため、外国人観光客の姿も多く見かけました。


 参拝は、十年振りぐらいでした。幣殿前の言社に向かい、自身の干支の午の一言社顕国魂神にお参りしました。顕国魂神は「うつしくにたまのかみ」と読みます。社殿は国の重要文化財に指定されています。

 一言社に限らず、下鴨神社の建物の多くは文化財指定を受けており、本殿のうちの2棟は国宝、付属建築の31棟が重要文化財であるほか、さらに17棟が重要文化財の附(つけたり)指定を受けます。附というのは、追加指定によって範囲が広がった部分を指しますので、文化財としての重要性は重要文化財と同格です。


 参拝を終えて河合橋まで戻り、高野川と賀茂川の合流点を眺めました。


 京阪電車の出町柳駅から祇園四条駅に移動しました。


 祇園四条駅を出る際にみるお馴染みの建物、南座です。


 この日は模型サークルの定期会合があるので、それまで八坂神社界隈をぶらついて過ごしました。


 西楼門前のコンビニで買い物をしていると携帯電話が鳴り、模型サークルの当番幹事F氏の声が響いてきました。
「今日の会合は川床でやるか、って決まったんやけど星野さんはどう?」
「ええですねえ、賛成です」
「今どこに居るん?」
「八坂の西門前ですが」
「そうか。とりあえず6時から「佐曽羅」でやるんで」
「先斗町の古民家バーでしたね」
「そう」


 まだ一時間余りの余裕があったので、四条通を西へ散歩していると、後ろから肩をつつかれました。振り向くと、模型サークルの先輩N氏の笑顔がありました。「ジョナサン」のあだ名で親しまれる、トラックマニアの方です。ミリタリートラックのプラモデルも数多く作っておられます。

「今日は「佐曽羅」やってよ」
「ええ、さっきFさんから連絡ありまして」
「まだ時間あんねんから、プラモ見に行こう」
 ということで、いつもの模型店「B's Hobby京都店」に行きました。その際に、N氏にガルパン戦車プラモデルに関する重大な知見を教わったのですが、それに関しては改めての機会に述べます。

 以上で、「けいおん!の聖地をゆく8」のレポートを終わります。

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けいおん!の聖地をゆく8 その9 修学院点景

2017年06月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 松ヶ崎橋を渡って北山通の北側歩道を東に進むと、すぐに上図の場所を通ります。かつては「からす天狗」という呑み屋がありましたが、いつしか閉店し、建物も大幅に改変を受けています。現在は別のお店になっています。2期第13話「残暑見舞い!」に登場したスポットです。


 該当シーンでは、「からす天狗」の目印だった大きなオーニングがそのまま再現されています。その店先にて、中野梓が受験勉強帰りの平沢唯たちと出会う場面が描かれます。その後、夏祭りに繰り出して夜空にはじける打ち上げ花火を見るのでしたね・・・。 


 斜め向かいの南側にある「双鳩堂本店」です。お餅をメインとする和菓子のお店で、京都駅ビルや岡崎二条通に支店をもちます。「鳩餅」や「丁稚羊羹」などのオリジナル商品が有名です。


 この日は残念ながら休業日でした。上図のアングルで劇中に登場します。


 このシーンです。2期第14話「夏季講習!」の一コマです。このとき田井中律がかけている黄色のショルダーバッグは第4話「修学旅行!」でも見られ、大勢のファンが元ネタ探しに躍起となったそうですが、未だに元製品が特定出来ていないようです。京都高島屋のブランドバッグコーナーにて似たようなのを見かけた気がしますが、海外メーカーの品かもしれません。


 北山通をはさんで南北に二ヶ所の聖地スポットがあります。これに中野梓が猫を預かった際に行ったペットショップも加えると三ヶ所になります。


 上図は、叡山電車修学院駅のすぐ西にあるパン屋さんです。私が京都造形芸術大学に通っていた頃は、確かアイス屋「ディッパーダン」だったように記憶しています。劇中にも度々出てくる通学路沿いのアイス屋のモデルではないかと思いますが、実店舗は「けいおん」放送の数年前に無くなっていた、と聞いたことがあります。


 叡山電車の修学院駅です。


 出町柳行きのホームから北を見た図です。1期のオープニングに登場する場面は、もう少し右寄りのアングルです。


 アニメ「きんいろモザイク」のコラボポスターです。叡山電車は「けいおん」以来ずっと芳文社コミック作品とのコラボを続けているそうです。


 駅名標です。けいおんシリーズ人気の全盛期には、これを必ず撮るのが巡礼ファンの「心得」の一つであったそうです。


 こういう図も、劇中にあったような気がします。何話だったかな・・・?


 まもなくやってきた列車に乗って、終点の出町柳駅へ移動しました。隣のホームに停まっていた列車のヘッドマークが気になりました。午前中に木野駅で見かけた涼風青葉かな、と思って近寄ってみました。


 人物ではなく猫でした。思わず「さかもと・・・」と言いかけましたが、「日常」ではなくて「NEW GAME!」に出てくる猫のようです。後で調べてみたら、葉月しずくの飼い猫「もずく」と分かりました。 (続く)

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「けいおん」記事のあるアニメ雑誌など (下)

2017年06月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 6月上旬にガルパン関連グッズの二度目の「断捨離」を実施したさいに、「けいおん」記事のあるアニメ雑誌など4冊を発見しました。その4冊を含めた、手持ちの「けいおん」記事のあるアニメ雑誌6冊の紹介の続きです。今回は残り3冊を紹介します。


 月刊「日経エンタテインメント」2011年12月号です。「けいおん」特集記事の内容が多角的にまとめられており、一連の雑誌特集記事の中で最も保存版の域に達しています。


 「けいおん!」現象の「解」と題して、アニメシリーズが生み出した実績や数字、市場規模の変遷、放送当時の全国的戦略の実情、関連グッズの展開の様相、音楽制作の実態、などがまとめられていて、大変に読みごたえがあります。下手な公式本よりも良い出来だと思います。


 月刊「ニュータイプ」2012年1月号です。劇場版の特集記事が声優インタビューの形でまとめられていますが、私自身はこれを別の目的で買いました。


 劇場版の特集記事の扉のイラストが良いです。一番くじきゅんキャラわーるど 映画「けいおん!」のG賞のちびきゅんキャラアイビーファッションシリーズの原画でもあります。このイラストのデザインで一番くじののちびきゅんキャラが出ると知って、それでローソンへ何度か行ったのでした。
 しかし、数度のチャレンジにもかかわらず、琴吹紬だけを当てることが出来ず、五年後の今年の春にやっと中古品でゲットしたのは、以前の記事にて述べた通りです。


 私がこの号を買った目的は、この付録でした。限定スペシャルイヤホンです。


 こんな感じの品です。唯のレスポールが飾りとして付き、しっかりHTTの星印も意匠化されています。もったいなくて、今まで一度も使用していませんが、実際に使った方の話では「普通の安物のイヤホン」だそうです。
 これに限らず、こうしたアニメ雑誌の付録には、時々欲しくなるようなものがありますので、要チェックでしたね・・・。


 ラストの6冊目は、月刊「カット」2012年1月号です。確か、前述の月刊「ニュータイプ」2012年1月号と一緒に買ったんじゃなかったかな、と思います。


 「けいおん!」とは作り手の愛である・・・。大変素晴らしいキャッチコピーですね。ガルパンに関しても似たような評価があると思いますが、同じ「作り手の愛」といっても中身とかニュアンスが全然違うと思います。「けいおん!」の方のそれは、国民的規模で万人に受け入れられ評価される質のものだった、と感じています。
 この雑誌の特集記事は、最長の32ページに及びますが、20ページほどは声優インタビューで占められますので、あまり中身は濃くないです。

 以上、手持ちの「けいおん」記事のあるアニメ雑誌など6冊を紹介しました。かつては他にも買っていたようにも思いますが、異動にともなう引越しの際に処分してしまったかもしれません。

 こうしたアニメ雑誌の特集記事を、ガルパンファンになってからは全くチェックせず、アニメ雑誌そのものも一冊も買いませんでした。
 なぜかというと、ガルパンの特集記事は、アニメ雑誌よりも模型雑誌のほうで大部分が組まれていたからです。現時点で4冊を数える公式オフィシャルガイドブックも月刊「モデルグラフィック」の方にまとめられていますし、主な特集記事は月刊「アーマーモデリング」や月刊「ホビージャパン」などで継続的に出ています。
 アニメであるのに、アニメ雑誌よりも模型雑誌の方に露出が偏重するガルパンは、その意味では異質であるのかもしれませんね・・・。
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けいおん!の聖地をゆく8 その8 松ヶ崎の平沢家付近

2017年06月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 北山通をバスに乗って東へ移動、松ヶ崎大黒天バス停で下車しました。劇中では平沢家の近くになります。


 鳥居が建つ松ヶ崎大黒天参道入り口の辻の斜め向かいに、上図の民家の門があります。劇中にも何度か登場しているので、見覚えのある方も多い筈です。


 劇中では、近所のおばあちゃんこと一文字とみの家の門として登場しています。上賀茂ケシ山の急坂付近で行方不明になった平沢唯は、いつのまにか、とみおはあちゃんの家にあがりこんでまったりと休んでいたのでした。


 同地点より東を見ました。左側に松ヶ崎大黒天参道入り口が見えます。劇中では鳥居の横に平沢家があります。


 松ヶ崎大黒天参道入り口です。


 平沢家付近の向かいには駐車場がありますが、このあたりの景色が劇中に出ています。


 このシーンです。一番目立つ左側の高いビルが、田井中律の後ろに殆ど隠れてしまっているので分かりにくいかもしれませんが、右側の、琴吹紬の背後の低い建物の屋根などが一致します。


 同地点から視線を南西寄りにずらした図です。これも劇中に出ています。


 このシーンです。右端の民家が、位置的には一文字とみの家にあたります。劇中では、マラソン大会のさなか、岩倉幡枝の八幡橋で平沢唯を探していた田井中律たちが、平沢憂の提案にしたがって一文字とみの家へ行き、平沢唯を見つけて安堵する、という流れになっていますが、実際の巡礼距離は3キロ以上に及びます。けいおんシリーズの巡礼コースのなかで最も長距離です。ハイキングのつもりでそれなりの準備をした方がよいコースです。


 これで2期第15話「マラソン大会!」関連の聖地スポット巡りが完了しましたので、近くの喫茶店「レトロビーバー」に行って休もうと思いましたが、この日は残念ながら臨時休業日でした。劇中に登場するお店ですので、いつか入ってみたいです。


 北山通を松ヶ崎橋へと進みました。


 松ヶ崎橋を渡りました。北側の景色は、何度見ても良いですね。息を弾ませて走り抜けるHTTメンバーたちの姿が鮮やかに思い出されます。 (続く)

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けいおん!の聖地をゆく8 その7 北山通のマラソンコース

2017年06月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 北山通をさらに西へ行くと、また見覚えのある景色がありました。上賀茂桜井町の商店街で、これも劇中に出ています。


 このシーンです。中野梓、鈴木純、平沢憂の同級生三人組が仲良く並んで走っています。原作コミックのハイスクール編にて「わかばガールズ」のメンバーとなる三人です。こういうシーンを見ていると、やっぱりアニメの3期を見てみたかったなあ、と思ってしまいます。


 北山大橋を渡りました。ずっと歩きづめでしたので、賀茂川の岸に降りてベンチで30分ほど休憩しました。


 さらに北山通を西へ進み、小山元町の衣棚通との交差点あたりで、次の聖地スポットを見つけました。上図のビルの丸い窓が目印でした。ああいう丸い窓は滅多に見ませんので、印象に残りやすいです。


 このシーンです。平沢憂の右後方に丸い窓が描写されています。ビル自体の形状もほぼ一致します。この場所では北山通を東に走っているので、どこかで折り返してきたことになりますが、劇中では折り返すシーンはありませんでした。


 衣棚通との交差点南側を東から見た図です。このアングルで劇中に二度ほど出てきます。


 中野梓たちが走ってくるシーンです。


 続いて、秋山澪が走ってくるシーンです。この直後に中野梓たちに追いついて、鈴木純たちと会話を交わしますので、その劇中場面も、付近にあるはずです。


 このビルあたりじゃないかなあ、と思いますが、劇中シーンとちょっと違うような気がします。実際には隣にコンビニがありますが、劇中シーンでは別の建物のようです。


 このシーンです。前掲の景色のほかに、該当する所が付近には見当たりませんので、やっぱり場所的には間違いないだろう、と思います。北山通界隈は、ここ10年の間にかなり建物が建て替わったりしていますので、景色もあちこちで多少変わっている筈です。


 さらに西へ進んで、大宮通との交差を少し過ぎたあたりの南側に、上図の建物があります。一階部分の構えがかなり目立つためか、これも劇中シーンに出ています。


 このシーンです。山中さわ子先生の車がその前を東上しています。建物自体は一階部分はほぼ一致しますが、二階部分は異なります。一階の形状に合わせてアレンジしてあります。
 この場所が、北山通におけるマラソンコーススポットの西端になりますので、劇中シーンはここから東の北山通と鞍馬街道、岩倉の幡枝八幡橋までのルートを組み合わせて構成されていると理解出来ます。

 とりあえず近くのラーメン屋で遅い昼食をとりました。続いて、上賀茂ケシ山付近にて落伍して行方不明になった平沢唯の足取りを追いかけてみることにし、近くの上堀川バス停で修学院方面行きの市バスに乗り込みました。 (続く)

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「けいおん」記事のあるアニメ雑誌など (上)

2017年06月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 6月上旬にガルパン関連グッズの二度目の「断捨離」を実施すべく、家の押し入れと本棚を全て奥まで浚って掃除もやりました。その際に、幾つかの「けいおん」グッズとアニメ雑誌4冊を発見しました。持っていたこと自体を忘れていた4冊でした。

 既に過去記事で触れたように、「けいおん」関連の刊行物は、原作コミックス計6冊、公式ガイド3冊を持っており、他に公式設定資料集1冊と雑誌2冊を所有しています。
 今回の「断捨離」作業中に発見した4冊とあわせ、現時点で私が持っている雑誌6冊が全て出揃いました。上図の通りです。

 今となってはいずれも懐かしく、かつ貴重な刊行物ばかりですので、この機会に回想をまじえつつ紹介したいと思います。6冊全部並べると長くなりますので、3冊ずつ上下二回に分けます。


 6冊のなかで最も古い、月刊「アニメージュ」2010年4月号です。たぶん、「けいおん」特集記事目当てに初めて買ったものだろうと思います。2期の放送が決定したと聞いて狂喜し、その興奮も冷めやらぬうちにこの号が発売されましたので、勢いで買ったのでしょう。


 なにしろ、「けいおん」特集記事の扉がこれでしたからね。おおっ、再び唯がギー太を手にとるのか、と大喜びしたのを覚えています。


 特集記事は、1期の内容の振り返りです。1期を通じてそれぞれに成長してきたHTTの面々のエピソードがちりばめられています。今あらためて読んでいても、グッとくるものがあります。


 とじ込みポスターがまた素晴らしいんですね。切り取って壁に飾ろうかと何度も思いましたが、切り取るのも勿体無いと考え直して、そのままになっています。
 平沢唯と中野梓のコンビが笑顔で並ぶ図、というのはアニメ本編でもなかなか見られませんでしたから、こういう描き下ろしポスターを見ると嬉しくなってしまったものです。


 月刊「カット」2010年8月号です。これは、2010年1月に刊行された公式ガイド「桜高軽音部活動日誌」の後に続くスタッフインタビュー特集として予告されたため、発売日当日に書店へ走って購入したものです。特別付録として、劇中にも登場した「バックステージパス」が二種類ついていたのも大きな魅力でした。


 このキャッチコピーが素晴らしいですね。ガールズバンドを描いたアニメに対しては最上級の賛辞だと思います。


 月刊「アニメディア」2011年12月号です。劇場版公開直前の特集記事が読みたくて買いました。当時は「HTTがロンドンに行って軽音楽の本場から何かを学ぶのか?」などと思いもしましたが、普段がゆるふわな高校生たちに、そんなハイレベルな動きが出来る訳無いな」と考え直したりしましたね・・・。


 この特集記事を読んで、HTTがロンドンに行っちゃうんだ・・、と感動し、よし自分もロンドンに行くぞ、と決心したものでした。
 その半年後に模型サークルのツアーで本当にイギリスへ行きましたが、ロンドンに滞在したのは半日だけで、メインはボービントン戦車博物館の見学でした。「けいおん」の聖地巡礼どころではありませんでしたね・・・。


 付録もまた良かったですね。トラベルファイルとトラベルパスポートがついていました。


 トラベルファイルの表紙を見て、やっぱりアビイ・ロードに行くんだな、と納得しました。劇中では秋山澪がリクエストしていた場所でしたね・・・。 (続く)
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けいおん!の聖地をゆく8 その6 北山通へ

2017年06月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 上賀茂深泥池町の分岐の南側の西角には、上図のように自販機が並びます。京都では、景観保護の一環として自販機を一ヶ所に集めて配置するケースが少なくなく、他の都市のように街区のあちこちに自販機がある、ということがあまり無いです。
 その上図の場所が、劇中にも出ています。


 このシーンです。自販機の色が変わっている、道路の幅が狭くなっている、等の差はありますが、周辺の民家の描写がほぼ一致します。


 自販機の列の斜め向かいに建つ古民家です。鞍馬街道筋の風情を伝える数少ない建物です。その構えから、かつては何らかの店舗を兼ねていたように推察されます。


 その古民家が、劇中にて田井中律の背景になっています。現状でも、分岐路の目印にもなっている建物ですので、アニメに採り入れられてもおかしくありません。


 同地点より南の宅地の景色ですが、これも劇中に出ています。


 このように、田井中律と琴吹紬の背景になっています。分かりにくいかもしれませんが、琴吹紬の背景左側の民家が実在の姿をそのまま示しています。


 そのまま府道40号線を南下しました。道路の東側は下鴨地区になります。上図は、ローソン上賀茂榊田町店の東側の交差点です。


 その位置で劇中に登場していますが、かなりの建物が建て替わっているため、よく観察しないと同一の場所であることが分かりにくいです。大規模な宅地改編と道路拡張が北山通との交差までの範囲で実施されたため、かつての鞍馬街道の面影は微塵もありません。


 北山通との交差点に着きました。いったん南東側に渡って、北西角のレストランの建物を見ました。


 劇中では、そのレストランの建物の前を、山中さわ子先生の車が左折して鞍馬街道へと進んでゆきます。


 北山通を西へ約250メートルほど歩くと、上図の「キャピタル東洋亭」本店の前に着きます。京都北部ではよく知られた人気ランチスポットで、ちょうど昼時であったため、行列が出来ていました。この日の昼食をここでとることも選択肢に入れていたのですが、20人余りの待機列を見て諦めました。


 このお店には、三度ほど入った記憶があります。私はイタ飯が好きなので、どちらかというと京都駅にある姉妹店の「アンティカフェ」の方をよく利用しますが、基本的なメニューはこちらの本店と共通ですので、味も一緒です。
 「キャピタル東洋亭」の公式サイトはこちら


 待機列は横のベンチに居て、玄関のところは空いていましたので、早速撮影しました。この位置が劇中に出ているからです。


 このシーンですね。北山通では一番の老舗レストランの店先をさりげなく出してくるところが、京都アニメーションらしいですね。
 劇中ではこのカットだけで、「キャピタル東洋亭」の名前も建物全体も見えませんが、京都に長く住んでいる人ならば、知っている方も多いそうです。けいおんシリーズの放送時期にはすぐに聖地と特定されて、普段よりも多くの来客があったそうです。以前には店内にけいおんのイラストやポスターが貼ってあったのを、私も覚えています。 (続く)
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けいおん!の聖地をゆく8 その5 深泥のマラソンコース

2017年06月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 ケシ山の急坂を下ると、道はやや緩やかな下り坂となり、両側に民家が連なります。もとは鞍馬街道沿いに家が並ぶだけであったのが、近年に宅地化が進んで谷間や丘裾にも民家が連立しています。多くは新しい建物で、古い昔ながらの建物は道に面して点在します。


 同じアングルでの劇中シーンです。元々運動が苦手な平沢唯が、上賀茂深泥地区の坂道にてヘロヘロになっています。その後に落伍して行方不明になるわけですが、両側の民家の様子などがほぼ一致します。


 同地点から北にはケシ山の急坂が控えているのですから、平沢唯が体力だけでなく気力も尽きかけるのは無理もありません。


 上賀茂深泥地区の中心部で、道はようやく平坦になります。このあたりは古い民家も見られて、鞍馬街道の風情が僅かながらも残されています。そのためか、この景色が劇中にも登場しています。


 このシーンです。山中さわ子先生の愛車、スズキのワゴンR(二代目)が走り抜けてゆく場面です。路上のマンホール、側溝の網蓋も忠実に再現されています。


 西側の丘裾の段上に深泥貴船神社が鎮座します。周知のように鞍馬街道は貴船神社への参詣路でしたから、貴船神社の分社がまつられて参詣の目印になっています。


 さらに南に行くと、西側に深泥地蔵堂があります。街道筋の惣堂として付近住民の信仰を集めたとされる地蔵菩薩像をおまつりしています。江戸期までは、惣堂というのは大体は村の集会所としても機能していましたから、現在も同地区の公民館がお堂の背後にあります。


 地蔵堂です。


 境内にある石仏です。風化磨滅で形姿がはっきりしませんが、弥勒菩薩であるようです。以前は他にも石仏数体があったそうですが、盗まれたりして行方が分からなくなったそうです。


 扁額によれば、深泥を「みどろ」と読むのは間違いで、正しくは「みぞろ」であることが分かります。中世期の日本語で「みぞろ」は「山の中の谷に流れてくる水流が溜まる」という意味ですが、東に広がる深泥ケ池がまさにその通りの「みぞろ」の地であります。


 正面扉の小窓から内陣の地蔵菩薩像を拝みました。明治期に移坐されたもので、由来や製作年代等はよく分かっていません。一見したところ、南北朝期の作のようにみえます。


 さらに南下して、俗に「深泥分かれ」と呼ばれる、府道40号線と103号線との結節店の交差点に続くカーブ地点に着きました。この景色が劇中に登場します。


 このシーンですね。秋山澪が民家前にたたずんでいます。景色の再現度の高さは相変わらずです。


 同地点で、少し民家に寄って北側の道を見た景色です。


 これも劇中に出ています。既に相当の距離を走ってきたにもかかわらず、息切れどころか余裕の表情をみせる秋山澪です。ヘロヘロになってしまう平沢唯と違って、体力も気力も充分に備えていることが分かります。 (続く)
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けいおん!の聖地をゆく8 その4 ケシ山の峠道と急坂

2017年06月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 幡枝庄田公園を出て、街区を西へ横切って府道40号線、かつての鞍馬街道へ進みました。道に面して古い民家が散見されるとおり、近世まで京と鞍馬を結ぶ最短の街道として機能した道です。
 現在も岩倉幡枝エリアと北山通をつなぐ最短連絡路として使われています。江戸期そのままの道幅で峠を越え、山林や住宅地の中を通りますが、車の往来もかなりあるので、歩行者も注意が必要です。

 「けいおん」劇中のマラソン大会コースはこの鞍馬街道上賀茂越えの峠道を採用しており、実際に急坂が続くので、今回の巡礼では逆にたどって岩倉幡枝から降りていく形をとりました。


 程なく、東側に円通寺旧境内地が広がり、石仏や石標が並びます。ここに、かつては後水尾天皇の山荘だった幡枝御殿がありましたが、修学院離宮の造営に伴って近衛家に譲渡され、その後の延宝六年(1678)に霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となって寺に改め、皇室の祈願所とした歴史をもちます。国名勝に指定される枯山水庭園は幡枝御殿時代の造営とされ、中世末期の作庭様相をよく示しているとされます。


 街道を峠に向かってゆるやかに登ってゆくと、古びた石垣が左手に見えてきます。これも円通寺旧境内地に含まれており、何らかの付属施設もしくは坊などがあったと思われますが、遺跡の大半が未調査未解明のため、未だに詳しいことが分かっていません。
 この場所も、劇中に登場します。


 このシーンです。田井中律たちが、突然いなくなった平沢唯を探していて、駈けつけた山中さわ子先生に出会ったところです。景色はほぼそのままですね。


 この石垣の上に、田井中律、琴吹紬、秋山澪が居たわけですね。


 このシーンですが、さすがに石垣までは細かく再現されておらず、おおまかに描写されています。


 峠にさしかかります。このあたりは上賀茂地区の北端にあたり、現地の字は「ケシ山」です。


 峠を越えて南に降りて、振り返るとこういう景色です。このアングルで劇中に出てきます。


 このシーンです。あえぎつつ登る鈴木純の場面です。左の電柱や走行注意の標識、右の切り通し面が一致します。


 少し南に降りると分岐があります。右手が鞍馬街道になります。このアングルで劇中に出てきます。


 このシーンです。琴吹紬の後ろに見える交通標識を含めて、民家群の描写も大体そのままです。


 このあたりの鞍馬街道が、地元で「ケシ山の坂道」と呼ばれる長い急坂になっています。道幅が狭いため車での通行は、上図左に向かう道が推奨されています。


 「ケシ山の坂道」を50メートルほど降りて、振り返った図です。歩いて登ってもキツいので、マラソンで走るとなおさらです。


 劇中ではより距離と勾配が強調された描写になっています。マラソンコース中の最難関であったのは間違いなく、このあたりで平沢唯が落伍して行方不明になるわけです。

 このエリアは、京都に詳しい方でもあまり知らない範囲の一つで、私自身も岩倉幡枝の円通寺までは庭園見学で行ったことがありますが、峠を越えて「ケシ山の坂道」をたどるのは今回が初めてでした。京都アニメーションの製作スタッフもよくこんなルートを選んだなあ、と思います。松ヶ崎や修学院や北白川もそうですが、おそらく現地を知悉している方がいたのではないかな、と推測されます。 (続く)

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