
今から17年前の1991年、真木ひでと氏の歌う「元気の星」という曲がヒットした。オロナミンCドリンクのCM(動画)にこの曲が使用されたのがきっかけだが、「子供の頃からエースで4番♪」で始まるこの曲を、今でもふっと思い出しては口ずさんでしまう。ジャイアンツ・ファンの自分にとって、最もジャイアンツが光り輝いていた藤田元司監督時代に流行った曲というのも、この曲が好きな要因の一つだろう。
野球をする人間にとって、「エースで4番」というのは究極の夢ではなかろうか。この程読み終えた「四番、ピッチャー、背番号1」(著者:横尾弘一氏)*1には、そんな究極の夢を実現した9人の高校球児達の”甲子園時代”とその後の姿が描かれている。「1992年・夏-岡村憲二選手(明徳義塾)」、「1983年・夏-秋村謙宏選手(宇部商)」*2、「1986年・夏-藤岡雅樹選手(松山商)」、「1973年・夏-小竹重行選手(京都商)」、「1984年・春-山口重幸選手(岩倉)」、「1990年・夏-神谷善治選手(沖縄水産)」、「1968年・夏-有澤賢持選手(北日本学院)」、「1978年・春-松本稔選手(前橋)」、そして「1985年・夏-藤原安弘選手(東海大山形)」。「社会人野球チームでコーチ兼任選手」、「パ・リーグの審判員」、「カメラマン」、「サラリーマン」、「スワローズで打撃投手兼任スコアラー」、「沖縄電力社員」、「アマチュア野球の指導者」、「高校教師(野球部監督)」、「理容室店長」と今は異なる職業に就いているものの、嘗て甲子園で「四番、ピッチャー、背番号1」という共通点を持った9人。
彼等がこれ迄歩んで来た軌跡はどれもドラマチックなのだが、やはり一番印象的だったのは「松井秀喜選手5打席連続敬遠事件」の渦中に居た岡村憲二選手の項。超高校級と称された星稜の松井秀喜選手を、相手チームの明徳義塾が5打席連続で敬遠したという”事件”は当時社会問題になった程。松井選手が敬遠される度にスタンドから次々にメガホンが投げ込まれ、明徳義塾が3対2で星稜を下した後の校歌斉唱では「帰れコール」が甲子園に木霊。3回戦迄の7日間に宿舎の旅館に掛かって来た嫌がらせ電話は1,500本に上ったという。
実際に松井選手を敬遠した投手は岡村選手では無く、彼はファーストを守っていた。と言うのも、彼はその時怪我をしていた(とされている)から。急造の投手を先発させなければならず、「そんな投手では到底松井選手を押さえ込めない。」という思いからの5打席連続という面も在った様だ。
明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後のインタビューで「松井への全打席敬遠は私が指示した。生徒達には『オレが全て責任取るから心配するな。』と伝えた。こちらも高知県代表として初戦で負ける訳にはいきませんから。」、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。」とのコメントを残している。「自チームの選手達に何とか勝利の喜びを味わわせてやりたい。」という思いは判らないでもないが、試合直前に馬淵監督が星稜の選手に「冬場は雪に閉ざされるから、なかなか満足な練習が出来ないだろう。うちは1年を通じて温暖な場所に在るから、365日しっかりと練習が出来るんだよ。」と”精神的な揺さぶり”をかけていたというのは正直引いてしまった。”身内”への思い遣りは、”他者”に対する悪意に為り得るのだ。
今は社会人野球チームでコーチ兼任選手を務めている岡村選手は「絶対に悪い事をしたとは思っていないし、15年経った今でも堂々と戦って勝ったと言える。唯、エースとして背番号1を与えられた僕がもっと良いピッチャーだったら、松井を抑えられるだけの力の在るピッチャーだったら、馬淵監督もああいう戦術は考えなかった訳で・・・。星稜戦の僕達に責められる部分が在るとすれば、僕の力不足という事だけでしょうね。」と語っている。そして33歳となった彼は「僕等が星稜に勝てなかったら、世間からあれ程非難はされなかったでしょう。でも、明徳や馬淵監督はどうなったか。松井を敬遠しても負けたチームと、その監督というレッテルを貼られ、今の様な未来は無かったかもしれない。馬淵監督は、それだけリスクの大きい決断を36歳でする事が出来たんです。」と、教える立場になった自分と嘗ての恩師を重ね合わせている。「これからの野球人生で自分は、あの夏の馬淵監督の様に、教え子に勝利を味わわせてやろうと必死になれるだろうか?」と自問自答するかの様に・・・。
*1 こちらで一部を読む事が出来る。
*2 秋村選手の項に面白い記述が在る。著者曰く「日本の野球界には、大きな出来事が在った年に生まれた選手達が、その後の野球界を背負って行くという巡り合わせが在る。」と。「日本初の職業野球チーム・大日本東京野球倶楽部が活動を開始した1935年-野村克也氏や長嶋茂雄氏(1936年の早生まれ)等。」、「戦後にプロ野球が復活した1946年-星野仙一氏(1947年の早生まれ)や田淵幸一氏、山本浩二氏等の”黄金世代”。」、「ジャイアンツがV9への歩みを始め、ドラフト会議が導入された1965年-水野雄仁氏、古田敦也氏、山本昌広投手、吉井理人氏、小宮山悟投手等。」、「ジャイアンツの連覇が終わった1973年-イチロー選手、松中信彦選手、小笠原道大選手等。」、「長嶋茂雄氏がジャイアンツ監督を辞任し、王貞治選手が現役引退した1980年-松坂大輔投手を始めとする、所謂”松坂世代の選手達。」が、それぞれこの世に生を受けているからだ。時代がヒーローを生むのか、はたまたヒーローが時代を作り上げているのか。
野球をする人間にとって、「エースで4番」というのは究極の夢ではなかろうか。この程読み終えた「四番、ピッチャー、背番号1」(著者:横尾弘一氏)*1には、そんな究極の夢を実現した9人の高校球児達の”甲子園時代”とその後の姿が描かれている。「1992年・夏-岡村憲二選手(明徳義塾)」、「1983年・夏-秋村謙宏選手(宇部商)」*2、「1986年・夏-藤岡雅樹選手(松山商)」、「1973年・夏-小竹重行選手(京都商)」、「1984年・春-山口重幸選手(岩倉)」、「1990年・夏-神谷善治選手(沖縄水産)」、「1968年・夏-有澤賢持選手(北日本学院)」、「1978年・春-松本稔選手(前橋)」、そして「1985年・夏-藤原安弘選手(東海大山形)」。「社会人野球チームでコーチ兼任選手」、「パ・リーグの審判員」、「カメラマン」、「サラリーマン」、「スワローズで打撃投手兼任スコアラー」、「沖縄電力社員」、「アマチュア野球の指導者」、「高校教師(野球部監督)」、「理容室店長」と今は異なる職業に就いているものの、嘗て甲子園で「四番、ピッチャー、背番号1」という共通点を持った9人。
彼等がこれ迄歩んで来た軌跡はどれもドラマチックなのだが、やはり一番印象的だったのは「松井秀喜選手5打席連続敬遠事件」の渦中に居た岡村憲二選手の項。超高校級と称された星稜の松井秀喜選手を、相手チームの明徳義塾が5打席連続で敬遠したという”事件”は当時社会問題になった程。松井選手が敬遠される度にスタンドから次々にメガホンが投げ込まれ、明徳義塾が3対2で星稜を下した後の校歌斉唱では「帰れコール」が甲子園に木霊。3回戦迄の7日間に宿舎の旅館に掛かって来た嫌がらせ電話は1,500本に上ったという。
実際に松井選手を敬遠した投手は岡村選手では無く、彼はファーストを守っていた。と言うのも、彼はその時怪我をしていた(とされている)から。急造の投手を先発させなければならず、「そんな投手では到底松井選手を押さえ込めない。」という思いからの5打席連続という面も在った様だ。
明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後のインタビューで「松井への全打席敬遠は私が指示した。生徒達には『オレが全て責任取るから心配するな。』と伝えた。こちらも高知県代表として初戦で負ける訳にはいきませんから。」、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。」とのコメントを残している。「自チームの選手達に何とか勝利の喜びを味わわせてやりたい。」という思いは判らないでもないが、試合直前に馬淵監督が星稜の選手に「冬場は雪に閉ざされるから、なかなか満足な練習が出来ないだろう。うちは1年を通じて温暖な場所に在るから、365日しっかりと練習が出来るんだよ。」と”精神的な揺さぶり”をかけていたというのは正直引いてしまった。”身内”への思い遣りは、”他者”に対する悪意に為り得るのだ。
今は社会人野球チームでコーチ兼任選手を務めている岡村選手は「絶対に悪い事をしたとは思っていないし、15年経った今でも堂々と戦って勝ったと言える。唯、エースとして背番号1を与えられた僕がもっと良いピッチャーだったら、松井を抑えられるだけの力の在るピッチャーだったら、馬淵監督もああいう戦術は考えなかった訳で・・・。星稜戦の僕達に責められる部分が在るとすれば、僕の力不足という事だけでしょうね。」と語っている。そして33歳となった彼は「僕等が星稜に勝てなかったら、世間からあれ程非難はされなかったでしょう。でも、明徳や馬淵監督はどうなったか。松井を敬遠しても負けたチームと、その監督というレッテルを貼られ、今の様な未来は無かったかもしれない。馬淵監督は、それだけリスクの大きい決断を36歳でする事が出来たんです。」と、教える立場になった自分と嘗ての恩師を重ね合わせている。「これからの野球人生で自分は、あの夏の馬淵監督の様に、教え子に勝利を味わわせてやろうと必死になれるだろうか?」と自問自答するかの様に・・・。

*1 こちらで一部を読む事が出来る。
*2 秋村選手の項に面白い記述が在る。著者曰く「日本の野球界には、大きな出来事が在った年に生まれた選手達が、その後の野球界を背負って行くという巡り合わせが在る。」と。「日本初の職業野球チーム・大日本東京野球倶楽部が活動を開始した1935年-野村克也氏や長嶋茂雄氏(1936年の早生まれ)等。」、「戦後にプロ野球が復活した1946年-星野仙一氏(1947年の早生まれ)や田淵幸一氏、山本浩二氏等の”黄金世代”。」、「ジャイアンツがV9への歩みを始め、ドラフト会議が導入された1965年-水野雄仁氏、古田敦也氏、山本昌広投手、吉井理人氏、小宮山悟投手等。」、「ジャイアンツの連覇が終わった1973年-イチロー選手、松中信彦選手、小笠原道大選手等。」、「長嶋茂雄氏がジャイアンツ監督を辞任し、王貞治選手が現役引退した1980年-松坂大輔投手を始めとする、所謂”松坂世代の選手達。」が、それぞれこの世に生を受けているからだ。時代がヒーローを生むのか、はたまたヒーローが時代を作り上げているのか。

選手もありました。
有沢投手。
ヤクルトの変則左投手です。
ワンポイントや中継ぎで
見た覚えがあります。
昔はもっとプロ野球界に
「エースで四番」がいたように
思うのですが・・
学生時代から
サラリーマン時代に
夜の街で一番歌ってたお気に入りの曲です。
お~かけギャルにも平常心だ~
五万の歓声、嵐のようだ、
好投救うぜ、ホームラン♪
良い歌です。
久しぶりに歌いたくなりました。
試合前日、明徳の馬淵監督は55さんの記事のように松井全打席敬遠を示唆する支持をメンバーの前で発言したそうですが、河野本人は、自分がなげるとは思っていないので他人事のように聞いていたそうです。
その後、騒動の後専大に進学しますが、
ライトでクリーンナップという、松井秀喜と同じポジションを手にします。
そのころから松井と同じポジションでプロへ、という志は持っていたようです。
専大を卒業したあと、ヤマハで社会人野球を経験しプロを目指しますがそれもかないませんでした。
その後、暫く河野の名を聞きませんでしたが、意外なところでその名を聞きます。
ジャパン・サムライ・ベアーズのメンバーとして、河野の名があったのです。
松井がいるMLBを目指していたのでしょうか。
サムライ・ベアーズは、アメリカのプロ野球独立リーグで2005年度からスタートした新リーグ・ゴールデンベースボールリーグに加盟していた日本人だけのクラブチームです。
初代の監督にはジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティです。
そのチームを河野は途中解雇されます。
そしてサムライ・ベアーズは消滅しました。
河野はいま、野球をやっているのでしょうか?
「おっかけギャル」という言葉(表現)自体が、既に時代を感じさせますよね。
ジャイアンツの応援歌が一般公募されて新しくなった際、「『元気の星』を公式応援歌にすれば良いのに。」と思った程、この曲が大好きです。カラオケでも時々歌っていますし。
「子供の~頃か~ら、○○○が~でかい~♪」
失礼しました
だから、と言うわけではないでしょうが、こちらのメディアでは、「五連続敬遠」に対して、グランドにメガフォンを投げ込んだり、校歌斉唱にブーイングを浴びせるファンのマナーの悪さへの批判の方を大きく取上げていたと記憶しています。
当時、馬渕監督は、
「四国の高校が北陸に負けるわけにはいけない。」
というコメントもしていたそうです。同時に
「私は試合に負ければ、職を失うのだ。」
とも語っていました。
北陸や東北の方には大変失礼ですが、僕らの子供の頃には、甲子園で愛媛代表の対戦相手が北陸や東北の代表に決まったら、
「よっしゃ!ラッキー!」
と思っていたのは事実です。メディアの報道も「油断大敵」という論調でしたし、対戦相手の監督や主将も「胸を借りる」というコメントをしていました。
今、高校野球の実力にそれほどの地域格差があるとは思えません。それでも、今も雪国の代表に愛媛代表が負けると、
「〇〇に負けて、どないすらい(どうするんだ)。」
と嘆く声は、タクシーの運ちゃんや居酒屋の大将から聞えてきます。
ちなみに、甲子園で最多勝利数をあげているのは愛媛代表校なのだそうですが、愛媛代表校が唯一通算成績で負け越しているのは北海道代表校だそうです。
かつて、春のセンバツで明徳義塾と川之江が対決した時、こちらのラジオで、
「高知県民も川之江を応援していますよ!」
という投稿が紹介された記憶があります。明徳は地元では不人気だとは聞いていました。