竜宮窟の次は、上図の伊勢海老標語板を見に行きました。原作コミック第8巻69ページ4コマ目にて、志摩リンがスマホで撮影していた「でっかいエビ」がこれです。
志摩リンは、西伊豆から松崎を経て蛇石峠を越えてこの場所に至っています。その後、竜宮窟に立ち寄っています。なので、今回の私の行程は逆になっていました。
ですが、伊勢海老標語板から竜宮窟まで、志摩リンがどう走ったかは作中では示されていません。それもそのはず、地図で見ると竜宮窟の南の田牛海水浴場で道は行き止まりとなり、他の主要幹線は全て迂回しており、いったん下田市街まで引き返して国道136号線に戻ってから西へ進むという形しかありませんでした。ですが、それでは思いっきりの遠回りになります。
志摩リンは原付ビーノで移動し、下田にて鳥羽先生一行と合流するために急いでいましたから、遠回りなどはせずに、地図には載っていないような細い道や集落沿いの路地道を利用して最短距離ルートで進んでいるはずです。
そういう道が多分あるんじゃないか、と竜宮窟の観光駐車場にて地図をにらみつつ思案していたところ、たまたま巡回の警官がやってこられましたので、挨拶して道を尋ねました。
蛇石峠越えで堂ヶ島へ行きたいのですが、と言うと、相手は微笑し、田牛海水浴場の横の道を指さして教えてくれました。
「あのへんに三叉路があるから右に行きなさい。お寺の前を通って道なりに行けば、県道に出ますんで、右に曲がって日野の交差点に行きます。そこで左に行って国道136号になります。下賀茂に入ったら右の県道に行って北へ行きます。上賀茂の分岐で左に行けば、蛇石峠に行きます」
「車でも行けますか」
「ああ、大丈夫ですよ、山の中の道だけど以前はバスも通ってたし。15分もあれば下賀茂には着くでしょう」
「蛇石峠越えは、堂ヶ島への最短ルート、ということでいいのですか?」
「ああ、そうです。国道136号でも行けますけどね、南伊豆の海岸沿い辺りで結構曲がりくねって距離がありますからね、松崎へ出るにしても蛇石峠を越えて行くほうが全然近いですよ」
「蛇石峠越えの道は細いですか?」
「そんなに細くないと思いますけどね。昔は路線バスも走ってましたからね」
「あ、そうなんですか」
ということで、教えられた通りに走ってみましたら、あっさりと上図の場所に着いてしまいました。考えてみれば、志摩リンは原付で、こちらは車ですから、移動も早くて当たり前でした。
本当に、「でっかいエビ」ですね。なんでこんな山の中にオブジェがあるのでしょうか。昔はこのルートが海産物を運ぶ主要路だったのでしょうか。
なかなか来られる場所ではないな、と思いましたので、記念の自撮り。
付近の道路はこんな感じです。車を路肩に寄せて停めても、これだけの余裕があります。
その後、数分で蛇石峠に到達しましたが、その後はずっと下り坂がえんえんと続き、標高差がかなりあるのだと分かりました。
松崎町の川沿いの広い田園エリアに出てしばらく走り、上図の岩科郷土館に立ち寄りました。
この建物は、かつての岩科学校のそれです。明治13年に竣工した、静岡県最古の学校建築として知られ、国の重要文化財に指定されています。
日本における明治期の学校建築のベスト3というのがあります。明治8年の旧睦沢学校(山梨県甲府市)、明治9年の旧開智学校(長野県松本市)、そしてここ旧岩科学校、です。睦沢学校と開智学校は行ったことがありますが、こちらは未訪でしたので、今回の機会を生かして訪問することが出来ました。
外観は、近世城郭の関連建築に通ずるものがあります。明治期といっても、技術文化の大半はまだ伝統的手法を色濃く残しており、かつ西洋様式を取り入れても折衷の形で和式をも生かして共存させる方向にまとまっていた時代ならばでの様相がよく示されています。
なので、洋館スタイルの校舎の屋根が中世以来の伝統的な唐破風でまとめられる、というようなデザインに落ち着きます。これが当時の「文明開化」の考え方をよく表しています。新しいものを取り入れて進歩を目指すけれど、古くから伝わる良いものも継承してゆく、というスタンスです。
そのため、建築史学的な観点で見ますと、こういった明治初期の建築を観察することで、江戸末期までの標準的な和様建築の有り方がよく分かる、ということになります。
玄関の見事な欄間彫刻なども、江戸期の城郭御殿建築のそれとあまり変わりません。そういった大工たちが明治期にも腕を振るった、ということでしょう。
明治期の授業風景をマネキンで再現してありました。思えば日本と言う国は、他の国よりも教育を重視して国の施策としても力を入れてきた歴史があります。古くは室町幕府の学問所、江戸幕府の藩校および寺子屋があり、その延長上に明治政府の学制発布もあったわけです。
なので、世界のなかでみても、日本の識字率は中世戦国期の頃から高かったらしく、南蛮の宣教師たちが戦国期の日本に来て女子供でも読み書きが出来る層がかなり居たことに衝撃を受けています。
明治御一新の後、新政府が学校制度の充実に尽力しようとするのを見て、当時の諸外国列強は嘲笑いました。軍備を揃えて植民地を拡げるのが優先だろう、と。ですが、伊藤博文以下新政府の基本方針は、教育こそが富国強兵の礎である、と定まっていました。
なにしろ、日本と言う国は、古代より学問や教育に力を入れることで国力を高める努力を重ねてきた傾向があります。室町幕府の頃に教育機関を設けたことで、国力が飛躍的に向上し、鎌倉時代と比べて経済規模が約3倍となり、基幹工業力が向上して自力生産の幅が広がり輸入品に頼る品目が無くなった経緯があります。江戸幕府の施策でも教育が奨励され、それが産業の発展をうながして首都の江戸はもちろん、全国各地の諸藩も相当の発展をなしてきた歴史が実績としてあります。
だから、明治政府においても、国民にきちんと教育を施せば、日本はもっともっと発展して強い国になれる、という明確な信念があったわけです。
その結果が、二度の世界大戦に主要当事国として参戦出来るほどの列強国家でありましたが、しかし第二次大戦では政治的判断を誤って日本中が焦土に転じたのは残念な成り行きでした。
ですが、教育が悪かったという結論には必ずしもなりません。むしろ明治からの教育振興の流れが、そのまま戦後にも基準を民主的に一新して引き継がれている、と思います。
学校内の廊下は、城郭御殿建築の廊下と大して変わりません。そもそも和様建築というのは、平安鎌倉時代以来、そんなに変わっていないのですが、それは、四季という多彩な季節に合った建物を目指して行き着いた結果であるからだろう、と言われています。日本の四季に合わせた建築様式ですから、時代が変わっても替えようがないのです。
時代の特色は、むしろ上図のような、格式の高い部屋において内部をどのようにしつらえるか、というところに出てきます。江戸期までの日本には身分制度がありましたから、階級に応じた部屋の造りが求められます。そこをどう造るかに、その時代の意識と文化相が表れてきます。
上図の場合は、武家の御家人クラス、江戸期でいうと旗本クラスの階級の標準的な造りです。これが岩科学校における一番格の部屋ですから、校長や教師、学校の支援者クラスの身分的位置がどのように認識されていたかがうかがえます。校長や教師、学校の支援者の人々の階級が、江戸期には旗本クラスであったのでしょう。それより上の、例えば明治期に爵位が付くような大名、貴族クラスですと、もっと装飾性を高めた格調高い部屋になります。
このように、建具や扉に書や画を施すのは、江戸期では富裕商人層によくみられた傾向です。画のテーマが人物であるのも世俗的です。これが花鳥風月になりますと皇室や大名家のクラスに多くなります。
この時期の古建築の特徴の一つとして、良い材料を惜しみなく使用する、という点が挙げられます。上図の扉の板は当時としては最高級に属し、扉の上の梁もまた一本丸太から挽き起こした巨材を使っています。
現在は、どんなに金をかけても、こういった高級木材が払底していますから、似たような格式の建物を建てるのは難しくなっています。伝統的社寺建築の修理や新築ですら、台湾からの輸入材に頼っていますから、国内の生産材ではもう造れないのでしょう。
明治期の面白さは、学校建築に比べて地方自治体の役場などの建物が簡素かつ小さな規模であるのが一般的であったことです。役人とは公僕に過ぎず、国家と国民に全力で奉仕せよ、とする当時の基本方針をよく反映して贅沢はせず、建物も仮のもので済ませる傾向もありました。
なので、上図の旧岩科役場の建物なども、民家とあまり変わりません。この程度でも地域行政は普通に出来たわけです。
昨今の、やたらに税金を投じて無駄も多い箱モノ行政の役場建築はどこでも不必要に立派過ぎます。明治期の倹約意識を少しは見習ったほうが良いのでは、と思います。 (続く)