74回目の終戦の日を迎えた。世界で5千万~8千5百万人とも言われる死者が出た第二次世界大戦だが、日本では約310万人もの戦死者が出たと言う。
余りにも悲惨な戦いが起こってしまったのには、様々な原因が在ったと思うが、「『自分達さえ良ければ、他人なんかどうでも良い。自分と異なる存在は、力尽くで排除して構わない。』といった、余りにも過ぎた身勝手さ&排他性を持つ国民が、世界的に一定数を超えてしまった事。」も、未曽有の戦いを引き起こした大きな原因だと思っている。
日本が太平洋戦争に突入した際、開戦に好意的な国民が少なく無かったと言う。又、マスメディアや少なからずの著名人が、開戦を褒め称えていたとも。
「日本にとって不都合な事柄は、事実で在ろうが無かろうが無関係に、全て捏造と主張し、逆に日本にとって好都合な事は、“嘘”で在っても全て事実と主張する。」人が増えている様に感じる。こういうのは贔屓の引き倒しで在り、日本にとって決して良い事では無い。そういう連中が当時、戦争に少しでも疑問を持った人達に対して“非国民”と罵声を浴びせ、そして排除した。
馬鹿の一つ覚えの様に“反日”という言葉を持ち出し、自分と少しでも考えが異なる人達を排除し様とする人達。彼等にとって“反日”とは、「日本にとって好都合な事柄しか事実では無い。」という考えなのだろう。作家というよりも“愛国ビジネス(右翼ビジネス)家”と呼んだ方が相応しい“安倍親衛隊”の1人も、そんな人物だが、開戦時に提灯持ちをした著名人達の姿と重なる。
こういう極端な“自国ファースト”の風潮は、日本だけでは無く、世界中に広まっている。自虐史観は否定するが、だからと言って「“不都合な事実”を全く受け容れない。」というのは余りにも幼稚だし、同じ過ちを繰り返す事に繋がるだろう。
「自分にとって好ましい情報源“だけ”では無く、様々な情報源に積極的に触れ、得た情報を自分の頭でじっくり考えた上、『正しい。』と思われる物を選択する。」、そんな当たり前の事が出来る人が、世界的に増えて欲しい。そうじゃ無いと、未曽有の戦いで亡くなられた多くの人達が報われない。
戦前から戦中に掛けての文献を色々読みますと、当時の状況と今が凄く似通っている感じが在りますね。「世界的に“閉塞感”が満ち、そんな中で“仮想敵”を作り上げて其れを叩く事で、圧倒的な支持を得て行く指導者達。」、「自国ファーストの思いが強まり、弱者を叩く。」、「思考力や想像力が欠け、一方向に一気に流れてしまう。」等々、不気味さを感じてしまう共通点の数々。
記事にし様かどうか迷っている事に、政治家の劣化が在ります。NHKから国民を守る党の立花孝志党首が、TV番組でマツコ・デラックス氏から批判された事を受け、当該番組(生放送)のスタジオ前で“抗議活動”を行った。余りの執拗さに警察も乗り出した様ですが、当人はマツコ・デラックス氏が謝罪する迄、スタジオ前に来て、抗議を続けるとか。
又、同番組のスポンサーで在る崎陽軒の不買運動を“焚き付ける”様な事もしているとかで、こうなると“ストーカー”で在り、威力営業妨害行為としか思えない。
今から7年前、TV番組で自分を揶揄した小倉智昭氏の事をツイッターで取り上げ、其れを見た“親衛隊達”が其の番組のスポンサーに“嫌がらせ攻撃”を執拗に行った事で、小倉氏が謝罪に追い込まれた。其れを受けて、ツイッターで「貴方達の勝利です!」と書いた安倍晋三首相。(https://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/65325938fbee445d6fc8074192fe870a)国民の生殺与奪権握るを政治家、其れも一国のトップで在る首相が、「気に入らない事を言われたから。」という理由で、嫌がらせ攻撃を焚き付ける(当時、広く其の行為が報道されていたので、安倍首相が知らない訳が無い。)事をして、挙句に「貴方達の勝利です!」と書いた事に、幼稚さと恐ろしさを感じましたが、今回の立花党首のしている事は全く同じ。
そして、同党に“逃げ込んだ”丸山穂高議員も、自身を批判した人達に対し、逐一“子供じみた反論”を行っている。(四六時中TVを見ているのではないか?と思われる程、あらゆる批判に反論している。)冷静な反論で在れば未だしも、文章に「w」という「相手に対する侮蔑を込めた表示をする。」というのは、とても大人のする事とは思えないし(好感を持っていた男性タレントが、何年か前から極右的発言をする様になった。どういう発言をし様が個人の自由だけれど、“御花畑”等の明らかに相手を侮蔑する目的の言葉を多用し始めた事で、「浅い人なんだなあ。」とがっかりしたもの。)、政治家のする事では到底無い。
政治家って、そんなに暇なのだろうか?もっと国の為にする事が在るだろうに。一国のトップがこんな状況ですから、政治家の劣化はどんどん進んで行く事でしょう。
以前、犬や猫の殺処分が多い事に対し、「犬や猫をペット・ショップで買う際には、処分場で殺される場面を実際に見る事を義務付けた方が良い。」と、自分は書きました。なので、今回の悠々遊様のアイデアには共感を覚えます。「残酷だ。」とか「トラウマになる。」といった批判が起こるだろうけれど、“実際に起こる事”をきちんと知らしめるというのは、必要だと思う。嫌な部分から目を逸らし、綺麗な部分だけ見るというのは、どうかと思うので。
戦前を知る年配の著名な方の中にも、当時の雰囲気に現在の社会状況が似てきていると、危惧されている方が何人もおられるようです。
明治以来の藩閥に加え、軍閥、財閥の支配が社会全体を覆い、庶民の大半に選挙権が無く(少なくとも人口の半分たる女性の参政権は戦後獲得)、情報も統制されつつあった時代と、現代では状況がまるで違うようにも思います。
しかし情報が溢れかえってチェックが効かず、デマが堂々とまかり通って、自分の考えに沿うものだけ拾い上げていても十分満腹できることは、逆に情報が少なかった時代よりも排他的デマに「能動的に」加担してしまう危険性が高いともいえるでしょうね。
社会の息苦しさが戦前と共通しているという指摘は、そういうことなのかなと解釈しています。
実は一つアイデアがあるのですが、仮想体験型ゲームにリアル戦争(戦闘)ゲームを作り、過酷な状況下ではそれに合わせ体験者も実際の苦痛に近いものを味わう。
ゲーマーは安全なところにいて、画面の中で戦闘をしていても痛くも痒くも無い、たとえ主人公が倒れ死んでもゲームオーバーでおしまい、という今のゲームでは「戦争は自分とは無関係のゲーム」という洗脳になっていないかと危惧しています。
他者を想う想像力の欠けた人間には、自分自身への体験として苦痛が返ってこなければ、「敵を倒して快感を得、倒されて悔しさを味わう」ことはあっても、殺し殺されることへの恐怖や後悔に結びつくことはないでしょう。
まず最初に、戦う相手にも愛すべき家族があることをわからせるショートムービーを流したうえで、戦闘モードでは銃撃や刃傷を受ければ気絶するほどの苦痛があり、敵を殺傷しても返り血(実際には食用にされた動物の血)を浴びたり、肉片の飛び散りをリアルに見せる。
嗅覚にも血なまぐささを感じる、そんな体験をある一定年齢(例えば成人年齢)になると、必須として受けなければならないよう義務付ける。
安易な戦争賛美や身勝手な国粋思想への、多少なりとも抑止効果が期待できないでしょうか。
私自身はたとえ仮想といえど、そんな場面は心臓発作を起こしそうで体験したくないですけど(苦笑)。