ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「流星ひとつ」

2013年11月02日 | 書籍関連

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私はあらためて手元に残った「流星ひとつ」のコピーを読み返した。そこには、「精神病み永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性。」という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた。

 

中略

 

二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの「流星ひとつ」を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・・。 

         「流星ひとつ」の「後記」より

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今年の8月22日、投身自殺で62歳の人生を終えた藤圭子さん。独特のハスキー・ヴォイスで“昭和歌姫”とも呼ばれた彼女に、ノンフィクション作家沢木耕太郎氏がインタヴューを行ったのは、1979年の秋の事だったと言う。ルポライターとして1970年にデビューした彼が、32歳になる少し前だった。

 

歌手としてデビューして10年、芸能界で確固たる地位を築き上げていた藤さんが、突然の引退を発表したのが1979年の事。最後のコンサートが行われたのが此の年の12月26日なので、引退を目前とした彼女へのインタヴューという事になる。

 

火酒」というのは「アルコール分が多く、火を点けると燃える酒。」を意味するのだとか。「火酒」と書いて「かしゅ」と読み、ウォッカ其の範疇に在る。藤さんが好んで飲んでいたのがウォッカ・トニックで、「歌手」という職業を生業にしている彼女が、同じ「かしゅ」という読みの酒類を好んでいたというのは、単なる偶然以外の物を感じた。

 

沢木耕太郎氏は共通の友人を介して、インタヴュー前にも藤さんに会っている。其れは藤さん自身も覚えていたのだが、実は1974年にパリでも遭っていた事を、インタヴューの中で沢木氏が明らかにしている。「会う」では無く「遭う」と書いた様に、其れは全くの偶然。恐らくは彼が世界中を彷徨っていた時代(詳細は、彼の紀行小説深夜特急」に記されているが。)の出来事と思われるが、4年前の記事「偶然!?」のコメント欄で記した様に、自分自身も「驚く様な偶然の出遭い」を経験しているだけに、凄く印象的な話だった。

 

インタヴューは1979年秋、ホテルニューオータニ紀尾井町)40階の「バー・バルゴー」で行われた。周りの目を気にする必要が無い場所で、好きなウォッカ・トニックを飲み乍ら答える藤さん。8杯飲む間に交わされた“本音の会話”。(原則的に)2人の間で交わされた会話だけを記したのが、先月刊行された「流星ひとつ」。

 

「流星ひとつ」はインタヴュー後、単行本として刊行される予定だったのだが、沢木氏の中に或る迷いが在り、自身の判断で“封印”して来た作品だと言う。「藤さんの自殺により、今刊行すれば売れると判断したのだろう。」と思われる人も居るだろうが、読了して感じたのは「藤圭子という人間が、自殺する到ってしまったの内面を、多くの人に知って貰いたい。」という、沢木氏の哀しみを含んだ思い。会話だけで構成されているがに、バイアスが掛かる事無く、藤圭子という人間の“本当の姿”が見えて来るのだ。

 

彼女は、小学校5年よりも前の記憶が殆ど無いと言う。「そんな馬鹿な!?」と思ってしまうが、嘘では無い様だ。普通ならば強く印象に残っている様な出来事に対しても「別に。」という答えを繰り返し、無感動さや思考の停止といった感じを受けてしまう彼女だが、インタヴューを読み進めて行く中で、「強過ぎる潔癖」と「極度の人間不信を抱え乍ら、或る面では驚く程安直に人を受け容れてしまうギャップ。」というのが、彼女の複雑なパーソナリティーを作り上げて行った様に感じた。

 

前川清氏と結婚した際の話も、印象に強く残る。特に前川氏が懇意にし、仲人を頼んだ許りか、其の自宅の2階に間借りする事にもなった大工からの“仕打ち”には、「江利チエミさんが、心を許し切っていた“姉”から受けた残酷な仕打ち。」を重ね合わせてしまい、ゾッとしてしまった。「極度な人間不信」には、そういった積み重ねが在ったのだろう。

 

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あたしは、やっぱり、あたしのに一度は登ってしまったんだと思うんだよね。ほんの短い期間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。一年で登った人も、十年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしか其の頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。ゆっくり降りるなんていうことはできないの。もう、凄い勢いで転げ落ちるか、低くてもいいからよその頂に跳び移るか。うまく、そのに、もうひとつの頂があればいいけど、それが見つけられなければ、転げ落ちるのを待つだけなんだ。もしかして、それが見つかっても、跳び移るのに失敗すれば、同じこと。

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芸能界という夜空に、流星如く現れ、そして消え去った藤さん。冒頭で紹介した「流星ひとつ」の「後記」には、「もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・・。」と記されていたが、藤圭子という歌手と同時代を生きた人々も、同様に「初めての藤圭子と出会える。」事だろう。


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