「好事、魔、多し。」という慣用句が在るけれど、物事が順調に進んでいる時程慎重に行かないと、思わぬ所で足を掬われてしまうもの。フリーアナウンサーとして飛ぶ鳥を落とす勢いの宮根誠司氏に、此の程「隠し子騒動」が起こったのも、「好事、魔、多し。」の典型かもしれない。
2006年に結婚した現在の妻との間には、7ヶ月前に誕生した女児が居る宮根氏だが、別の女性との間にも、今年2月に4歳になる女児が居るのだとか。此の女性と知り合った時には、既に現在の妻とも交際しており、二股を掛けていた訳だ。現在の妻に隠し子の存在は打ち明けており、認知もしていると言う。
宮根氏自身に同情心を全く感じないのは言う迄も無いが、「不倫関係」で在る事を知り乍ら、付き合い続けていた女性に対しても同様。気の毒なのは、宮根氏の妻と両女児だ。
唯、当ブログで何度も書いている事だけれど、「男女間の問題は、当事者間で解決すれば良い事。其処に違法行為が無い限り、他者がどうこう口を挟む事では無い。」というのが自分のスタンス。故に、今回の騒動は個人的にどうでも良い話なのだが、インターネット上等では「宮根氏を信じていたので、今回の騒動には失望した。」とか、「宮根氏がそんな人とは思わなかった。ガッカリだ。」といった声が少なからず在るのは意外だった。
「『失望した。』とか『ガッカリだ。』とかと、そんなにも宮根氏に信を置いていた人が居る事自体、自分としては驚き。宮根氏の軽佻浮薄なキャラクターが人気を得ているだけで、彼の人間性に人気が集まっている訳では無いだろうに。彼の人間性に失望したとかという事ならば、余りにも見る目が無さ過ぎるのでは?」というのが、自分の思いなので。
「其の人に信を置けるか否か」に付いては、人其れ其れ判断基準が在る事だろう。自分も、幾つかの判断基準を持っている。「他者には異常に厳しい癖に、自分及び身内には異常に甘い。」というのも信を置けない人で、石原慎太郎都知事やみのもんた氏(自身が経営する水道メーター会社が談合で何度も刑事告発されているが、其の責任に付いて問われた際、「談合出来てしまうシステムが悪い!」と言い放ったのには、心底呆れてしまった。)等が当該。
又、「相手によって、判断基準をコロコロ変える。」という人も、自分は信を置く事が出来ない。状況が変われば、思考も変わる事も在るだろうから、「状況によって判断基準が変わる。」というのは判らないでも無いけれど、「好ましく思っている人がした事ならばOKだけれど、そうで無い人がした事は絶対に許さない。」というのは論外。石原都知事やみのもんた氏は、そういう点でも信を置けないのだが、宮根氏も此の点で信を置く事が出来ない。“御友達”の朝青龍明徳氏が問題を起こす度に、異常な迄の擁護をしていたのは、全く戴けなかった。“御友達”では無い他者が起こした問題に付いては、辛辣な批判をしたりしているのに。
批判したり褒めたりする際、同じ判断基準で行わないと、全く説得力を持ち得ない。況してや司会業を生業にしている宮根氏なのだから、一層判断基準を同一にしないといけないだろう。
宮根氏には全く信を置いていない自分故、彼の事を「司会者」というのでは無く、「単なるメッセンジャー・ボーイ」としか見ていないし、今回の件にも驚きは無い。でも、彼に信を置いていた人達からすれば、今回の件は非常に驚きなのだろう。
本人は番組を降りる責任感がなく、制作テレビ局の読売テレビも、彼を番組から外す責任感も度量もない。
しかし、視聴率は確実に低下して、司会者を交代させるか又は、番組は廃止に追い込まれることを期待したい。
公共放送のアナウンサーであれば、辞任するか更迭であろう。
考え方は人其れ其れですから、宮根氏の事を嫌いな人も居れば、好きな人や「何とも思わない。」という人等、色々居て良いと思っています。個人的には司会者が「右」的な思考で在ろうが、「左」的な思考で在ろうが、どうでも良いとも。「品性の無い」という点でも、彼よりももっと酷い人間が平然とキャスターをしている現実も在りますし、其れも個人的にはどうでも良い。
唯、「人として信が置けない。」というのが、自分としては一番引っ掛かります。と言って、彼の事が大嫌いというレヴェルでも無いのですが。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
宮根氏を擁護するつもりはさらさら無いが、すでに奥さんにも告白し、認知もしているとか。報道された時も隠し立ても弁解もしなかったというのであれば、潔いともいえる。
giants-55さんもご指摘のように、この件に関して宮根氏を糾弾できる立場は、奥さんと子供たちだけだろう。特に子供にとっては辛い時期があるかもしれない。
昔の戸籍簿では、嫡子は「長女、次女」と記載されるが、非嫡子(婚外子)はたとえ認知されても「子」としか記載されなかった。その一点を以ってしても本人に責任の無いことで、いわれの無い差別を受け、屈辱を味わっただろうことは容易に察しつく。
戸籍や相続のことも含め、これまでは嫡子・非嫡子の違いで法律が積極的に差別をしてきたのだが、それも近年徐々にではあるが、改善されてきている。それがせめてもの救いだ。
最後にひとつ。不倫や浮気は男(女)の甲斐性かも知れないが、その結果として生まれてくる子供に、出自ゆえの辛さを味あわさせないように、切に願いたい。
宮根氏の妻に気の毒さを覚えるものの、唯、「下半身がだらしない人間を、夫として選択してしまった。」という点では、彼女自身の見る目の無さというのは在ると思うんです。でも、両女児に関して言えば、全く彼女達に責任は無い。子供は親を選べないのですから。
ですから両女児、特に非嫡子で在る女児に関しては、宮根氏に全身全霊を賭けて守り抜く責務が在る。「其れだけの覚悟が無ければ、浮気なんぞすべきでは無い。」と思います。
私が、芸能人や表現活動をしている人に求めるのは、その仕事だけです。
俳優なら演技を、落語家なら落語を、作家なら作品を、画家なら絵を、質の高いものを見せてくれればいいのです。
彼らに求めているものはそれです。別に彼らに人生のお手本となり、聖人君子を求めていません。
北大路魯山人は偉大な芸術家として陶器などが後世に残っていますが、魯山人本人は最低の人格も持ち主だったようです。自由律俳句の種田山頭火は、どうしようもないダメ男でした。
宮根某は知りませんが、彼が司会者であれば、司会の能力さえ高ければいいのではないですが。彼に隠し子がいようといまいと、視聴者にとって関係ないのではないですか。
(以前にも書いた事ですが)良くマスメディアは「今のプロ野球選手には豪傑が居ない。昔は酔っ払って球場に来て、其れでもホームランを打つ様な豪傑が居たのに。」と嘆いたりしていますが、「選手達のどうでも良い様なプライヴェートを暴き立ててワアワア騒ぐ事で、選手達から『豪傑さ』を奪ってしまったのは一体誰なのか?」と思ったりします。ですので「俳優なら演技を、落語家なら落語を、作家なら作品を、画家なら絵を、質の高い物を見せてくれれば良いのです。」という御指摘は、基本的に自分も賛成なんです。
唯、横山やすし氏が“昔気質の芸人姿”を貫いた事で(彼は何処かで無理し乍らも、豪傑さを演じていた様にも思っています。彼を知る身近な人間達の証言を見聞すると、本当は凄く繊細で気にしいな性格だったという事ですし。)、結局は芸能界から干されてしまった。彼の言動が度を越していたというのも在りましょうが、昔ならば「芸人なんだから仕方無い。」で済まされていた様な事でも、“今”は許されない事も在る。時代の変化に気付けなかった(合わせられなかった)が故の悲劇と言えるかもしれませんね。
「司会業」というのも、昔と今では意味合いが違って来ている様に感じるんです。昔ならば「淡々と進行しさえすれば良かった。」という面が在った様に思うのですが、今は「或る意味、“アナリスト”的な物も求められている。」様に感じます。芸能界の事から政治、経済、社会現象等々、広い分野に付いて自身の考えをも或る程度披瀝出来ないと、今の司会業は熟せない現状が在るとすれば、司会者に自ずと「最低限の人間性」を問われてしまう時代に在るのではないかと。
そんな時代で在っても「司会者に人間性なんか必要無い。」と思う人が居ても良いし、「否、アナリスト的な立場で言葉を吐く以上、其れ形に自分を律せない人間は相応しくない。」と考える人が居てもおかしくはないと自分は考えます。しかし、個人的には「男女間の問題」なんぞはどうでも良い話。問題は「常に同じ判断基準で事柄を捌けるか否か。」で在り、其れが出来ない様で在れば、司会業というのは好ましくない気がしています。
昔は愛人や隠し子の存在が明らかになっても、平然としている政治家が日本にも結構居ましたね。首相経験者でもそういう人物は居り、隠そうともしていなかった所が在ったりも。
其れをどう感じるかは個々人によって異なるでしょうが、個人的には「当事者が納得していれば、他者がどうこう言うべき物では無い。政治家ならば如何に“良い意味での”国益を生み出せるかが重要で在り、法に触れない限り、私生活はどうでも良い。」と思っています。毀誉褒貶は在ったけれど、個人的には田中角栄元首相は魅力を感じる政治家だったし。
コメントさせて頂きます。
宮根氏の私生活についての私見は敢えて言及を控えますが、何より、テレビ局が週刊誌に書かれた内容を放送しなかった事に底知れない闇を見た思いでいます。
賛否はともかく、ワイドショーなら好んで取り上げそうな話題性に富んだ一件。
しかし、扱わない。
宮根氏による、自身の番組冒頭でのごく僅かな時間を使った明瞭でない釈明の言葉のみ。
一体全体どうなっているのか。
ここ数日の小沢一郎氏の裁判報道しかり。
力関係なのでしょうが、ここまで明白であると憤りを覚えます。
giants-55さんは、最近の小沢氏に纏わる一連の事について如何お考えでしょうか。
お聞かせ願えたらと思います。
宮根氏の今回の件、捉え方は人其れ其れ在ると思うし、在って当然だと思うのですが、自分も「一部週刊誌を除いては、殆ど此の件を報じなかった。」事には違和感を覚えました。報じなかったメディアに「個人の問題で在り、取り上げる程の事とは思わなかった。」という判断基準が在った上での報道見送りならば判るのですが、どうでも良い男女間のいざこざを針小棒大に延々と取り上げるメディアが多い中、そういう判断基準が在ったとは到底思えない。
SMAPの稲垣吾郎氏が道路交通法違反と公務執行妨害で逮捕された際、「稲垣メンバー」という無理無理な呼称で報じたマスメディア。又、島田紳助氏が暴行事件で書類送検された際、島田紳助司会者」や「島田紳助所属タレント」といった、同じく無理無理な呼称で報じたマスメディア。「『及び腰』とは、正に此の事。」と思わざるを得ない、「事件になってしまったから仕方無く報じるけれど、力の在る人だけに機嫌を損ねない報じ方をしないと。」というマスメディアの嫌らしい思惑が露骨に出ていた。
宮根氏の場合も「芸能界に強大な力を有している某プロダクションの大物」と近しい関係に在ると良く報じられており、其の事が報道に踏み切らなかった所が多かった要因だったのではないかと。
小沢氏に関しては当ブログで何度か触れているのですが、嘗ては「乱世の小沢」といった部分に可成り期待している所が在りました。しかし「少しでも自身の考えと異なる部分が在れば、完全拒否をするという狭量さ。」や「選挙至上主義で、政治を政争にしている。」という面が近年露骨に感じられ、又、東日本大震災以降の被災地に対する動きの鈍さも、彼に対するガッカリ感を増させました。
唯、彼が主張している「マスメディアが握っている既得権益の排除」は的を射ていると思うし、其れを断行されては困るマスメディアによる「小沢潰し」という面は間違い無く在ると思います。「政治を政争にしてはいけない!」なんぞと尤もらしい事を言い乍ら、何か在れば「やれ小沢派だ、やれ非小沢派だ。」と嬉々として報じているメディアの多さには、心底ウンザリさせられるし。
所謂「小沢手法」に付いては疑問を感じる部分も少なくないし、彼が「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」が出来ていない事にも問題在りと思っているけれど、「疑わしきは罰せず」という基本を忘れて、恰も有罪が確定したかの様な報道をするのはどうかと思います。