気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の12 「打吹山にて」

2017年02月05日 | 倉吉巡礼記

 Oさんの初の倉吉旅行の締めを打吹山登山とするのは、山登りが趣味のOさんにとって良い選択でした。天気は下り坂でしたが、山全体を歩き回るわけではなく、中腹の長谷寺と越中丸を見れば充分だというOさんの希望もあって、一時間ほどのコンパクトな山歩きとなりました。
 上図は、長谷寺参詣道を登るホシノ。(上画像はOさん提供)


 この日も参拝客の姿は無く、静寂の中に包まれる境内地の石段でした。


 今回は参詣道の途中から右にそれて荒尾志摩家墓所に向かいました。(上画像はOさん提供)


 鳥取中部地震で被害を受けたと聞いていたので、どの程度の被害なのかを確認しておきたかったのですが、現地に行ってみて、ちょっと後悔しました。思ったよりも被害がひどかったからです。無残、としかいいようがない状況でした。


 倉吉統治の初代、荒尾志摩嵩就の墓碑は基台と碑板の根元が割れて倒壊していました。基壇の羽目板も大きくずれており、一定方向に強い揺れを受けて耐えられずに崩壊した様子が明白でした。最初の揺れで基壇に亀裂が生じ、碑板の根元が横揺れで一瞬浮き上がって外れ、一度基盤に落下して基盤を二つに割ってそのまま後ろに倒れた、という成り行きであったようです。地震の衝撃の強さが改めてうかがえました。
 他の墓碑のなかには、基台ごと数十センチもずれたものもあり、その碑板が倒れずにそのまま立っているのが奇跡的でした。


 右隣の墓碑は、基壇は比較的耐えていたようで、碑板が差し込み穴から外れて後ろに転倒していました。いずれにしても修復には相当の費用と時間がかかることでしょう。合掌礼拝し、早い修理着手を祈念しました。


 墓地から長谷寺庫裏の脇に出て、縁側に出て来客と話しておられた住職に挨拶し、荒尾家墓所の被害と今後の修復事業の在り方などについて少し話をうかがいました。それから本堂へと登りました。(上画像はOさん提供)


 本堂は、地震にもよく耐えたようで、目立った破損やズレなどは見当たりませんでした。周囲の石灯籠なども大半がなんとか耐えてくれたようです。


 本堂内部からの景色です。紅葉の彩りはまだ保たれていて鮮やかでした。綺麗ですねえ、とOさん。どこでも山の景色は彼にとって心地よいもののようです。


 越中丸の石仏群もほとんど倒れてしまっていました。それらを一つ一つ見て確かめるホシノ。(上画像はOさん提供)


 しばらく物思いにふけるホシノ。(上画像はOさん提供)


 昨日近くまで行った伯耆大山が、曇天の下に霞んで見えました。この景色をOさんも楽しんでいました。おそらく彼は、いつかあの伯耆大山の頂きに向かって登るのでしょう。


 倉吉滞在最後の昼食は、幸雅の牛骨ラーメンで締めました。その薄味はOさんには物足りなかったようですが、旨さはストレートに感じたらしく、「毎日食べたいラーメンですね」となかなかの高評価でした。地元住民のなかには、この味を愛して毎日食べにいく方も居ると聞きます。私も、このお店のラーメンが毎日食べたいくらいに好きです。


 最後に、OさんをJR倉吉駅のバスターミナルまで送りました。そこからの空港バスで鳥取空港へ移動して帰路につく、ということだったからです。その途中で、Oさんが駐機中のひなビタラッピングバスを見つけたので、そちらへ近寄って行って撮影したりしました。
 ひなビタラッピングバス自体は、以前にも見たことがありますが、写真を撮ってもらうのは初めてでした。よい記念になったと思います。(上画像はOさん提供)

 やがて、Oさんの乗る空港バスがやってきました。乗り込んで席に着き、手を振るOさんでした。そのバスが向こうの建物の角を曲がって見えなくなるまで、ずっと見送りました。
 この三日間、大変に楽しく有意義な倉吉周遊の旅を共にしてくれた、ガルパン仲間のOさんに改めて感謝しつつ、降り出した雨の中を車に戻り、一息つきました。色々考えさせられる事、さまざまな発見や感動があったなあ、と一人で笑いつつ、エンジンをかけて駅前ロータリーから抜け出し、一路帰途につきました。

 以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9」のレポートを終わります。これをもって、聖地巡礼コンテンツ比較考察第二弾としての倉吉巡礼は完了とします。残る1シーズンは自身の興味対象への調査活動にあてることになりますが、時期は未定です。
 そして、聖地巡礼コンテンツ比較考察は第三弾に移行、新たなる地にステージを移してゆく予定です。

 なお、今回の旅に関しては、Oさんが自身のブログにてより詳細に、より感慨を込めて楽しく綴っておられますので、どうぞ御覧下さい。こちらです。
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の11 「倉吉の夜と朝」

2017年02月02日 | 倉吉巡礼記

 Tさんのお宅を辞して、この日の宿である「梅月」にチェックインしました。この宿も素泊まりでしたので夕食はTさんお気に入りの喫茶店で、と決めてありました。その前に風呂を、ということで私が関金温泉に行くことを提案しました。宿の御主人も「関金はいいですよ。是非」と勧めて下さいましたので、車で15分ほどの関金温泉「湯命館」に行って温泉を楽しみました。
 せっかく倉吉に来ているのだから、Oさんには三朝温泉だけでなく関金温泉も堪能して貰った方が、旅の思い出もより深まるだろう、と思いました。倉吉近辺の温泉はあともう一ヵ所、羽合温泉があるのですが、そちらは日程の都合で行けませんでした。

 関金温泉から宿に戻り、すぐに夕食場所である上図の喫茶店に急ぎました。宿から歩いて3分もかからない至近距離にあります。


 喫茶店の名前は「モダン」といいます。名の如く昭和レトロ風にまとめたパブ風の雰囲気がウリで、店内には1980年代頃の人気スターのポスターなどが貼られています。


 こんな感じです。カウンター席もあり、昔懐かしいインベーダーゲームやテレビゲームも楽しめるようになっており、ゲーム好きなOさんが早速テレビゲームを楽しんでいました。


 この日の夕食は牛骨ラーメンをいただきました。喫茶店で牛骨ラーメンが食べられるとは思っていなかったので、メニューを見て驚きました。スープが器一杯に張られているのにもびっくりしました。独特の風味ながらも、やっぱり倉吉の牛骨ラーメンの味でありました。意外に旨いので、もう一度食べに行きたいぐらいです。

 その夜は部屋にてかなりお酒を飲みましたので、酔っ払ってそのまま爆睡してしまったと思います。当時の記憶が全くありませんので・・・。


 翌朝の「松月」の店先です。かつては普通の旅館だったのですが、最近は素泊まり専門のゲストハウス調に経営方針を変更したとかで、名刺にもゲストハウス梅月とありました。料金も3000円以下と大変にリーズナブルでした。もとが旅館だけに施設はしっかりしているので、下手な民泊施設よりも安心感があります。古い町並みエリアの北西側に位置し、白壁土蔵群へのアクセスも良いです。バス停も近いし、駐車場も完備しています。

 なので、倉吉で安く泊まるなら、この「梅月」がおすすめでしょう。近くに喫茶店「モダン」や食事処「扇雀」などがあり、コンビニやスーパーもすぐ近くにありますので、食事や飲食物には不自由しません。今回泊まってみて、大変に利用しやすい施設であることが実感出来ました。


 とりあえず、白壁土蔵群エリアの南口の観光駐車場に移動しました。この日の昼過ぎにOさんは倉吉を発つ予定なので、それまでどう過ごすかを相談しました。天気も午後から下り坂になるとの予報でしたが、午前中いっぱいもてば良いので、とくに問題はありませんでした。(上画像はOさん提供)


 早朝の町並みを散歩しました。


 打吹山を望みつつ、歩き回りました。


 どこにも人が居ませんでした。


 とりあえず朝食を「あじくらや」に予定していたのでそちらへ行ったのですが、土曜日の営業開始時間が過ぎたにもかかわらず閉まったままでした。定休のお知らせすら表示されておらず、倉吉の情報周知の不足ぶりがここでも露呈していました。


 それで次の候補としてダイアナに向かいましたが、なんと定休日でした。それ以上の下調べをやっていなかったので、Oさんがスマホで検索して調べたり電話したりして、結果的に上図の喫茶店「SPANGLE」に入りました。関金への途中にあるお店でした。


 このお店は私も初めて知りましたが、ランチのメニューはなかなか力が入っているようで、いずれ機会があったら昼食利用してみたい、と思いました。


 この日いただいたモーニングセットです。なかなか良い感じです。雑穀粥とパンとサラダの組み合わせがヘルシーで美味しかったです。地元の方々にもよく利用されているようです。


 引き返して旧市街に戻り、土産物の大半を宅急便で発送しておきたいとのOさんの要望に応じて、市内のクロネコヤマトの営業所に行きました。が、タッチパネルでの手続きに手間取り、発送完了までに相当の時間を費やしました。
 その後、時間を確認すると、まだ三時間ほどの余裕がありました。Oさんが旅の計画にてリクエストしていた場所のうち、行っていないのが打吹山だけでしたので、次の行き先がそのまま決まりました。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の10 「赤碕にて」

2017年01月31日 | 倉吉巡礼記

 光地区から赤碕港に移動し、Tさんお薦めの「塩谷定好写真記念館」に行きました。以前の記事にて紹介した場所ですので、ここでは解説を割愛します。


 内部はこんな感じです。どこにでもある古民家の一例です。


 古民家の公開展示の事例としては珍しく、各所に照明を置いています。単なる登録文化財だから出来ることですが、国や県の指定文化財であれば基本的に禁止される筈です。


 Tさんお気に入りの土蔵内喫茶スペースです。


 見学後は、赤碕港の旧波止場に行きました。


 OさんもTさんも足早に「三度笠」のモニュメントに向かっていきました。


 私は、ぼんやりと白波の寄せては引く繰り返しを眺めておりました。


 戦時中は、帝国海軍第十一水雷戦隊の所属艦艇が臨時に停泊する港に指定されていたと聞いたことがあります。停泊というより、米軍機の空襲を避けての退避の形だったようです。第十一水雷戦隊は母港が舞鶴でしたが、所属艦艇は小浜港や鳥取港などに分散していたようです。中核兵力の第53駆逐隊は特別警備艦となっていたようですが、当時の赤碕港の沖には既に敵潜水艦の出没が報告されており、駆逐艦の退避すら困難であったことでしょう。


 なので、駆逐艦が入港した、という記録や伝承は、赤碕港には全くありません。


 赤碕港は遠浅の海に設けられているため、水深はそんなになく、旧帝国海軍の駆逐艦の停泊は不可能だった筈です。上図の外堤の沖合に錨を下ろして停泊し、内火艇で港と連絡する形になった筈です。


 赤碕から倉吉に戻り、Tさんのお宅にお邪魔しました。鳥取中部地震の被害部分がブルーシートで覆われていました。


 Tさん自慢のフィギュアコレクションなどを見せて貰いました。私自身はよく知らないキャラクターばかりでしたので、Tさんの説明を聞いていても「?」の連続でした。HTTのロンドンバージョンがあったらいいのに、などと思ってしまいました。


 壁にはひなビタの二種のタペストリーが掛けてありました。ひなビタファンの定番グッズであるそうですが、Tさんは記念品として買ったそうです。私は上図左側のもののみ買いましたが、Tさんと同じく、記念品としての意味合いが強かったです。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の9 「光集落の鏝絵」

2017年01月29日 | 倉吉巡礼記

 大山の北裾を斜めに下る形で樹海の中を走った後、琴浦町域に達して赤碕地区に入った時点で上図の光(みつ)地区に行きました。Tさんお気に入りのスポットである鏝絵の集中地区でした。


 光地区は、いわゆる中世期以降の集落形態を色濃く残す所で、土蔵が多いことでも知られます。


 これが鏝絵(こてえ)です。漆喰を用いて作られるレリーフです。左官職人がこて(左官ごて)で仕上げていくのでこの名があります。モチーフは、福を招く物語、花鳥風月などが多いです。


 鏝絵は、全国各地の古い町並みに見られる建築意匠の一つで、時期的には江戸末期から昭和初期にかけてのものが多いですが、伝統技術として現代にも受け継がれているため、いまも新築の和風民家に鏝絵を施している事例が少なくありません。漆喰で造りますので、漆喰造りの土蔵に多く多用されています。


 古い時期の鏝絵は家紋や文様をあしらった浮彫程度の薄いものですが、昭和になってからは鳥や魚などを表すことが多くなり、表現も立体的となって上図のようにリアルな造りが好まれました。これは全国的な傾向ともよく一致していますが、要するに庶民の建築文化の一端であるので、庶民の裕福化にともなって鏝絵の質が向上してくるわけです。


 光集落においては、大抵の民家が富裕農民の系譜にあるようで地割も大きくとり、母屋に土蔵が並ぶL字配置の構えが一般的です。これは中世の平安京の一般的な「住居と付属施設」の構えが主に西日本各地に流布したものですが、ここ光集落のスタイルはどちらかというと武家屋敷のそれに近いです。母屋と土蔵が離れずに接しているケースが多く、間を広く空ける農民の住居のパターンとは違います。


 上図の作例は彩色を施してあります。本来の鏝絵は、漆喰の色をそのまま生かして「白眉ヲ競フ」状態を目指したので、白い漆喰のままに仕上げられるのが普通です。したがって彩色付きのものは昭和期に入って価値観が多様化していったプロセスを示していると解釈出来ます。


 この光地区では、全48戸のうちの24棟に鏝絵が施されています。半分というのは相当の密集度であり、全国的にも珍しいです。


 ただ、作例の大半が昭和期以降のものなので、文化財的観点での評価はまだなされていません。現在も続いている建築意匠ですから、伝統的技術の範疇で捉えられるほうでしょう。


 とにかく色々ありますが、土蔵全体の漆喰の仕上げにも見るべきものがあります。他地域の鏝絵はそれのみに造形作業が集中するので立派なものがありますが、こちらは土蔵全体を綺麗に仕上げたなかでのワンポイントという感じでまとめた鏝絵です。


 私の見てきた限りでは、九州の大分県エリアの鏝絵が最も豪華で華美で状態も良いものとして印象に残ります。鏝絵そのものは全国に約3000の作例を数えますが、そのうちの約1000が大分県にあります。かつて大分県に住んでいた頃に、大分県宇佐市の安心院(あじむ)の鏝絵を見てものすごく感動しました。
 あと、静岡県賀茂郡松崎町の鏝絵も印象に残っています。大分も静岡も、優れた左官職人が多く活動した地域であるので、鏝絵がよく残っています。ここ光地区でも、腕の良い左官職人が活動していたのでしょう。


 集落の外縁ラインに接する土蔵は、上図のように外回りの壁の大半を黒漆塗りの下見板で囲みます。一般的には雨除けですが、本来は蔵の一階部分が木造吹き放ちであったために周囲を板壁で覆ったのが始まりです。
 もともと蔵は古代以来の高床式であり、中世にもその形式が踏襲されたため、蔵の一階は厩であったり物置であったりしたのです。これが戦国期になると武器庫または防御区画に転用されたため、板壁に狭間を取り付けて、弓や鉄砲などの射撃を行ないました。

 上図の土蔵は、集落の出入り口である木戸に接して塁線上の「折れ(防御上有利な屈折または突出部)」の位置に有り、番所または見張り所の機能も果たしたようです。有事の際にはここに守備兵を配して木戸に進む敵を迎撃することになり、「折れ」の位置にあることでいわゆる「横矢(横からの攻撃)」が効きます。よく見ると、周囲をめぐる道路は不自然に曲がったり屈折したりしているので、もとは環濠であった可能性があります。
 つまり、この光集落は、中世戦国期の自衛的色彩の強い集落の形態を色濃く残しています。中世戦国期の歴史に関心を持つ自分にとっては、そちらの要素も大変に興味深いものでありました。


 なので、内部の民家の多くが武家屋敷の構えをみせて母屋と土蔵が隣接している点は、中世戦国期の自衛的色彩の強い集落の形態としてみれば、納得出来ます。敷地の入口に土蔵を置いて護りを固めている形だからです。そして江戸期からの平和な時代になった結果、荒壁仕上げだった蔵に漆喰を塗って綺麗に仕上げ、鏝絵を飾るようになった、という流れではないかと思います。


 ともあれ、なかなか興味深く参考になりました。奈良県に住んでいた頃に、県内の約200ヶ所の中世戦国期からの環濠集落を訪ね回って探査した日々が懐かしく思い出されました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の8 「大山の東麓から北裾へ」

2017年01月25日 | 倉吉巡礼記

 鍵掛峠の展望所からは、大山の南壁がこのように望まれます。絶好のビューポイントであり、多くの観光客が必ずここに立ち寄ります。この日は快晴でしたから、雪に彩られた稜線がくっきりと浮かび上がり、より霊山の雰囲気が高まっていました。


 大山南壁を背景にするホシノ。伯耆守はやっぱり伯耆大山の麓に居ると心が安らぎます・・・。 (画像はOさん提供)


 大山南壁を撮影するホシノ。一枚でも撮らずにはいられません。 (画像はOさん提供)


 偶然にも、倉吉の知人Tさんも来ました。以前に大洗へ共に行った方です。突然の再会を喜び合い、Oさんに紹介したのち、再び大山南壁の威容に見入りました。双眼鏡も持参して眺めるTさんでした。 (画像はOさん提供)


 綺麗な山容です。


 とにかく素晴らしい。全然見飽きません。


 その後はTさんも加わって三人で移動しました。大山周遊道路をそのまま進んで大山西麓の枡水原に回りました。枡水原からの眺望は上図の如くで、富士山みたいな表情に変わります。


 枡水原は、一帯が牧場やスキー場などの草原であるため、西側から北側にかけての眺望が抜群で、弓ヶ浜、日本海の海原も望まれます。伯耆大山の西裾の雄大な広がりを見渡せます。


 この日の昼食は、Tさんの案内で枡水高原のレジャー施設「大山まきばみるくの里」でいただきました。


 こんな感じの昼食でした。


 ホシノの選んだメニューです。ハンバーグのホワイトクリーム何とか・・・でした。


 デザートのロールケーキです。


 やっぱり大山は素晴らしいです。山登りが趣味のOさんも、感動がずっと続いていたようで、何度も「登ってみたいです」と話していました。


 その後は、Tさんの案内で赤碕経由で倉吉に戻ることに決まりました。それでは、とTさんが先導になり、大山寺門前から豪円寺スキー場へと回り、大山北壁が見えるポイントへ案内してくれました。


 大山の北麓は、平らな傾斜地が多く、豪円寺スキー場や大山国際スキー場などがあります。日本海が望まれるので景色も良いです。


 大山北壁です。とにかく素晴らしい。豪円寺のろし台展望所へ行けばもっと良い景色が楽しめます。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の7 「伯耆大山の麓へ」

2017年01月22日 | 倉吉巡礼記

 三朝温泉の朝は、差し込む陽光に包まれての爽快な気分で迎えました。前の晩、食後に作っていたM3グラントのプラモデルも、塗装前の組み立てを終えました。いやー、出来上がると、本当に気持ちがいいものです。塗装はさすがに旅先では出来ませんので、帰宅してからやる予定です。 (上画像はOさん提供)


 朝食です。なかなか良い品揃えです。談笑しつつ、美味しくいただきました。


 メインの湯豆腐がなかなかでした。三朝温泉の飲泉用の湯が使われているため、味が柔らかくて豆腐自体にまろやかさが加わっていました。食べた後にホカホカしてきたのも、ラドンの効果でしょうか。


 朝の温泉街の景色です。この日は素晴らしい快晴でした。


 宿を出発する際に、駐車場の前で一枚撮りました。


 観光案内所の駐車場に車を入れ、Oさんに朝の三朝橋界隈を楽しんでもらいました。


 三徳川です。街区から下流にいくと名前が変わって三朝川になります。


 河原の露天風呂です。こういう朝の時間帯には入ったことがありませんが、夏の夜には何度か入りに行った記憶があります。


 この日は、山が大好きなOさんを伯耆大山に案内しました。倉吉から関金、犬挟峠を経て岡山県の蒜山高原に回り、大山へは南から近づくルートで行くことにしました。米子自動車道蒜山インターの近くの上福田の三叉路にコンビニがあり、それが周辺一帯では唯一のコンビニであるため、そこで小休止しました。
 その際に、地図でルートを再確認するホシノ。大山へ近づくルートは全部で六ヶ所あり、大体は大山環状道路を通るのですが、やや迂回気味できついカーブの連続であるため、それよりは下蚊屋か美用から真っ直ぐ上がっていく方が楽だろうと判断しました。そこで、上福田より蒜山高原のススキ原をくるっと回った後、国道482号線で下蚊屋まで行くことにしました。 (上画像はOさん提供)


 下蚊屋からのルートを選んだのは、近くの御机ルートと同じく、大山の南壁が割合に良く望まれるからです。特に下蚊屋バイパスの新道部分は景観がよく開けており、道幅もゆったりして脇のスペースも広いため、一度停めて写真を撮りました。 (上画像はOさん提供)

 ですが、観光客の中には、周りの交通状況に配慮することなく勝手に車を道路上に停めて撮影に興じる危険な人々も居ました。カーブの中でそういう車が停まっていると思わぬ事故に繋がる危険が大きいです。
 私は、毎度のことなので注意して走り、そういった気配の車を見たら徐行するか追い越すかして避けていましたが、交通ルールの乱れに我慢がならないOさんは、不快の色を眉間ににじませて色々と不満を述べていました。


 この時ホシノが撮った画像です。


 私にとっては、伯耆大山が「心の御山」です。いつみても飽きません。高い山が少ない西日本においては、東の富士山と並び称せられる高峰です。


 下蚊屋バイパスのループ橋からいったん下蚊屋地区の交差点に降りた後、そこから広域農道をまっすぐに駆けあがって大山高原の上に進みました。このルートは初めて走ったショートカットコースですが、結果的にはアタリでした。上図のような感じで、左前方に大山南壁がずっと見えて楽しいものでした。Oさんは、北海道を走ってるみたいな感じですねー、とか話していました。


 伯耆守を名乗るだけあって、伯耆大山に行けばテンションが上がりまくりのホシノ。記念に一枚撮っていただきました。


 大山環状道路に合流し、ブナ林の中に見え隠れする南壁を見つつカーブの連続を進み、やがて鍵掛峠に着きました。大山南壁を望む一番の展望所です。けっこう観光客が来ていて、駐車スペースは満杯でしたが、程なくして一台分が空いたので、そこへ滑り込みました。 (上画像はOさん提供) (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の6 「三朝温泉にて」

2017年01月19日 | 倉吉巡礼記

 三朝温泉は、現在は三徳川をはさんで南北に街区が形成されています。昔ながらの温泉街は南側にあり、元湯を囲む広場の周辺に温泉旅館や関連施設が並び、細い路地にて結ばれています。その街区が満杯になって川の北側にも広がり、大型の宿泊施設やホテルなどが林立しています。
 江戸期には鳥取藩の湯治場としても栄え、三仏寺参詣の宿場町としての機能も果たしたため、南側の旧街区は近世までの町並みの風情が各所に残されています。
 上図は、元湯の広場を撮影するホシノ。 (画像はOさん提供)


 元湯の広場の一角には、温泉の護持仏として祀られてきた薬師を安置する小堂があります。この建物が、三朝温泉街の長い歴史を端的に示してくれます。


 堂内に安置される薬師三尊像です。左右の脇侍像は江戸期の追加なので、もとは薬師如来像が独尊として祀られてきた可能性があります。現状では左腕部および両膝部を欠いており、相当の衰微退転の流れを経てきたものと推察されます。
 ですが、仏像の中心部分である頭体の根幹部がほぼ原状をとどめており、それによって制作年代および造立背景もある程度おさえられます。


 20年前、鳥取市に住んで歴史研究団体「因伯古代寺院研究会」に参加していた時期、鹿野町の会員の方に「三朝温泉の薬師仏の年代を教えて欲しい」と言われ、案内してもらったのが、この像との出会いでした。
 当時は薬師堂も仮の粗末な建物で、庇が傾きかけて内部は仏像の他に色々なガラクタが押し込まれて物置のような状態でした。その際に、この薬師像を見て、すぐに藤原時代の造立、材は檜、11世紀末期頃の寄木造の遺品である、と鑑定しました。
 当時はまだ像表面に顔料の丹および下地の胡粉が僅かに残っていて、左頬には金箔の下地の漆がかすかに見えました。それで天台宗特有の朱衣金身の薬師像である可能性が強く推定されました。伯耆国は、平安時代には既に伯耆大山の天台宗大山寺、三徳山の天台宗三仏寺などの古刹を配置して天台宗の勢力圏でありましたから、三仏寺麓の温泉として古くに開かれた三朝温泉も、天台宗が管理していた時期があったと考えられます。

 そして、薬師というほとけは、名の通り医学、医術全般をつかさどる仏ですので、湯治も医療の一種、温泉水を薬の一種とみなしていた仏教においては、温泉の化身または護持仏として祀られることが多く、似たような効験を有する地蔵菩薩とともに、温泉地の二大尊像と呼ばれてきた歴史があります。
 三朝温泉の場合は、その護持仏の遺品が平安時代中期の藤原時代の作であるので、既にその頃には温泉街が形成されていて、その宗教的中心として薬師像が造立され、元湯の信仰拠点を担っていた状況が伺えます。

 つまり、三朝温泉が平安時代以来の古湯であることは、この仏像遺品の存在によっても明らかであるわけです。一般的な伝承では1163年に発見されたといい、それをふまえて開湯850年などと祝っていたりしましたが、三仏寺の整備年代とも考えあわせると、実際の開湯時期はもう少し遡るのではないかと思います。
 その場合、薬師堂薬師仏の推定年代が11世紀末でありますから、11世紀代に三朝温泉の開湯がなされた可能性も否定出来ません。
 ともあれ、私にとっては懐かしい仏像です。20年前の、学問研究に情熱をかけて各地を探訪していた自分に戻ったような気分になりました。


 三朝温泉の元湯のひとつで、「薬師の湯」と呼ばれる湧出地です。一般的には街区の東寄りにある「株湯」を三朝温泉の起源とみなして元湯と称していますが、湯の湧出地が異なるだけで水脈および泉源は同じですので、「薬師の湯」も、河原露天湯も「たまわりの湯」もみな元湯と呼んでさしつかえありません。


 ここでは足湯が楽しめるようになっています。三朝温泉に三ヵ所ずつある共同浴場、足湯、飲泉所のうちの一つです。


 熱い湯がこんこんと湧き出ていました。


 温泉街の射的場です。昔懐かしい昭和の遊技場のスタイルが残されています。観光客には外国人も少なく無く、射的に興じていた数人のグループをOさんが「中国人かな」と言っていました。Oさんは中国語を理解するそうですが、私はほとんどダメです。


 黄昏の三朝橋を河原から見上げました。


 三朝橋の脇にある共同浴場の一つ、「たまわりの湯」です。20年前によく行っていた頃は「菩薩の湯」と称していましたが・・・。


 かつては「菩薩の湯」の売店として大山ミルクや蒜山アイスを売っていた施設が、いまはNPOの事務所と観光土産店とに分かれていました。


 三朝温泉観光案内書のイルミネーションは「元気です」となっていました。地震があったけど大したこと無いよ、みんな無事で元気だよ、というメッセージの積りでしょうが、しかし余震は続いていました。


 何だ、このミササラドンという、Oさんみたいな怪獣は・・・。三朝温泉のラドンが元ネタですな。


 旅館に戻って、夕食をいただきました。


 鳥取の冬の味覚の代表格、松葉カニです。ズワイガニの成長した雄のことです。


 伯耆牛肉です。鳥取県は古来より牛の生産地として知られ、江戸期には鳥取藩が牛の購入資金を貸し付ける「牛銀制度」を設けて牛の飼育を奨励していました。現在は放牧地が岡山県側の蒜山エリアにも広がっていますが、大山西麓の牧場の生産品とあわせてひっくるめて伯耆牛と呼ばれます。


 打吹蕎麦です。鳥取県の蕎麦は、古くは大山麓の大山蕎麦が有名でしたが、江戸期に鳥取藩国家老荒尾志摩家が蕎麦職人を大山より招いて倉吉に置いたのが始まりとされています。十割蕎麦の特徴を生かした風味がウリです。


 「モサ海老」です。 鳥取県特産の黒雑魚海老の通称です。甘海老に近いですが食感や旨味は格上です。日本海では定番的な寿司ネタの一つでもあります。牛骨ラーメンと同じく、関東ではまずお目にかかれない食べ物です。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の5 「飛鳥とダイアナと橋津屋」

2017年01月16日 | 倉吉巡礼記

 町並みを東へ進んで玉川の脇から折れて八橋往還に戻り、東へ進んで「飛鳥」に行きました。Oさんのリクエストによってこの日の昼食をここでとることにしました。私も初めて入るお店でした。


 古民家を利用した食事処ですが、畳の部屋にもテーブルセットを並べて洋風スタイルに替えてあります。座敷として演出していないところに、このお店のポリシーが感じられます。


 注文した料理の配膳が完了し、店員さんがお茶を入れてくれる間、料理の数々を眺めるホシノ。(上画像はOさん提供)


 この時の料理です。確か「天麩羅御膳」だったかと記憶しています。倉吉でこの種の料理をいただくのは、実は今回が初めてでした。20年前に毎週通っていた時期には、牛骨ラーメンか打吹蕎麦か洋食定食もののどれかを食べていたからです。その頃の倉吉には、「飛鳥」のような食事処はまだ有りませんでした。


 この日の宿は、Oさんのリクエストによって三朝温泉に予約してありました。それで午後は三朝温泉に移動することになりましたが、その途中にOさんリクエストの喫茶店「ダイアナ」があるので立ち寄りました。このお店の名物「C.K.P」を食べたいとOさんがかねて希望していたからです。


 早速、店先の春日咲子パネルを撮影するOさん。


 久し振りの「C.K.P」に対面するホシノ。(上画像はOさん提供)


 ちくわパフェだよ、C.K.P!・・・という調子でパクッとノリノリで行けば良いのですが、昼食をとったばかりのOさんには相当の苦行だったようでした。口は喜んでるけどお腹は悲鳴を上げてる、とか何とかボヤキつつも、何とか完食にこぎつけていました。要は、考え方次第ですよ・・・・。


 三朝温泉街を抜けて三仏寺投入堂遥拝所に行きました。道端の東屋に備え付けてある望遠鏡で投入堂を見るホシノ。(上画像はOさん提供)


 大体こんな感じに三仏寺投入堂が望まれました。いつみても奇観としか言いようがありません。断崖絶壁の窪みに建物を押しこむようにして懸造で構築するという発想と情熱と労苦は、凡人の理解を超えています。いかなる契機によってもたらされたのでしょうか。日本一危険な国宝、と形容されているようですが、個人的な実感としては日本一不可解な国宝、という表現を採りたいです。

 Oさんは山登りが第一の趣味なので、この奇観の山塊の様相にもかなり魅せられた様子でした。あそこまで登るんですか、いやこれは登ってみたいですねえ、等と話していました。


 夕方に三朝温泉の宿「橋津屋」に入りました。もちろん私も初めてでした。いつもは新街区の「斉木別館」に泊まっていたので、三徳川の南岸の旧街区には、散策でしか入ったことがありません。狭い街路が入り組んでいることも知っていたので、宿がその中にあると分かった途端にまず思ったのは、そこへ車で入れるのか、駐車場はあるのか、の二点でした。

 問い合わせたところ、宿の隣に駐車場があるということで、そこまで狭い路地を進みました。その狭さにOさんも少しビビったようでしたが、難なく駐車場に着き、宿の従業員さんの誘導もいただきました。


 いい雰囲気の部屋です。今回の旅程にて最も高級かつ立派な宿でした。三朝温泉の旧街区のやや東側に位置し、元湯のすぐ近くにあります。温泉街の風情の濃さに、これぞ三朝温泉だな、と感心しました。


 しばし寛ぐホシノ。(上画像はOさん提供)


 部屋の窓から見える景色です。建物がひしめき合って並ぶ旧街区の特徴的な景観の一端です。


 元湯の東屋には灯りがともされていました。昔ながらの三朝温泉街の中心地であり、江戸期に現在の状態に整備されたといいます。


 夕食の時間までまだ間があったので、とりあえず温泉街を散歩しますか、ということになり、部屋を出ました。施設内に段差があり、私たちの部屋は一段低い位置にあったようです。廊下の内装も立派で、いかにも元湯近くの伝統的高級旅館といった雰囲気でした。ガルパン大洗でこれに匹敵する施設といえば、「さかなや隠居」ぐらいでしょうか。


 「橋津屋」の外観です。二階部分の三つの窓のうち、一番左が私たちの部屋のそれでした。一段低い位置にあるのが、外から見ても分かりました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の4 「町並み散策」

2017年01月13日 | 倉吉巡礼記

 市役所を出る際に北側の町並みの甍の波を見ました。各所に青く浮き出るブルーシートが地震被害の広がりを端的に示していました。大部分は屋根瓦にダメージがあったようですが、逆に言えば建物本体への被害は大きくはなく、全体的に行って倉吉の町並みが地震にも割合に耐えられるように造られてきた歴史がうかがえます。
 倉吉は江戸期に二度の大火を経験しているので、耐火防火の意識も強めており、さらに鳥取藩は幾多の地震に直面してその都度対策を施してきた経緯があります。他地域の古い町並みに比べると街路の幅が広くとられ、クランクや屈曲のある道が減らされているのもその表れでしょう。倉吉を自分手政治にて任された国家老荒尾志摩家の施策が、いかに民政に重きを置いていたかが理解出来ます。


 再び町並みエリアに入り、広がる青空の下での散策をOさんに楽しんでいただきました。大洗よりも広く深い町並みの風情に、色々と感慨を重ねていたようでした。


 この日は、町並みエリアの各所の古民家の内部見学もやりました。最初に上図の「豊田家住宅」へ案内しました。


 解説ボランティアの方の説明に導かれつつ、表向から中庭、奥座敷、その二階へと進みました。


 奥座敷二階から見る土蔵の、二つの棟の段差辺りに地震被害の大きな亀裂が見られました。構造的に二つの建物を貼り合わせてある部分ですから、揺れると双方の小屋組みがそれぞれに振動します。外壁の漆喰がそれに耐えられずに剥がれたり破れたりして、亀裂が生じるわけです。
 ですが、この程度で済んでいます。漆喰の補修で大体は済むところに、この地域の古建築の堅牢さがうかがえます。


 土間に並ぶ福の神の像です。こういう福の神ってあちこちにありますね、とOさん。


 続いて近くの駄菓子店に行きました。芽兎めうのパネルがありますが、あまり「ひなビタ」に入れ込まないOさんなので、店内の駄菓子類のほうに興味津々のようでした。


 その後、店先にて店主の息子さんと色々話していましたが、元々ガルパンファンはこうした交流には慣れています。問題は、大洗の人々と違って倉吉の人々の社交性があまり無いことでありました。多くのお店では会話が挨拶程度に終わってしまうので、なにか物足りません。


 次に、倉吉では最古の民家建築遺構として有名な淀屋へ行きました。


 とりあえず、どういった古建築であるかを簡潔に説明するホシノ。(上画像はOさん提供)


 和泉一舞のパネルも健在でした。と言うか、もうパネルが無いと淀屋の「風景」が成立しないまでに定着してきています。ガルパン大洗でも同様なので、パネル設置の常態化の視覚的効果というものが、思った以上に大きい事が分かります。


 淀屋内部の構造や修理箇所を眺めるホシノ。何も考えて無さそうなボンヤリした頼りない外見ですが、その頭は猛烈に回転しさまざまな思索を重ねています。ただ、その大部分を次の瞬間に忘却してしまうという特技もあります。(上画像はOさん提供)


 二階部分には、この建物の修理事業における修理箇所の具体的な解説展示が実際の木組みによってなされてありました。釘を使わずに木をどのように組み合わせるか、という大工の知恵の数々が示されて興味深いものがあります。
 日本人は古代からずっと木造建築と向き合っており、神殿建築もその原始形態は丸太を組み合わせる形式であり、仏教と共に導入された伽藍建築も木組みによる接合で建物を構える形でした。釘を使ったとしても、基本的には木釘または竹釘であったところに、金属製品の耐久度の低さを理解していた歴史が垣間見えます。


 現存最古の現役の銭湯である大社湯の建物を見ました。先日の地震で内装に相当の被害を受け、一時は廃業を考えたそうですが、最終的判断としては存続に落ち着いた、と聞いています。


 色々な建物を見て、とにかく歩いているせいか、Oさんは「倉吉って広いですねー」と三回ぐらい言いました。ガルパン大洗は細長い商店街と散在する古民家の繋ぎ合わせにしか過ぎませんから、町並みの広さと奥行きにおいては倉吉の方がはるかに上です。面の広がりによって、重要伝統的建造物保存地区とその周辺景観保全地区とに指定されているわけですから、町並み散策の面白さの中身が格段に違います。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の3 「仏石山と鉄道記念館と市役所」

2017年01月10日 | 倉吉巡礼記

 二日目の朝は晴れでした。朝食は倉吉市卸売市場敷地内の「すずや食堂」でとりました。店名が無くて大きな「食堂」の看板だけが目立つ外観を、Oさんもスマホで撮影していました。


 倉吉の朝ラーをいただこう、と牛骨ラーメンを食べました。このお店の味もまた格別です。Oさんは「労働者のラーメンですね」となかなか核心を突いた評価を述べていました。


 旧市街地へ戻る途中、見日町の巌橋付近にさしかかったので、ちょっと仏石山を見てゆきますか、と提案してそちらに回りました。伯耆守護職山名氏の最初の守護所があったと伝わる田内城跡のある山です。


 山の南側の岩壁に彫られた「岩阿弥陀」こと阿弥陀仏名号碑を撮影するホシノ。(上画像はOさん提供)


 このときホシノが撮影した画像。


 「岩阿弥陀」の裏にあった釈迦堂は、先日の鳥取中部地震にて崩落全壊していました。


 上の道路から改めて釈迦堂の辺りを見ると、山の上の方に積み重なっていた岩石が、土砂ごと崩れ落ちて釈迦堂を押しつぶしたような痕跡がありました。横の「岩阿弥陀」の岩崖はビクともしておらず、土中に隠れている部分の方が大きいように感じられました。


 釈迦堂の崩壊現場を見るOさん。


 旧市街の町並みエリアに戻り、倉吉線鉄道記念館を案内しました。展示写真の数々において、かつての倉吉の各地の風景が、現在とかなり違うのを、興味深そうに見ていたOさんでした。戦前の景色も幾つかありましたが、いずれにおいても打吹山の山容は今とあまり変わらないのでした。


 芽兎めうは今日も元気でした。この日は入口付近に居たので、ドアの外からもよく見えました。


 屋外展示のC11形蒸気機関車を撮影するOさん。


 C11形蒸気機関車の運転席におさまって「にわか鉄オタ」に転ずるOさん。


 続いて纒お姉さんのデスクを見物するべく、倉吉市役所に移動しました。上図は一階エントランスの掲示板にある「ひなビタ」ファン、倉野川市民、ちくわ軍兵士たちの寄せ書きです。似たようなのがガルパンの大洗にもありますね。


 二階の入り口に向かいつつ、北側の景色を見やるホシノ。(上画像はOさん提供)


 久領堤纒お姉さんのデスクです。背後の窓ガラスは地震の際に割れたそうで、応急処置としてベニヤ板が張ってありました。


 纒お姉さんのデスクを撮影するOさん。細部までこだわった演出ぶりに感心していました。

 その後観光交流課の窓口などをのぞいていたら、奥の方から企画振興部の岩本部長さんが「星野さん、星野さんじゃないですか!」と笑顔で近づいてきました。挨拶を返すのもそこそこに、奥の応接室に招き入れられました。
 突然の事態にOさんは面食らっていたようですが、先方は私が数人のガルパン仲間を倉吉観光に案内していることを御存知なので、今回もその一人を案内しているのだろうと察したのでしょう。にこやかに挨拶し倉吉観光の感想などを尋ね、観光資料などを渡していました。

 その際に、今後の「ひなビタ」企画の流れや素案なども語られ、倉吉市当局サイドの基本姿勢などが改めて示されました。この種の話題にはOさんも大いに関心があったようで、真剣に聞き入っていました。


 その際にOさんが撮影した画像です。中央が企画振興部の岩本部長さん、右が観光交流課観光振興課の垣原さんです。
 ホシノ自身は以前にも意見交換会などで二度お会いしているので、この時点では既に顔馴染みでありました。岩本部長さんは、拙ブログも御覧下さっているそうなので、書く方も「倉野川の倉吉を行く」レポートでは忌憚なく意見や感想を書かせてもらっております。忌憚なく、とは言っても内容的には浅いので、汗顔の至りですが・・・。

 京都や奈良、滋賀の各県の観光振興事業の一環として、著名または人気のあるブロガーを公募して観光を自在に楽しんでもらい、その経緯をブログで発表させるというタイプのイベントがあります。近頃はあまり流行らなくなったようですが、平成10年代には有効なコンテンツと目されて色々に展開されていたようです。
 奈良市に長く住んでいた頃、数年にわたって奈良の観光名所や文化財の独自の見聞レポートを綴って一日平均2万4千前後のアクセスを得ていた私は、奈良県や奈良市の観光関連セクションなどからの同様のブロガーイベント企画への参加を打診されたことがありますが、いずれも丁重に辞退しています。私のサイトが知らないうちに奈良県観光ポータルサイトの「観光情報推奨サイト」に登録されており、これに対する説明が全く無いままであったため、相当の不安と不信を抱いたからです。
 幸い、当時の奈良市長が同じ町内であったため、町内会の催しで同席した際に色々と相談にのっていただき、不安と不信の方は解消されましたが、ブロガーイベント企画への打診はずっと辞退し続けていました。当時は、ブログの記事だけで観光振興が成立するのであれば、全国の自治体の観光セクションは必要なくなるではないか、と思っていたからです。同時に、それだけの効果を発揮出来るブロガーは、おそらく日本に一人も居ないだろう、だからこういうブロガーイベント企画はいずれもお粗末な結果となるに違いない、と考えておりました。そして結果的にはそうなったのでした。

 思うに、地域の観光情報や観光案内というのは、その地域の歴史と文化の蓄積を内包し反映しての内容で構築されなければなりません。こんなのがあるよ、見せたい場所があるよ、という表面的なスタンスだけでは魅力の一端すら伝えられないし、その地域の素顔や真実すらも示唆出来ません。
 人々の心は、いつの世にもいずれの地にあっても、人々の心と蓄積をふまえた広く深い生活文化と歴史の交錯が編み出す一種の交響曲に最も敏感に反応するのであり、そこに本当の感動や余韻があるのだろうと思います。その最初の契機となるような、そういった内容をしっかりと取材し吟味したうえでの観光情報というものが、いまこそ、どこでも求められている筈です。
 でも、ブロガーがそんなのを簡単に書けるわけが無いのです。地域を知り尽くした史家や研究者の方でさえ、その地域の観光情報を発信するのに四苦八苦するのです。とくに歴史や文化の深い奈良や京都では、その感がなおさら強かったのですが、その渦中に居て嫌と言うほどの難しさを実感してきたのが、奈良県に25年住んできた私自身でありました。

 例えば、世界遺産にも登録されて国際観光地となった、斑鳩の法隆寺のことを書くとします。見たままに見える対象をそのまま書くだけでも、その基本情報には飛鳥時代以来千三百年の風雪と、斑鳩の里の織り成す歴史的風情と万葉スタイルの季節感をさまざまに盛り込む必要があります。開基聖徳太子の事に触れるのであれば、大国隋を向こうに回して対等外交を成し遂げた青年摂政の覚悟と心意気、そして彼が必死で夢見た古代律令国家の青写真を少しでもイメージ出来なければ意味がありません。それに関してどれだけの勉強と取材と表現力が要求されるのか、考えただけでも気が遠くなりそうです。
 なので、奈良仏教界の重鎮でもあられる法隆寺の貫主さんが「法隆寺の簡単な説明ですら、私にはとても書けません」と淡々と語ったというその言葉を、襟を正し低頭してかみしめるのみです。


 応接室を辞した後、下の階にて上図の応援メッセージボードを見ました。あの地震にもかかわらず、直後のイベント「紅葉まつり」には全国から多数のファンが訪れて相当の賑わいを見せました。当日に私も現地に居たのでよく実感出来ました。
 ひなビタに限らず、こういう盛り上がりはガルパンの大洗でも共通していますので、アニメ等のポップカルチャーをメインに据えたツーリズムというのは、常に一定の集客動員力があるものだなあ、と改めて思います。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の2 「清水庵と松風荘」

2017年01月07日 | 倉吉巡礼記

 この日の宿は、Oさんが「松風荘旅館」を選んで下さいましたが、倉吉グルメをなるべく色々楽しみたいということで素泊まりとし、夕食はOさんリクエストの「清水庵」でとることになりました。私もこのお店には全く入ったことが無かったので、今回の機会は有難かったです。


 位置的には「松風荘旅館」と街並みをはさんで反対側、東の端にあるので移動距離も相当あります。そこで「松風荘旅館」のレンタサイクルをお借りして、街道を一気に走り抜けました。なぜか気温の高い日でしたので寒くもなく、楽に「清水庵」に入りました。


 店内の吹き抜け部分です。二階の西側に神棚が祀ってあります。こういう古民家のしつらえは、倉吉のみならず山陰地域の伝統的な住宅地ではよく見かけます。


 お店の本来の玄関部分からの続きの間には、音響設備もありましたが、それ自体が年代物のような雰囲気でした。


 夕食は、Oさんリクエストの「餅しゃぶ御膳」でした。12種類の餅をしゃぶしゃぶの形であたたかくいただく料理で、もちろん初めていただきました。


 お店の方に、餅しゃぶの食べ方を教わるホシノ。(上画像はOさん提供)


 こんな感じです。


 12種類の餅は、御覧の通りです。ブルーベリーの餅なんてあるのか・・・。


 出し汁が煮え立ってきました。これに餅を浸けるとすぐに柔らかくなるということです。


 で、最初の餅を浸けてみたら、あっという間にドロリとなりました。サッと浸けるだけで充分なのだと分かりました。(上画像はOさん提供)


 宿に戻り、順番に風呂をいただいた後、それぞれに長い夜を寛いで過ごしました。Oさんはネットゲームが趣味なので、宿の施設内にあって自由に使えるパソコンでゲームを楽しんでいました。私は、上図のようにガルパン戦車のプラモデルを作りました。この晩で完成させる積りでしたが、次第に眠気に襲われてしまい、仕上げは翌日に持越しました。


 翌朝の、部屋の窓からの景色です。中庭がかなり広いです。


 その庭を、しばらく眺めていたホシノでした。プラモデルは起床後も少し進めましたが、完成には至りませんでした。この時作っていたのは、タミヤのM3グラントのキットで、倉吉で制作した分としては3輌目に当たります。事情があって、兵庫の自宅や京都の下宿では作れないのでした。(上画像はOさん提供)


 宿の外観です。昨夜は気付きませんでしたが、こちらの建物も先日の地震で屋根などに被害を受けたようでした。二階部分がほぼブルーシートに覆われていました。


 宿の前を東西に通る八橋往還の街道です。朝も早いので、まだ静かでした。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の1 「牛骨ラーメンから始まった」

2017年01月05日 | 倉吉巡礼記

 2016年12月1日の午前中に倉吉に行き、正午前にJR倉吉駅の北口ロータリーに着きました。この日は、大洗でも三度同道したことのあるガルパン仲間のOさんが東京から初の倉吉旅行にやってくるということで、車で迎えに行きました。


 この日から三泊四日の日程で、Oさんを倉吉の内外に案内する予定でした。行き先やコースはOさんのリクエストに沿って決め、宿は全てOさんに自由に選んで貰い、私自身は案内役に徹することにしました。


 Oさんは空路で鳥取コナン空港に来て、空港からの連絡バスにて到着しました。飛行機および連絡バスが10分ほど遅れ、到着は正午過ぎになりました。
 それで、合流後はとりあえず昼食をとることになりました。Oさんは倉吉の牛骨ラーメンをものすごく楽しみにしていたそうで、何も喰わずにやってきたそうです。

 倉吉の牛骨ラーメンはお店によって味が多彩に異なるので、とりあえずは関東風の醤油味ベースのものを、ということで「いのよし」に案内し、続いて「八兵衛」に案内しました。二ヵ所ぐらいは食べて回ろう、ということで、ラーメンも「いのよし」ではハーフサイズでいただきましたが、「八兵衛」はハーフサイズがありませんでしたので通常サイズでいただきました。
 小食のOさんにはちょっとキツイかな、と思いましたが、Oさん自身は初めての牛骨ラーメンの味にかなり感動したようで、それぞれの店の味の評価を具体的に述べ、店の外にもただよう牛骨スープの香りがいいと呟いていました。(上画像はOさん提供)


 その後、白壁土蔵群エリアに移動しました。倉吉市役所横の観光駐車場に車を置いて、観光案内所に行ってOさんが「倉野川市住民票」の発行手続きをやったのち、徒歩にて町並み散策に移りました。(上画像はOさん提供)


 元帥酒造さんの山形まり花パネルです。元帥酒造さんは、大洗でいうと月の井酒造さんに相当する、と説明したらOさんも納得していました。大洗を聖地とするガルパンファンに倉吉の各店舗を説明するには、大洗の同じような店舗を引き合いに出した方が分かり易いようです。


 元帥酒造さんの看板商品の横には桜ミクが。


 早速、土産の候補をあれこれ品定めするOさん。Oさんは確かお酒に弱かったはずじゃ、と聞くと「いや少しは飲みますよ」との答えでした。大洗の「しゅんさい」でナガシマさんもまじえて飲んだ後はそのまま宿の布団に「爆沈」していた方でしたが・・・。
 土産物のほうは、最終日に改めて買いに行く、と決まりました。


 倉吉民芸館にて倉吉絣の展示や機織り機を見ました。紅葉まつりの時に完売してしまった手帳カバーのその後の状況を訊ねたところ、何も無いですよ、との答えが返ってきました。どうやら、紅葉まつりの時だけの限定品、という認識があるようです。

 倉吉の伝統工芸品である倉吉絣は、現在でも少人数小規模の手工業生産に頼っているため、量産は難しく、イベント時の限定グッズに仕立てるにも限界があります。その限界性をあまり顧みないで商品化を試みてしまうあたりに、奈良や京都などの先駆的地域との大きなギャップを感じてしまいます。


 玉川沿いの白壁土蔵群についてひととおり解説するホシノ。(上画像はOさん提供)


 お約束の赤瓦一号館に向かいました。(上画像はOさん提供)


 館内のグッドスマイルカンパニー直営店にて、ラブライブのねんどろいどぷちの陳列に見入るホシノ。Oさんは鳥取や倉吉の土産物の豊富さに魅せられたようで、あれこれ見て回っていました。(上画像はOさん提供)


 この時にホシノが押した「ひなビタ」スタンプラリースタンプの一つ、霜月凛。話題の「くらみん手帳」に付いているスタンプ帳に押したのですが、問題は紙が薄くてインキが裏まで滲んでしまうことでした。当て紙をはさんで使用しましたが、こういうところに、ガルパン大洗との違いが垣間見えます。

 大洗では、ガルパンのスタンプラリーが聖地巡礼の大きな企画の一つとして定期的に開催されるため、観光案内所やアウトレット市場などでスタンプラリー用の手帳が販売されています。その用紙は厚紙を用いており、「大洗フィーベル」のような書籍のスタンプページもインクの滲み出ない良質の紙でつくられています。最初からインク負けしない紙を、というような配慮がなされていたことが伺えます。

 倉吉ではスタンプラリー自体がもみじ祭りのタイミングで初めて企画されたため、専用のスタンプラリー手帳はまだ出ていません。「くらみん手帳」の付録だけでは不足なので、今後もスタンプラリーを展開するのであれば、「ひなビタ」バージョンの専用台帳を商品化したほうが良いでしょう。


 琴桜記念館に展示されている琴桜関の大きなオブジェ。でかすぎて左手が部屋からはみ出しています。


 琴桜記念館から街道筋をみた図です。このあたりは閉店した店舗や空き家が目立ちますが、所有者は依然として定まっているようで、先日の地震被害の手当のブルーシートが見えました。


 東雲夏陽のパネルがある「鳥っと屋」にて店の方と歓談するOさん。「ひなビタ」ファンはあんまりこうした形で倉吉の各店舗の人々と話したりしないようで、そういったシーンをこれまでにも殆ど見かけたことがありません。

 ですが、ガルパンファンは大洗の色んなお店で店主さんと雑談するのが当たり前になっていますので、Oさんは倉吉でも色んな店で色々と話していました。交流のスタンスや密度というものが、ガルパンファンと「ひなビタ」ファンとでは全然違うなあ、と改めて感じたことでした。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の8 「倉吉の模型屋さん」

2016年12月22日 | 倉吉巡礼記

 車に戻って北の市街地へ向かい、厳城橋を経て天神川の西側のルートを目指しました。橋から見える河原一帯は、中世戦国期に伯耆国第一の街地として栄えた「見日千軒」の推定範囲地域です。江戸初期までは川の各所に家の残骸や柱などが残っていたと伝わります。


 厳城橋から田内城跡のある仏石山を見ました。城跡の頂上にある模擬櫓は樹木に覆われて全然見えませんので、城跡であることをアピールする効果もありません。模擬櫓そのものが城跡の年代観および史的背景と乖離していますので、思い切って撤去するのも良いでしょう。
 その前に、田内城跡そのものに対する従前の認識も図面も実際とは異なります。冬が来るまでに城跡の様相だけでも実測し図化しようと思いましたが、その機会はなかなか無いので、来年の春以降に持ち越すことにしました。


 今回は、倉吉市にある唯一の模型専門店「ねねね」を訪ねるのも目的の一つでした。今どき地方都市にて模型店が営業していること自体が珍しく、鳥取市でも同様の店は少なくなっています。
 倉吉市では、かつて駅近くに二軒の模型店があって、私も何度か買いに行ったのですが、いずれも閉店して久しく、場所すら記憶が曖昧になっています。

 以前に同道した湯梨浜の知人K氏が、倉吉に最近模型店が出来たらしいよ、と教えてくれたのが、今回訪ねた「ねねね」です。もとは喫茶店か何かの施設だったようですが、その跡地に新たに入って営業している形です。


 店先のショーウインドーには、WWⅡドイツ軍車輛を中心とするAFVモデルの完成品が陳列されていました。この種の陳列をやっている模型店というのも、最近はあまり見かけないので、新鮮でした。


 当時、私自身がガルパン車輌仕様に制作中であったSd.Kfz.222 四輪装甲車も展示されていました。こうした完成品を見ておくと、自身の制作イメージもより明確になりますので、じっくりと見学しました。

 店内には若い客が5人ぐらい居て、店長さんと楽しそうに談笑していました。いずれも常連客のようでした。その一人は女性で、一番賑やかに喋っていました。私のサークル仲間のミカさん、ユキさん、レイコさんもそうですが、モケジョというのは概して賑やかな方が多いように感じます。
 とりあえず、初訪問の記念として塗料など3点を購入しました。大体の品は揃っていますので、ツール類も気軽に調達出来ます。倉吉に泊まった場合は、夜にプラモデルを楽しむのもアリかと思います。


 続いて、K氏が良く行っているという、イタリア料理店「カッティーナ」に立ち寄りました。食べるのが目的ではないので外観と店先の案内メニューを見るにとどめましたが、サイトで見る限りでもなかなかの品揃えがあるようです。K氏と同じく私自身もイタ飯は好きなので、次の機会にこちらで食事をしてみたいです。
 お店の公式サイトはこちら


 あちこち回っているうちにお腹が少し空いてきたので、途中で「幸雅」に寄っていつもの牛骨ラーメンを楽しみました。


 帰るまでのひとときを、再び町並み散策でのんびりと過ごしました、20年前に鳥取市から毎週通っていた時期にも、のんびりと気儘に歩いて古い町並みを満喫し、その歴史的風情の奥深さに安らぎと知的好奇心とを覚えて心行くまで楽しんだものです。あのころの自分に戻ったような気分になります。


 20年前は汚れて雑草も多かった玉川も、町並み景観復原事業にともなう浄化事業を経て綺麗になりました。


 各所に地震の影響が少なからず散見されるものの、全体的には地震前とあまり変わらない状況が保たれています。江戸期にも幾多の地震を経験してその都度対策が講じられてきていますから、ある程度は揺れに耐えられるような街造りが積み重ねられている筈です。数年前の地震にも大して被害が無かったのですから、今年の地震があったからといって町の状況に大きな変化が生じているわけではありません。
 テレビや新聞での報道は、被害の度合いを殊更に誇張する傾向がありますが、現地を回ってみれば、実情は全く異なることが分かります。

 とりあえず、倉吉の状況は、ほぼ従来通りです。地震被害の最も多いパターンが屋根瓦のズレですので、それらが修繕されてブルーシートが外されていけば、街の景色はいずれ旧に復します。それは、時間の問題に過ぎません。
 ということで、ひとまず安堵の息をつき、大山白バラコーヒーを飲みつつ、帰路につきました。

 以上にて「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8」のレポートを終わります。
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の7 「ラーメンとパンと手帳」

2016年12月20日 | 倉吉巡礼記

 朝食抜きで倉吉入りしたため、空腹感が大きくて「あかね屋」のハンバーグランチだけでは食べ足りませんでした。そこで「三日月」にも立ち寄ることにしました。
 こちらのお店に関しては20年前のこともよく覚えています。10回ぐらいは行ってる筈です。


 営業時間は、11時半からのランチタイム、17時半からのディナータイムに分かれます。火曜日が定休日です。


 メニューです。色々揃っていますが、記憶では牛骨ラーメンを食べたことが多かったと思います。


 今回も牛骨ラーメンにました。このお店のは、醤油味ベースのやや濃いめの味がウリです。私自身にとっては、懐かしい味でした。


 続いて、倉吉町並みエリアでは知られたパン屋の「エルハイナー永田」に行きました。ガルパンの大洗でいえば、ナカジマの「ブリアン」に相当するお店です。山形まり花のパネルが目印です。


 ですが、こちらは地元住民の女性客が多く、店内にイートインスペースもあるのでけっこう賑わっています。商品も豊富で、人気の品は連日入れ替わっています。


 このお店の人気商品は、上図の惣菜パンの数々です。帰路の休憩タイムに食べようか、と考えて二つほど買いました。


 一つは、この日の人気ベスト1であった、「野菜たっぷりピザⅡ」でした。他の客がみんな買っていたので、つられて買ってしまいました。ⅡということはⅠもあったのですか、と店員さんに訊ねたら、先月に出しました、との返事が返ってきました。


 もう一つは、「野菜たっぷりエビカツ」でした。個人的に、野菜が豊富に入った惣菜パンが好きなのです。キャベツのボリュームは、ガルパン那珂湊の「鳥惣」の「エビカツバーガー」を思い出させます。


 赤瓦一号館に移動し、グッドスマイルカンパニー直営店の商品群を見物しました。


 12日に「くら用心」の中庭で初めて見た新パネルは、赤瓦一号館の表口内に定位置を得たようです。館内に倉吉絣の売り場もありますから、宣伝効果も期待されていると思います。


 パネルを見た途端に、そういえば同デザインで「くらみん手帳」倉吉バージョンがあったな、と思い出しました。すぐに白壁土蔵群観光案内所へ行き、五種類のなかから「芽兎めう」バージョンを選んで購入しました。めうー。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の6 「街中の洋食屋さん」

2016年12月18日 | 倉吉巡礼記

 2016年11月17日、12日の倉吉食べ歩きの続きを楽しみました。天気は曇りでしたが、雨が降らなければ良いので、降水確率がゼロであるのを天気予報で確かめて9時過ぎに家を出ました。倉吉に着いたのは11時47分でした。


 車を琴桜口の観光駐車場に停め、いつものように因幡街道の八橋往還を西へ進みました。


 この日の目的の一つは、かつて20年前に何度か入ったことのある街中の洋食屋さんで昼食をいただくことでした。


 20年前と同じ外観かどうかはあまり覚えていないのですが、たぶんこのお店だと思います。町並みエリアにある洋食系の食事処は、「三日月」とこちら「あかね屋」の二ヶ所しかありません。「三日月」の方はよく覚えていますが、「あかね屋」の記憶は曖昧になっています。20年の歳月の長さを改めて感じました。


 営業時間は、12時からのランチタイム、17時からのディナータイムに分かれます。


 店先の案内メニューを見ていて、「オムライス」の名前に思い当るものがありました。そういえば、20年前の私は、倉吉に遊びに行った昼には牛骨ラーメン、打吹蕎麦、オムライスのいずれかを食べていたのです。あの頃のオムライスが、このメニューの「オムライスランチ」なのだろうか、と考えました。
 ですが、今回はお店の一番のおすすめであるという「ハンバーグランチ」をチョイスしてみよう、と決めました。


 これが「あかね屋」の「ハンバーグランチ」です。人気メニューであるのか、地元民らしき他の客も同じものを食べていました。美味しいからでしょう。


 店の向かいには、日向美ビタースイーツの5人のパネルがあります。


 ふと空を見上げると、黒森峰女学園のツェッペリン飛行船が・・・、いや違う・・・。


 ただの宣伝広告用飛行船でした。かつて軍艦のプラモデルを数百隻造って「駆逐艦の男」のあだ名を頂戴した私としては、九八式十糎高角砲と九四式高射装置のセットを駆使して撃墜したいところです・・・。(アホかお前は) (続く)

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