「傲慢さ」や「感動の押し付け」、「胡散臭さ」、「自身が関わる“ビジネス”の宣伝を、公共の電波を用いてえげつなく行う。」等々の理由から、「『島田紳助タレント』とか『島田紳助司会者』といった無理無理な呼称を以前用いられた人物」が自分は大嫌いで、彼が出演する番組は見ない事にしているし、見ている番組に彼が登場した際にはチャンネルを変える事にしている。
そんな彼が昨夜、唐突に「芸能界からの引退」を発表した。別に彼が引退を発表しようが、「やった!」という喜びが在る訳では無い。引退しようがしまいが、「彼の出演する番組は見ない。見ている番組に彼が登場した際にはチャンネルを変える。」という自分のスタンスを変える積りは全く無いだけの話だし。
だから彼の引退会見(引退理由が良く判らなかったので、其れを知りたいが為だけに、禁を破って見たのだが。)自体には別に何の感情も湧かなかったのだけれど、見終えて残ったのは「良く判らない会見だなあ。」という思いのみ。要は「彼が暴力団関係者と親密さを“感じさせる”メールの遣り取りをしていた事が明らかになった為、彼自身が社会的責任を感じて自ら引退を決めた。」という事らしいが、「本当にメールの遣り取り“だけ”なら、引退迄するだろうか?」という疑問がどうしても在る。
又、「余りにも唐突な引退会見の裏には、何等かの理由が在るのではないか?」という気も。例えば「25日発売の『週刊新潮』や『週刊文春』辺りで『彼に関する爆弾記事』、其れも可成り致命的な内容の記事が取り上げられるとかで、先手を打って引退する事にしたのではないか?」といった裏読みすらしてしまう。そういった疑念を抱いてしまう程、余りに唐突で、且つ良く内容が判らない会見だった。
彼のファンには申し訳無いけれど、「こんなに潔い俺って、素敵やん?」、「こんなにも“仲間”に愛されてる俺って、最高やん?」、「義理堅い俺の生き方って、感動やん?」といった彼御得意の「感動の押し付け」、そして「謝罪している様で、実は自己弁護許り。」という感じしか、自分には伝わらなかった。
唯一ハッキリ判ったのは、彼が引退するのは「タレント活動」に関してという事。「恐らくは秋元康氏の様に、プロデューサーとして生きて行くのでは?」という気がする。まあ、どうでも良いけれど。
「チンピラ芸人」で在るかどうかは別にしても(個人的には可成り同意ですけれど。
「芸能界と暴力団との繋がり」というのは、昔から色々言われて来た事。違法集団との関係を厳しく取り締まるというのは賛成だけれど、親密なメールの存在“だけ”が原因で引退というのは、「芸能界の常識」及び「島田紳助氏という人間の此れ迄の言動」を勘案すると、「本当に其れだけ?」と思ってしまう。
「今日以降、彼の“仲間”からは様々なメディアを通して『賛美合戦』」が始まるのだろうな。」と思うとウンザリ。「仲間の不祥事には異常に甘く、従わない人間の不祥事には異常に厳しい。」という和田何某も、無条件で賛美&擁護しそうだし。
これで、少しは民放TVも良くなることでしょう。
人間は誰しも過ちを犯してしまう可能性は在るし、況してや若かりし頃はそういった可能性は高い。斯く言う自分も他人様に誇れる様な生き方はして来なかったので偉そうな事は言えないのですが、「若かりし頃の過ちを猛省し、今はしっかり生きている。」というのは評価出来るけれど、「昔は悪くてさあ。」と未だに「悪かった事を誇っている。」様な輩は好きじゃない。少なからず他人様に迷惑を掛ける事をして来たならば、其れを真摯に反省すべきだし、真底反省しているならば、今も「悪かった事を誇る様な真似」は出来ないと思うので。
以前にも書いたけれど、自分は「~ファミリー」とか「~軍団」とかと無闇に群れるスタイルが好きじゃない。能力も無い癖に“大物”に取り入った事で、番組に出演させて貰っている様な連中が多過ぎる。ワンパターンな“振り”に対して、「タモさん面白過ぎ~!」とか「紳助さん凄い!!」等と、大仰によいしょするのはウンザリ。
20年以上前のことですが、「いいとも」のテレフォンショッキングに元チャンバラ・トリオの結城哲也さんが出場した際、
「それではお友達を紹介していただきましょうか。」
とタモリに言われて
「友達?ヤクザの友達でもかまへんか?なんぼでもおるで。」
と答えて、タモリを慌てさせていたのがおかしかったのを覚えていますが、もはや、このようなギャグは許されないのだなと思いましたし、こんなギャグを笑える自分が、今どきの「お笑い」について行けないのも無理もないことかと思った次第です。
「芸人は笑わせて何ぼ。卓抜した芸さえ在れば、私生活がどれだけ荒れていようが無関係。」といった“世間の寛容さ”が嘗ては在ったのかもしれませんが、今は其れが許されない。「何時迄も世間は、自分に対して寛容で在る。」と思い続けた所に、天災芸人・横山やすし氏の悲劇が在った様に思います。
時流に合わせられる当意即妙さが、芸人の重要なファクターで在る以上、“世間の目”をヴィヴィッドに捉えられなくなってしまうと、芸の世界から放逐されてしまうのは仕方無いのでしょうね。