気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く15 その5  天竜二俣駅の展示車輌など

2021年03月31日 | ゆるキャン△

 天竜二俣駅にて下車し、発車してゆく上下の車輌を見送りました。

 

 改札口内の記念撮影用パネルです。

 

 1日フリーきっぷを使用しているので、改札口での検札は不要でした。そのまま待合室を通り抜けていったん外に出ました。出入り口の横に「ホームラン軒」というラーメン屋がテナントとして入っていますが、この日は昼から営業するようで、ラーメンを仕込んでいる匂いがあたりにただよっていました。
 扉の貼り紙によれば、「ホームラン軒」もコロナ禍下の短縮営業になっていて、当分の間は土日の昼のみの営業であるということでした。地元では人気のラーメン屋であるらしく、それ目当てに集まってきている人も少なくないようでした。

 

 駅舎の出入口横の外壁に、ゆるキャン△ビジュアルの大きなタペストリーが掛けてありました。静岡県とのコラボキャンペーン期間中にこのような大型タペストリーが、ここの他にアニメに登場した気賀駅、浜名湖佐久米駅にも設置されているそうです。

 

 で、私も記念の自撮り。どうしても笑いがこみあげてきてしまうので、笑いをこらえた表情になってしまいます。

 

 この天竜二俣駅も、施設の殆どが一括して国の登録有形文化財になっています。今では現存例が少なくなった転車台や扇形車庫のほか、運転指令室や給水塔、駅員宿舎などの施設が立ち並び、旧国鉄時代の駅の様相をほぼそのままとどめる貴重な事例として知られます。

 

 その国登録有形文化財の施設群を見学体験出来るツアーが2種類あり、ひとつは車輌への乗車体験、もうひとつは駅施設群および鉄道歴史館の見学、となっています。後者の見学ツアーのほうへ、今日は参加してみたいと思ってこの駅に降りたわけです。開催は10時30分からですが、時計を見ると8時52分でした。まだ一時間半ほどの余裕がありました。

 

 そこで、駅の内外に展示されている各種の鉄道遺産を見て回ることにしました。上図は駅舎の西側にあるかつての信号機です。

 

 さらに西へいくと広場があり、上図のように2輌の客車が静態展示されていました。青いのと赤いのとがありますが、私は鉄道マニアではないのでよく分かりません。

 

 そこで案内解説を読みました。・・・なるほど・・・、ん?ブルートレイン?・・・これは天浜線つまり二俣線を走っていた車輌ではないのか・・・。なんでここにあるんだろう・・・。引き取ったのかな・・・?

 

 すると赤いほうの車輌もよそから引き取ったものなのかな、と思いました。

 

 案内解説を読むと、こちらは天浜線の前身の国鉄二俣線を走っていた車輌である旨が記されています。そうか、こっちは天浜線関連の鉄道遺産か・・・。子供の頃に叔父に連れられて乗った車輌がこれであったかもしれませんね・・・。

 

 これは懐かしい・・・。国鉄のコンテナの代表形式であるC20形コンテナです。国鉄時代の塗装を復原して展示してありますが、展示というよりは雑に置かれた状態でした。復原塗装もかなり褪せていますが、子供の頃によく見かけた国鉄のマークも、緑色のカラーそのままでした。かなり痛みが激しいようです。  (続く)

 


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東山慈照寺2

2021年03月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 参詣道を進んで総門に至りました。江戸期再建の建物で、現在の慈照寺境内地の山門にあたりますが、足利義政の東山山荘および慈照寺創建時の総門の位置を踏襲しているかは疑問です。まだこの辺りは発掘調査が及んでいないため、中世期境内の推定復原図ではやや西側に表門が置かれています。

 一般的には、総門から右に続く銀閣垣とあわせて防御の役目も果たした施設である、と解釈されていますが、銀閣寺垣自体が室町期から存在したかどうかも分かっていません。境内復原の問題と絡めて今なお不明の部分が多いと受け止めておくべきでしょう。

 

 拝観受付にて拝観案内とともにいただいた守護符です。北山鹿苑寺でも同じような守護符をいただきますから、同じ相国寺の境外塔頭同士、基本的な拝観応対の決まりごとが共通しているのでしょう。

 

 目隠し塀の一種ともされる銀閣寺垣を抜けると、平成16年に再建された中門を経て庫裏の前庭の横に出ます。

 

 庫裏の前庭はいわゆる石庭で、景石を島に見立てて紋を綺麗に並べ、静かなる凪の海原を表しています。

 

 庫裏です。東に隣接する方丈とともに、江戸期の寛永年間(1624~1645)に但馬清富藩主の宮城主膳正豊嗣によって再建されていますが、慈照寺本来の建物とは別です。足利義政の時代にはここには東山山荘の常御所があったと推定されています。昭和61年の庫裏の解体新築にともなう発掘調査で幾つかの遺構が確認されています。

 

 石庭の東には方丈に続く門が見えます。寺では「宝処関」と呼ばれています。

 

 その「宝処関」に近づいてみました。唐破風をいただき格式の高さを示しています。勅使かそれに準ずる高位の人のみが出入りした門ですので、普段は開かずの門となっていて、相国寺住僧はもとより一般の人々の出入りも禁じられます。

 

 なので、方丈への出入りはこちらの式台から行うことになります。庫裏と方丈の連接部に位置して、双方の玄関口を兼ねています。

 

 石庭横の参道から南に視点を転ずれば、銀閣の通称で親しまれる観音殿が創建当初の結構をいまにとどめて建ちます。文明十四年(1482)より造営がはじまった足利義政の東山山荘の仏殿として設計され、長享三年(1489)には上棟がなされましたが、その翌年に義政は亡くなりましたので、彼が観音殿の竣成を見届けることは叶いませんでした。

 

 観音殿の東には、境内地の中心的景観を形成する錦鏡池が水面をたたえています。もともとは東山山荘の庭園として造られたものですが、当時の面影はまったくありません。池自体の規模も足利義政の時代の四分の一ぐらいになっています。

 現在の庭園は、江戸期の慶長二十年(1615)より幕府家臣の宮城丹波守豊盛が普請奉行となって大規模に修築したもので、作庭家の北村援琴が享保二十年(1735)に著した「築山庭造伝」の絵図によってその有様が詳述されています。現在の状況とほぼ一致していますから、いま私たちが拝観出来る慈照寺庭園は、江戸期の修築によるものであることが分かります。

 つまり、室町期の慈照寺庭園とは全く異なります。足利義政が愛でた景観は完全に失われてしまっているわけで、とても残念なことですが、しかし、かつての状況を発掘調査などの成果から推定的にイメージすることは可能です。足利義政が最も好んだ西芳寺庭園の有り様が、ヒントのひとつになるからです。  (続く)

 


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ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その12

2021年03月29日 | ガルパン模型制作記

 ステップ31では車体部品の取り付けを行ないます。ステップ32および33では砲尾の組み立てを進めます。砲尾関係はインテリアに含まれるので、関連パーツを塗装しながら組み立ててゆきます。

 

 ステップ31で取り付ける各種の車体部品です。運転席の外回りの部品ばかりで、前照灯、ジャッキ台、ワイヤーリール架などです。

 

 取り付けました。車体前面がこちら側であることがよく分かります。多くの戦車を見慣れた目には砲が向いている方が前面と思いがちで、今回のアーチャーでも同様に思ってしまいますが、アーチャーにおいては砲は後ろに向けられてセットされています。

 

 ステップ32で組み立てる砲尾関係のパーツ類です。塗装しながら組み立てます。

 

 塗り分けるパーツにまとめて組んで、上図の4つのパーツに仕上げました。

 

 塗装してから、全て組み付けた状態です。コミックの作中車ですので、インテリアのカラーは実車準拠ではなくて自由にカラフルにしようと決めています。だから、塗り分け方は自由に設定しています。細部が分かりやすいように色を変えたりしています。

 

 御覧のように、砲尾の上下にスライドする尾栓パーツD46は、キットの塗装指示にほぼ従って焼鉄色および黒鉄色で塗りました。接着もしていませんから、実物と同じように上下にスライドさせることが出来ます。

 

 ステップ33で組み立てるパーツ類です。塗装した状態です。砲尾本体は車体色と同じにしましたが、照準器関係や操作レバーなどの操作部品はグレー系の濃淡で塗り分けて、見て分かるようにしました。

 

 組み上がりました。

 

 なかなかいい雰囲気です。実車準拠でない点が、かえってガルパンの車輌だという感じをただよわせています。わざとカラーを変えてカラフルにすることで差別化を図るのも、手法としては面白いと思います。

 

 後ろから見ると砲の尾栓のメタリックなカラーが目立ちます。メタリック系のカラーをもう少し周辺の細部にも塗ればもっと雰囲気が上がったかもしれないな、と感じました。ですが、あまり細かく塗り分けると重箱の隅をつつくような方向へ陥りそうな気もしました。

 

 ポリキャップを左右から軸部に仕込んで仕上げました。これによって砲は俯仰が可能となります。  (続く)

 


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ガルパン最終章第3話のムビチケを購入しました

2021年03月28日 | ガールズ&パンツァー

 去る2021年3月25日、退勤後に京都駅南のイオンモールに買物に行き、上図のTジョイ京都にも立ち寄りました。目的は、館内にあるガルパンコーナー、前売りのムビチケの購入、の二つでした。

 

 上映スタートを翌26日に控えたタイミングでした。ガルパンファンとしては遅すぎる動きだったかもしれません。

 

 試合再開です、の語句が実感をともないます。このアニメにはいつも長く待たされることが多いので、やっと再開か、という気分になることも少なくありません。

 

 これは各チームの隊長の集合図なのでしょうが、最終章シリーズでの大洗の隊長は河嶋桃では・・・?

 

 ガルパンコーナーになっていたのは、奥の休憩ルームでした。壁にはパネル、カウンターおよび円卓にはラッピングがかけられてありました。19時過ぎに行ったためか、館内はわりと閑散としていて、殆どの観客がエヴァ視聴目的のようでした。

 

 この組み合わせでこれから戦うわけですが、「第2回戦決着!!」とあります。すると上図の4試合全てにおいて勝敗が決するというわけですか・・・・。なるほど。

 

 黒森峰女学園推しといたしましては、上図のカードに注目せざるを得ません。当然、黒森峰が勝つんだよね?うん、絶対にそうに決まってます・・・。

 

 円卓のラッピングがけっこう目立ちますなあ・・・。試合の組み合わせに合わせてありますね。

 

 これはもう、継続高校が勝ち抜けると予想しています。そうでないと、大洗女子学園と未だに対戦していない唯一の主要チーム、ということになってしまいますから・・・。

 

 大洗女子学園あんこうチームの面々。

 

 これは圧倒的に聖グロリアーナ女学院の勝ちだと思います。戦車のスペックに差が有り過ぎます。

 

 注目の知波単学園チームです。劇場版のときとは桁違いの成長ぶりを示して名実ともに強豪の風格を帯びつつあります。対大洗戦の続きをいかに展開してくるのか、目が離せません。

 

 そしてこれも注目のカードです。我らが黒森峰女学園が新隊長逸見エリカの指揮下にて新たな境地を開拓してくるのかどうか、が知りたい所です。なので、第1回戦のときのような、数カットのみでの説明完了、などという安易な方法は避けてきちんと試合の流れの要所も描いていただきたいものです。

 

 頑張れ、逸見エリカ隊長、頼むぞホンマに!

 

 いやー、なかなか楽しい空間でした。このコーナーだけでもガルパンファンにとっては至福です。

 

 さて、初めてムビチケなるものを買いました。クリアファイル付きで1400円でした。なるほど当日券より100円安いのか・・・。
 いちおう、3月中に一度観にいきたいと思いますが、翌26日の視聴は無理です。どんなに早くても、28日の日曜日または31日の水曜日がせいぜいでしょうか・・・。

 


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ゆるキャン△の聖地を行く15 その4  天竜二俣駅へ

2021年03月27日 | ゆるキャン△

 途中で停車した駅のひとつ、遠州森駅です。この駅舎を含めて、天浜線には幾つかの古い駅舎があり、多くは国鉄二俣線開業当時からの建物です。そのうちの11棟が国の登録文化財に指定されています。
 この遠州森駅の建物は、昭和10年の開業当時からの遺構で、内観に多少の修補改変はあるものの、外観はほぼ当時の姿をとどめているそうです。このような戦前の国鉄施設がいまも現役であるのが、天浜線の特色のひとつです。

 

 移動中に車内でふと見つけたリス。確かアニメ1期にも出ていましたね。

 

 高い位置にも、木を登るリスの図柄がありました。車内に何匹いるのか数えてみたくなりましたが、他の乗客もいるので止めておきました。

 

 駅に停車するたびに一人、二人と降りていきましたので、車内は次第に閑散としてゆきました。

 

 遠江一宮駅にて、昨日乗った「ヤマハPAS号」とすれ違いました。天浜線は全線が単線にて運営されているため、上下の便は各駅の複線区間にてすれ違うのですが、ラッピング車輌が多いだけに、色んな車輌を見る楽しみがあります。

 

 目的地の天竜二俣駅のホームに入りました。

 

 8時24分、天竜二俣駅に着きました。掛川駅から50分の「ゆるキャン△」車輌の旅でした。

 

 停車時間は5分でしたので、急いで外観の写真を撮りました。後扉わきの大垣千明。

 

 車輌の中央より右手に斉藤恵那および愛犬のチクワ。

 

  車輌の中央より左手に犬山あおい。

 

 前扉わきに各務原なでしこ。前扉にはビーノに腰かける志摩リンがデザインされていますが、停車時には扉が開いていますので殆ど見えませんでした。

 

 この車輌は、時々天竜二俣駅構内の転車台の上にて回ることがあるため、数日おきに向きが入れ替わっています。つまり、上図の側面とは反対側の側面がこちらになる場合もあります。次の機会に反対側の側面のデザインを撮りたいと思います。

 

 反対側のホームに掛川行きの便が入りました。通常カラーの車体で、8時36分に発車する便です。

 

 入れ替わりに今度は、乗ってきた「ゆるキャン△」車輌が新所原に向けて発車してゆきました。見送りつつ撮影しましたが、ホームに自分の影が写っているのには、後日気付きました。

 この「ゆるキャン△」車輌が新所原に着くのは9時49分でした。これは折り返して新所原からこちらに戻ってくる筈ですので、該当の便を全体時刻表にて探し、10時22分新所原発の便がそれじゃないかなと推測しました。もしそうならば、ここ天竜二俣駅には11時40分に着きます。
 私自身はこれから天竜二俣駅に滞在して内外を見物し、10時30分からの駅構内施設見学ツアーに参加する予定でしたので、たぶん、見学ツアーが終わった直後に、新所原から折り返して戻ってくる「ゆるキャン△」車輌を見ることになるだろう、と考えました。10時22分新所原発の便が「ゆるキャン△」車輌であれば、という前提でした。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く15 その3  楽しい列車の内外

2021年03月26日 | ゆるキャン△

 掛川駅を7時34分に発したゆるキャン△車輌にて、しばらく前扉の付近に居ましたので、上図のように各駅にてすれ違う車輌を見ました。最初に見たのは、桜木駅での天浜線通常カラーの車輌でしたが、これが掛川に着いて折り返して7時53分に発する便でした。つまり私が乗ったゆるキャン△車輌の次の便であったわけです。

 これによって、全体時刻表からゆるキャン△車輌以外のラッピング車輌の公開ダイヤを除いていって残る2、3つのダイヤはゆるキャン△車輌および通常カラーの車輌の分であることが確認出来ました。

 

 桜木駅を撮りました。京都造形芸術大学時代の学友の実家の最寄りの駅で、3度ほど利用した記憶があります。彼の実家は桜木駅と西掛川駅の中間からやや桜木駅寄りの所にあり、遊びに行った時には5匹の猫が居てその相手ばかりさせられたのを覚えています。

 今回の巡礼行に先立ってその学友に連絡を取ったところ、彼は長期出向で去年10月から広島に行っていることが判明、久しぶりの再会は成らなかったものの、先方の出向が今年5月までであるのでそれ以降に京都で会おう、ということになりました。「ま、天浜線でゆっくり楽しんでいってくれや」と言われました。

 

 天浜線は、国鉄二俣線の線路および施設をそのまま引き継いでいますので、この一本の線路も昔のままです。周囲の景色も、私が子供の頃に叔父と乗って見たそれとあんまり変わっていない気がします。

 

 車内はどこを見てもゆるキャン△空間ですから、ふと横の前扉を見れば、本栖高校の5人が並んでいます。窓ガラスの範囲が明るければボヤける斉藤恵那、志摩リン、各務原なでしこの3人も、山あいの日陰の中やトンネル内などに進めば明るく浮かび上がってきます。

 

 この3人、よく見ると服装もバラバラですね。桜さんはおそらく部屋着、なでしこはパジャマにカーディガン、リンはバイト時のエプロン姿です。

 

 原谷駅に停まりました。掛川駅から数えて6つ目の駅です。

 

 前扉のガラス部分の、中学時代のなでしこもうっすらと見えました。

 

 原谷駅にてすれ違った車輌は、一見して通常カラー車輌に見えましたが、この時刻に通常カラー車輌とはすれ違う筈がないことに気付きました。全体時刻表を取り出してみると、ラッピング車輌のひとつ「みほとけ号」でした。ラッピングというよりヘッドマークのみのデザインでしたが、確かに「みほとけ」の文字と6体の仏像が見えました。

 

 その後、揺られているうちにふと足元の床面を見ましたが、ただの床面でないことに気付きました。あれ、これ床面も全てラッピングしてあるのか、と悟りました。あちこちに松ぼっくりが見えるので、どうやらキャンプ場の芝生をイメージしてあるもののようです。

 

 しっかり「コンニチハ」のセリフも入れてあります。こだわっていますな・・・。

 

 床面にラッピングが施してあるということは、天井もか、と上を見上げてじっくりと見ました。最初に見た時は青と雲しか見えなかったので青空だろうと思っていましたが、よくみるとyurucampの文字なども入っていました。細かいですなあ・・・。  (続く)

 


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東山慈照寺1

2021年03月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年11月12日、久しぶりに東山の慈照寺へ行きました。足利八代将軍義政の東山山荘を寺となした、銀閣寺の通称で知られる臨済宗相国寺の境外塔頭寺院です。
 午前中は京都府立図書館に用があったので、午後から行く事にして、バス停「みやこめっせ前」から市バス32系統に乗り、「銀閣寺前」で降りました。そこから東へ70メートルほど歩いて、上図の銀閣寺橋に着きました。

 いまは慈照寺参詣道の起点となっていますが、かつての東山山荘、慈照寺境内地の西限にあたりました。いまの白川疎水がかつての境界線のように見えますが、中世戦国期の白川の流路とは異なります。上図の銀閣寺橋も大正11年に架けられたものです。

 

 銀閣寺橋から南を見ました。流れる白川疎水の南岸に沿って「哲学の道」がのびています。この道も、ここ十年余り歩いていませんね・・・。

 

 慈照寺門前への参詣道です。コロナ流行以前の状況ですから、マスク姿の人は居ません。外国人観光客もちらほら見かけました。

 

 参詣道の途中、北側にある、浄土院の山門です。慈照寺が創建されるずっと以前、この地にあった浄土寺が、足利義政の東山山荘造営に伴って移転させられた後に残った草堂が前身です。江戸期の享保十七年(1732)に名を浄土院と改めて復興が行われて現在に至ります。

 

 浄土院の門前から北へ続く道は、八神社への参道を兼ねます。八神社はかつて浄土寺の鎮守社でしたが、慈照寺の創建後はその鎮守に転じています。創建年代は不明ですが、平安期には存在していたようですので、当地では最も古い神社であるのかもしれません。

 

 浄土院の境内地に入りました。前身の浄土寺は広大な境内地と数多くの堂塔を誇りましたが、いまは本堂と丹後局堂のみが山門の奥に並びます。丹後局堂は、本堂の隣にあり、平安末期に浄土寺にあった丹後局の山荘および持仏堂の由来を伝えています。

 丹後局こと高階栄子(たかしなのえいし)は後白河法皇の寵妃であり、寵妃になる前は後白河法皇の側近であった平業房の妻でした。業房の所領のひとつが浄土寺であった関係で、丹後局は朝廷から去った後はこの寺に住み、「浄土寺二位」と称されたといいます。

 

 そのため、浄土寺はもとから皇室との関係も深く、室町期には足利義政の庶弟である義尋が入寺するなど繁栄しました。しかし、義尋が還俗して足利義視となり、結果として応仁の乱が起こると浄土寺は戦場の一つとなって大半の建物が焼失し壊滅しました。
 その後、足利義政がこの浄土寺の地を気に入り、東山山荘を建設する際に浄土寺を相国寺の西に移転せしめましたが、その浄土寺は後に廃絶しています。なので、この浄土院がかつての浄土寺の由緒を伝える唯一の寺となっています。

 

 浄土院から参詣道に戻って、しばらく坂道を登って、慈照寺の山門前に至りました。平成15年に水戸の友人と参拝して以来ですから、16年ぶりの訪問でした。ですが、門前の石畳道も、山門付近の雰囲気もあんまり変わっていないように思いました。左右の木立が育って繁ってきていたのが唯一の変化だったでしょうか。

 

 境内全域の案内図です。広い境内地に幾つかの施設が並び、東の山までが境内地に含まれる関係で、山のほうにも色々な地点の名称が記されています。

 ですが、中世戦国期に「慈照寺の大たけ中尾」と呼ばれた慈照寺の裏山、中尾はこの図には含まれていません。中尾の峰に築かれていたという 「義政公遠見やぐら」もいまは痕跡すら定かではありません。中尾には後に城郭が築かれて将軍家の戦乱時の陣場として機能し、いまその遺跡が中尾城跡として知られます。それも慈照寺の旧境内地に含まれていたのですが、城跡も案内図には描かれていません。

 なので、中世戦国期の慈照寺の空間世界は、この案内図を一瞥しただけではイメージしにくいです。参拝範囲が舎利殿と東求堂と庭園の散策路のみに限られている現在では、余計に分からないだろうと思います。  (続く)

 

コメント (2)
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ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その11

2021年03月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ28では三種類の雑具箱を組み立てます。ステップ29では三種類の雑具箱を車体に取り付けます。ステップ30では排気管などを組み立てて車体に取り付けます。

 

 ステップ28で組み立てる三種類の雑具箱のパーツ類です。

 

 組み上がりました。車外装備品のD13は塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ29にて三種類の雑具箱を車体に取り付けました。車外装備品のD13は仮組みしてセット状態を確かめました。

 

 ステップ30で組み立てる排気管や消火器、ハンドルなどのパーツ類です。

 

 排気管を組み立てました。これは塗装後に取り付ける予定です。

 

 排気管は仮組みのみで、あとのパーツは取り付けました。

 

 ハンドルE15も忘れずに取り付けました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く15 その2  車内はゆるキャン△空間

2021年03月23日 | ゆるキャン△

 掛川駅の2番ホームに停車したゆるキャン△車輌の前後のドアが開いて30人ほどの乗客が降りてきました。多くはJR線のホームへの連絡改札を通って行きましたので、通勤の方々のようでした。
 その流れを横によけて進みつつ、上図の写真を撮りましたが、外観はこれ1枚で止めにしました。朝日が低く差し込んでいて、車体を照らす部分と陰の部分とのコントラストが強かったため、マダラになると分かったからです。昼のチャンスにまた撮ろう、と考えて車内に乗り込みました。

 

 成り行きで手前の扉から乗りました。これまではこちらが前扉でしたが、発車後は後扉になります。扉の内側や車内の内側の至る所にラッピングが施されていて、天浜線の本気度がよくうかがえました。

 

 ドア部分は、よく見ますと窓ガラス部分にも特殊なラッピングがなされていて、背景が暗くなると絵柄が浮かび上がるようになっていました。ドア部分のデザインは河口湖キャンプのキービジュアル、その横の運転席後壁には斉藤恵那、犬山あおい、大垣千明の河口湖キャンプトリオが並んでいます。ちゃんとテーマを合わせてあるのが良いです。

 

 車内を前方に向かって見ました。座席のヘッドシートにもキャラクター達のデザインがあり、しかも座席ごとに異なるデザインになっています。座席の後壁のスペースも効果的に使用して本栖高校の5人を左右に配置しています。安直なデザインに流れない天浜線の心意気と拘りが感じられます。座席の上の側壁にはゆるキャン聖地の静岡県内のスポットがパネル形式で貼られて紹介してあります。

 

 前扉のところまで進みました。こちらは扉部分に本栖高校の5人が並び、運転席後壁には各務原姉妹と志摩リンの初期登場トリオが並びます。

 

 前扉の辺りから車内を振り返りました。よく見れば天井にもラッピングが貼られてありました。空間をフルに使っていますが、こんな濃厚なラッピング空間は、私が見てきたかつての京阪電鉄けいおん車輌、およびユーフォニアム車輌、そして鹿島臨鉄ガルパン車輌、のいずれにも無かった質のものでした。

 

 座席の後壁には、アニメ2期のキービジュアルが入っていました。ファンなら大喜びの富士宮の「佐東」での夕食シーンですね。さすがは天浜線、お見事です。こういうデザインをしっかりおさえてくるあたり、よく分かっていらっしゃいます。

 

 運転席の反対側は立ち入り禁止空間になっていてチェーンが張られてありました。運転士の視界確保のためです。

 

 天井側壁に並んでいたパネルの一つは、原作者あfろ氏からのメッセージでした。浜松の出身で30年以上暮らし、次いで山梨に居を移したとあります。各務原なでしこの基本設定に、原作者の実生活が色濃く反映されていることがうかがえます。
 浜松の方だったのであれば、各務原、大垣、恵那、志摩、犬山、土岐、鳥羽などの中部地方の地名にも通じていてもおかしくありません。静岡県も中部地方に含まれるからです。

 

 運賃表が大垣千明の横にありました。天浜線を掛川から新所原まで全線乗ると運賃は1470円です。ゆるキャン△1日フリー切符は1750円ですので、280円高いですが、乗り降りフリー切符にしては良心的な安さではないかと思います。ガルパンで同様の切符をだしたならば、もう少し高価になるでしょう。

 

 前扉のもう一方は、御覧の通り、アニメ2期のキービジュアルの一つでした。中学生時代の各務原なでしこ、土岐綾乃の浜松市の親友コンビです。浜松市内をも走る天浜線のラッピングデザインとしては最適最高の画です。
 各務原なでしこの上半身が窓ガラスにあたっていて、特殊なラッピングがなされています。背景が暗くなると絵柄が浮かび上がるようになっていました。

 

 一番感動したのが、運転席の反対側の側壁にあった上図のデザインでした。中学時代の各務原なでしこ、土岐綾乃、志摩リンの3人です。アニメ2期本編では志摩リンはそのまま出ていますが、各務原なでしこは横顔と斜め顔しか出ていなくて、このような正面観は初めて見ました。土岐綾乃にいたっては顔すら出ていませんでしたから、まったくの初見でした。
 みんな一様に幼い感じになっていて、中学生というより小学生のような可愛らしさです。

 

 7時34分に掛川駅を発車、朝の掛川市街を見下ろす高堤上の線路をしばらく走りました。昨日下車して「さわやか」のハンバーグを食べた西掛川駅にも停まり、そして発車しました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く15 その1  ゆるキャン△車輌に乗る

2021年03月22日 | ゆるキャン△

 2021年2月21日、巡礼2日目の朝は6時過ぎに始まりました。外は快晴、部屋の窓から望まれた掛川城の白壁も、朝日を受けて輝きはじめていました。6時30分から食堂にてバイキング方式の朝食をいただき、7時過ぎに部屋に戻りました。今回は連泊利用なので、荷物は最低限にして、部屋に置いておく荷物をまとめたりしました。

 この日から二日間にわたって天浜線の「ゆるキャン△」車輌に乗り、アニメ2期の劇中に登場した駅などに行き、ついでに天浜線を色々楽しむ計画でした。それで、今回より「天浜線編」として綴ります。

 

 宿を出たのは7時20分でした。この宿「くれたけイン掛川」から天浜線掛川駅までは徒歩で5分もかかりません。天浜線のゆるキャン△車輌を見て乗る聖地巡礼の宿としても最適かと思います。

 

 JR掛川駅の北口駅舎の前を通りました。土曜日の朝ですので、通勤客の姿もほとんどありませんでした。

 

 7時24分に天浜線掛川駅に着きました。昨日購入しておいた、ゆるキャン△1日フリーきっぷの1枚を使用することにし、窓口で乗車日押印の手続きを受けました。いよいよ、ゆるキャン△車輌を見て乗る日だ、とワクワクしました。

 

 ホームには誰も居ませんでした。普段の土日の朝の状況であるようです。ゆるキャン△車輌の運行ダイヤは、土日は3密回避のためという理由で公開されておらず、天浜線の公式サイトでも土日の項が空欄になっています。
 なので、大部分のゆるキャン△ファンは、土日の何時にどこをゆるキャン△車輌が走るのかが分からず、適当にあちこちの駅や撮影ポイントで偶然の邂逅を待つというパターンになるようです。

 ですが、前回の記事にて触れたように、私はサークル仲間の鉄道オタクの方にあらかじめ天浜線の時刻表の見方と車輌ダイヤの絞り込み方を教えて貰ってきました。

 方法は簡単です。まず、天浜線の公式サイトの時刻表の該当の土日分の全体時刻表をプリントアウトします。全体時刻表は改定があるまではずっと同じですが、車輌の割り当ては毎日変わっていますから、該当日の時刻表をチェックして絞り込む必要があります。
 次に同日のゆるキャン△車輌以外のラッピング車輌のダイヤが公開されていますので、全体時刻表からそれらのダイヤを消していきます。最終的に掛川発および新所原発の朝の便が2、3つずつ残ります。これらのほとんどがラッピング車輌でない通常カラーの車輌のダイヤですが、1つはゆるキャン△車輌のダイヤです。

 これらのうち、ゆるキャン△車輌は土日は掛川発が多いそうなので、新所原発の朝の便を除外します。
 天浜線の車輌は全てが本社整備工場および駐機ゾーンのある天竜二俣駅を基地として運行されており、朝は天竜二俣駅を起点とする車輌もあります。ゆるキャン△車輌も当然ながらそのなかに含まれますから、掛川発の朝の便が2、3つ残っていれば、それに繋がる天竜二俣駅始発の便があるかをチェックします。
 つまり、早朝6時台に天竜二俣駅を出て、7時台に掛川に着き、折り返して新所原まで全線を運行する便があるならば、それがゆるキャン△車輌である確率が高いのです。ただし、あくまでも確率の問題ですから、当たるかどうかは当日のその時刻の車輌を見てみないと分かりません。

 

 そしてこの2月21日の運行ダイヤを絞り込んだ結果、最も可能性が高いのは、6時36分に天竜二俣駅を出て7時30分に掛川駅に着き、折り返して7時34分に掛川を出発する便であろう、との推測にまとまりました。だから、こうして7時30分までには掛川駅ホームに入っておいたのでした。

 改札口を出てすぐの正面にある時刻表を見上げて、次の列車が7時34分発、その次が7時53分発であることを確認しました。このどちらかがゆるキャン△車輌だろう、たぶん7時34分発であろう、と考えていました。
 時刻表の下のホーム案内の赤矢印は2番を指していました。次の列車が2番線に入ってくるわけです。

 

 時計を見ると7時28分、そろそろ6時36分に天竜二俣駅を出た便が到着するかな、と何度も西を見ました。次第に緊張してドキドキしてきて、カメラを構え直したりしました。どうか当たりますように、と懸命に祈りました。

 

 ホーム脇の案内板の一つには、天竜二俣駅の駅内見学ツアーの案内もあります。この日はこの駅内見学ツアーにも参加する予定でした。
 だから、今回のゆるキャン△車輌の時刻予想が外れますと、駅内見学ツアーの予定も大幅に狂いかねません。だから、もうマジで推測が外れて欲しくない、ホンマ頼むで、と必死で祈りました。

 

 7時29分、ホームの注意ブザーが鳴りました。つられて西を見ると、近づいてくる車輌が見えました。7時30分着、7時34分発の便です。果たして、前夜から一生懸命に考えて絞り込んだ推測が当たるのか外れるのか、と心の中で祈りつつ西を凝視しました。

 

 あっ!あの車体カラーは・・・!・・・間違いない、ゆるキャン△車輌だ!!やった、やったー、推測的中!!
 イヤッホオオオオォォォッ!!最高だぜええええぇぇぇぇっ!!

 

 かくして、2番ホームに入ってきたゆるキャン△車輌です。見事に当たりましたが、しばらくは信じられない気分でした。ですが、何度見てもゆるキャン△車輌の本物でした。感動がドッと胸の中にあふれ出てきました。鹿島臨鉄のガルパン車輌を初めて見た時にも感じなかった熱いものが目頭にもこみあげてきて、慌てて目尻を拭いました。

 

 しかし、綺麗なデザインに良い配色だな、と感激しました。車体の全面にラッピングがなされているようですが、配色が淡系のカラーにまとめられていますので、カラフル度もどぎつくなくて優しい感じです。基本カラーが水色というのは、たぶん浜名湖のイメージなんだろうか、とも考えました。

 よし、撮影を急ごう、と行動に移りました。駅での停車時間は4分しかありません。乗客が全員下車して車内での撮影が出来るようになるまでは外観を撮り、それから内観だ、とカメラを構えました。  (続く)

 


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松尾山麓を歩く5 地蔵院 下

2021年03月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 本堂内陣を拝した後、境内地の奥まった場所にある細川頼之および碧潭周皎(へきたんしゅうこう)の墓所に行きました。墓所の案内木札には、碧潭周皎は宗鏡(そうきょう)禅師と記されます。夢窓国師の高弟にあたる碩学の禅僧でした。細川頼之が地蔵院の創建にあたって開山に招きましたが、禅師は恩師の夢窓国師を開山に仰いで自らは第二世となりました。

 

 細川頼之の墓石です。老樹の根に寄りかかるように据えられた、苔むした自然石で「細川石」と呼ばれます。レイコさんが意外そうに驚いていて、「これが、あの室町幕府初代の管領の、足利分流の名門の細川京兆家の家祖の墓・・・。自然石を置いただけの質素なお墓なんですね・・・」と呟いていました。

 

 隣にある碧潭周皎の墓も自然石を置いただけの質素な造りです。この碧潭周皎に深く帰依した細川頼之が、この師の墓に倣って自らの墓も自然石とするように遺言して亡くなったのです。葬儀は将軍足利義満が主催して相国寺で盛大に執り行いましたが、地蔵院への埋葬は足利義満および喪主の細川頼元ら近親者のみで密やかに行われたそうです。それが細川頼之の遺言であったそうです。

 伝わるところによれば、細川頼之は管領と言う幕府ナンバー2の地位にありながらも質素な生活を好み、華美や贅沢をものすごく嫌ったとされます。和歌や詩文、連歌などもよくして、彼が詠んだ和歌が勅撰集に入撰しているほか、失脚時代に四国にて詠んだ漢詩「海南行」も知られます。
 また、幼少時に夢窓疎石の影響を受けて若い頃から禅に傾倒し、山中で坐禅修行に打ち込む事を好んだといいます。管領在職時には主君足利義満との意見対立もしばしばでしたが、そうなると大抵の場合は管領辞任を言い出して出家を志し、本気で松尾山に入山して隠れてしまい、周囲を慌てさせたそうです。足利義満は彼の禅への傾倒ぶりをよく知っていましたから、自ら単騎で飛び出して慰留に努めた事もあったそうです。
 とにかく、当時の武将、政治家には稀な、信仰心の篤い人物でした。京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝寺などの建立にも関わるなど、宗教活動にも積極的でした。

 以上の事を説明すると、レイコさんは「凄いじゃないですか、政治家としては一流だったんですね」と感心して小さく拍手していました。
 一流というより、室町幕府の歴代管領の中でも傑出した超一流の政治家だったのです。そのことは後の織田信長や徳川家康などが細川頼之を高く評価してその偉業をたたえていることからも伺えますが、何よりも足利義満を補佐して南北朝合一を達成し、室町幕府の全盛期を築いた管領だったのですから、その器量、手腕は際立っていたに違いありません。

 

 墓所の近くには上図の真新しい「一休禅師母子像」があります。アニメにもなった一休さんこと一休宗純は、六歳で出家するまで母と共にこの寺で過ごしたと伝えられています。

 アニメでも、一休さんが母の草庵を訪ねる場面が何度かありましたが、その草庵がここ地蔵院境内にあったとされています。一休宗純の母親は、東坊城和長の日記「和長卿記」に「秘伝に云う」として後小松天皇の官女であったとされ、いわゆる一休皇胤説として知られています。
 彼女は楠木氏の娘または藤原北家中御門流の持明院家の娘とも言われますが、地蔵院に母子で住んだのが史実とすれば、母は持明院家の娘であった可能性が高いかな、と思います。なぜならば、地蔵院は細川京兆家の菩提寺ですから、その縁者でなければ入れないであろうし、開祖細川頼之の正室が持明院保世の娘でありますから、持明院家の縁にて地蔵院に入ったのではないか、と思います。

 

 地蔵院は応仁の乱で焼失して一時は壊滅したため、寺運も衰えて江戸期には境内に末寺を二つ残すのみであったといいます。広い境内地のあちこちに堂塔および塔頭の遺跡とみられる平坦地が多く見られますが、いずれも苔に覆われて寂漠の雰囲気を濃く漂わせて静まり返っています。

 

 現在は、江戸期の貞享三年(1686年)に再興された方丈が寺の中心施設になっています。

 

 その方丈の庭を見ました。中世期の寺院には一般的であった平庭式枯山水庭園の遺構のようですが、上図のように大部分が埋もれて景石の露出も疎らになっています。園池の汀線すら不明なので、作庭当時の規模すら分かりませんが、中島の痕跡とみられる盛り上がりが少なくとも三つ見えますので、園池だけでもかなりの面積を持っていたであろうと推定されます。発掘すれば、禅宗庭園の一典型の見事な姿が甦るでしょう。

 

 方丈内の説明板には、十六羅漢の庭、とあります。レイコさんが「こういう名前って、庭が造られた当時からのものじゃなくって、後から付けられたケースが多いんですよね?」と聞いてきましたが、私もあまり詳しくはないので、「うーん、そうかもしれませんね・・・」と小声で返しておきました。

 

 方丈内の一室のなにかよく分からない演出です。レイコさんも「何かの意味があるんですかね?」と首をかしげていました。

 

 ともあれ、夕方に近くなってきたので退出することにして、方丈から山門への長い道を引き返しました。広い境内地の殆どが苔庭になっていますので、レイコさんは「苔寺(西芳寺)よりもこっちのほうが断然素敵ですよ、けっこう穴場のお寺かも」と、たいそう気に入った様子でした。

 それで、帰りはわざとゆっくり進んで、レイコさんが楽しそうに境内地の色々な景色をスマホで撮影したり、立ち止まって苔庭を眺めたりしているのに合わせました。そうして、私自身は、「海南行」の漢詩を思い出して室町幕府の確立に奔走した質素無欲の武将の心に静かに想いを馳せたことでした。 (了)

 

「海南行」 康暦元年(1379) 従四位下細川武蔵守頼之

  人生五十愧無功(じんせいごじゅう こうなきをはず)

  花木春過夏己中(かぼくはるすぎて なつすでになかばなり)

  満室蒼蠅掃難去(まんしつのそうよう はらえどもさりがたし)

  起尋禅榻臥清風(たってぜんとうをたずね せいふうにがせん)

意訳
  人生五十年、さしたる功績もなく恥ずかしい思いだ。
  春が過ぎて夏も半ばになった今となっては、咲く花も無い。
  部屋いっぱいの煩い青蝿は追い払ってもなかなか去らない。
  ならば部屋を出て、座禅の床で清々しい風に吹かれて寝ころぶとするか。

 


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ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その10

2021年03月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ25では左側の側面装甲板を組み立てます。ステップ26にて、三面の装甲板を車体に組み付けます。ステップ27では運転席天板を組み立てます。全て組み立てガイドの指示通りに進めますが、インテリア部分は全て塗装してゆきます。

 

 ステップ25で組み立てる左側の側面装甲板のパーツ類です。塗装を終えた状態です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ26にて、三面の装甲板を組み付けます。前面、左側面、右側面それぞれに各種のパーツを組み付けてありますが、パッと見た感じではこれらが他のパーツとぶつかったり、干渉したりしそうに見えます。

 

 ですが、組み合わせて見ますと、一ヶ所もぶつかることなく綺麗にピタッとおさまって組み上がりました。

 

 インテリアの各種のパーツが重なり、あるいは並び、ギッシリと集まって車内空間を構成しています。コミックの作中車であり、高校生戦車道の競技用車輌でありますから、女子高生が扱い易いように色分けしてある、というイメージにてなるべく複数のカラーを使いましたが、このような雰囲気にまとまりました。

 

 個人的には、ほぼ狙った通りの雰囲気に仕上がりました。実車の写真を見ると単一のカラーで染められていかにも軍用車輌といった感じですが、ガルパンの車輌は戦車道という必修選択科目の教材でありますから、オシャレにカラフルになっていても良いのでは、と考えます。

 

 アングルを色々変えて撮りました。砲や砲防盾などを取り付けるとこのような見え方にはならなくなります。角度によっては見えない部分も生じますので、記録用写真の意味も併せ持ちます。

 

 個人的には、こういうゴチャゴチャした狭い空間というのは結構楽しくて面白いと思います。こういった場所に入り込んであれこれ操作するというのは、男の子なら一度は夢見るでしょう。

 

 ステップ27で組み立てる運転席天板のパーツ類です。

 

 パーツの一つ一つを丁寧に塗装しながら組み付けてゆきました。

 

 車体に組み付けました。これによって運転席が暗がりの中に入ってしまいましたので、細部などはライトでも当てないと見えません。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く14 その10  掛川の宿

2021年03月19日 | ゆるキャン△

 西掛川駅から掛川駅に戻りました。時刻は15時38分でした。改札を出てから乗ってきた列車を振り返り撮影しました。

 

 天浜線掛川駅の改札窓口と切符の販売機です。この改札は横でJR掛川駅の1番ホームとも繋がっているので、朝夕は通勤通学の方々で混雑します。

 

 さて、今回のお目当ての一つであった天浜線のゆるキャン△記念入場券セット(上図上)、1日フリーきっぷ2種(上図下)を窓口で購入しました。前者は880円で天浜線のオンラインショップでも購入可でしたが、そのために3000枚が2月中に売切れてしまい、第2弾の発行が予定されているそうです。
 そして後者は1種1750円、2種買うと3500円で、それぞれ1000枚ずつが準備されて天浜線の有人駅の窓口で販売されましたが、これまた2月中に売切れてしまい、第2弾の発行が予定されているそうです。

 さすがはゆるキャン△人気、といいたいところですが、この種の切符はまず鉄道ファンが欲しがるのだそうで、実際に買いに来た人の多くは鉄道ファンらしき方々であった、と聞きました。天浜線は数あるローカル鉄道の中でも鉄道ファンに人気が高いそうなので、ゆるキャン△とのコラボ品もまず鉄道ファンが買い漁る傾向も高いのだそうです。

 

 天浜線掛川駅の外観です。

 

 隣接するJR掛川駅の風格ある木造駅舎建築です。昭和八年(1933)に建設され、昭和十五年(1940)に改築されて以後、第二次大戦の戦禍や多くの風水害にも耐えて残り、平成二十六年に外観を復元する方法で耐震化工事がなされて現在に至っています。

 

 JR掛川駅前のロータリーから東にあるローソンの横を東へ80メートルほど歩くと、今回の巡礼旅行で二泊した宿の「くれたけイン掛川」があります。
 掛川には幾つかのビジネスホテルがあり、個人的にはずっと以前からゆるキャン△聖地巡礼の宿の候補地として掛川を考えていました。掛川は仕事でも観光でもよく行った地なので、他のホテルも幾つか利用していますが、個人的に居心地が良かったと思うのがこの「くれたけイン掛川」です。
 「くれたけイン掛川」の公式サイトはこちら

 今回は富士山静岡空港と天浜線イベントを見るという目的でここに泊まりましたが、掛川は次に計画している大井川鉄道エリアへの聖地巡礼の宿泊候補地としても有力であります。大井川鉄道エリアへの聖地巡礼に際しては近くの島田や藤枝に泊まるという選択肢もあるにはありますが、今年は夏8月まで天浜線にてゆるキャン△ラッピング車輌が運行されるため、その起点である掛川に泊まるという案も魅力的です。
 掛川から金谷まではJRで約15分ぐらいで行けるので、早起きすれば大井川鉄道の始発列車にも十分に間に合います。そうした理由から、4月以降に予定している大井川鉄道エリアへの聖地巡礼に際しても宿を掛川にとって天浜線も楽しもうか、と考えている次第です。

 

 この日の「くれたけイン掛川」の部屋からの眺めです。掛川のシンボル掛川城も望まれます。

 

 デジカメの望遠モードで引き寄せて撮影した、掛川城天守閣の威容です。

 

 夜もライトアップされて白く輝いていました。明日から天浜線を二日間にわたって楽しむので、その予定表を出して丹念にチェックしました。
 実は、天浜線のゆるキャン△車輌の時刻表は、土日の分は3密回避のために公式サイトでも非公開となっています。明日は土曜日なので、目指すゆるキャン△車輌の運行時刻は全く不明でした。

 ですが、先週にサークルのアニメ部会の鉄道オタクでもあるS君に電話して、前もって天浜線の非公開分時刻表の車輌の時刻の絞り込み方法を教わってきていたので、明日の掛川駅発のゆるキャン△車輌の運行時刻は2候補まで絞り込んでありました。たぶん、7時34分発、7時53分発、のいずれかであろう、と。

 なぜそこまで絞れたのかというと、天浜線の全体時刻表が定まっているからです。土日のダイヤも改定があるまではずっと同じです。そしてゆるキャン△車輌以外の他のラッピング車輌の運行時刻表は土日の分も公開されているので、土日の全体時刻表からそれらのラッピング車輌の運行時刻を消してゆけば、大体2、3便ぐらいの運行ダイヤが残ります。そのいずれか1便がゆるキャン△車輌であろう、となるわけです。
 ただ、あくまでも絞り込みによる推定でしかないので、当たりか外れかは明日になってみないと分かりません。なので、予想時刻表のメモを何度もチェックしつつ、どうか当たりますように、と祈るしかありませんでした。

 以上で「ゆるキャン△」聖地巡礼レポートの富士山静岡空港編を終わります。次回からのレポートは天浜線編として綴ります。 (富士山静岡空港編 完結)

 


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ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その9

2021年03月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ22では砲弾や車体部品を取り付けます。ステップ23では運転席装甲板を組み立てます。作中車はAタイプになりますので、組み立てガイドに従ってB8に2ヶ所の穴をあけ、C50を取り付けます。ステップ24では、右側の側面装甲板を組み立てます。いずれもインテリアの工作をともないますので、並行して塗装も進めます。

 

 ステップ22で取り付ける砲弾や車体部品のパーツです。砲弾は前のステップにて塗装済みです。

 

 砲弾を取り付けました。

 

 車体部品を塗装して取り付けました。

 

 ステップ23で組み立てる運転席装甲板のパーツです。

 

 インテリアパーツは全て塗装して取り付けました。赤いのは消火器です。

 

 外側も組み立てました。

 

 ステップ24で組み立てる、右側の側面装甲板のパーツ類です。インテリアパーツは全て塗装しました。

 

 組み上がりました。  (続く)

 


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松尾山麓を歩く4 地蔵院 上

2021年03月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鈴虫寺門前より苔寺西芳寺参道を南に横切って、上図の石段に進みました。傍らの標柱に「竹の寺 地蔵院」とあるのが、この日の散策ルートのラストでした。
 私は20年ぐらい前に一度訪れたことがありますが、レイコさんは初めてなので、今回の歴史散策で一番楽しみにしていたそうです。

 

 なので、地蔵院の門前に着くと上図の案内板を真剣に読んでいました。そして「星野さんが行くのだから中世戦国期の歴史に関係あるお寺かと思っていたんですけど、その通りでしたね。室町幕府の管領細川氏の創建なんですね・・・」と感心していました。
 そこで、「この管領の細川頼之について知っていますか?」と尋ねたところ、レイコさんは独特の可憐な困り顔になって、「あんまり知らないんです・・・」と小声で応じました。

「細川頼之は、室町幕府の初代の管領で、細川京兆家の家祖です」
「あ、そうなんですか。じゃあ、足利将軍家の基盤を築いたってことですね・・・、京兆家の家祖ってことは、官位は右京大夫だったんですか?」
「いや、頼之は相模守や武蔵守でして、右京大夫になったのは頼之の弟で養子になった頼元からですね。頼元が京兆家の初代になります」

 

 その細川頼之が菩提寺として創建し、かつ墓所と定めて葬られたのがこの地蔵院です。道から参道を西に進むと、山門が見えてきます。

 

 山門に近づくと、中の様子が見えてきますが、参道の両側にも奥にも竹林が続きます。建物らしい影は全く見えません。レイコさんは、「初代管領、京兆家祖の菩提寺というには、なんだか寂れていますね・・・」と、ちょっとびっくりしたように言いました。

「そりゃ、応仁の乱で壊滅してますからね、江戸期に再興されるまで荒れ放題で、広かった境内地もほとんど竹林に覆われてしまっていますね・・・」
「応仁の乱、ってこんな松尾山の南麓にまで広がっててここも被害を受けたんですか」
「めぼしい寺はみんなやられてますからね。嵐山のほうでも、山科や伏見のほうでも寺はだいたい陣場や戦場になってましたから、無事で済んだら奇跡ですね」

 

 山門の内側の受付で拝観料を払い、境内参道に進みました。かつては寺の施設が並んでいたであろう平坦地は全て竹林になっています。嵯峨の「竹の小径」よりもこちらの竹林のほうが深くて高さもあるので、ある意味見応えがあります。

 

 しばらく進むと、ようやく前方にお堂が見えてまいります。

 

 途中でレイコさんが「あ、お墓ですかね?・・・違いました、供養碑みたいです」と言った、細川頼之の碑です。これを建てた細川潤次郎は幕末の土佐藩士にして明治期の法学者だった人で、自らを細川頼之遠孫と名乗り、細川頼之の伝記である「細川頼之補伝」を著しています。その関係でここに碑があるのでしょう。

 

 お堂の前に着きました。レイコさんが周囲を見回して、他に建物らしい建物が見当たらないのを確かめたうえで、「もしかして、これが本堂ですか?」と聞きました。小さく頷いておきました。

 

 本堂の扉の内側に掛けてある案内板です。レイコさんはこれも真剣に読み、「この本堂、昭和十年の再建・・・」とつぶやいていました。

 

 本堂内陣です。中央の間の厨子内の本尊地蔵菩薩は垂れ幕に殆ど隠れて見えませんでしたが、左脇の奥の間には開基細川頼之の木像の姿が黒っぽく望まれました。南北朝の動乱期より出でて足利将軍家の黎明期を必死で支え、三代将軍義満の右腕となって室町幕府の全盛期を築くに至った、武略にも政治にも秀でた人の、確かな御影でした。

 周知のように、室町期以降、江戸期までを通じて類まれなる不世出の政治家であり、これに匹敵する執権は幕末の老中阿部豊後守忠秋ぐらいだとされています。勝海舟などは、日本の経済を発展させた歴史上の人物として、豊臣秀吉などと共に細川頼之を挙げていますが、実際にこの人が管領を務めた時期に南朝との和睦を実現して内乱を終息せしめていますから、以降の生産および物流が全国的に安定して飛躍的に発展し、以前の倍以上の流通量が実現したというのも頷けます。  (続く)

 


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