玉音放送が流され、国民が日本の敗戦を知らされた1945年8月15日。今日は、69回目の終戦の日だ。
8月9日付けの東京新聞(朝刊)に、「『孫世代』が語る靖国」という特集が組まれていた。其の中で、保守の若手論客として、「ネットと政治等」をテーマに、評論及び著作している古谷経衡氏がコメントを寄せていた。「保守」で在り、「改憲派」で在るという同氏とは、思想的に相容れない部分“も”在りそうだが、少なくとも今回主張していた事には「其の通り!」という思いが。一部を抜粋してみる。
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靖国神社を重視さえしていれば、一端の愛国、保守気取りという風潮にげんなりです。参拝時に本殿や拝殿を撮影して、フェイスブックにアップして自慢する輩も居る。第二鳥居より先は、撮影禁止なんですよ。私は彼等を、「プレハブ保守」と呼んでいます。上物だけで、知識という基礎を打っていない。
敗戦の日に、旧日本軍の服装で来る人。論外ですね。彼等には、コスプレの披露場所なんです。金が掛かった軍装を、見せたくて仕様が無い。だから、カメラの放列が出来る8月15日は、嬉しくて仕方無いんでしょう。
左翼も此の日に「靖国神社解体!」を叫んで、周辺でデモをする。其れを街宣右翼が取り巻いて、互いに罵声を浴びせ掛ける。デモを潰したいのなら、出発地点を狙えば良いのに。結局、両方が本気じゃ無いんです。此の日は、保守とリベラルが肯定と否定の立場から、靖国を記号化して演技する日になってしまった。英霊が、本当に気の毒です。(後略)
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深い知識も見識も無く、「愛国」という言葉に自己陶酔しているだけなら未だしも、「自身の主張を“唯一無二の物”として他者に強いる様な、多様性を一切認めない輩。」には、嫌悪感しか持ち得ない。だから古谷氏の指摘する「靖国神社を重視さえしていれば、一端の愛国、保守気取りという風潮にげんなりです。」というのは頷ける。
又、「実際に従軍した人が、亡き戦友を心から偲ぶ意図“だけ”から、軍装で参拝する。」というのなら話は別だが、明らかにコスプレ感覚で、軍装にて参拝している様な輩には、不快感しか無い。
右も左も関係無く、自身のパフォーマンスを繰り広げたいが為だけに、靖国神社を利用している輩は、戦没者に対して非礼で在る。心から戦没者を悼みたいのなら、ぞろぞろと集団で押し寄せるのでは無く、1人乃至は少数で、静かに参拝すべきだ。
軍国主義の真っ只中だった1904年、日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を、歌人の与謝野晶子が嘆いた歌「君死にたまふことなかれ」。後に戦争を美化&鼓舞する歌を作る等、「反戦家として一貫性が無い。」とも批判される彼女だが、少なくとも「君死にたまふことなかれ」には心打たれる物が在る。
時代は異なれど、多くの人が心に刻み込んで欲しい歌なので、御存知無い方は是非、「8月15日」という此の日に読んで欲しい。
極右とか極左とか呼ばれる人達の主張を見聞していると、「一方向だけの思考しか存在し得ない国こそが、絶対的なパラダイス。」と疑って信じていない様な感じが在りますよね。そんな国が、本当に幸せなのか?結局、此の手の人達というのは、自身と少しでも違う思考の持ち主を糾弾&強制排除する事だけに生き甲斐を感じているとしか思えないし、仮に「一方向だけの思考しか存在し得ない“様な”国」が出来上がったとしても、何や彼や難癖を付けては、新たな“排除すべき敵”を作り上げて行く事でしょう。
欧米でも、極右勢力が台頭していると聞きます。「経済が落ち込み、先が見えない世の中になると、仮想敵を作り上げて糾弾&強制排除する事により、自身の憂さを晴らす。」というのは、昔から変わらない事では在りますが、そういう意味では人類って全く進化が無い。
自身が他者に向けている理不尽な“刃”を、もし自分自身に向けられたとしたら?そういう想像力が、余りに欠如している人間が増えている。其れは若者だけで無く、大人にも言えますね。(先日、LINE問題で頭を丸めた某議員なんぞも其の1人。反省を口にし乍ら、其の実は全く自分が悪いと思っていないのが明白。子供と同じ土俵に上がり、逆切れするなんていうのは、全く恥ずかしい。)
近頃はマニアックになってきて、例えば戦跡めぐりなんかは、わざわざ座間味島とか渡嘉敷島に渡って集団自決の跡なんかを見に行ったりする。 渡嘉敷島の集団自決は、300人以上が犠牲になったんだけど、その横の広大な敷地に『沖縄青少年の家』なる、行政得意のネーミングの施設がある。 基地の見返りの金で建てたものなんだろう。 沖縄県民のためには何の役にもたたん代物だ。 集団自決跡地はその横なのだが、
その境には立派な塀と門がある。門は出入り自由なのだが、ハブが青少年の家敷地内に入るので門を開けっぱなしにしないようお触書がある。 門を抜けるとあちこちにハブに注意の看板がある。 入るな、と言ってるようなもん。 縦割り行政か何か知らんけど、どうして青少年の家をつくるとき、僅かに壁を広げて集団自決跡地も見れるようにせんのやろかと腹がたった。
道尾秀介の『月と蟹』読んでる。
天童荒太風でやや苦手。
以上、私の読書仲間でほぼ同年代の怒っているおじさんからのコメントの一部抜粋(本人了承済み)です。
年々、先の大戦をしのぶ番組や取り組みなどがすたれていっているように感じてなりませんです。 日本を取り戻すという自民党さんのキャッチは、これはGHQに統治されてからの日本をアメリカから取り戻すことなのだろうかと、ふと思ったりもする今日この頃です。 だれから、どこから取り戻すのでしょうね。 民主党政権時代なら民主党からなのかなとか思ったりもしましたが。
過去を捨てるという意味なのでしょうか?
現在、大河ドラマでは「軍師官兵衛」が放送されていますが、つい先日迄、CS放送では同じ大河ドラマの「秀吉」(28年前に初回放送)が再放送されていました。何方の作品にも共通しているのが、石田三成が実に陰険で嫌な人物として描かれている事。
しかし、司馬遼太郎氏の作品「関ヶ原」(TBSでのドラマも秀逸でした!)では、石田三成は魅力的な好人物として描かれている。以前にも書いた事ですが、歴史って描く側の思惑や見方によって、捉え方が可成り違ったりするんですよね。
第二次世界大戦も同様で、人によって捉え方が異なるのは致し方無い事。其れは判るのですが、問題は「明らかに誤った捉え方をしている人達が居る。」という事。単なる誤解ならば良いのですが、恣意的に“都合の良い捏造”をしている輩には、呆れ返ってしまいます。此れは、右や左に関係無くですが。
極右的な人達を見ていると、「リアル・タイムで戦争を体験して来た人達が、死に絶えるのを待ち望んでいる。」様な気がしてならない。「日本がして来た事は全て正しく、不都合な事柄は全て事実では無い。」と盲信する彼等にとって、「自国民を見捨てた時の政府や軍部」に付いて証言する戦争体験者は、邪魔な存在以外何者でも無いからです。
誤りは誤りとして正すべきだけれど、事実は事実として、仮令日本にとって不都合な事で在っても認める事が出来なければ、其れは戦没者にとって非礼な事だと思っています。