子供の頃より、御笑いが大好き。そんな自分にとって、サンドウィッチマンの様な例外も存在するけれど、「“芸”を全く感じられず、芸人とは呼びたく無い“御笑いタレント”許りが幅を利かす近年の御笑いの世界。」には、正直幻滅している所が在る。サンドウィッチマン等の様な芸を持った芸人が、もっともっと出て来て欲しい。
御笑いの世界に興味を持たせてくれた芸人は少なからず存在するが、自分にとって別格の存在の芸人として挙げられるのはザ・ドリフターズ、そして早口の毒舌で知られる“彼”だ。ザ・ドリフターズもそうだが、全盛期の彼も又、比類無き才能を熱らせていた。
「萩本(欽一)さんみたいに、周りを“子分”で固めて、其奴等弄って笑わせるって、『何だかなあ・・・。』って思うぜ。」、「おねえちゃんの言い成りになって、周りが全く見えてないって、本当にみっともねーよな。」、「自分の事は、自分で言えってゆーの。人に言わせるって、何なんだよ。」、「芸人の癖に、文化人振りやがって。勲章でも欲しいのか!?」、「権力に擦り寄りやがって、恥ずかしいねえ。」等々、嘗て彼が言っていた言葉だ。何物にも阿らない彼の姿勢が、自分は好きだった。
そして、40年近く経った今、彼は“嘗て馬鹿にしていた筈の対象”に“自身の身”を置き換えてしまった。
「周りを“子分”で固め、彼等を弄る事で笑いを取る。」、「“愛人”の言い成りになり、周りが全く見えなくなっている。」、「出版社への殴り込みや所属事務所からの独立等、自身が関係する“大きな事件”が起こると、自分から発言せずに、“子分達”に発言させる。(愛人が出来た事で、妻との離婚を進めているそうだが、子供達の意思確認も又、子分達にさせたとか。小心者という事なのだろうけれど、「みっともないなあ。」と思ってしまう。)」、「『勲章を貰って、犯罪を犯す。最高のギャグだと思うよ。』と冗談めかして言っているが、『文化人と呼ばれたい。勲章が欲しい。』という本音が透けて見えてしまう。」、「嘗ての彼ならば確実に馬鹿にしていたで在ろう安倍晋三首相に対し、『安倍さんって、本当に頭が良いなと思ったよ。』等の御追従を並べ立てる等、露骨な迄に権力に尻尾を振る。」等々、“昔の彼”が好きだった自分からすると、幻滅させられる事許り。
何を言っているのか良く判らなくなった口調で、面白くも無い事を言っている彼に、周りの人達が愛想笑いを浮かべる。こんな見苦しさが嫌で、最近では彼が画面に登場すると、チャンネルを変えてしまう。大好きだった芸人だけに、色々な意味で晩節を汚している今が、非常に残念だ。
「与党が共産党になったら、共産党に好まれる芸をする。其れが芸人。」といった趣旨の事を、嘗ての彼は言っていた。“太鼓持ち”も芸人に含まれるので、そういう意味では“昔の彼”も“今の彼”も、何等変わっていないと言えるのかも知れないが・・・。
あの芸人さんの事ですね。
ツービートのころから毒舌というより、「笑えない毒」を含んだ話芸と感じていたので、あまり好きじゃなかったんですが、「風雲たけし城」で「殿」と呼ばれて悦に入っているのを見て、そういうタイプなんだと合点したのを覚えています。
むしろ最近の方が映画監督や役者として異才を発揮するのを見て、その才能は評価しています。
しかしお笑い芸人だからというより、私の見立てでは相変わらず人間性として残念な部類に入る人です。
そう、其の方です。「仮令どんなに好き(だった)人物でも、おかしな言動をしたら、きちんと批判する。」というのが自分のスタンスですが、嘗ては其の才能を非常に高く評価している人物だったので、“武士の情け”で“彼”と書きました。
嘗ては萩本欽一氏の事を馬鹿にしていた彼ですが(自分も、欽ちゃん的笑いが好きでは無い。)、欽ちゃんが自分を“大将”と呼ばせていたのに対し、自分は“殿”と呼ばせ始める等、「結局、馬鹿にしていた欽ちゃんと同じ事をしているじゃないか。」と思ってしまう事が多々。
唯、森繁久彌氏や伊東四朗氏等と同様、「“真の芸人”は、“役者”としても一流。」というのは、彼も当て嵌まりますね。
型破りさが売りだったコンビの一方が、遅い結婚を機に、権力に擦り寄る様になった。“守る存在”が出来たという事が、大きく影響しているのでしょう。彼の場合も“愛人”という新たに守る存在が出来た事が、権力への阿りに繋がった気がしています。